旧日本軍の人体実験

旧日本軍の人体実験、外国人犠牲者のリスト見つかる

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戦時中に旧日本軍に逮捕された後、関東憲兵司令部から731部隊に特別移送され、細菌を使った人体実験の犠牲となった外国人(「特移扱い」と呼ばれ

た)22人の名簿と資料が1日、中国の歴史研究者によって初めて公表された。犠牲者は旧ソ連の兵士やスパイ、旧ソ連のために活動していた朝鮮人スパイな

どで、旧ソ連人15人、朝鮮人6人。

名簿と資料は、旧日本軍が未廃棄のまま残し、黒竜江省・吉林省の資料館や中央の資料館に保存されていた日本語書類の中から見つかった。書類は関東憲

兵司令部司令官が署名発行したもので、外国人犠牲者の氏名・性別・年齢・本籍地・職業・身分・当時の住所・逮捕地点とその理由、各憲兵隊長による「特移

扱い」伺い、関東憲兵司令官による承認番号などのデータが、比較的完全な形で残っている。(編集NA)

「人民網日本語版」2005年8月2日

http://j.people.com.cn/2005/08/02/jp20050802_52290.html

敵も味方も、ともにあつく供養する

ラインラボさんが、最近の読書録で 

8月2日 『現代思想』2005年8月号が “靖国問題”を特集。奈倉哲三「招魂 戊辰戦争から靖国を考える」。を取り上げている。

http://www.linelabo.com/books.htm 最近の読書録

 靖国神社の前身は東京招魂社。明治2年(1869)6月に招魂祭をすることにより始まった。1868年1月の鳥羽伏見の戦いから翌年5月の五稜郭の戦闘終結までの戊辰戦争で斃(たお)れた者たちの「魂」を招き、神として祀るための儀式だった。維新政府は内戦に倒れた者を祀ることにより自らの権力を確立していこうとしたのだ。

 その日招かれた魂の数は3558。すべて新政府側で戦って斃れた者である。それに対し、旧幕府側で戦って斃れた者たちは、8625名余り。新政府側で招かれなかった「魂」も千人以上いる。これらの「招かれなかった魂」たちがどういった状況、戦いで死んでいったかを、筆者奈倉は詳細に書き留めようとする。*1

 結論部分をラインラボさんの引用から孫引きすると

〔…〕旧幕府側で闘って斃れた者の「魂」はすべて排除された。すなわち、新政府側に立って斃れた者の「魂」だけが選ばれたのである。

〔……〕新政府側に立って戦った兵が、「海へ行こうと山へゆこうと、天皇のためには命を捨て屍となる、敵と相対すれば、必ず正面から戦い、背を向けずに死ぬまで戦う」、こう誓って戦死したのだ、としたかったのである。

その基準に従って「味方の魂」をさらに選み、招魂したのである。

(奈倉哲三)

権力者の味方だけを祀るというのは伝統的ではないと奈倉は指摘する。

こうした「靖国の思想」は、日本人の「伝統」精神などではない極めて異例な精神である(略)

このことはすでに古くは村上重良氏が指摘しており、最近では梅原猛氏によっても強調されていることではあるが、(略)

〔…〕戦闘の終結後に、「敵方」の「魂」を排除し、「味方」の「魂」だけを招き、祀る、ということ自体が特殊なのである。

日本人の精神史は、それほどに貧しいものではなかった。それほどに情けない――情けの無い――ものではなかった。

「天神様」を見よ。あれは、菅原道真の死後、道真の「政敵」であった藤原氏が祀った神社である。もちろんそれは、時平によって大宰府に追われた道真が配所で没し、その怨霊が時平はじめ藤原一門を襲ったという怨霊信仰に基づいたものではあるが、決して、道真の勢力が、道真の「魂」を招いて建てた神社ではないのである。この怨霊信仰は、その後、仏教の怨親平等思想とあわさることで、祟りの発想が薄まり、戦乱が起こるたびごとに、戦死者の敵も味方も、ともにあつく供養するという習俗を生み出していく。

 一三三八(暦応元)年、南北朝内乱のさなか、足利尊氏・直義兄弟は、無窓疎石の勧めにより、元寇以来の敵味方すべての戦没者を供養するため、国ごとに一寺一塔の建立を決めた。一三四五(貞和元)年、光厳天皇の院宣を得、寺を安国寺、搭を利生搭と決定、その後、南北朝期を通じて、室町政権によって、ほぼ全国に設置された。

 維新政権の中心を担った薩摩藩、その藩祖と仰がれる家久の父、義弘は秀吉の命に従って朝鮮に出陣、帰陣後の一五九九(慶長四)年、家久とともに、高野山に「弔魂碑」――「忠魂碑」ではない――を建立、「為高麗国在陣之間敵味方鬨死軍兵皆令入仏道也〔ぶつどうにいらしむるためなり〕」と、碑文にはっきりと記したのである(鬨死は戦死の意)。こうして、敵味方無く供養するという精神が広まり、「死ねば敵も味方もない」との言葉で表される観念が、日本人一般のものとなっていくのである。*2

(奈倉哲三)

敵も味方も、ともにあつく供養する(外国人であっても)、というのが日本の伝統であったのだ。

*1:幕末の志士たちや新撰組の物語が小説や映画など盛んだが、戊辰戦争が余り語られないのは何故だろう。国民国家なら(独立?)戦争の栄光を長く讃えるのが普通じゃないのか?

*2:ここもラインラボさんの引用から孫引き

怨親平等 (8/6追加)

というのはちゃんとキーワードになっている。

 靖国神社の中には鎮霊社という「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争でなくなられた方々の霊」を祀った摂社があるとのこと(摂社とは本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)。(略)

たしかに靖国神社は軍人軍属を中心に祀ってはいるが、神社全体としては民間人も敵もあわせて祀っている事にはかわりないのだから、これこそ日本の伝統に沿ったものである根拠の一つにはなるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050728

そして上記のように、鎮霊社という社の存在を以て、靖国神社を弁護しようとする勢力も存在する。

136年前からの靖国神社の歴史を考えれば、それが言い訳でしかないことはすぐ分かるわけですが。

死者を語ることの欺瞞

http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050805 哲学の劇場さんのところに、雑誌一冊についてのくわしい紹介あり。これも奈倉哲三(なぐら・てつぞう)氏の「招魂――戊辰戦争から靖国を考える」*1について詳しい。他に、小泉義之(こいずみ・よしゆき)氏の「贖罪の時」についても。

このように考えてくると、英霊を祀る欲望は、死者を亡霊化する似非宗教的な所業であるだけでなく、その人が生きていたときに為したことを真正面から擁護することを回避する卑劣極まりない所業であるということが見えてくる。(小泉義之「贖罪の時」より)

なるほど。小泉氏が言うのは死者は絶対的に死んでしまっているということのようだ。

*1:のわたしが引用しなかった箇所

死霊が降りてくる

同雑誌の磯前順一(いそまえ・じゅんいち)氏の「死霊祭祀のポリティクス――招魂と慰霊」をもう一度見てみた。

靖国神社を性格づけるひとつの柱が、完全には概念化することのできない身体的儀礼である招魂という祭祀行為にある以上、その祭祀を通じて召喚された感情をめぐる多様な語りの可能性が生じざるをえない

その一方で、生き残った生者たちはそのような意味の多義的状態のままに留まることに困難を感じるため、それを概念化して明確な枠を与えることを求めてやまないのだ。意味の多義的状態は死者が生者に怨みなす怨霊と化する可能性もはらまざるをえないのだから。であるからこそ、多くの場合、招魂祭で招き降ろされた死霊の慰霊は、そこに多くのためらいを含みながらも、死霊に一定の意味を与える形で決着がついたと見なされる。ある場合には護国の神になったとして、ある場合には安らかな来世を送っているとして。

しかし、国家が祀るにせよ遺族が祀るにせよ、そのようなかたちで死者を慰霊してしまってよいのだろうか。それは死者が語りかけてくる声に耳を閉ざしていることにならないのだろうか。不本意な死を遂げた死者たちは、またここで、生者からの一方的な暴力に曝されているのではないだろうか。

*1

「招魂」「死霊祭祀」というのはあまり聞き慣れないおどろおどろしい言葉たちだ。「召喚」なんていうのはRPGゲームではおなじみだが真顔で使われるとやはり異和感がある。招魂社が出来た時期の平田篤胤とかの国学についてちょっとだけ勉強しているがそこにも「招魂」「死霊」なんて言葉はでてこない。*2

話は逸れるが、ちょっと篤胤神学に触れると、

現世(うつしよ)の支配者=天皇命(すめらみこと)

死ねば人の霊魂はそのまま神であり、幽冥界に行く*3

そこを主宰する大神は大国主であられるので、帰命(まつろい)まつらなければならない。

といったものである。死んでまで護国の鬼になるという靖国神学に比べて平和な感じである。しかしながら、国学から遠いと感じるのは実はわたしの勉強不足のせいのようだ。

招魂とは、元来「其時々」すなわち一時的に霊を降ろす、憑霊にも似た一種の降霊術とも考えられていたようであり、(略)当時民間に広がっていた国学系神道の、広い意味での鎮魂術とも密接な繋がりを有するものであった。*4

 夜中真っ暗な状態にして、霊が降りてくる、まさに本当に降りてくる、「魂の底に徹するような深い感激」を集団的に体験してしまうという祭がかってあったらしい。でそこに浮遊している霊たち。危険なので、「一定の意味を与え」て行かなければいけない、ということで「護国の鬼」という意味が定着すると。死者の慰めにはならないが。

*1:以上 磯前順一「死霊祭祀のポリティクス――招魂と慰霊」 現代思想p87

*2:「日本国は世界万国の総本国なり」といった文はよくあるが

*3:といっても場所的にこの現世と違う場所にあるのではない、アクセスできないが重なっていて、向こうからはこちらがよく見える

*4:同磯前順一論文 p83

民衆の心に根ざした追悼の様式?? (8/7追記)

http://d.hatena.ne.jp/sakunou/20050805/1123252066 では、次のように論じている。

(1)「靖国神社とは、明治になってからできたもので、近代になってからできた宗教施設である。つまり、最近できた新興宗教ではないのか」。

という意見は間違っていると。

そして「新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖国論 * 作者: 小林よしのり」から次の文章を引用する。

(2)戊辰戦争の戦死者の埋葬に際しては、「當村の守護神トシテ」と記された文章が残っている。公に殉じたものを「村の守護神」として祀ることは、地域・民間から自発的に起こっていたのだ。(小林)

(3)このように、民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼の様式を、国家が引き継ぐ形で創建されたのが、靖国神社であり、「明治になって近代国家が軍国主義に基づいて作った新興宗教ではない」ということは明白だと思います。(sakunou)

 まず新興宗教という言葉を聞けば、ちょうど靖国と同時期幕末明治期にできた黒住教*1、天理教、大本教などなどをまず思い浮かべます。篤胤以降のこの時期は日本ネイティヴィズムの戦国時代とも考えられ、靖国を新興宗教と呼ぶのは、(普通の言葉の使い方としては間違いですが)一周回ってクール!という感じもします。

(2)への批判。ある戊辰戦争の戦死者が、ある村で「當村の守護神トシテ」祀られたことは、靖国神社でそれが「村の守護神トシテ」祀られたことを意味しない。靖国は上に書いたように魂の選別装置であり、新政府側に立って斃れた者たちだけを祀って居る。

 小林よしのりの原思想は“鐘楼のパトリオティスム”みたいなものに近いのではないのか。であれば会津白虎隊の悲劇を考える場合にコンフリクトしないのかなあ?

(3)に対する批判。戊辰戦争は内戦であり、多くの藩が二つの陣営に分かれ、またそれに至るためにはひとつの藩の中でリーダーが内紛し争うこともあった。戦争の以前を含め、沢山の死者を出した。そのような「戦争」に対し、「民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼」は、むしろ両者をともに祀る、といった形である。「民衆の心に根ざした」という視点を強調するならむしろそう考えられる。

 靖国神社が必要だったとすればそれは国家というものをなにが何でも強力に成立させなければならなかった、当時の国際情勢によっているだろう。現在はむしろそれとは逆の国際情勢にあるのに、一部のナルシストは国家主義を選択させようとしている。馬鹿げたことだ。

*1:今読んでいる本『<出雲>という思想』のp117以下に、国学者大国隆正の思想との親近性が触れられている

産土(うぶすな)=パトリへの忠誠

戊辰戦争においては多くの藩が、薩長側(天皇)か幕府かという選択を急に迫られ右往左往してたわけです。上記の奈倉哲三氏論文からもう一箇所引きます。

二本松藩は幕府軍側で戦うことに決定。7月29日、新政府軍と激しい交戦となる。

そのさなか、農兵司令官として出陣していた三浦権太夫は、勤王論者として王師(おうすい)(天皇の軍隊)へ弓を引くことはできぬとして交戦を拒否、阿武隈川東岸で空矢を放って自刃した。合祀年月は不明であるが、靖国に祀られている。*1

 三浦氏は、(おそらく)うまれ育った故郷、その代表としての藩に対する忠誠と、自分が意識的に獲得してきた勤王イデオロギーの間で葛藤し、ついにどちらかに付くことは決断できず、自刃した。ところが靖国側は、その「勤王」の面にだけ注目し、靖国に合祀した。

 これと同じ事は「大東亜戦争」でも、無数に起こっている。南の島で餓死に追いやられ、祖国に対し怨みしか持っていない死者も沢山居たはずだと思う。それでも形式的に「護国」ということにして合祀する。一方空襲の死者とかは急進的愛国者が仮にいても合祀の対象からは外れる。また今回の台湾「高砂族」などのように遺族が合祀から外してくれと請求しても応じない。

 「国家の為忠奮戦死せし霊」だけを降ろし、神社に鎮座させるという*2選別装置。死者を選別するだけでなく、死者の内なる葛藤を拒絶し「国家の為」という面だけに光を当てる装置である、というわけだ。

*1:同書p113

*2:伝統に反した

在日韓国人への嫌がらせ

 神戸家庭裁判所というのはひどいところだな。

抗議先

〒652-0032 兵庫県神戸市 兵庫区荒田町3-46-1

電話番号等 Tel:078-521-5221 Fax: 078-521-8011

   神戸家庭裁判所 永井 ユタカ 所長

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韓国籍理由、弁護士の調停委員選任を拒否…神戸家裁

 神戸家裁が、韓国籍を理由に調停委員の候補として兵庫県弁護士会から推薦された弁護士の選任を拒否していたことが30日、わかった。推薦を受けた弁護士が選任されないのは極めて異例。同家裁は「調停委員は『公権力』を行使する国家公務員で、外国人は選任できない」としているが、同弁護士会は「話し合いの仲介が『公権力』と言えるのか」と反発。問題を重視した近畿弁護士会連合会(近弁連)も、近くシンポジウムを開いて市民と意見交換する。外国人の司法参加のあり方について今後、議論が高まりそうだ。

 調停には、隣人同士のトラブルなどの民事調停と、離婚や相続などの家事調停があり、事案ごとに裁判官1人と調停委員2人以上で作る「調停委員会」のもとで話し合いが行われる。

 調停委員は、「豊富な知識、経験を有する」人らを家裁などが最高裁に上申し、2年の任期で任命される。弁護士は委員の資格があり、最高裁規則は、欠格事由として、弁護士として3年以内に懲戒処分を受けた者など7点を挙げるが、国籍条項はない。

 兵庫県弁護士会によると、神戸家裁の依頼で、2003年10月、韓国籍の梁英子弁護士(47)を推薦したが、同家裁から「最高裁に上申しない」と通告された。

 最高裁によると、調停委員らが作成に関与する「調停調書」は確定判決と同じ効力を持つほか、関係者を呼び出したり、行政罰を科したりする権限を持ち、国家公務員扱いとされる。

 最高裁は「公権力を行使する公務員は日本国籍が必要」とする内閣法制局の見解に基づき、「調停委員に外国籍の人は任命できない」としている。

 これに対し、近弁連側は「調停委員は話し合いがまとまるように取り仕切る立場にすぎず、調停調書も当事者の合意がなければ結べない」と疑問を投げかけ、梁弁護士も「家事調停に関心があり、調停委員として、さらに理解を深めることができると思っていたのに残念です」と話している。

 最高裁は1977年、司法修習生の採用要項にあった国籍条項について、「相当と認めた者を除く」とのただし書きを設け、実質的に司法試験合格の在日外国人を修習生として採用。現在、全国で約50人の在日外国人弁

護士がいる。

 近弁連のシンポ実行委員会委員長の吉井正明弁護士は「在日外国人のトラブルも調停に持ち込まれ、今後さらに増加するのは必至。外国人の調停委員も必要になるはずだ。最高裁が扱いを変えるよう働きかけていきたい」

と話している。

 シンポジウム「外国人の司法参画」は、9月10日午後1時から大阪市北区の大阪弁護士会館(電話06・6364・0251)で開かれる。

(2005年07月30日 読売新聞 関西本社版)より

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20050730p102.htm

責任の欠如・強制の欠如というイデオロギー

isbn:4480857621 『南京大虐殺は「おこった」のか』筑摩書房  1998

クリストファー・バーナード著

という本が図書館にあったので借りて読んでみた。

以下メモ。(ちゃんと説明するのに手数の掛かる本なので、分かりにくいままですまぬ。)

まとめ

日本の歴史教科書(特に日本史)は偏向している。

この偏向は責任の欠如や強制の欠如というイデオロギーを表明している。

このイデオロギーは日本国の権力保持者の面子を守ろうと努めている。*1

この本は、日本の高校で1995年に使われた全88種類の歴史教科書を全部比較したものです。

取り上げたのは、いつも論点になる、南京大虐殺、真珠湾/パールハーバー、815など4点*2

テーマは書いてあることは事実か、という問いではない。文体レベルの微細な差異によって、受ける印象はずいぶん変わってくる。そのような差異を扱っている。

 幸い、日本とほぼ同時期にドイツ・イタリアも開戦し、敗戦した。したがって、ドイツ等の記述と日本に対する記述を比較できるわけである。

教科書からのサンプル1

 ドイツはオーストリアを併合し、1939年には独ソ不可侵条約を結んだのち、9月ポーランドに侵入した。p80

教科書からのサンプル2

日米交渉はゆきずまり、12月8日未明、日本軍はイギリス領マライに奇襲攻撃をおこなうとともに、ハワイの真珠湾に空から奇襲攻撃をかけ、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦を布告した。これが太平洋戦争のはじまりである。p76

上では「侵入した」という攻撃を示す動詞が最も強調されている。

このような(広い意味の)「攻撃」が本動詞になっている場合が、日本の場合は9%だが、ドイツの場合は40%になっている。

後者の場合、前者と違い、国家ではなく軍が行為主体となっている。

軍が行為主体となっている率は、日本が49%、ドイツは19%である。

ポーランドに侵入した」という切迫した文章に対し、「これが太平洋戦争のはじまりである。」という文章は説話的である。「ストーリーを語ることから一歩下がって、時間を超越した全知の観察者の立場にたち、すでにおきたことについて論評しているのである。」*3

つまり、日本国や日本軍何れに対しても攻撃の責任はさほど明確に与えられていないし、攻撃は「主たる話」にはなっていない。p82

責任の欠如とよべるイデオロギーに結びついた用法のパターンが教科書に見られる。p82

(以上 メモ)

*1:p142同書

*2:もう一つはなんだったかな

*3:p76

住民が死なない戦い方

いままでの経過。#pは続きがある場合あり

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050726#p4

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050726#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050803#p2 

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050804/p1 で、これへの応答です。

(11)

「全て悪いこととは言えない」は部分否定だと思われるのですが、部分否定するだけで「歯止めが一切ない」というのは、乱暴にすぎないでしょうか?

「全て悪いこととは言えない」とは、部分否定のはずですね。即ち「否定すべき」=「黒」とすれば、「戦争中のこと=真っ黒ではない」、つまり1%から99%までの灰色だ、という主張だった筈です。しかし、最近では「靖国の死者を否定するのは許せない」つまり、限りなく真っ白に近い、という(意味の)主張が大声で発せられている、と言っているのです。

小泉氏にとって「罪とは何か」「反省とはなにか」、分かりません。そこで部分否定論者であるgkmondさんに、否定すべき点はどこなのかお聞きしたいと思ったのです。

沖縄で10万人以上の民間人が死にました。これは全く不可避の死者だったのでしょうか。本土を守るために沖縄が捨て石になった、という理解は間違いなのでしょうか。わたしは捨て石だと思います。国体護持*1のために、何万人もの住民が死ぬのもやむを得ないという戦争遂行の仕方。それは戦後の価値観からは全否定されるべきだと思います。

したがって、

id:index_home:20050625 id:index_home:20050805#p1 でも論じられている、「陸上自衛隊那覇駐屯地の幹部や隊員ら約百人が六月二十三日早朝、第三二軍司令官の牛島満中将らを祀った糸満市摩文仁の黎明之塔前で慰霊祭を行った。」といった行為も否定されるべきだと思います。

「あの戦争は百%間違っていた」と言うことで安心してしまい、上記のようなある特定の戦争遂行の仕方を批判することを忘れてはいけないと思う。

(12)

 私はむしろ戦前戦中に関して、国民の得ていた自由を最大限多く見積もるべきだと思います。被害者としての面は多少弱められるかもしれませんが、「この程度に自由は残っていたけれども、勝てない戦争に突き進んだ」という語られ方をしなければ、現在の状況の危うさを理解させる史料とはなりえないからです。

異議ありません。

ただ色川氏のようなインテリと、辺境の寒村の住民*2とでは圧倒的に違う、ものを考えるに当たって権力側の一方的判断を押しつけられた場合にそれを相対化しうる能力が。ということをよく考えるべきでしょう。テレビなどで意識が均一化し、誰でもいっぱしのことを言ったりする昨今と全く違う当時の雰囲気はわたしたちに想像することすら難しいように思います。そんな時代でも、なお下記のようなことはあったのです。

(座間味島)

 なお村役場から離れた阿佐の集落では「自決」をしようとする動きもあるが「阿真(西方の集落 筆者注)で捕虜になれば、腹一杯の食事が食べられる」という情報が伝わってきて住民はそちらに向かい、「自決」はおこなわれなかった。このことは米軍が生命を助けてくれるとわかったときにはけっして自決を選ばないことを示している例であろう。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

私は分からないわけですが、米軍に捕まると「残虐な仕方で殺される」と信じこんでいた人々が過半いた、と林氏は書いているみたいです。でそうだとしても、最後の自決までスムーズにいくわけではない。地獄の決断があり、いくばくかの生への可能性もあった。*3だからといってその自由は、色川氏が体験した自由とは同じ言葉で表すのが全く不適切なものです。

(13)

一七七人といわれる「集団自決」の犠牲者に対し、「「自決」を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。」だからといって手榴弾を配った軍の責任が無いはいえないだろう。「弾薬をくださいと頼んだが部隊長は断った。」と林氏が語る部隊長の名誉が、ほかの本で毀損されたかどうかを論点にした裁判が始まるという。大量の自決者を生んでしまったのは、皇国皇軍の構造的問題であり、それを一人部隊長に負わせるのは酷だという理屈は分かる。しかし皇国皇軍の構造的問題の批判は六〇年経っても充分出来ていないのだ。それなしにこうした裁判を提起することは、結局構造的問題はなかった(=一部の住民が自発的に死んだだけ)ということになる。一部の住民はなるほど無学だったかもしれないが、馬鹿だったわけではない。犠牲者を馬鹿にするのは許されない。

(6)

6)林博史氏の論文のどこが、誤ったソースによる誤った文章なのでしょうか。(野原)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper20.htm「沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から― 」という論文で、「沖縄戦を直接扱った書物は,今日までに200数十から300冊を越えるとみられる」とし、それらを概括している。

『鉄の暴風』 は,事実のあやまりや米軍占領下の制約などいくつか問題点を待っているがその後の沖縄戦記録の出発点となるものであった。(林)

と、幾つかの「事実のあやまり」があったことは認めている。

 ここで「以来」という言葉が使われていることからも分かるように、集団自決の初出は『鉄の暴風』と考えられ、この論文も「鉄の暴風」を資料としていると考えられます。

 ここまでのことから林論文を参考にはできない、というのが私の意見です。

集団自決を論じる者が、「鉄の暴風」を資料の一つとしている場合に、論文の全てを否定することができる。なんともおそるべき論理展開ですね。

しかも、林博史氏の論文のどこが誤っているのか、については一言もない。

どうも、これでは。「はじめに結論ありき」という汚名を免れ難いのは、gkmondさんである。

*1:という何だか訳の分からない目的

*2:「自決」したのは子ども、老人、女性がほとんどです

*3:チビチリガマの場合53/139が生存確率。