http://d.hatena.ne.jp/merubook/20050923/p1
あらかじめ批判を封じ込めてしまう、あらゆる言説を相対化(「絶対」などないのだから)してしまう戦術など、ポストモダニストの遣り口そのものだ。
merubookさん はじめまして。
メモとして引用だけさせてもらいます。ありがとう。 (9/30追加)
http://d.hatena.ne.jp/merubook/20050923/p1
あらかじめ批判を封じ込めてしまう、あらゆる言説を相対化(「絶対」などないのだから)してしまう戦術など、ポストモダニストの遣り口そのものだ。
merubookさん はじめまして。
メモとして引用だけさせてもらいます。ありがとう。 (9/30追加)
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【転載・転送大歓迎】
パレスチナの平和を考えるトークカフェ in 新世界 第二弾!
パレスチナ難民の声を聞く ― 「日本人フェミニスト」の視点から ―
~☆~・~☆~・~☆~・~☆~・~☆~・~☆~・~☆~・~☆~
日 時●9月19日(月・休) 16:30~18:30(16:00開場)
会 場●cocoroom(フェスティバルゲート4F、tel:06-6636-1612)
http://www.kanayo-net.com/cocoroom/
地下鉄「動物園前駅」5番出口/JR「新今宮駅」下車すぐ
南海「新今宮駅」下車5分/阪堺電鉄「南霞町駅」下車すぐ
ゲスト●清末愛砂(ジェンダー法学/同志社大学政策学部嘱託講師/
アジア女性資料センター運営委員)
参加費●1000円(1ドリンク付)
主 催●パレスチナの平和を考える会 www.palestine-forum.org
連絡先●090-9273-4316、ysige@ysige@hotmail.com(やくしげ)
* * *
今年2度にわたってヨルダンのパレスチナ難民キャンプを訪ね、そ
こに暮らす女性たちの声を中心に聞き取りをされてきた清末さんに
現地の映像を交えながら話をしていただきます。
「ガザ撤退」の報道のなか、中東和平について多くが語られるよう
になってきていますが、パレスチナ難民の状況が省みられることは
ほとんどありません。そうしたなか、彼女/彼らの声に今あらため
て耳を傾けることの意味について、参加者一人ひとりの視点から考
え、深めることができれば思います。
今日、朝日新聞の夕刊に内モンゴルの詩人ボヤンヒシグのことがでていた。数年前に読んだなと思い、検索してみると00/10/19 07:00付けで引用だけしたのがでてきた。
非日常性
ボヤンヒシグ
二羽の白い鳩が
小さな部屋の窓に
度々 現われる
その都度 僕のペン先から
一つの危険なコトバが
滴ろうとした
何年かの後
雨が降った
二羽の鳩は黒ずんで
いつしか僕の双眼となり
僕はもう 部屋を出ていた
窓ガラスに裂け目がいくつ
空が痛むほど きれい
部屋は
すべてを知っているかのように
それからずっと空っぽだった
-------------------
『懐情の原型』ボヤンヒシグ 英治出版 より
書き留めておきたくなったので書いておきます。
「窓ガラスに裂け目がいくつ/空が痛むほど きれい」という文をどう解釈したらよいのか、分かるわけではないのです。
二羽の白い鳩は恋あるいは愛の象徴であり、「一つの危険なコトバ」というのがそういった言葉なんだとすると解釈は一応つきます。ただ、この作品の持つ異様な緊張感と恋あるいは愛というものとは合わないように思われます。だがそれは日本人の感覚で、異国人(の異国人との)愛の場合はそうではないのか。
そう解釈せず、なぞめいたままにしておいても充分魅力的な詩だと思う。
モンゴルには海がありません。でもそのためにモンゴル人は逆に
海という言葉を崇拝しているみたいなところがあるのだそうです。
モンゴル語で海のことをダライと言い、一番大きなものという
意味にもなります。ダライラマのダライですね。
飛行機の窓からちらっと見た以外に海を30歳過ぎまで見たこと
が無かったのがこの本の作者のボヤンヒシグさんでした。
彼の海との最初の出会い。その後何度も海に行き、海藻なども
よく食べてみる。だが彼はその短い文章の最後に書きます。
「しかし、海は僕にとって相変わらず、遠い存在で在るのだ。*1」と。
私たちが言葉を体験するということがどういうことなのか、
に関わりイメージと思索の広がりを誘う文章でした。
以上、過去のメールからの自己引用。
*1:『懐情の原型』ボヤンヒシグ 英治出版 より
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050914#1126636755
によると、今回の小選挙区の得票数は万票単位で次のようになるそうだ。
小選挙区
今回(2005年) 前回(2003年) 増 減
自民党 3252 2609 643
民主党 2480 2181 299
公明党 98 89 9
共産党 494 484 10
社民党 100 171 △71
国民新党 43 - 43
新党日本 14 - 14
諸派・無所属 326 417 △91
合計 6807 5950 857
自民党の得票率(得票総数に対する割合)をみると、前回43.8%に対して今回47.8%と、3.9%上がっている。しかし当選者は219/168と30%も上がっている。
小選挙区制は1位と2位の差も拡大する制度だ。*1政権党に有利な制度であり、政権交代が希な日本には適さない制度だと言える。
*1:2位の民主党が減ったせいもある、下に書いたように0.23%減。
えーと、小選挙区で自民党が30%も増加した。
その根拠となる得票数を見ると643万票増加している。
しかし民主党も自民党には及ばないが、得票数は299万票増えている。
得票率(得票総数に対する割合)をみると
自民党 : 前回43.85% 今回47.77% 3.92%増加
民主党 : 前回36.66% 今回36.43% 0.23%減少
民主党の得票率は減少したといってもわずか0.23%。
したがって「自民党は4%の得票率の増加で、30%の議席数増を得た」と言ってもよいだろう。
比例代表では、自民党は3.23%増、民主党は6.36%減と小選挙区に比べると差は大きい。しかし比例代表では当選者数にはマイルドに結果し、小選挙区では劇的に結果する。
(昨日書いたときは民主党の得票率もっと大きく減ったと誤解していました。)
異論があっても、誰もそれを声に出して言わない時代のことである。
【宮崎学氏の発言より】
自民党、公明党が衆議院の議席3分の2を支配した。
(略)
第58条 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。
これが3分の2の議席占有の威力である。こうなるとどうなるか。
つまり言えることは、自らに逆らうものは、実体的に殲滅するという「論理」の純化がはじまる。自民党内にとどまらず、その矛先は民主党の一部にも向かうであろう。そうするとである、議員が「職業」、つまり就職としてとらえているような意識水準の議員はひとたまりもなく寝返ることとなる。
それでも抵抗する者には、難クセをつけて議員の首を切ればいいということになる。これは法的には何ら問題はない。
こうして、平成型翼賛政治が完了する。そしてこの翼賛は、社会的にはそれぞれ内部に問題を抱える、警察、検察が下支えすることになる。
まあ、ワシはこう見とる。
http://miyazakimanabu.com/archive/2005/09/20050914.htm 憲法第58条2項 ~スターリン党への変貌~
id:kitanoさんが、Wikipediaの「西田税」の項目を書かれたそうで、
id:kitano:20050915#p2に全文載っています。
西田税(にしだみつぎ、1901年10月3日-1937年8月19日)は思想家。国家社会主義者。鳥取県米子市博労町出身。
(略)
昭和十一年二月初旬、青年将校等の一部同志が決起の意思を固めたのを察知し、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀等と会い、彼らが青年将校を糾合して二・二六事件の実行計画を進めているのを知るや、当時の国内情勢においてはまだ革新断行の最後の決定時期に到達していないと判断し、その抑止説得に努めた。しかし西田税は、決起将校たちの決意がゆるがず、説得が不可能であることを知り、その希望を受けいれる以外に無いと判断。こうして西田税は、二・二六事件に参加し、指導することになった。
昭和十一年三月四日、西田税は反乱の主動者として陸軍刑法第二十五条第一号違反の容疑で逮捕。昭和十二年八月十四日、東京陸軍軍法会議の判決で死刑を宣告された。
まあわたしは西田のことなど何も知らないのですが。
さすらいてやまぬことばを追ひゆけば 七月まひる 炎天の黒き蝶
斎藤史*1
*1:『全歌集』p656
黒猫さま
責任論という話題での応答が遅れてすみませんでした。あまりにも時間が経ってしまったので、何が論点だったのか忘れてしまったよ。というか議論の前提がまったく共有されていないことが判明して二人とも驚いていたのか?
苛立つとすぐ攻撃的口調になるかもしれないという危惧を抱きつつ、注意しながら書こうとしてみます。
整理できないので思いついたまま書いてみます。
(1)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827#p1 への応答。
★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。(黒猫)
「相続放棄するように」単に副詞句でしかなく、それがなくとも文意は通ります。「所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、解消できません。」何らかの関係(親土地国家等)というものの中で関係に関係しながら成長するのが生きることですから、この文章は否定できない。
「それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。」この次の文章との繋がり方が問題点ですね。後者の文章は「戦争責任云々」といったなにがしかの限定された「責任」についてのもので、在るのに対し前者はいつどんな処でもあてはまるべきまったく普遍的な命題です。
下に引用された斎藤氏の長い文章に対しても「普遍について論じているのか、限定について論じているのか」という不明確さは、指摘できないこともないと思います。
(2)
むしろ、それぞれの国民が自らの過去を排他的に所有するのではなく、国民の境界を横断する記憶や歴史認識を共有していくためには、同じ出来事をまったく違った仕方で経験してきた他者との語りの交換こそが不可欠である。*1
「・・・私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。しかし、このことは「日本人」の一員として、他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。(同上)
他者の名指しという<最初の一撃>によって、わたしたちは日本人になる。という形で、「他者の名指し」を形而上化しているのではないでしょうか。
「私たちは他者の名指し(要求)を退けるべきではない。」というのは政治的あるいは運動論的には、ある場合是認されるでしょう。しかしそれは、「私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。」という命題を成立させることと等しくはない。
わたしとあなたはある同じ国家の構成員です。それ以外にも他者の名指しによって「日本人」とカテゴライズされるべきなのでしょうか。*2
「私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、」、非対称性は歴史的関係という過去の領域ではなく発語するこの私の発生という存在の領域を規定していないでしょうか?
(3)
この具体的な他者から不正義を告発された時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈するのではないでしょうか?(黒猫)(修飾句略)
これは下記も含意しますよね。
具体的な他者が不正義を告発しなかった時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈しない、と。
わたしの理解では特権的に語られるべき<他者>とは、半ば幽霊的存在であり、一貫して「不正義を告発しつづける」という確固たるものとはイメージされません。
このイメージの相違が議論の食い違いになっていくようですね。
AがBを殺したとき、Bは死んで語れないしAは罪責感故に語らない。
AがBをレイプしたとき、Bはトラウマのゆえに語れないしAは罪責感故に語らない。
このように誰にも語られ得ないがために法的に立証されない空洞こそが事実の核心に在る、と思います。
責任が語られ続け、飽きられてしまってもなお語られ続けなければならないということがなぜ生まれてくるのでしょうか。
事実はあるアクロバティックな飛躍によってしかわたしたちの下にやってこないものなのか?それとも、もっと平明にそこにあるものなのか? 後者の事実観だけがなぜ疑われることなく通用しているのでしょうか。
60年前から中国大陸は日本から海を隔てたかなり遠くにあり、敗戦はその距離を拡大したこと、この距離が問題を作り出したのではないのでしょうか。だというのにいつもインテリは距離など存在しないかのように普遍的にしか語れない。
id:noharra:20050824#p1 から二つの断片を引いておきます。
絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。人はそれを犠牲者として同定することすらできません。それは、自己をそれとして提示=現前化することさえできないのです。(デリダ)
「小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。」このような文は確かにありコピー可能だった。でもそれはおよそ信じべからざるものであり、「自己をそれとして提示=現前化すること」に成功することなく消えてゆく。(野原)
というわけで私の理解では、「この具体的な他者から不正義を告発された時」、の「具体的他者」とは「具体的他者」ではなくただのインテリの良心の擬人化なのではないでしょうか。
(4)
インテリの良心は必要です。であればなぜ以上の文章は書かれたのか。自己の良心による判断をそうではなく普遍的であるかのように語ることに対する反発が、ネット右翼など巨大な潮流になっていると考えたからです。
以上、自分でも迷いながら書いた文章ですが、例によって攻撃的に成りすぎているかもしれません。ご容赦ください。
*1:斎藤純一「政治責任の二つの位相」、『「戦争責任」とわれわれ』所収、ナカニシヤ出版)ISBN:4888485135 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827#p3 の黒猫氏転写部分から孫引き
*2:気持ちは分かるような気もしますが議論なので無視していこう。
「ゆきゆきて神軍」ほかの原一男特集、今日から22日木曜まで。
原一男トークショウは今日16.30より。いずれも
阪急宝塚線「売布神社駅」前・ピピアめふ5F シネピピアにて。