ネット右翼とは

北田暁大氏の分析によれば、次のようなものであるとのこと。

1. 中高年層に代表される守旧的な保守主義とは違うものであり

2. 「無謬の正義の立場」に立っているかのような語り口を拒絶する、そのように見えるだけで×という意味での形式主義的・否定神学的な、「反サヨク」「反シミン」的感性と

3. 「あえて」サヨク・シミン的なものを否定し続けることで(積極的に右翼思想にコミットするというよりは、「『右』の敵(=「左」)」の敵を演じることで)共同性を得られたかるのように思えてしまうようなロマン主義的シニシズム

http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050720#p1

 彼らは共同性を頼みにしている人たちである。「自分の意見」に自信を持っている人ではない。とすると議論しても無駄ということにはなりますが。・・・

一人十殺

 軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十殺」という言葉を「沖縄県民の決戦合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四五年一月二十七日)。(林博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm

 民間人が竹槍かなんかで重火器で武装した米兵を一人だって殺せるわけがなかろう。そう言うことを言って住民を叱咤しながら自分だけは生きのび、戦後素知らぬ顔で生きのびた奴ら。そういう人は60年経っても憎悪に値すると思う。違うかね?(こうしたスローガンを表明して恥じない奴らって今でもいる。)

価値の根拠はある

しかしマルクス主義に続いて、丸山的な市民社会主義も捨ててしまうとすれば、日本に生きる批判的知識人が、最後に拠って立てるような「批判」のための理論的基盤がなくなる。西欧産の「国民国家」イデオロギーに汚染されていない日本に固有のアイデンティティを探求し始めれば、自由主義史観と変わらなくなる。

(P237仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』)

日本に固有のアイデンティティなんて、探求したって他国人には通用しないのだから一文の価値もないよね。ただ、それほど厳密に考えなければ、日本の伝統の中に理論的基盤の<根源>を求めることはできる。例えば「終戦の詔勅」の「皇祖皇宗の遺範」でもよい。天皇中心主義は本来、儒教*1や朱子学*2と基本的に違ったものではない。北畠親房や儒家神道だけではない。*3したがって、「皇祖皇宗の遺範」というのも朱子学で言う「理」に近いものと受け取って良いのだ。

ただ可笑しかったのは、天皇裕仁が退位しなかったこと。そのせいで日本は価値の根源が不明になった。最近のプチウヨはサイパンの崖の上から何回でも飛び降りますと、永劫回帰主義者になりかっこいいが、大衆は誰も付いてこないと思うぞ。

*1:<天>が中心

*2:<理>が中心

*3:例外は宣長と一部の国学者だけだ。国学者でも、鈴木雅之(id:noharra:20050710#p2)のように宋学との親近性が明らかな人もいる。

語り得ないが存在したもの

 その作戦中、私の中隊が、乳飲み子を抱いた三〇歳前後の女の人を捕まえ、お決まりのように輪姦をしました。*1

(p66 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 日本の兵隊はよく女の子を引っ張ってきて強姦してましたね。わしはしていないけれど、女の子の悲鳴がよく聞こえましたな。

(p133 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』isbn:4784505474

戦争(特に中国大陸における)を語るときしばしば出てくるのが、レイプの話である。

 本やサイトでの記事の文章においては、語り手が(本来語り得ないはずのそれを)どのような苦渋に満ちた圧力を突破して<語った>のか、というその内面は一切分からない。ただレイプという事実があったとごろんとそこに記述されているだけだ。

 従軍体験はわたしの父や祖父、親戚の体験である。仮に<じいちゃん-孫>という関係性の中で、じいちゃんが本当はレイプしたとして、そのことは語りうるだろうか。語り得ない。語るべきだとも言えない。

「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中(うち)に在り。(論語・子路編)」

そこでこの「じいちゃん」という言葉をキーワードに、“なかった派”の聖典『ゴーマニズム宣言・戦争論』が生まれるわけである。*2

 過半が反戦平和の立場に立っていたのに、「中国大陸では皇軍はレイプしまわっていたのに、体験者は戦後はそのことに一切口をつぐみ、歴史を偽造しようとしている!」という糾弾は戦後長い間ほとんどなされなかった。おそらく、戦後二〇年ほどは、戦争に行かなかった者はそれだけで行った者より倫理的に劣位にあったのだから、前者の立場から後者のレイプの可能性を指摘糾弾することはためらわれただろう。このようにレイプは語られなかった。しかし「ない」と思われていたわけではない。本当は「まちがいなく、あった」それがリアルに分かるからこそ前者も後者も沈黙していたのだ。

 暗黙の了解に支えられた沈黙が存在した。しかしわたしたち子ども(あるいは孫)の世代になると、そうした微妙なものは時代を超えて伝えることができない。沈黙は「レイプは存在しなかったはずだ」「例えあったとしてもそれはどんなことがあっても否認しなければならないことだ」と理解されるに至る。

 

 レイプは糾弾されるべきだ。しかしそのとき自らを倫理的高みに置きその位置から裁断することはしてはいけない。わたしはむしろ金の力で徴兵逃れをしたはずべきプチブルの子孫であるだろう。レイプした彼の罪よりも逃れた<わたし>の罪の方が大きい、と宗教者なら言うだろう。戦争体験を<読む>だけのためにわたしたちは自己を父、祖父の代に遡り反転させなければならない。それなしに戦争を理解しうると教えた平和主義者は、戦争を「戦争の悲惨」といううすっぺら概念に平板化してしまった。それをひっくり返すと、戦争のどんな部分も批判できないプチウヨができあがるわけだ。

*1:近藤さんは輪姦に参加していない。

*2:この本は読んだのだがだいぶ前なので不正確かもしれない。

語り得ないものを教える

 レイプだけが語り得ない、というわけではない。隣で戦っていた戦友がふと気付くと死んでいたとか、肉親の破壊された身体を見たといった体験もやはり核心は語り得ない。したがって平和教育というものは本質に矛盾を孕むものだ、と私には思える。あまりに生々しい悲惨は人の目を背けさせることができるだけだが、だからといってそれ以外に何が必要なのか。

 わたしは平和教育を受けたことがない。広島、長崎、沖縄本島に行ったことがない。60年間平和教育のために費やされた努力というものがどういうものかまるで分かっていない人間がこんな発言をするのは許されないことなのでしょうが・・・

ひめゆりの死の上に、戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。

 ひめゆりに限らず、戦没者に対して、「みなさんの犠牲の上に戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。」という言い方がよくされる。

だが、本当だろうか?

 全員が生き延びたシムクガマと「集団自決」で多くの犠牲を出したチビチリガマとを見ればわかるように、チビチリの犠牲者は死ななくてもよかったんだ。なにも死ぬ必要もなかった。もし彼らが生きていれば、平和を築くために働くことができただろう。生き残った者が必死でがんばったからこそ現在があるんだ。「みなさんの死があったから、今日の平和が生まれました」というのはちがう。彼らが戦争で死なずに生きていれば、もっともっといい社会を作り上げることができたにちがいない、と。

チビチリガマに避難していた人々は、事実を教えられていたならば、誰も死なずにすんだはずだった。はっきり言えば、そこで死んだことはなんの意味もないことだった。

ひめゆりの女子生徒たちは、軍とともに南部に撤退し、看護婦としての仕事もないまま壕に隠れ、ついには軍に見捨てられた。第1外科壕の生徒たちは脱出したが、戦火の中で多くが犠牲になり、あるいは「自決」をとげた。第3外科壕では脱出前に米軍に包囲され、投降を拒否したため爆雷をなげられて、ほとんどが犠牲になった。病院壕であれば、表に赤十字の旗と白旗をかかげて、投降の呼びかけにしたがって壕を出ていれば、誰も死なずにすんだ。第1外科壕にしても、脱出といっても地獄に放り出されただけのことにすぎず、同じようにしていれば助かったはずだ。そこでの死に一体なんの意味があったのだろうか。みんな生きることができたのに、捕虜になることを許さないという日本軍の狂気によって犠牲にされたにすぎない。生きていれば、新しい沖縄の建設に若い彼らはきっと貴重な役割をはたしたはずだ。(林 博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/essay02.htm

中国政府が孟子像を贈呈

(7月22日)日本の立命館大学に対し孟子像が中国政府から贈呈された。「立命館」という校名が、孟子の「身を修(おさめ)め、以(も)って命(めい)を立つ」という言葉から取ったものである、事に因むもの。これは、中国政府が外国に贈呈する最初の孟子の彫像であるとのこと。

http://www.china.com.cn/japanese/185601.htm

国務院新聞弁公室の蔡名照副主任の挨拶より

孟子が生きた戦国時代は、動乱の不安定な時代で、年々戦乱が打ち続き、民衆は生活の手立てを失いました。孟子は「済世救民」を己に任じ、仁愛と平和を追求し、社会正義を探求し、「君(きみ)を軽(けい)とし、民(たみ)を貴(き)とする(すなわち君よりも民を第一に考える)」仁政学説を提起しました。そして彼は仁政の理想実現のために奔走し、呼びかけました。彼は20余年の長きにわたり各地を遊説し、貧困のためさすらい歩いても志を変えませんでした。そうすることによって、高尚な人としての節操と、高い精神的境地を表したのでした。

孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という名言があります。この言葉の核心は「和」にあります。中国の伝統文化は一貫して「和」の思想に貫かれています。孔孟以来の大多数の思想家たちもみな、「和をもって貴しとなす」を提唱しています。「和」の思想は、中華民族が普遍的にもっている価値観と追求すべき理想となっていて、今日でも、中国人民の生活、仕事から内政、外交など各方面にわたり、広く、深い影響を及ぼしています。中国人民はこれまでも一貫して、人と人との間の、また国と国との間の誠意ある相互信頼と平等な待遇、平和と友好、礼節ある往来を重んじてきました。

先哲のこうした教えから、私たちが次のような啓発を得ることができます。それは、平和は人と人との交際の最高の境地であり、国際的な往来の最高の境地でもあるということです。

中日両国は一衣帯水の関係にあり、中日の文化は、水と乳のようによく融け合っています。中日両国人民の友好往来は、地理的に優位性を持ち、歴史的にも深い淵源があります。両国が長期的に安定した友好関係を樹立することは、両国人民の共通の願いと根本的利益にかなうばかりではなく、アジアと世界の平和と発展にとって有利であります。

 儒教の中でも「人民の為の」を最も強調するのが孟子です。だからといって、少し前までは中国政府が儒教を肯定することはなかったのに中国も変わったものだ。*1

 「中日両国は一衣帯水」というフレーズはかって大東亜共栄圏建設時に日本側が高唱したスローガンだ。中日の間に存在する国境という高い障壁を低くしてしまえば、当時優勢だった日本の国力が(具体的には軍隊が)中国国内になだれ込むことができる、という情勢において唱えられ、そのプランどおり日本軍は大陸になだれ込んで行った。現在は全く情況が違う。安くて優秀な中国製品の日本へのなだれ込みはすでに起こっている。中日の間に高い障壁はすでに無い。しかし小泉首相を中心とした勢力はA級戦犯を祀った靖国神社に参拝し、軍国主義化への道を歩もうとしている。先日の反日デモにより一定の歯止めは掛けられた(ようだが)予断は許さない。そこで孟子を先頭に立てて「文化攻勢」に取り組んできているわけだ。

 そう考えると上記の文章は興味深い。「和をもって貴しとなす」に攻撃のポイントを絞っている点が鋭い。というのは、儒教、仏教など日本のハイカルチャーはすべて中国からきたものだ*2。しかし、右翼ナルシストはそれを認めたくないので、聖徳太子*3を、日本の独自性の原点として押し立てる。その中心が「和をもって貴しとなす」である。皇国史観のとき高唱された楠正成等々の人物は戦後凋落してしまい、再アイドル化はすぐには難しそうである。その点聖徳太子は戦後も一貫して高い人気を誇っている。わたしを含めた従来の左翼は、「和をもって貴しとなす」に対し、普遍性*4への参照を欠いた平板な共同体至上主義として批判的に捉えていた。今回の中国政府の見解は、肯定的に捉え、なおかつそれを“日本的なものではなく儒教的なもの”とする点で、論壇に対する新しい介入であり得ている。

 1945年8月の敗戦はある人によって*5革命と呼ばれた。靖国論争や沖縄戦をめぐる議論の根拠にも、815の断絶*6をどう捉えるかという問題がある。これはもちろん国民一人一人に問われているのだ。

 革命は「万世一系」の対立語として使用すること。このような「革命」という言葉は勿論フランス革命やロシア革命と無関係だ。むしろ孟子の「革命」説として江戸時代を通じて論じられたものだ。*7

 中国政府は数千年の文の国としての歴史を賭けて、文化攻勢に討って出来てきているようだ。扶桑社などひとたまりもない??

*1:「2002年師走の新聞紙上に、「孔子精神中国で再興」との大きな見出しが掲げられた。記事は北京の人民大学で11月30日「孔子研究院」の創立式典があったこと、最近の中国で経済発展とともに「中華民族」が強調され、「中華文化の復興」が唱われていることを報じたものだった。ちなみに、人民大学のキャンパスには高さ3メートル半もの孔子像が建てられたという。」p3森紀子『転換期における中国儒教運動』isbn:4876986479

*2:仏教の場合は経由だが

*3:イエスを思わせるその名も厩戸うまやど

*4:「天」や「道」や「理」

*5:宮沢俊義

*6:あるいは連続

*7:野口武彦氏の本があるが未読。

軍部悪玉論

 我々はそろそろ軍部だけを悪玉に据える歴史認識から自由になるべきだろう。国を戦争に駆り立てるのは、一部の軍人なんかじゃない。分かりやすい物語と解決を求める、想像力のない国民なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050730/p1

おっしゃるとおりだと思う。

 先日こどもたちが今後使う(かもしれない)教科書の展示会があって(暇でもないのに?)見に行って扶桑社の教科書も見ることは見たが、時間がなくそれほどよく読めなかった。「軍部だけを悪玉に据える歴史認識」を扶桑社とかが攻撃しているということらしい。だけど歴史家の間では、「軍部だけを悪玉に据える歴史認識」が大手を振るったということは今までなかったのではないか。極限的には、沖縄において住民自決を先導した部落の指導部などがそうなるわけだが、一般大衆の中にも多くの戦争体制への協力を強制する積極分子がいた。そうした人たちへの責任追及はあまりなされなかった。狭い地域社会の中で血で血を洗うようなことに成らなかったという言う面ではその方が良かったのかもしれない。しかし実際に追及され、裁かれたのは、軍、政府首脳のごく一部だけである。裁きを免れた岸信介以下の首脳たちの責任は追及されるべきだった。それだけでなく、一般大衆と軍、政府首脳の中間者、マスコミやイデオローグ、官僚、軍需産業首脳といった人たちへの追及も、なされるべきだっただろう。*1

 話がそれた。*2言いたかったことは、「軍部悪玉論」とは便乗派戦争協力者が自らの罪を軍部(結局は東条)になすりつける為のものだったと。そうすると最近の左翼的教科書とかは何の関係もないのでは、ということ。

 ところでまた話を外らすと、天皇の戦争責任論というのも、便乗派とか殺されないためにしかたなかった(左翼の)戦争協力者が自らの罪を天皇制になすりつける為のものだった、と言えないことはない。*3仮にそうだとしても、何度も言うように、“ヒロヒトかそれとも東条”に戦争責任が無ければ誰にも無くなってしまう。小泉の靖国参拝は東条無罪論であり、責任はなかった論である。「罪を憎んで人を憎まず」と言ったが、「罪」とは何か明言されておらず、罪を確定する意志はないと認められる。

「悪玉はAだ」というのは短慮だ、というのは常に一理ある。しかしそれを反復しているうちに、(例えば肉親が無惨に死んでいったそうした戦争を起こし、さっさと止めなかった)責任者に対する憎悪にもとずく責任追及というパトスが薄れてしまい、「悪玉」を存在させなければならないとする当為が希薄になってしまう。

 平和、平和と唱えるだけなら誰も傷つかない。しかもそれで効果がある(平和が得られる)ならそれが最上である。しかしながらそれだけではどうも収まりそうもない。

 真夏の真昼、私たちはカンテラを灯して「悪玉」を探している。

*1:文学者に対する戦争責任追及は為された。しかし追及の主体(転向左翼)が自らの便乗表現には目をつぶって、よりひどい人を追及したというものだったので迫力はなかった。参考:1956年、吉本隆明と武井昭夫の共著『文学者の戦争責任』

*2:どうもわたしの文はそれてばかり。

*3:?