クレームクレーム

またこちらのつけたクレームや質問は一切無視で批判だけするというnoharraさんのスタンスも私には冷静なものと思えません。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050817

クレームへの応答を求められたので書きます。

 申し訳ありませんがクレームからはじめさせていただきます。泥仕合をする気はないので、この応答が続くにせよ、ここで終わるにせよ、次に同じ事があれば、こちらとしてはすぐ打ち切らせていただくことを先に伝えさせていただきます。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050807/p1

 何を偉そうに言っているんだろう。

 私が「はじめに結論ありき」であるのは否定しません。「そうそう乗せられてたまるか」というスタンスが私の結論です。

 「はじめに結論ありき」なら対話を拒否していることになります。

私が林論文を参考に出来ないと言ったのは、「彼のスタンスには「はじめに結論ありき」というにおいが感じられるから」

根拠を問いつめられて「においが感じられる」と何度も言うというのは、如何なものか。

 となると、こちらとしては私がnoharraさんの意見に全面的な同意をしないことへの意趣返しだと判断せざるを得ません。

「意趣返し」って、また古風な言葉を。「うらみを返す」ことですか。何を言っているのですかね。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper20.htmを読まなきゃ話が出来ないというなら、せめて先に言っておいてくれませんか? 

何を言っているのでしょう。あなたが「におい」だけで林論文を否定するという暴挙を行ったから反論しているだけでしょう。

それと、8/07コメント欄に記入された煙さん(とわたし)の文章を復元してください。煙さんの文章はあなたの議論の欠点を丁寧に突いていたように記憶します。それを読みたくないとしても他人の表現(ここでしか読めない)を削除するのは勝手すぎます。議論に対する最低限の誠実を裏切る行為です。

質問について

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/reb03.html#03-2に現れている価値の灰色さと、太平洋戦争に対する過剰な思い入れの違いは何に由来するのでしょう? 自らをアナーキストと名乗る人の取る態度としてはまったく理解できない(これが愛国者を名乗る人であるならまだ分かります。)ので説明していただければ幸いです。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050807

太平洋戦争というか「大東亜戦争」のことでしょうが、それに対する過剰な思い入れ、が私(あるいはあの文章)にあるかなあ。

「大東亜の大義」についてはもうちょっと真面目に受け止めても良いと思っています。大東亜戦争の現実はそれを全面的に裏切っていたわけですが。

この問題については今後も考えていきたい。

敷島のやまとにしき

ふみわくる深山紅葉(みやまもみじ)を敷島のやまとにしきと見る人もがも

みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし

草まくら夜ふす猪(しし)の床とはに宿りさだめぬ身にもあるかな

         亀山 嘉治

 幕末、尊皇攘夷の動きが高まり遂に幕府と戦うに至ったのは長州藩ですが、同じ頃(1864年(元治元年)3月)*1水戸天狗党(水戸藩の尊皇攘夷派)も筑波山に挙兵したが(藩内内戦)敗北し藩領を脱出、京を目指し中山道を進んだ。

参考 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/tokusyu4.htm

その天狗党に参加していた、ある平田派国学者の詠んだ(行軍中に)歌です。といっても、小説『夜明け前』からですからフィクションなのでしょう。

「木曽山の八岳(やたけ)ふみこえ君がへに草むす屍(かばね)ゆかむとぞおもふ」、という歌もありこれは「海ゆかば」と同趣旨ですね。

尊皇の至誠というものが<美>でありえた時があった。なんて言ってしまうとお前は右翼か!と批判されるでしょう。尊皇の至誠というものが<美>でありえる、のは、尊皇が絶対権力=国家と結合しない時だけだ、ということは確かだと思われます。

秩序に反する者を非国民、テロリストと言って恥じない者は<至誠>の対極に存在する者たちだ。

*1:同年の年表では「水戸天狗党の筑波挙兵、松平定敬・京都所司代に、池田屋事件、禁門(蛤門)の変、第一次長州征伐、天狗党降伏」となります。

もう1年早く終わらせるべきだった

2005年08月14日(日曜日)付朝日新聞社説です。 全面的に同意します。

なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える

 明日、60回目の終戦記念日を迎える。あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもその疑問がわいてくる。

 犠牲者の数を調べてみて、まずそう思う。日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本人の戦没者は310万人にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万近い人が命を落としているのだ。

 その1年に、戦線と日本の政治はどう動いたか。

●1年前に勝敗は決した

 44年6月、西太平洋のサイパン島に米軍が上陸した。日本はこの攻防と周りのマリアナ沖海戦で完敗した。もう攻勢に出る戦力はなく、この島から飛んでくるB29爆撃機の本土空襲を防ぐ手だてもない。軍事的な勝敗はここで決まった。

 同じころ、連合軍はノルマンディーに上陸し、日本が頼みとしたドイツの敗勢も明らかになっていた。

 軍の内部でも負けを覚悟する人たちがいた。大本営の一部の参謀たちは「今後、大勢挽回(ばんかい)の目途なし」と部内の日誌に書いた。そのうちのひとりは、参謀総長を兼ねる東条英機首相に終戦工作を始めるよう進言した。

 だが東条首相はこの参謀を更迭し、内閣改造で危機感を封じ込めようとした。陸相時代に「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を発し、兵に降伏より死を求めた人物である。負けを認めることはできなかった。

 それでも、終戦を狙う天皇周辺の重臣たちが手を組み、逆に東条内閣を総辞職に追い込んだ。44年7月の政変である。

 だが、戦争は終わらず、日本の迷走は劇的な段階に入る。フィリピンでの敗走は50万人の死につながった。軍はついに特攻という無謀な戦術に手を染め、多くの若者に理不尽な死を強いる。軍隊として、国家としての自己崩壊としかいいようがない。

 ようやく45年2月、近衛文麿・元首相は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。

 せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。

 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。軍事史に詳しい歴史家大江志乃夫さんは「私にもわからない」と首をかしげる。

 いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。

●救えたはずの数百万の命

 政治家や軍人の証言をまとめた「終戦史録」などを読むと、重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていたことがわかる。だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探りあいに終始したという。情けない限りだ。

 結局、当時の政府は、広島と長崎の原爆とソ連参戦という、だれの目にも明らかな破局の事態を迎えて初めて降伏を決める。これを決断と呼ぶとすれば、あまりに遅いものだった。

 政治家や軍人は戦後になって、「戦争は欲しなかった」と口をそろえた。

 手厚い待遇を受け、安全な場所にいる高官たちは、政策を決める会議で自ら信ずるところを発言する責任がある。それを果たさなかったという告白だ。そんな無責任な指導者のもとで命を落とした数百万の人たちはたまらない。

 つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる。あの無残な1年間の理由はそれしか考えられない。

 確かに、戦争終結への動きを憲兵がかぎまわり、軍部には負けを認めぬ狂信的な一団がいた。だが大臣や将軍たちにはそれを抑える権限と責任があったはずだ。ところが、行きすぎを本気でただした形跡はほとんど見つからない。

 検閲があったとはいえ、新聞も追従する紙面を作った。重い戒めとしたい。

 戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。

 終戦直後の東久邇稔(ひがしくになる)彦(ひこ)首相が呼びかけた「全国民総懴悔(そうざんげ)」の言葉は、人々の胸に落ちたわけではなかろうけれど、都合よくもあった。責任を突き詰めて考えるのにふさわしいときではなかったのかもしれない。

http://www.asahi.com/paper/editorial20050814.html

asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-社説

原文はこのあと「●あの時代だけか」という段落がある。これももっともだがここでは省略する。

「いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。」そうであるとすれば、天皇裕仁自身の責任がこのような具体的文脈でもクローズアップされざるをえない。

「 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。」「国体護持のため」というのが当時の答えだった。そして実際に天皇は生き残った。裕仁が退位しなかった意味は何か。「戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。」というのは正しいだろう。

とすれば日本の戦後とは一体何だったのだろう。裕仁無罪から東条無罪へ。ふ。

約二百万人の日本人死者への責任は?

おとなり日記から

本来平和主義者で戦争回避論者だったが、東條英機をはじめとする強硬派の主張に引きずられ、あくまで立憲君主としての中立的立場に固執するあまり、戦争への流れを止められなかった、基本的には軍部の被害者であった昭和天皇。

そういう一般的な昭和天皇のイメージは、近年の公開史料に基づいて書かれたハーバート・ビックスの『昭和天皇』が提示する驚くほど好戦的な昭和天皇像によって根本的な修正を迫られている。

http://d.hatena.ne.jp/motoski/20050815 もとすき日記

逆に言えば、昭和天皇の判断が誤っていたから、約200万人の死者が余計に失われたのである。

この事を普通の日本人が当たり前の歴史的事実として受け入れるまでに、果たしてあと何年かかるだろうか。はっきり言えるのは、たとえ何年かかろうとも、この問題を解決しない限り、日本人にとって「戦後」は終わらないということだ。

敵が中国や韓国や東京裁判なら戦いは容易である。左翼やリベラルが敵でも同じこと。

臆病で優柔不断で好戦的で保身的で日和見的でずる賢い自国の天皇が本当の敵だったと分かったとき、私たち日本人は一体どのように戦うのか。決戦の日は刻々と迫っているように思われる。

(同上)

 日本人ははたして自己決定を望んでいるのか。自己決定せずに何かに引きずられていき、ひどい目にあっても「やむを得なかった」といって納得して死んでいくのが好きなのではないか?

靖国神社メモ

靖国神社 占領下の知られざる攻防 ◎ NHK について

http://d.hatena.ne.jp/ja1bui/20050815

 戦前、陸海軍省が管轄していた靖国神社は、軍国主義の象徴と見なされていた。終戦後、GHQは靖国神社を廃止することを検討し、国家と国家神道のつながりを断とうとした。しかし、靖国神社は生き残った。そこには、占領政策を円滑に行おうとするアメリカの思惑や、日本政府、旧日本軍、神社関係者の戦略があった。番組では、日米に残された膨大な資料や関係者の証言から、靖国神社が一宗教法人として存続するまでの攻防を描く。

 靖国神社の存続をアメリカが許すことになった経緯などは、番組を見ていないわたしにはよく分からない。ただA級戦犯合祀以後の靖国をめぐる中国、韓国とのトラブル、は基本的にアメリカの国益にそったものだ。アメリカが何がなんでも阻止しなければならないと考えているのは、東アジアにアメリカに対抗しうる力が成立すること。つまり中国と日本との強い友好関係の成立である。首相の靖国参拝とはこれを阻止するための楔であるから、アメリカの陰謀である。

 ひるがえって、天皇退位をアメリカが斥けた理由も、“王の死”による王権のリフレッシュをアメリカが嫌ったからである。日本が強大化しすぎれば過去の罪悪を持ち出して国際的にいびり倒せる切り札の温存でもあった。日本の60年はこのように過ぎていったわけだ。

いつどんなときも「私は有罪」ではない。

 私にとって第一の関心事は、「私においてどのような表現が可能なのか?」「どのような私が可能なのか?」にあります。

「私は有罪だ。」という表現は成立可能でしょうか。不可能だと思います。有罪とは、それを言表することにより致命的なダメージを私が受けるという意味である。したがって何らかの裁判装置に私が受動的に掛けられるなら、「あなたは有罪だ」という言表は装置から発せられるであろう。もちろんわたしの内にも良心がある。良心は反省し認罪することができる。だが実行した私も、認罪した私も同じ私に過ぎない。前者ではなく後者が優越すべきだとする根拠は何処にあるだろう。戦争の時代に戦争に加担し、反省の時代に反省に加担する。それでは時流に合わせているだけですね。時流としてはまさに現在、反省への反動が押し寄せている。

わたしというものが“どこまでも述語となって主語とならない時間面的自己限定にほかならない”*1なら、反省はどのように可能なのか。

 そもそもわたしがどんな罪を犯したというのか。わたしはどんな罪をも犯しはしない。仮にレイプしたとしてその対象がその直後に消滅したとしたなら、犯罪は存在したとは言えない。殺人の場合はまさにそうだろう。犯罪は発生した瞬間に消滅する。あなたが神ではないから犯罪の瞬間を再現することなどできない。すなわちわたしの犯罪などどこにも存在しないのだ。

「語りえないものの秘密を漏洩すること、それがおそらくは哲学の使命にほかならない」(レヴィナス)という非在の回路を通じてしか、「わたしの罪」は現れない。悪人はいつでも安心して眠っている。

*1:西田幾多郎

Aさんの名誉回復したければ勝手にすればよい

http://www.nomusan.com/~essay/essay_31_tokasikijima.html経由で)

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html 第34回司法制度改革審議会議事録

というところで、曾野綾子が自作について語っているので、ちょっと読んでみよう。

最初にいままで何が事実とされていたか、を彼女は述べる。

 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。

ところで曾野氏が論点として掲げるのは次の点だ。

これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。

Aさんという方がどの程度悪人だったかどうか、にみんなが興味があったわけではなかろう。

Aさんという方がどの程度悪人だったかどうか、というトリヴィアルな話題にわざわざ本土からやって来て食いついたのが、曾野綾子だ。もちろん文学者がどのような点に注目するかは彼女の勝手である。ある点に注目することで彼女はどのような文学的テーマを展開してくれるのであろうか。だが彼女が語るのは次のような言葉だ。

赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

Aさん及び彼の隊の人に対し、無条件に寄り添おうとしているかに見える。大江のような平和主義に染まった文学者が「犠牲者」とされた人に無条件に寄り添おうとするそのことにより事実が少し偏向された形で表現されていく、そのことを批判したいのではないのかね。自分も(右と左が違うだけで)同じ形の思想なら、批判は成立しない。

本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。

大変だったと思う。そして死者たちにはどういった回路で会ったのか。作家の本質はそこでこそ問われる事をまさか知らない訳でもあるまい。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。

しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

「Aさんが、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。」それで? Aさんの名誉は回復されるべきだと、ふーん、勝手に回復すれば、としか言いようがない。

日本民族の運命に関わる巨大な悲劇に遭遇しながら彼女は、文学にも悲劇にも興味がないようだ。Aさんの名誉にしか。

曾野綾子は大江を名誉毀損している。

と言えると思う。

上記で彼女は「一斉に集団自決を命令した赤松大尉を(略)、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」と書いている。「あまりにも巨きい罪の巨塊」の出典は下記だ。読めば分かるように、責任者*1のことを「あまりにも巨きい罪の巨塊」と、大江は表現してはいない。「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」「彼」は消化しきれない「罪の巨塊」を前に為す術を模索し、「自己欺瞞と他者への瞞着の試みをくりかえす」ことにより、「罪の巨塊」を少しづつ少しづつ摩滅させることに成功する者として描かれる。明らかに「罪の巨塊」は彼とは区別された物として彼の前に置かれている。「赤松大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」というのは明らかな虚偽である。

 でこの文の主語たる彼、あるいは「責任者」は「自己欺瞞と他者への瞞着の試みをたえずくりかえす」者である、つまりそれを悪であると大江が指弾していることは確かだ。しかしながら「自己欺瞞」というキーワードが明らかに示すように、この文章は大江特有の実存主義的臭気にみたされている。罪といっても権力の発語する罪とは違い、Aという実在の人を白日の下に罰に導く力を持っているものではない。「たえずくりかえしてきたことだろう」という述語により「責任者」という主体は現実世界からズレ、自己(他者)瞞着を逃れえない実存の世界の住人となるのだ。そこにおいては、「彼」を指弾することは、「かれの内なるわれわれ自身」を指弾することでもなければならない。

 「あまりにも巨きい罪の巨塊」はわたしの前にごろんところがっている。つまり予めわたしと罪が結ばれているわけではないのだ。だのにわたしたちは、否認しなければという思いに駆られ、その「巨塊」をかみ砕きすり減らそうとする。それは確かに見たところ希薄化していく。しかしその努力こそが“わたしの内に罪を”根付かせるのだ。大江が言っているのはこういうことに近い。

したがって「赤松大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」というのは何重にも虚偽である。

曾野氏がこれを語ったのは、「第34回司法制度改革審議会」という公の場所である。しかも沖縄問題はテーマではないから強い自発性の元に語っている。そこで“大江はAを罪の巨塊とよんだ”という虚偽発言をした以上、曾野綾子は大江を名誉毀損している、ことになるのではないか。

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。

(略)

(「沖縄ノート」210頁 )」

生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めなければならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。 (「沖縄ノート」69、70頁)」

上記、大江の引用は下記より孫引き。

http://amo-ya.blogspot.com/2005/08/blog-post_13.html

サイトの文章にも共感します。記して感謝します。

ただ、urlを記すことで先方がコメントスクラムの被害にあう可能性もあるなと考え少し躊躇した。前科があるし。コメント欄とか閉じて居られるようなので一度だけリンクします。

上記サイトにあったリンク集もメモしておこう。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/study411.htm

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4053/1999-after-1b.html

http://www.okinawainfo.net/oba.htm

http://www.geocities.jp/gakuchan_nif/page179.html

http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/

*1:大江は赤松などという固有名は書いてないようだ

約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。

 1982年、沖縄戦に関する教科書検定が最初に大きな問題となった。81年度の検定で江口圭一愛知大学教授が教科書原稿にはじめて、《6月までつづいた戦闘で、戦闘員約10万人、民間人約20万人が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、戦闘のじゃまになるなどの理由で、約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。》と記述したことに対し、検定意見は「数字の根拠は確かでない」、「日本軍の手で殺害されたということ自体疑義がある」、「出典の沖縄県史は一級史料ではなく、回顧談や体験談を集めたもので、学者の研究書ではない」などの理由で日本軍による住民殺害の事実を否定したために、《6月までつづいた戦闘で、軍人・軍属約94000人(うち沖縄県出身者約28000人、鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女をふくむ)一般住民約94000人が犠牲となった。県民の死者は県人口の約20%に達する。》と修正し、検定をパスした。

 この「県民殺害」の削除に対し、日本中で大きな抗議運動が起こり、9月4日には沖縄県議会は、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり、特に過ぐる大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般住民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、歴史的事実である県民殺害の記述が削除されることはとうてい容認しがたいことである」という全会一致の意見書を採択して抗議した。(略)

沖縄戦について文部省は住民殺害の事実は認めたものの、その後の教科書検定で住民殺害の記述に検定意見をつけない代わりに、「集団自決」を書くように強制するようになった。

「集団自決」の記述の強制は、「沖縄県民の犠牲のなかには、日本軍のために殺された人も少なくなかったことは事実であるが、集団自決が一番数が多いのであるから、集団自決の記述を加えなければ沖縄戦の全貌がわからない」というものであり、

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

このブログでも便宜上、「沖縄住民自決問題」と「自決」という言葉を使っているが、「自決(集団自決)」というのは問題のある言葉のようだ。

第三に、「集団自決」を書くことを強制するのは、「集団自決」はあくまでも住民が自らの意思で命を絶った事件であり「日本軍のために殺された」犠牲には入らないという認識が前提となっている。「集団自決」について、「崇高な犠牲的精神の発露」として強調・強要するところに、検定の思想審査的意図が現われている。》(同上)

「自決」というのは、「みずからの意思で、責めを負うて命を絶つ」ことである。乳幼児が自決をすることはできないし、肉親を自発的に殺す者もいない。(略)

「天皇の軍隊によって強制・誘導された住民の「集団死」を、「集団自決」と表現することは不適切であり、ことの真相を正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くものである。文部省の主張は、住民殺害等の天皇の軍隊の残虐行為を免罪にし、県民の戦争被害者の多くは自らの意思で死んでいったのだと強弁するものである。(同上)