戦没船員の碑

天皇、皇后両陛下と紀宮さまは、11日午後帰京した。帰路、戦後60年に当たることから、横須賀市の県立観音崎公園内にある「戦没船員の碑」に立ち寄った。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/photojournal/archive/news/2005/10/11/20051012k0000m040056000c.html MSN-Mainichi INTERACTIVE 社会

ということがあったらしい。

「戦没船員」については、下記のHPがある。

http://www.kenshoukai.jp/

報われることなく海底に眠る戦没船員の御霊を慰めるとともに、二度と戦火のない海洋永遠の平和を祈念するため、昭和44年海運・水産界の関係者によって、慰霊碑建立のための財団法人戦没船員の碑建立会が設立されました。

http://www.kenshoukai.jp/senbotuhi/senbotuhi.htm

戦没船員の碑

皇后陛下御歌

 かく濡れて遺族らと祈る 更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか

この皇后の歌だが、どうだろう?強引な詠い振りに、作者と「君ら」を貫く真実(悲しみ)を表現し得ている。と評価できる。

戦没船員の数は数えられている。60,607人。

 もっとも気になったのは「軍人の損耗率を上回る」を証明するデーターだった。これによると、同時期の軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%となっているが、船員は43%。 戦没船員の多くは軍に協力させられた輸送船団の乗組員、そのため兵士でもないのに多くの戦死者を出している。

http://plaza.rakuten.co.jp/kazenotabibito/diary/200510230002/ ☆戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員

 敗戦が目に見えていた昭和19年~20年の戦死者が約4万7千人、全体の戦死者の8割に相当する。さらに「戦没船員の年齢別分布」を見ると、口では言い表せない怒りを感じる数字がある。14歳から19歳までの少年船員の死者数が全体の3割以上を占め、その数1万9千人余り。

(同上)

船員でありながら戦地に上陸を余儀なくされ、軍からも差別されたケースもある。

なかでも、かろうじてガ島に着いた輸送船は、兵員等の揚陸のため強行擱座を命じられ、船員は船を捨ててガ島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、同島に上陸した267名の中で僅か27名にすぎなかった。

http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyou04.htm

以上、上記のおばけうさぎさんのブログの紹介に触発されて書いて見てました。(というかそのブログの(歪曲された)要約です。)

下記二つは同じ方のブログのようだ。これで下の方にTB送れるでしょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/kazenotabibito/diary/200510230002/ ☆戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員

http://d.hatena.ne.jp/milkbottle/20051023 NEWS GARAGE【カバ式会社おばか通信】 – 戦没船員の碑

で基本的なことが分かっていないが、彼らの遺族は遺族年金は貰っている。そして彼らは靖国神社には祀られていない。ということでいいのかな?

在日朝鮮人帰国事業への小泉の父親の責任

同じくid:milkbottle:20051021#p5 【オバカ通信】さん経由で。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/10/20/20051020000042.html  朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)

「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」

 日本の小泉純一郎首相の父親で自民党所属の国会議員だった小泉純也氏(1969年死去)が1950年代末、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業に中心的な役割を果たしていたことがわかった。

 在日朝鮮人の北朝鮮送還事業は、1959年末から1984年まで、計9万3340人の在日朝鮮人が「地上の楽園」というふれこみで、北朝鮮に送還された事件だ。当時、日本では韓国政府の激しい反発にもかかわらず、政界と文化界など各分野の要人が名を連ねる「在日朝鮮人帰国協力会」が1958年11月17日に結成され、在日朝鮮人の北朝鮮送還支援活動に乗り出した。

 その後、北朝鮮に送還された在日朝鮮人たちは、「不穏分子」「親日」「日帝のスパイ」などと濡れ衣を着せられ、弾圧された。そのうちの多くが強制労動収容所に収容させられ、消息を絶った。

 小泉首相の父である純也氏は当時、自民党の国会議員でありながら「在日朝鮮人の帰国協力会」の代表委員に就任し、在日朝鮮人の北朝鮮送還のため積極的に活動したことが確認された。

 小泉首相の父親のこのような過去は、2002年の小泉首相の訪朝以後、日本の会員制雑誌である『インサイドライン』の発行人、歳川隆雄さん(58)の追跡取材によって明らかになった。

 歳川さんは20日、本社の記者に会い「小泉首相の父親が、在日朝鮮人の北朝鮮送還の中心人物だったことは、小泉首相にとって最大のタブー」とし、「靖国神社参拜にこだわる小泉首相の姿勢と一見、矛盾するかのように見えるが、日朝国交正常化にこだわっている理由も父親の政治的背景と決して無縁ではない」と主張した。

 歳川さんによると、在日朝鮮人帰国協力会は、共産党と社会党の影響力が強かった「日朝協会」の主導によって結成され、日朝協会の山口熊一会長、自民党の小泉純也議員、岩本信行議員の3人が代表委員を務めた。

 歳川さんは、小泉首相の父親が在日朝鮮人の北朝鮮送還に積極的だった理由について「当時、純也氏の選挙区である神奈川3区に多数の在日朝鮮人が居住している川崎市が含まれていたためと推定している」とし、「冷戦の真最中だった当時、自民党議員の身分で社会党や共産党と超党派の会合を開くこと自体が異例だった」と述べた。

 当時の毎日新聞は、自民党議員が在日朝鮮人の北朝鮮送還を推進する団体に加わったことについて、韓日国交樹立を進める岸(岸信介)内閣とは関係のない個人レベルの活動だと報じた。

 歳川さんは2002年に小泉首相が訪朝した直後、自分が発行する雑誌でこの事実を報じたが、注目を集めることができず、また放送に出演した際にこの事実に触れたことで司会者から制止されたこともあると明らかにした。

 また歳川さんは、小泉首相の父親である純也氏が、1930年代に朝鮮総督府で事務官として働いたこともあったと述べた。純也氏は、総督府に勤務していた当時、小泉又次郎郵政長官と知り合いになり、その後小泉逓信(郵政)大臣の娘婿になって選挙区まで受け継いだ。

東京=鄭権鉉(チョン・グォンヒョン)特派員khjung@chosun.com

上記記事では、「北朝鮮に送還された在日朝鮮人たちは、「不穏分子」「親日」「日帝のスパイ」などと濡れ衣を着せられ、弾圧された。」と書いている。少なくとも過半はかなりの抑圧を受けた(受け続けている)らしい。

甘言に乗せて日本から帰国させた事業の片棒を担いだ(父親が)ことに対して、なんらかの責任、悪かったなという思いを感じているのなら、それはまっとうなことだろう。ただ日朝国交回復を成し遂げることが、その責任に応えることになると思っているとしたら見当違いだ。

本来破産している独裁国家北朝鮮は、中国の支援が無くなれば崩壊する。ある国家を敵視することは悪であるが、悪である国家に宥和政策を取ることも悪である。日本は北朝鮮を崩壊させる方向に意志決定すべきだ。(産軍複合体と嫌朝厨は敵が居なくなると困るでしょうが)

言おうとしないことを許してください……

日本の家庭や近隣地域社会では、人々の生活が忙しくて会話が少なくなり、老人たちにとって居心地のよい場所が少なくなっている。ゆっくりと話に聞き入り、会話をすること自体が少なくなってきているようだ。

 現役で軍隊に入ったこと、初めての外地である「満州」(中国東北)での辛かった初年兵教育、厳寒での演習。「支那事変」が始まって「北支」(華北)での掃蕩戦、初年兵の刺突訓練。「初年兵突けって言われたから銃剣を着剣して突きにいくんや。せやけど、人間って死なんもんや」と、当時の出来事を話し出すと、鮮明な記憶がよみがえる。元兵士たちは表情も豊かに生き生きと話し始める。

 ところが、旧満州の大連から南下して、上海あたりから南京戦に入ってくると、いわゆる「北支と違って、中支は抗日の激しいところ、男は生かすな」等の命令が次つぎと出される。中国人殺害は部隊内での共通の認識となり、逃げ遅れた農民を虐殺し、民家に火をつける。(略)

 さて、上記のような「中国での日本軍の暴行」を赤裸々に証言をしてくれる老人たちも、いることはいた。しかし話が南京へ近づいてくると、これまで饒舌に武勇談や苦労話を語っていたのが、「徴発の時女性は探しましたか」と質問すると、徴発の食料品や家畜を捕まえ殺したことは話しても、女性については「どうやったかなあ」「捕まえる兵隊もいたと聞くなあ」と俄然、伝聞が多くなってくる。さらに深く聞こうとすると、多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。本当に不思議なほど多くの老人たちが、南京の場面だけ急に忘れたと言うのだった。

(p26『南京戦』松岡環 isbn:4784505474

言おうとしないことを許してください。

私たちがこの文言(エノンセ)をその運命に委ねるのだと、考えてみてください。

 少なくとも、しばらくのあいだ私がそれを、そんなふうにたった一つ、それほどにも無一物で、際限もなく、あてどもなく、さらには居所を定めぬままに放っておくことを受け入れてください。

(p274デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 どうもデリダのいうことは謎めいている。というか、デリダの真意が分かりにくいのだ。ある文言を宙に浮かせ「あてどもなく、さらには居所を定めぬままに放っておくこと」に意味があるのか。性急と非難されることはあっても結局の所、わたしたちはいつもいささか性急に意味を求めてしまう。わたしたちはそういうふうにしか生きられない。そういうものではないのか。そうであるとすれば、デリダはそうであるしかない生の構造を解きほぐそうとしたのか。

 この文章をわたしは「私たちがこの文言(エノンセ)にその運命を委ねる」と誤記していた。たった一つの言表にわたしの運命が委ねられることはよくあることだ。裁判で疑いを掛けられたとき、まさにその時間に別の場所で、「私を見た」と誰かが言ってくれれば私は疑いを免れる。おそらくそのようにある言表はつねに、「おまえ」と「罪」を結びつける(あるいはつけない)機能がある。まだわたしはこのデリダの80頁ほどのテキストを読み終わっていないのに性急に語ってはいけないのだが。したがって、「言おうとしないことを許してください」とはそのような、白黒つけることを忌避したいという態度表明であるだろう。

 前の引用、満州から南京への道の回想では、南京の場面だけ「うーんうーん、忘れたなあ」と発語される。この発語の背後には、「言おうとしないことを許してください」という沈黙のうちの言表があったと考えることができる。この場合、拒否は「白黒つけることの忌避」というより「黒の中の黒、漆黒のブラックホール」であるがために触れることができないという感じだろうか。

・・・

語ること/その手前に留まること

悲しみの言語を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った--言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なものに弱めてくれるのである。

(p300『拷問者の影』ジーン・ウルフisbn:4150106894

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。

 言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはや決して私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。

(p126 デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 ウルフとデリダの言っていることはかなり近い。沈黙に於いて<私>は自身を破滅させかねない激情あるいは単独性といったものに囚われている。しかし語ることによって<私>は単独性を奪われ、ある社会における交換可能な存在者になってしまう。

それでは、上記の「多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。」における沈黙も、単独性の名において弁護されるべきだろうか。おそらくそうではない。

「言おうとしないことを許してください」の場合は、語り手の内部に「言うべき事がある」あるいはすくなくとも「言うことがあるべき」ことを含意している。言うべき事と沈黙という外面とのあいだのすさまじい圧力差が、単独性という強度を産みだす。「うーん、忘れたなあ」の場合は言うべき事のしっぽはすでにそこにあるのにそれを見ない振りをし忘れたふりをする。そしたそういう「振りをする」ことをきみは非難しうるのかよう非難できはしまい、という居直りがある(のではないか)。彼は一人で居ても単独者ではなく、何か(日本という共同性)に許されて居る。

彼らはソクラテスのように死んでいった。

換言すれば、ナショナリズムや愛国心というものは、対外交流を持たない排他的国民によって産出されたものというイメージとは全く反対に、グローバルとローカルの活気溢れる交流の産物、つまりコスモポリタニズムなのである。

(p3大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』isbn:4000017969

 戦後左翼はナショナリズムや愛国心というものを一貫して、遅れたもの、マイナスの価値しかないもの、つまらないものと見なし続けてきた。*1しかしながらわたしたちの敗戦を象徴する<特攻隊員>たちの内面をかいま見るならば、それは嘘だったことが分かる。彼らはマルクス主義を含む世界のすべての知と美を吸収咀嚼しその上で<自己を死に与える>ことに赴いた。

本書の主要なテーマとなる学徒たちは、理想の世界に住み、真実や人生の「美」を追い続けていた。書き残したいずれも数百頁に及ぶ手記は、いかに彼らが当時のさまざまな思想潮流から影響を受けつつ人生の意義を追い求めていったのかを如実に物語っている。彼らは「近代化」と「近代の超克」を同時に挑戦し、また高度に発達した西洋の文明に憧れる反面で、西洋の文化的・政治的覇権に抵抗したのである。若さに特有の理想主義の立場から、「個人」対「社会」の問題に取り組んだ結果、たとえそれが死を意味するものであっても、彼らは「社会の一員としての責任」を果たす義務を負わなければならぬと感じ、悩んだ。彼らが徴兵された時には、日本の敗戦はすでに時間の問題であった。彼らはまるで最後の衝突に向かって恐ろしい勢いで降下していくジェットコースターにむりやり乗せられたようなものであった。死が間近に迫り、自らの人生がまだあまりに短いものであったことに気付いた時、「生きたい」という願望が強烈な勢いで、まるで身心を引き裂くかのように走った。(略)政府のイデオロギー方針を支持し、自分自身を納得させようとしているかと思えば、その全てを否定しようとしている箇所も見られる。(略)彼らは知的探求に対しすさまじいまでの情熱を持ち、広範囲にわたって古今東西の哲学や文学の名著を貪り読んだ。  (同書p6)

彼らの読書リスト(著者名だけ列挙) 

アリストテレス、プラトン、ソクラテス、キプロスのゼノン、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ゲーテ、シラー、マルクス、トーマス・マン、ルソー、マルタン・デュ・ガール、ジイド、ロマン・ロラン、レーニン、ドストエフスキー、トルストイ、ベルジャーエフ、シュバイツァー・・・原書で読んでいる者すらいる

田辺元、保田與重郎、宮沢賢治・・・

(この本の巻末には40頁に及ぶ「特攻隊員4人の読書リスト」計1355タイトルが付いている。)

*1:一方で、自らの価値観=平和と民主主義にそった国家建設を推進しようとしながらも、それは愛国的とは呼ばれず、愛国的などの言葉は戦前回帰的臭いがあるものに限って使われた。

破壊の灰の中から立ち上がるフェニックスという逆説

若者の中にはマルクス主義者もいた。彼らは、物質主義と資本主義によって腐敗し切っているイギリス・アメリカばかりでなく、自らの国をも破壊するために自分たちの命を献げる覚悟だと、自分たちを納得させようとしていた。彼らは古い日本が崩壊したその灰の中から、新しい日本が鳳凰のようによみがえることを切望したのだった。

(p7同書)

マルクス主義者とまでいえるのは例えば、佐々木八郎氏である。彼は1923年生まれ、一高東大、1943年12月に学徒兵として徴兵され45年2月特攻隊員へ志願、同年4月14日特攻隊任務中戦死。彼はマルクス、エンゲルス、クロポトキン、レーニン、トロツキーを読んだ。戦後有名なマルクシストになった大内力の親友だった。

佐々木に宛てた手紙の中で大内は、断固として戦争に反対し、日本の敗戦を願っている。大内にとって戦争は、日本の帝国主義と権力者のためのものであり、民衆のためのものではなかった。彼は大内に対し、戦死することなど考えるべきではないと論じている。(略)

 佐々木の意見は大内とは異なっていた。彼にとっての米国・英国は、資本主義の悪を象徴する存在であり、したがって戦争は正当化されうるものであった。佐々木は、非合理な精神主義の危険性を鋭く察知しながらも、日本人の保持する武士道などの封建的要素が、日本を資本主義の毒牙から守りうると信じていた。(同書p303)

一応新しき時代のエトスに近いものが見られ、物的基礎も出来つつある今日、なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。一度や二度負けたって、日本人の生き残る限り、日本は滅びないのだ。はや我々は“俎上の鯉”であるらしい。悲観しているわけではないが、事実は認めなければならない。苦難の時代を超えて進まなければならぬ。(佐々木八郎)(同書p304から孫引き)

「破壊の灰の中から立ち上がるフェニックス」というのは、当時の若い知識人がしばしば用いた隠喩であり、佐々木も好んで用いたものである。彼にとってフェニックスとは、人類愛に溢れ、個人主義を利己主義に変えてしまった資本主義から解き放たれた、新しい日本のことであった。佐々木は戦死という行為を、若者が新たな世界の創造に参画する機会を与えるものであるという意味で、栄誉あることと考えていた。彼は、新生日本の創造にかかわるという己の義務と責任を果たし、死ぬことを望んでいた。(同書p304)

いよいよ12月1日入営と決まった。かくあることを予期して水泳、体操、銃剣術など充分に鍛えてあるから体力の心配はない。我々はいま第一線に立って一年でも長く敵を食いとめ、以て国家の悠久の生命を守る楯(たて)となることを求められているのだ。

(佐々木八郎)(同書p305から孫引き)

 わたしたち戦後の立場からは、一日でも早く降伏することがフェニックス(再生)につながる、一年でも長く敵を食いとめることに命を賭けることには何の意味もない、と断言される。

だが、私たちは「祖国への愛」から自己を切断し生きるべきなのか。「個人は歴史とその流れに逆らうことはできない。(林尹夫)」祖国が存亡の危機にあるとき戦いに動員されること、自己の生命を掛けようとすること、それは否定されるべきことなのか。彼らがその与えられた歪んだ磁場のなかで必死に生きようとした姿勢は感動的だ。ただそこで、「一年でも長く敵を食いとめ」ようとすることが「フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの」の生成につながるべきだとする祈り、それはその戦中の時点ですでに空疎な思想だった。と私は言いきりたい。戦争を遂行しているのは「われわれ」ではなく国家である。国家はわれわれの幻想を吸い取りそれを利用しそれと一体であるかに見せかけるが、それは嘘だ。国家は国家の基準に従ってゲームをしているのであり、学生や大衆の抱く祖国への夢といったものとは最初から位相が違うのだ。

ソクラテスの死の原因

ソクラテスは市囲の知者たちを訪ねては、その無知性を暴き出し、そのためにまた、「知者」を自認する多くの人々反感を買い、ついに、メレトスやアニュトスらによって「無益なことに従事し、悪事をまげて善事とし、かつこれを教授するだけではなく、国家の信じる神々を認めず、新しいダイモニア(神・力)を信じて、青年たちを腐敗させる者」という理由で告発されています。

告発の中心は、「国家の神々を信じない」というところにあったようです。

http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/sokuratesu/main_mails/main3.html ソクラテスとは誰か(2)

であるにもかかわらず、彼は死刑判決を受容し死んでいった。

同じ本を読んで

上記佐々木八郎氏の遺稿の一部は『あゝ同期の桜』という本にもでてくるらしい。*1

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/355.htm

海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 /トート号航海日誌(読書録)

小泉首相も、彼らと同じくらいの年齢でこの本を読み、「戦争は二度としちゃいかん」、「戦争をするぐらいなら、どんな我慢もできる」と感じたそうです」。

小泉首相が靖国参拝しましたね。参拝について首相は、「日本の平和と繁栄は、現在生きている方々の努力だけではない。戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々(らの)、尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。これからも日本が平和のうちに繁栄するよう、様々な祈りを込めて参拝した」と述べたそうです。参拝自体には賛否両論あるようですが、「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」という箇所はまさにその通りだと思います。

ある個人(例えば佐々木)は確かに自らの命を皇国に捧げた。だが、彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。」と言えるのか。多くの犠牲を出したが外敵を撃退したといった場合とは、犠牲の意味合いがかなり違っているはずだ。

 戦争は有限性のゲームである。しかし第二次大戦は(終わるまではおおむね)ドイツと日本に於いては最終戦争として無限性のゲームというイデオロギーのもとに戦われた。ナチスドイツと違い日本はそのことの(国民に対する支配者の)責任を取ってこなかった。

佐々木が苦悶の末に差し出した彼の命は、当たり前のように気にも止めず受領され、21世紀になっても日本=日本という同一性の神話を太らせるために使われる。

短い命を国家に捧げた彼の悲劇。彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」ということで彼らは少しでも慰められるのだろうか。例えば、結果的には少しでも早く戦争を止めておけば被害は少なかった、そうできなかった責任追及を果たしていく、そうすることが彼らの苦闘に応えることであろう。

*1:『きけわだつみのこえ』にもでてくるらしい。

予定

 デリダの『死を与える』を読んだので、特攻隊員が<死を与える>に至った思考過程を、デリダの考察とを照らし合わせて考えようと思いました。

・・・難しそうでくじけそうなので、予定だぞ、やるぞ、という決意表明をしておきます。

血にまみれたわれわれの手

 ジーン・ウルフは「ひとを殺す」ことについて考察している。言い直すと、「(あなたを)わたしが殺すこと」が可能であるためには何が必要かについて。ひとがひとを殺すことは不可能である。あなたは(つねに幾分か)私の鏡像であるがためにあなたと呼ばれるのだし、そうであるかぎりあなたを殺すことは不可能だ。

 しかし殺すことは可能でなければならない。

 《自在神よ》聖職者が読んだ。《ここで今命を失う者たちは、あなたの目から見れば、われわれ以上に邪悪な存在ではないと、われわれは承知しております。彼らの手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です。》

(p46「調停者の鉤爪」新しい太陽の書②isbn:4150107033

 女のモーウェンナが聖職者に導かれ、鉄の串を持った男に後ろから小突かれながら、階段を上がってくるところだった。群衆の中のだれかが大声で、猥褻な示唆をした。

《……慈悲心を持たぬ者に、慈悲を垂れたまえ。われらに慈悲を垂れたまえ。今、慈悲心を失わんとしているわれらに、慈悲を垂れたまえ》(p47同書)

「おまえが女だということを考慮すると……きわめて忌まわしく、異例ではあるが、おまえの左右の頬に焼き鏝を当て、両足を折り、首を胴体から打ち落とすことになった」

「その思考が臣民の音楽であるところの独裁者の譲歩によって、不束なるわたしの手に委ねられた高潔なる司法権力により、ここに宣言する……」

「ここに宣言する。おまえの最後の時がきたぞ、モーウェンナ」

「調停者に懇願することがあれば、申し述べよ」

(同書p48より、一部省略した形で引用)

すでにわかっているように、平均的な田舎の官吏ほど断頭台の上で取り乱す者はいないのである。(略)能力があり訓練さえ受けていれば充分に心をおちつかせることができるのに、それを欠いているというまったく正当な恐怖心との間で、引き裂かれていた。(p50)

その瞬間、わたしは後ろに一歩さがり、なめらかに水平に彼女の首をはねた。これは上下に切断するよりも習得するのに数等困難な技であった。

 かんたんに言えば、わたしは噴き上がった血の噴水を見、首がどさりと台の上に落ちる音を聞いて初めて、やり遂げたと知ったのだった。自覚していなかったが、わたしも村長と同様に怯えていたのである。

 これはまた、昔からの伝統によれば、組合の習慣的な威厳が緩む瞬間でもあった。わたしは笑いたくなり、跳びはねたくなった。(略)わたしは剣を振り上げ、髪の毛を握って首を持ち上げて、断頭台の上を意気揚々と歩いた。(略)群衆は必ず叫ぶ冗談を叫んでいた。(p52)

 長い引用になった。わたしたちは国家の主権者として死刑とその執行を是認している。*1わたしたちではない裁判官が死刑を宣告し、わたしたちの知らない場所で知らないうちに執行人が執行する。法務大臣が執行命令書に署名する時何も言わなければ、執行の後でしかわたしたちは知り得ない。わたしたちの国家はその暴力を恥じ深く隠蔽しようとしている。

 しかしながら、「彼ら(=殺されるべき者)の手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です」とは、国家は決して語らない。語らないのはそれが真実であるからだ。神が神の名に値するものである限りそれは国家より上位にあり、「殺すな」や「慈悲」の普遍性もまた国家やギルドより上位にあるはずだ。それを認めることは「殺すことは可能でなければならない」と矛盾しない。司法権力だけが死を命じることができる。だからといってそれによって執行という実務のいろいろな責任が自動的に聖化されるわけではない。その人は礼儀をもって取り扱われる。最後まで彼(女)は人として尊重される。人を殺すことは「能力があり訓練さえ受けていれば充分」可能だ。そしてわれわれはむしろそれに立ち会うべきだろう。執行する主権をわれわれは承認しているのだから。執行者は首をはね、群衆は歓喜する。

 私たちが国家を肥大化させないためには国家の行うすべての行為にわたしたちが立ち会う必要がある。なかでも死刑執行と戦争、わたしたちが人を殺す用意がないのならすでにわたしたちの文明は崩壊している。わたしたちは年に一度わたしたちの内なる死刑執行者を呼びだし慰める。

*1:「私は死刑廃止論だが」と言ったとしても。