http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050807 への応答です。
gkmondさん
応答が遅れ失礼しました。数日間パソコンから離れていたもので。
さて、
小泉氏が何を罪とし、何を反省としているのかは知りませんが、個人的な見解としては、「反省する」材料以外はすべて隠す(略)という歴史認識は否定されるべきだと思います。
一般論としては異論ありません。
ただ、具体的には(ここでいう隠された材料とはnoharraさんが「ネット右翼」と呼ぶ人たちが熱心に発掘しているエピソードや事実)というものがどの程度のネタか、という評価の問題になりますね。
☆
私の理解するところによれば、情報量の少ない「辺境の寒村の住民」(どこのことでしょう?)は、情報の相対化ができなかったのだから、自由はなかったと言いたいのだということになります。
であるならば、「軍が悪かった」以外の情報に、あるいは「軍は英雄なんだ」という主張以外の情報に、いちいち目くじら立てるのは、悲劇を回避するために必要であるはずの情報の相対化を阻むことにはならないのですか?
(ところで、寒村を辞書で引くと人けのないさびれた村、とある。ちょっと誤用のようなので、「村」に訂正してください。沖縄の寒村って温度も合わないし)
これは詭弁ではないですか。村人は情報の相対化ができなかった(黒に近い灰色)という主張を、「自由はなかった(黒)」と読み替えているのはgkmondさんですよ。
戦時中の国民は情報統制されていた=被害者だ
といった一般論で議論しても水掛け論になるから、わざわざ寒村(差別用語)を訪ねてそこのAさんBさんがどうふるまったのか? という議論をしているのでしょう。
あなたは建前では二元論を否定する。だが、実際には寒村の現実を見ようとする方向には向かわない。
「白か黒かで語る」方向に話をねじ曲げているのは誰ですか?
裁判を提起する=犠牲者を馬鹿にしているから許せないというロジックは、「靖国の死者を否定するのは許せない」というロジックと裏表の関係でしかありません。「理屈は分かるが心情的に許せない、だから駄目」が最終結論であるなら、
わたしのロジックは、裁判を提起する=犠牲者を馬鹿にしているから許せない、というものとは違います。
犠牲者は存在した。犯人は誰だ? 皇国皇軍の責を問えるかそれとも、住民の自発的行為か、がまず第一の論点です。その論点を問わず、ある特定の部隊長が「命令」を発したかどうか、かどうかという法的論点に焦点を当てるべきだと考えるのは、最初から論点のすり替えだ、だと言っているのです。
良い悪いは置いておいて、この六十年間、支配的だった歴史に対する見方、つまり全部黒という見方は、もはや有効性を失いつつあります。仕方ないと思います。
議論をしているのに、「良い悪いは置いておいて」というフレーズはおかしい。
「この六十年間、支配的だった歴史に対する見方、つまり全部黒という見方」この60年間、日本は共産主義政権下にあったのですかね?ヒロヒトは生きのび、自民党政権は続いた。戦争犯罪者は復権した。国民に対する戦争責任は一切問われず、国民はそれで良しとした。「全部黒という見方」があったとしたらそれは、戦前のことは「黒」ということにしておいてこれ以上追及するな、という処理方法にすぎなかったと思います。ラベルだけ貼っておいて中味は追及しないという。
つまり、gkmondさんは「右か左か」という予め与えられた狭い二元論の範囲内で思考しているだけです。「全部黒という見方」に対する位置づけ方からしておかしい。
というなら、noharraさん仰る「ネット右翼」が掘り起こす情報を隠されていた我々だって、左翼的歴史観の被害者です。権力は政府だけが握っているものじゃありません。「無垢の犠牲者」だった当時の国民だって、戦中史を作るに当たっては権力者だったはずです。なぜなら彼らを是とし軍部だけを非とする物語に対抗できる勢力がなかったのですから。
これは嘘ですね。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper20.htm
前も引用した林博史論文から引くと
沖縄戦を直接扱った書物は,今日までに200数十から300冊を越えるとみられる(注)が,大きく言って二つの流れがあるといってよいだろう。
一つは,沖縄の悲劇をこ度とくりかえさない,戦争をこ度とくりかえさな い,という姿勢から書かれた記録であり,
1960年代以降顕著になる一つの流れがある。それは,全体として沖縄戦における日本軍ならびに沖縄県民の戦闘協力を肯定的に評価するもので,その中にも,軍の立場から日本軍の行動(特に第32軍の作戦・指揮)を正当化し評価する傾向と,一方で,ひめゆり隊や鉄血勤皇隊など男女学徒隊をはじめとする沖縄県民の祖国への命を捧げた献身的行為のみを強調する,いわゆる殉国美談の傾向がある。日本軍司令官牛島満をはじめ第32軍の「偉烈」をたたえた黎明の塔をはじめ慰霊塔がたちならぶ摩文仁丘は,この流れの疑集した地であり,戦跡観光におけるガイドもこの立場からのものである
先にみた防衛庁の戦史においても,日本軍による住民殺害などについては, 一言も触れることなく,住民の集団自決についても,「戦闘に寄与できない者は小離島(慶良間列島・・・・筆者注)のため避難する揚所もなく,戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた」(『 沖縄方面睦軍作戦』252貢)と逆に美化されているのである(注)。
こうした流れのひとつで欠かすことのできないものとして,曽野綾子氏の一連の仕事,『生贄の島―沖縄女生徒の記録―』講談社,1970年,『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決―』文芸春秋,1973年,がある。特に後者の『ある神話の背景』は,渡嘉敷における住民の集団自決が部隊長の命令によるものである,とする『鉄の暴風』以来の通説を否定したもので,それまでの記録のあいまいさを見直させた点で重要な仕事である。しかし曽野綾子氏は,日本軍が投降勧告にきた住民(伊江島)を殺害したり, 家族が心配で部隊から離れた防衛隊員を斬殺したりしたことを軍として当然であると肯定しているのが特徴である。
左翼的歴史観に対する反発は、防衛庁というお役所を含め持続的に強力に展開されてきました。その努力もあって、まあ今日の“右傾化”という時流になってきているわけです。で、「我々だって、左翼的歴史観の被害者」という被害者の方が急増していると。
しかし自己を被害者の立場に置くことにより優位に立つというロジックを批判していたはずの、gkmondさんが、同じことしかできないとはなさけない。
であるなら、戦後60年という時間は何だったのでしょうか?
ほんとうに!