彼らはソクラテスのように死んでいった。

換言すれば、ナショナリズムや愛国心というものは、対外交流を持たない排他的国民によって産出されたものというイメージとは全く反対に、グローバルとローカルの活気溢れる交流の産物、つまりコスモポリタニズムなのである。

(p3大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』isbn:4000017969

 戦後左翼はナショナリズムや愛国心というものを一貫して、遅れたもの、マイナスの価値しかないもの、つまらないものと見なし続けてきた。*1しかしながらわたしたちの敗戦を象徴する<特攻隊員>たちの内面をかいま見るならば、それは嘘だったことが分かる。彼らはマルクス主義を含む世界のすべての知と美を吸収咀嚼しその上で<自己を死に与える>ことに赴いた。

本書の主要なテーマとなる学徒たちは、理想の世界に住み、真実や人生の「美」を追い続けていた。書き残したいずれも数百頁に及ぶ手記は、いかに彼らが当時のさまざまな思想潮流から影響を受けつつ人生の意義を追い求めていったのかを如実に物語っている。彼らは「近代化」と「近代の超克」を同時に挑戦し、また高度に発達した西洋の文明に憧れる反面で、西洋の文化的・政治的覇権に抵抗したのである。若さに特有の理想主義の立場から、「個人」対「社会」の問題に取り組んだ結果、たとえそれが死を意味するものであっても、彼らは「社会の一員としての責任」を果たす義務を負わなければならぬと感じ、悩んだ。彼らが徴兵された時には、日本の敗戦はすでに時間の問題であった。彼らはまるで最後の衝突に向かって恐ろしい勢いで降下していくジェットコースターにむりやり乗せられたようなものであった。死が間近に迫り、自らの人生がまだあまりに短いものであったことに気付いた時、「生きたい」という願望が強烈な勢いで、まるで身心を引き裂くかのように走った。(略)政府のイデオロギー方針を支持し、自分自身を納得させようとしているかと思えば、その全てを否定しようとしている箇所も見られる。(略)彼らは知的探求に対しすさまじいまでの情熱を持ち、広範囲にわたって古今東西の哲学や文学の名著を貪り読んだ。  (同書p6)

彼らの読書リスト(著者名だけ列挙) 

アリストテレス、プラトン、ソクラテス、キプロスのゼノン、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ゲーテ、シラー、マルクス、トーマス・マン、ルソー、マルタン・デュ・ガール、ジイド、ロマン・ロラン、レーニン、ドストエフスキー、トルストイ、ベルジャーエフ、シュバイツァー・・・原書で読んでいる者すらいる

田辺元、保田與重郎、宮沢賢治・・・

(この本の巻末には40頁に及ぶ「特攻隊員4人の読書リスト」計1355タイトルが付いている。)

*1:一方で、自らの価値観=平和と民主主義にそった国家建設を推進しようとしながらも、それは愛国的とは呼ばれず、愛国的などの言葉は戦前回帰的臭いがあるものに限って使われた。

破壊の灰の中から立ち上がるフェニックスという逆説

若者の中にはマルクス主義者もいた。彼らは、物質主義と資本主義によって腐敗し切っているイギリス・アメリカばかりでなく、自らの国をも破壊するために自分たちの命を献げる覚悟だと、自分たちを納得させようとしていた。彼らは古い日本が崩壊したその灰の中から、新しい日本が鳳凰のようによみがえることを切望したのだった。

(p7同書)

マルクス主義者とまでいえるのは例えば、佐々木八郎氏である。彼は1923年生まれ、一高東大、1943年12月に学徒兵として徴兵され45年2月特攻隊員へ志願、同年4月14日特攻隊任務中戦死。彼はマルクス、エンゲルス、クロポトキン、レーニン、トロツキーを読んだ。戦後有名なマルクシストになった大内力の親友だった。

佐々木に宛てた手紙の中で大内は、断固として戦争に反対し、日本の敗戦を願っている。大内にとって戦争は、日本の帝国主義と権力者のためのものであり、民衆のためのものではなかった。彼は大内に対し、戦死することなど考えるべきではないと論じている。(略)

 佐々木の意見は大内とは異なっていた。彼にとっての米国・英国は、資本主義の悪を象徴する存在であり、したがって戦争は正当化されうるものであった。佐々木は、非合理な精神主義の危険性を鋭く察知しながらも、日本人の保持する武士道などの封建的要素が、日本を資本主義の毒牙から守りうると信じていた。(同書p303)

一応新しき時代のエトスに近いものが見られ、物的基礎も出来つつある今日、なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。一度や二度負けたって、日本人の生き残る限り、日本は滅びないのだ。はや我々は“俎上の鯉”であるらしい。悲観しているわけではないが、事実は認めなければならない。苦難の時代を超えて進まなければならぬ。(佐々木八郎)(同書p304から孫引き)

「破壊の灰の中から立ち上がるフェニックス」というのは、当時の若い知識人がしばしば用いた隠喩であり、佐々木も好んで用いたものである。彼にとってフェニックスとは、人類愛に溢れ、個人主義を利己主義に変えてしまった資本主義から解き放たれた、新しい日本のことであった。佐々木は戦死という行為を、若者が新たな世界の創造に参画する機会を与えるものであるという意味で、栄誉あることと考えていた。彼は、新生日本の創造にかかわるという己の義務と責任を果たし、死ぬことを望んでいた。(同書p304)

いよいよ12月1日入営と決まった。かくあることを予期して水泳、体操、銃剣術など充分に鍛えてあるから体力の心配はない。我々はいま第一線に立って一年でも長く敵を食いとめ、以て国家の悠久の生命を守る楯(たて)となることを求められているのだ。

(佐々木八郎)(同書p305から孫引き)

 わたしたち戦後の立場からは、一日でも早く降伏することがフェニックス(再生)につながる、一年でも長く敵を食いとめることに命を賭けることには何の意味もない、と断言される。

だが、私たちは「祖国への愛」から自己を切断し生きるべきなのか。「個人は歴史とその流れに逆らうことはできない。(林尹夫)」祖国が存亡の危機にあるとき戦いに動員されること、自己の生命を掛けようとすること、それは否定されるべきことなのか。彼らがその与えられた歪んだ磁場のなかで必死に生きようとした姿勢は感動的だ。ただそこで、「一年でも長く敵を食いとめ」ようとすることが「フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの」の生成につながるべきだとする祈り、それはその戦中の時点ですでに空疎な思想だった。と私は言いきりたい。戦争を遂行しているのは「われわれ」ではなく国家である。国家はわれわれの幻想を吸い取りそれを利用しそれと一体であるかに見せかけるが、それは嘘だ。国家は国家の基準に従ってゲームをしているのであり、学生や大衆の抱く祖国への夢といったものとは最初から位相が違うのだ。

ソクラテスの死の原因

ソクラテスは市囲の知者たちを訪ねては、その無知性を暴き出し、そのためにまた、「知者」を自認する多くの人々反感を買い、ついに、メレトスやアニュトスらによって「無益なことに従事し、悪事をまげて善事とし、かつこれを教授するだけではなく、国家の信じる神々を認めず、新しいダイモニア(神・力)を信じて、青年たちを腐敗させる者」という理由で告発されています。

告発の中心は、「国家の神々を信じない」というところにあったようです。

http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/sokuratesu/main_mails/main3.html ソクラテスとは誰か(2)

であるにもかかわらず、彼は死刑判決を受容し死んでいった。

同じ本を読んで

上記佐々木八郎氏の遺稿の一部は『あゝ同期の桜』という本にもでてくるらしい。*1

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/355.htm

海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 /トート号航海日誌(読書録)

小泉首相も、彼らと同じくらいの年齢でこの本を読み、「戦争は二度としちゃいかん」、「戦争をするぐらいなら、どんな我慢もできる」と感じたそうです」。

小泉首相が靖国参拝しましたね。参拝について首相は、「日本の平和と繁栄は、現在生きている方々の努力だけではない。戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々(らの)、尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。これからも日本が平和のうちに繁栄するよう、様々な祈りを込めて参拝した」と述べたそうです。参拝自体には賛否両論あるようですが、「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」という箇所はまさにその通りだと思います。

ある個人(例えば佐々木)は確かに自らの命を皇国に捧げた。だが、彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。」と言えるのか。多くの犠牲を出したが外敵を撃退したといった場合とは、犠牲の意味合いがかなり違っているはずだ。

 戦争は有限性のゲームである。しかし第二次大戦は(終わるまではおおむね)ドイツと日本に於いては最終戦争として無限性のゲームというイデオロギーのもとに戦われた。ナチスドイツと違い日本はそのことの(国民に対する支配者の)責任を取ってこなかった。

佐々木が苦悶の末に差し出した彼の命は、当たり前のように気にも止めず受領され、21世紀になっても日本=日本という同一性の神話を太らせるために使われる。

短い命を国家に捧げた彼の悲劇。彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」ということで彼らは少しでも慰められるのだろうか。例えば、結果的には少しでも早く戦争を止めておけば被害は少なかった、そうできなかった責任追及を果たしていく、そうすることが彼らの苦闘に応えることであろう。

*1:『きけわだつみのこえ』にもでてくるらしい。

予定

 デリダの『死を与える』を読んだので、特攻隊員が<死を与える>に至った思考過程を、デリダの考察とを照らし合わせて考えようと思いました。

・・・難しそうでくじけそうなので、予定だぞ、やるぞ、という決意表明をしておきます。

血にまみれたわれわれの手

 ジーン・ウルフは「ひとを殺す」ことについて考察している。言い直すと、「(あなたを)わたしが殺すこと」が可能であるためには何が必要かについて。ひとがひとを殺すことは不可能である。あなたは(つねに幾分か)私の鏡像であるがためにあなたと呼ばれるのだし、そうであるかぎりあなたを殺すことは不可能だ。

 しかし殺すことは可能でなければならない。

 《自在神よ》聖職者が読んだ。《ここで今命を失う者たちは、あなたの目から見れば、われわれ以上に邪悪な存在ではないと、われわれは承知しております。彼らの手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です。》

(p46「調停者の鉤爪」新しい太陽の書②isbn:4150107033

 女のモーウェンナが聖職者に導かれ、鉄の串を持った男に後ろから小突かれながら、階段を上がってくるところだった。群衆の中のだれかが大声で、猥褻な示唆をした。

《……慈悲心を持たぬ者に、慈悲を垂れたまえ。われらに慈悲を垂れたまえ。今、慈悲心を失わんとしているわれらに、慈悲を垂れたまえ》(p47同書)

「おまえが女だということを考慮すると……きわめて忌まわしく、異例ではあるが、おまえの左右の頬に焼き鏝を当て、両足を折り、首を胴体から打ち落とすことになった」

「その思考が臣民の音楽であるところの独裁者の譲歩によって、不束なるわたしの手に委ねられた高潔なる司法権力により、ここに宣言する……」

「ここに宣言する。おまえの最後の時がきたぞ、モーウェンナ」

「調停者に懇願することがあれば、申し述べよ」

(同書p48より、一部省略した形で引用)

すでにわかっているように、平均的な田舎の官吏ほど断頭台の上で取り乱す者はいないのである。(略)能力があり訓練さえ受けていれば充分に心をおちつかせることができるのに、それを欠いているというまったく正当な恐怖心との間で、引き裂かれていた。(p50)

その瞬間、わたしは後ろに一歩さがり、なめらかに水平に彼女の首をはねた。これは上下に切断するよりも習得するのに数等困難な技であった。

 かんたんに言えば、わたしは噴き上がった血の噴水を見、首がどさりと台の上に落ちる音を聞いて初めて、やり遂げたと知ったのだった。自覚していなかったが、わたしも村長と同様に怯えていたのである。

 これはまた、昔からの伝統によれば、組合の習慣的な威厳が緩む瞬間でもあった。わたしは笑いたくなり、跳びはねたくなった。(略)わたしは剣を振り上げ、髪の毛を握って首を持ち上げて、断頭台の上を意気揚々と歩いた。(略)群衆は必ず叫ぶ冗談を叫んでいた。(p52)

 長い引用になった。わたしたちは国家の主権者として死刑とその執行を是認している。*1わたしたちではない裁判官が死刑を宣告し、わたしたちの知らない場所で知らないうちに執行人が執行する。法務大臣が執行命令書に署名する時何も言わなければ、執行の後でしかわたしたちは知り得ない。わたしたちの国家はその暴力を恥じ深く隠蔽しようとしている。

 しかしながら、「彼ら(=殺されるべき者)の手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です」とは、国家は決して語らない。語らないのはそれが真実であるからだ。神が神の名に値するものである限りそれは国家より上位にあり、「殺すな」や「慈悲」の普遍性もまた国家やギルドより上位にあるはずだ。それを認めることは「殺すことは可能でなければならない」と矛盾しない。司法権力だけが死を命じることができる。だからといってそれによって執行という実務のいろいろな責任が自動的に聖化されるわけではない。その人は礼儀をもって取り扱われる。最後まで彼(女)は人として尊重される。人を殺すことは「能力があり訓練さえ受けていれば充分」可能だ。そしてわれわれはむしろそれに立ち会うべきだろう。執行する主権をわれわれは承認しているのだから。執行者は首をはね、群衆は歓喜する。

 私たちが国家を肥大化させないためには国家の行うすべての行為にわたしたちが立ち会う必要がある。なかでも死刑執行と戦争、わたしたちが人を殺す用意がないのならすでにわたしたちの文明は崩壊している。わたしたちは年に一度わたしたちの内なる死刑執行者を呼びだし慰める。

*1:「私は死刑廃止論だが」と言ったとしても。

執行についてはあまり語られない。

 法的思考は死刑判決というものをもってそこに執行の意味がすでに含まれるとし、執行というものは意味のない自動過程であるかのようにみなしたがる。わたしたちもそのような発想から逃れられない。しかし本当は違うのだ。判決を目指す公開の正義のゲームが時として数十年を要する複雑なドラマであることを人は知っている。しかし<一瞬>と語られるであろう執行もまたそれに劣らぬ複雑なアスペクトとドラマを持ったものであるのだ。ただそれらを語る言説を私たちがもっていないだけで。

自覚のクライマックスで死を与える

ぼくは犠牲たることを回避しない。自己を捨てることをこばまない。しかしそのprocessとして自己を無にすることを嫌うのだ。それを是認できないのだmartyr(殉教)ないし犠牲は、自覚のクライマックスでなされるべきだ。自己喪失の極限が犠牲たることに、なんの意味があろうか。

(林尹夫 p330『ねじ曲げられた桜』より)

林尹夫は10/30付けで紹介した佐々木八郎などと同じく「大東亜戦争」の最後に特攻として散っていった若きインテリ兵である。45年7月撃墜された。

彼が過ごしていた海軍基地では、読書そのものが禁止されるという馬鹿げた事態が起こった。上の文章はそのような情況への怒りである。

愚劣なりし日本よ

優柔不断なる日本よ

彼は資本主義と軍国主義の病に侵された日本の破滅を願った。しかし彼は「新たな日本を創るため」特攻機に乗ることをためらわなかった。

<死へとかかわる存在>においてこそ、<そのつど私のものであるという性格>の自己自身が構成され、それ自身に到来し、その置き換え不可能性へと到来するのだ。自己自身の自身は死によって与えられる。

(p96デリダ『死を与える』のハイデッガーの論理の解説の部分より)

彼一個の死を、60年も経ってから、自らを国家に捧げけたのだとして、安物の国家主義の昂進の方向へ利用してしまう奴らを叩きつぶせ!

戦争がなくなればそれでいい

禍津日神も戦争を憎んで、それを去らなければ戦争を下されるが、それは善人に戦争を下す神さまではない。戦争を承知しない神様である。戦争がなくなればそれでいいという神様である。ここに戦争を祓うことが可能になるべき道理がある。(略)

それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

(p98山田孝雄『平田篤胤』畝傍書房 昭和17年)

これは嘘です。山田孝雄はこんなこと書いていません。「禍」と「穢れ」を戦争に置き換えてみました。

 憲法9条の絶対平和主義を馬鹿馬鹿しいと今頃はみんな言うが、それはそうかもしれない。でも、<日本の伝統>に副ってないこともないのである。

憲法9条は<近代の超克>のヴァージョンアップ、いや戦争に負けたのだからヴァージョンダウンか?まあどちらにしても<近代の超克>の変種と理解しうる。憲法改正は<近代の超克>をさらに超克するといった形でしかなされえない、と思う。思想的に露骨に後退するようなことをするのは有害無益だろう。わたしは憲法9条が絶対だとも正義だとも思っていない。だが今時語られている改正案は程度が低すぎると思う。

だいたい、長い長い日本の歴史の中で最も優雅さから遠かった昭和の20年間に郷愁を持つとは、DV依存の変態か!

祓え給え、清め給え

神道というものは

ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。

というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98)

日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さまになる。禍津日神も穢を憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神さまではない。穢れを承知しない神様である。穢れがなくなればそれでいいという神様である。

欠如=ある徳への希求が凝って<神>になる。いま自己を圧迫してくる悪に対し、ひたすら「祓え給え、清め給え」と祈る、そうすると穢を憎む神が悪人に禍を与えてくれる。ということだろうか。

しかしそれには可能の原理がなければならぬ。その祓いの可能の原理がこの荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

「神が悪人に禍を与えてくれる」とまでは篤胤も孝雄も言っていないだろう。ただそういう方向の可能性はあるくらいか。

確かにAという人間を捉えて悪人であると規定することは、人間存在の広大さに対し人知でもってさかしらに規定することになり、出来ないことだと宣長はいうだろう。

本居先生の神道の考え方は要するに善悪二元論である。禍津日神となおびの神が両立しておいでになる。さうして(略)禍福は糾える縄の如しいうような説明をして居られるのである。(同書p85)

でもってこれを救済しようとするこの頃の*1日本主義者は、ヘーゲルをもってこれを解釈する、と。

それに対し篤胤は、二元論ではなく、一元論になる。

悪は祓いうる。つまり悪は本質的な物でないから祓いうるのだ。したがって神道は一元論でなければならない、と。なるほど。

ところでこの『平田篤胤』という本は、字が大きく百頁ほどでしかも内容が極めて平易である。面白い本だと思った。昭和17年という出版時点でこの表題ではひょっとして無茶苦茶国粋主義的なのではと思ったがそうしたところはなくとてもほのぼのした感じ。

「平田先生の一番力を籠め、殆ど命を打ち込んでやられた一番重要な点」が現在全く理解されていない、となげきながらも!

*1:S17年頃