ひめゆりの死の上に、戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。

 ひめゆりに限らず、戦没者に対して、「みなさんの犠牲の上に戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。」という言い方がよくされる。

だが、本当だろうか?

 全員が生き延びたシムクガマと「集団自決」で多くの犠牲を出したチビチリガマとを見ればわかるように、チビチリの犠牲者は死ななくてもよかったんだ。なにも死ぬ必要もなかった。もし彼らが生きていれば、平和を築くために働くことができただろう。生き残った者が必死でがんばったからこそ現在があるんだ。「みなさんの死があったから、今日の平和が生まれました」というのはちがう。彼らが戦争で死なずに生きていれば、もっともっといい社会を作り上げることができたにちがいない、と。

チビチリガマに避難していた人々は、事実を教えられていたならば、誰も死なずにすんだはずだった。はっきり言えば、そこで死んだことはなんの意味もないことだった。

ひめゆりの女子生徒たちは、軍とともに南部に撤退し、看護婦としての仕事もないまま壕に隠れ、ついには軍に見捨てられた。第1外科壕の生徒たちは脱出したが、戦火の中で多くが犠牲になり、あるいは「自決」をとげた。第3外科壕では脱出前に米軍に包囲され、投降を拒否したため爆雷をなげられて、ほとんどが犠牲になった。病院壕であれば、表に赤十字の旗と白旗をかかげて、投降の呼びかけにしたがって壕を出ていれば、誰も死なずにすんだ。第1外科壕にしても、脱出といっても地獄に放り出されただけのことにすぎず、同じようにしていれば助かったはずだ。そこでの死に一体なんの意味があったのだろうか。みんな生きることができたのに、捕虜になることを許さないという日本軍の狂気によって犠牲にされたにすぎない。生きていれば、新しい沖縄の建設に若い彼らはきっと貴重な役割をはたしたはずだ。(林 博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/essay02.htm

中国政府が孟子像を贈呈

(7月22日)日本の立命館大学に対し孟子像が中国政府から贈呈された。「立命館」という校名が、孟子の「身を修(おさめ)め、以(も)って命(めい)を立つ」という言葉から取ったものである、事に因むもの。これは、中国政府が外国に贈呈する最初の孟子の彫像であるとのこと。

http://www.china.com.cn/japanese/185601.htm

国務院新聞弁公室の蔡名照副主任の挨拶より

孟子が生きた戦国時代は、動乱の不安定な時代で、年々戦乱が打ち続き、民衆は生活の手立てを失いました。孟子は「済世救民」を己に任じ、仁愛と平和を追求し、社会正義を探求し、「君(きみ)を軽(けい)とし、民(たみ)を貴(き)とする(すなわち君よりも民を第一に考える)」仁政学説を提起しました。そして彼は仁政の理想実現のために奔走し、呼びかけました。彼は20余年の長きにわたり各地を遊説し、貧困のためさすらい歩いても志を変えませんでした。そうすることによって、高尚な人としての節操と、高い精神的境地を表したのでした。

孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という名言があります。この言葉の核心は「和」にあります。中国の伝統文化は一貫して「和」の思想に貫かれています。孔孟以来の大多数の思想家たちもみな、「和をもって貴しとなす」を提唱しています。「和」の思想は、中華民族が普遍的にもっている価値観と追求すべき理想となっていて、今日でも、中国人民の生活、仕事から内政、外交など各方面にわたり、広く、深い影響を及ぼしています。中国人民はこれまでも一貫して、人と人との間の、また国と国との間の誠意ある相互信頼と平等な待遇、平和と友好、礼節ある往来を重んじてきました。

先哲のこうした教えから、私たちが次のような啓発を得ることができます。それは、平和は人と人との交際の最高の境地であり、国際的な往来の最高の境地でもあるということです。

中日両国は一衣帯水の関係にあり、中日の文化は、水と乳のようによく融け合っています。中日両国人民の友好往来は、地理的に優位性を持ち、歴史的にも深い淵源があります。両国が長期的に安定した友好関係を樹立することは、両国人民の共通の願いと根本的利益にかなうばかりではなく、アジアと世界の平和と発展にとって有利であります。

 儒教の中でも「人民の為の」を最も強調するのが孟子です。だからといって、少し前までは中国政府が儒教を肯定することはなかったのに中国も変わったものだ。*1

 「中日両国は一衣帯水」というフレーズはかって大東亜共栄圏建設時に日本側が高唱したスローガンだ。中日の間に存在する国境という高い障壁を低くしてしまえば、当時優勢だった日本の国力が(具体的には軍隊が)中国国内になだれ込むことができる、という情勢において唱えられ、そのプランどおり日本軍は大陸になだれ込んで行った。現在は全く情況が違う。安くて優秀な中国製品の日本へのなだれ込みはすでに起こっている。中日の間に高い障壁はすでに無い。しかし小泉首相を中心とした勢力はA級戦犯を祀った靖国神社に参拝し、軍国主義化への道を歩もうとしている。先日の反日デモにより一定の歯止めは掛けられた(ようだが)予断は許さない。そこで孟子を先頭に立てて「文化攻勢」に取り組んできているわけだ。

 そう考えると上記の文章は興味深い。「和をもって貴しとなす」に攻撃のポイントを絞っている点が鋭い。というのは、儒教、仏教など日本のハイカルチャーはすべて中国からきたものだ*2。しかし、右翼ナルシストはそれを認めたくないので、聖徳太子*3を、日本の独自性の原点として押し立てる。その中心が「和をもって貴しとなす」である。皇国史観のとき高唱された楠正成等々の人物は戦後凋落してしまい、再アイドル化はすぐには難しそうである。その点聖徳太子は戦後も一貫して高い人気を誇っている。わたしを含めた従来の左翼は、「和をもって貴しとなす」に対し、普遍性*4への参照を欠いた平板な共同体至上主義として批判的に捉えていた。今回の中国政府の見解は、肯定的に捉え、なおかつそれを“日本的なものではなく儒教的なもの”とする点で、論壇に対する新しい介入であり得ている。

 1945年8月の敗戦はある人によって*5革命と呼ばれた。靖国論争や沖縄戦をめぐる議論の根拠にも、815の断絶*6をどう捉えるかという問題がある。これはもちろん国民一人一人に問われているのだ。

 革命は「万世一系」の対立語として使用すること。このような「革命」という言葉は勿論フランス革命やロシア革命と無関係だ。むしろ孟子の「革命」説として江戸時代を通じて論じられたものだ。*7

 中国政府は数千年の文の国としての歴史を賭けて、文化攻勢に討って出来てきているようだ。扶桑社などひとたまりもない??

*1:「2002年師走の新聞紙上に、「孔子精神中国で再興」との大きな見出しが掲げられた。記事は北京の人民大学で11月30日「孔子研究院」の創立式典があったこと、最近の中国で経済発展とともに「中華民族」が強調され、「中華文化の復興」が唱われていることを報じたものだった。ちなみに、人民大学のキャンパスには高さ3メートル半もの孔子像が建てられたという。」p3森紀子『転換期における中国儒教運動』isbn:4876986479

*2:仏教の場合は経由だが

*3:イエスを思わせるその名も厩戸うまやど

*4:「天」や「道」や「理」

*5:宮沢俊義

*6:あるいは連続

*7:野口武彦氏の本があるが未読。

軍部悪玉論

 我々はそろそろ軍部だけを悪玉に据える歴史認識から自由になるべきだろう。国を戦争に駆り立てるのは、一部の軍人なんかじゃない。分かりやすい物語と解決を求める、想像力のない国民なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050730/p1

おっしゃるとおりだと思う。

 先日こどもたちが今後使う(かもしれない)教科書の展示会があって(暇でもないのに?)見に行って扶桑社の教科書も見ることは見たが、時間がなくそれほどよく読めなかった。「軍部だけを悪玉に据える歴史認識」を扶桑社とかが攻撃しているということらしい。だけど歴史家の間では、「軍部だけを悪玉に据える歴史認識」が大手を振るったということは今までなかったのではないか。極限的には、沖縄において住民自決を先導した部落の指導部などがそうなるわけだが、一般大衆の中にも多くの戦争体制への協力を強制する積極分子がいた。そうした人たちへの責任追及はあまりなされなかった。狭い地域社会の中で血で血を洗うようなことに成らなかったという言う面ではその方が良かったのかもしれない。しかし実際に追及され、裁かれたのは、軍、政府首脳のごく一部だけである。裁きを免れた岸信介以下の首脳たちの責任は追及されるべきだった。それだけでなく、一般大衆と軍、政府首脳の中間者、マスコミやイデオローグ、官僚、軍需産業首脳といった人たちへの追及も、なされるべきだっただろう。*1

 話がそれた。*2言いたかったことは、「軍部悪玉論」とは便乗派戦争協力者が自らの罪を軍部(結局は東条)になすりつける為のものだったと。そうすると最近の左翼的教科書とかは何の関係もないのでは、ということ。

 ところでまた話を外らすと、天皇の戦争責任論というのも、便乗派とか殺されないためにしかたなかった(左翼の)戦争協力者が自らの罪を天皇制になすりつける為のものだった、と言えないことはない。*3仮にそうだとしても、何度も言うように、“ヒロヒトかそれとも東条”に戦争責任が無ければ誰にも無くなってしまう。小泉の靖国参拝は東条無罪論であり、責任はなかった論である。「罪を憎んで人を憎まず」と言ったが、「罪」とは何か明言されておらず、罪を確定する意志はないと認められる。

「悪玉はAだ」というのは短慮だ、というのは常に一理ある。しかしそれを反復しているうちに、(例えば肉親が無惨に死んでいったそうした戦争を起こし、さっさと止めなかった)責任者に対する憎悪にもとずく責任追及というパトスが薄れてしまい、「悪玉」を存在させなければならないとする当為が希薄になってしまう。

 平和、平和と唱えるだけなら誰も傷つかない。しかもそれで効果がある(平和が得られる)ならそれが最上である。しかしながらそれだけではどうも収まりそうもない。

 真夏の真昼、私たちはカンテラを灯して「悪玉」を探している。

*1:文学者に対する戦争責任追及は為された。しかし追及の主体(転向左翼)が自らの便乗表現には目をつぶって、よりひどい人を追及したというものだったので迫力はなかった。参考:1956年、吉本隆明と武井昭夫の共著『文学者の戦争責任』

*2:どうもわたしの文はそれてばかり。

*3:?

バカにするのもいい加減にしろ!!!!!!!!

まさか、南方で取り残され無残な死に方をしたという大伯父の生まれ変わりと言われていた俺が、

「自分の祖父や大伯父のごとき愚民を偉大な指導者である東条英機様に聖戦に出していただき、英霊として東条様と一緒に靖国に奉っていただいてまことにありがとうございます」

と思わなければならないような「歴史」認識が正しいと言うのか?

これこそ自虐じゃないのか!!

バカにするのもいい加減にしろ!!!!!!!!

http://ameblo.jp/dox/entry-10003164317.html 歴史が修正された国家「ジパング」を希求する群集心理|絵ロ具。

上記ブログでTBしていただいた。

 (何度も書いているが)現在の日本国境内だけを考えても、一つの国家の滅亡といって過言ではないほどの損害を国民国土に及ぼしながら、それが悪いことでなかったかのように言いつのる自慰史観派たち。彼らは「日本軍の蛮行などなかった!日本は戦時中もすばらしい国だったのだ!という歴史認識を広め、教科書でもそう記述されていなければならない」と主張する。国民に愛国の大義を取り戻そうということが正しいのなら、彼らのやっていることは間違っている。

小さな世界の反転

 今日は便秘に苦しんだ。金曜日に呑んだバリウムが腸の中で堅く固まって出てこないのではないかという悪夢に。診療所に電話すると、下剤*1を飲み、1リットルの水を飲めと指示された。指示どうりしても尿が出るだけで便はでない。3時間後くらいにいきむと、やっところんと小さな固まりが出た。ふ~ 良かった。

 便秘の原因は、バリウムを呑んだ翌日、息子のキャンプについていって泊まったこと。教訓:バリウムを飲んだ翌日は旅行に行かない。どうしても行く場合は2リットルほど水を飲む。*2

*1:下剤はバリウムを飲んだとき、念のため4錠渡されており、2錠はその日飲んだので2錠余っていた。

*2:15分に1リットルを2回。

「被害者の立場」に対する危惧

id:gkmond:20050726#p1 への返信がおおはばに遅れ、申しわけありませんでした。

以下乱文で失礼します。

0)わたしは確かに少し年上のようですが、戦争について意識的に本を読んだりしはじめたのはある意味で『ゴーマニズム宣言・戦争論』を読んでからで、まだ3,4年です。戦争を知っていると言えば、もう80歳くらいの方ですね。下記のリストを見ると、小泉、石原的なものに危機感を持っている方が意外にも多いように感じました。

http://www.tokyo-np.co.jp/shouwa0/index.html 昭和零年 1925年生まれの戦後60年

1)わたしは「日本の行った悪いこと」について学校で教えられた記憶はほとんどありません。中学高校は受験校で詳細な世界史日本史の授業を受けました。教師は左翼でしたが、太平洋戦争はおろか明治くらいまでしか行かなかったような気がします。

「イデオロギー的(=絶対平和主義的)強制に反発して」、という動機を持つ人が多いようですがわたしにはそうした体験が欠けています。

2)言いたくないのですが、わたしの父母の親族は(わたしの知る限り)兵役についた人もおらず、戦災で死傷した人もいません。お上には上辺でだけつき合って置けばよいという関西商人のエゴイズムとか、要はわが身だけは守るプチブルのエゴが通る余地が少しはあったということです。戦争で前線にかり出されるのは常に下層階級の割合が圧倒的に高いということ、この傾向は新自由主義の現在強まってきていることは最も強調されるべき事です。

3)

 また当時の日本軍が「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を住民に強制しようとしていたという話をきいたことは当然私にもありますが、それを民間人に強制しようとしていたのかまでは知りません。

これが論点ですね。

4)「例えばそのフレーズを広く普及させたのは、ラジオや新聞だったかもしれないし、町内会長や校長先生みたいな人物だったかもしれないと考えるからです。そしてそうであった場合、軍隊だけが悪いと言い切れるでしょうか?」

もちろん軍隊だけが悪い、わけではないです。

id:noharra:20050730#p2 に書きました。

5)「 また「彼ら(軍人)の存在が被害者を作ったという因果関係は明らかにある」という部分に関して、こちらに反論はない(そういう部分がなかったというのは明らかに想像力に問題があると思いますので)のですが、」

これを認めてもらったらそれでよいのです。

6)

参考にあげられた林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htmは、上記参照サイト「教科書は間違っている」において、致命的な批判を受けているように思われる『鉄の暴風』(編集・沖縄タイムス社。初版発行・昭和二十五年八月十五日)に基づいた記述がなされていると考えられるので参考にはできないかと思われます。インタビューに関しても同様のスタンスを取りたいと思います。 

7)

「戦前の日本がやったことは全て悪いことである」というのが戦後を支配した定理で、それに対する批判はすべて正しいとされてきた。このように私は理解しています。

そういう面があったとも言えるでしょう。その限りでそれに対する批判は正しいでしょう。しかし、

小泉氏は「罪を憎んで人を憎まず」というが、「罪とは何か?」を定義しようとした事は一度もない。「戦前の日本がやったことは全て悪いこととは言えない」という主張になっている。歯止めが一切ないのです。だから、「何度でもわたしは崖から飛び降ります」みたいな窮極のマゾヒズムの肯定まで直ぐにいってしまう。ここが現在の言説情況の非常におかしなところです。

8)

だから私にとって、このイデオロギーにまみれた戦前戦中史が検証されるようになってきたことは、ある種の解放に思われます。触ってはいけない部分が減ったという点においてです。

 私は国を誇れるような歴史が欲しいわけではありません。ただ神話でなく歴史を名乗るなら、常に検証可能であるべきだと思っているだけです。

賛成です。15万人?の死者を身近に感じ、その問題にわたしがせき立てられているといった気持ちには、犯しがたいものがある。だが被害者の立場といっても多様な物のはずで、不可侵の正義が予めある、という前提は、異論の存在する余地をなくしてしまう。というようなことが確かにあるのかもしれない。

というわけで以下、3)と6)について検討したい。

降伏禁止は民間人に強制されたか?

3)

住民に対し「生きて俘虜の辱めを受けず」というフレーズが強調されたかどうかは分かりません。

そのため沖縄では「一木一草」にいたるまで戦力化することがはかられ「軍官民共生共死」がうたわれた。つまり軍に全面的に協力し、軍が玉砕するときには県民も一緒に死ねということだった。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper40.htm

一方、主陣地のあった地域を見ると、佐真下のジルーヒジャグワーガマには日本軍が入ってきて、少尉が日本刀を振りかざし、「米軍の捕虜は絶対に許さない。捕虜となる者はこの刀で切り殺す」と住民を脅した。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

 本島中部の状況を見ると、日本軍がいなかったり、すぐにいなくなった地域では、米軍にすみやかに占領され、住民は集団で投降して助かり犠牲者が少なかったケースが多い。その際に移民帰りが投降を指導した場合がいくつか見られる。一方、日本軍陣地があり、軍民が混在していた地域では、集団で投降することは許されなかった。そのため米軍が接近し砲火のなかを南部に逃げ、そのなかで多くの犠牲者を出した。壕に残っていると、日本軍と一緒ならば米軍の攻撃を受けて犠牲になり、あるいはスパイ視されて日本軍に殺された。ただ南部という逃げ場が残されていたので「集団自決」にはいたらなかったと見られる。(同上)

以上により、降伏は許さない、という強い圧力を皇軍がかけ続けたのは事実だ。