命令の有無が問題なのではなかろう。

林 博史氏のインタビューより。

■「集団自決」に至る背景をどうとらえますか。

「直接だれが命令したかは、それほど大きな問題ではない。住民は『米軍の捕虜になるな』という命令を軍や行政から受けていた。追い詰められ、逃げ場がないなら死ぬしかない、と徹底されている。日本という国家のシステムが、全体として住民にそう思い込ませていた。それを抜きにして、『集団自決』は理解できない。部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう」

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper55.htm

 「ある将校が命令を行った」という命題の是非を問う裁判を提起することは、問題を矮小化しようとする意図があるのではないか。

援護を受けるために嘘をつく

■国から援護を受けるため、軍命による「集団自決」が強調された、との主張について。

「戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)は、軍に協力したものにしか適用されない。軍に食糧を強奪されても『食糧提供』、壕からの追い出されても『壕提供』と申請しなければならない。戦闘協力者しか救済しようといないので、『集団自決』でも軍命令と言わないと、援護の対象としないという考え方だった。政府がそう言うように誘導している。国が始めた戦争を十分に反省しないで、被害者に被害者としてきちっと償わない政府の政策自体が問題であると言わなければならない」

(同上)

日本軍は沖縄住民を殺した

沖縄戦の最大の特徴と言ってよいのが、日本軍によって多くの沖縄住民が殺されたことである。

(略)

米軍に保護されたり食糧をもらった者、米軍に投降しようとした者はスパイだとして殺された。今年になって見つかった新しい資料では、警察や密偵を使って、米軍の占領地区で保護されている住民の動向を密かに探り、米軍に協力している者を見つければ殺せという命令が出されていた。沖縄本島の西にある久米島では、住民しかいないから攻撃しないでくれと米軍に頼み、住民を救った者はスパイとして処刑された。

戦闘の邪魔になるという理由で殺された者も多かった。自然の壕(ガマ)に隠れているとき、赤ん坊などが泣くと米軍に知られるというので小さな子どもたちが殺された。戦場で精神に異常をきたした住民も殺された。壕に隠れていた住民を追い出して兵隊たちがそこに入っていった。(後略)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper57.htm

ネット右翼とは

北田暁大氏の分析によれば、次のようなものであるとのこと。

1. 中高年層に代表される守旧的な保守主義とは違うものであり

2. 「無謬の正義の立場」に立っているかのような語り口を拒絶する、そのように見えるだけで×という意味での形式主義的・否定神学的な、「反サヨク」「反シミン」的感性と

3. 「あえて」サヨク・シミン的なものを否定し続けることで(積極的に右翼思想にコミットするというよりは、「『右』の敵(=「左」)」の敵を演じることで)共同性を得られたかるのように思えてしまうようなロマン主義的シニシズム

http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20050720#p1

 彼らは共同性を頼みにしている人たちである。「自分の意見」に自信を持っている人ではない。とすると議論しても無駄ということにはなりますが。・・・

一人十殺

 軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十殺」という言葉を「沖縄県民の決戦合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四五年一月二十七日)。(林博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm

 民間人が竹槍かなんかで重火器で武装した米兵を一人だって殺せるわけがなかろう。そう言うことを言って住民を叱咤しながら自分だけは生きのび、戦後素知らぬ顔で生きのびた奴ら。そういう人は60年経っても憎悪に値すると思う。違うかね?(こうしたスローガンを表明して恥じない奴らって今でもいる。)

価値の根拠はある

しかしマルクス主義に続いて、丸山的な市民社会主義も捨ててしまうとすれば、日本に生きる批判的知識人が、最後に拠って立てるような「批判」のための理論的基盤がなくなる。西欧産の「国民国家」イデオロギーに汚染されていない日本に固有のアイデンティティを探求し始めれば、自由主義史観と変わらなくなる。

(P237仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』)

日本に固有のアイデンティティなんて、探求したって他国人には通用しないのだから一文の価値もないよね。ただ、それほど厳密に考えなければ、日本の伝統の中に理論的基盤の<根源>を求めることはできる。例えば「終戦の詔勅」の「皇祖皇宗の遺範」でもよい。天皇中心主義は本来、儒教*1や朱子学*2と基本的に違ったものではない。北畠親房や儒家神道だけではない。*3したがって、「皇祖皇宗の遺範」というのも朱子学で言う「理」に近いものと受け取って良いのだ。

ただ可笑しかったのは、天皇裕仁が退位しなかったこと。そのせいで日本は価値の根源が不明になった。最近のプチウヨはサイパンの崖の上から何回でも飛び降りますと、永劫回帰主義者になりかっこいいが、大衆は誰も付いてこないと思うぞ。

*1:<天>が中心

*2:<理>が中心

*3:例外は宣長と一部の国学者だけだ。国学者でも、鈴木雅之(id:noharra:20050710#p2)のように宋学との親近性が明らかな人もいる。

語り得ないが存在したもの

 その作戦中、私の中隊が、乳飲み子を抱いた三〇歳前後の女の人を捕まえ、お決まりのように輪姦をしました。*1

(p66 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 日本の兵隊はよく女の子を引っ張ってきて強姦してましたね。わしはしていないけれど、女の子の悲鳴がよく聞こえましたな。

(p133 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』isbn:4784505474

戦争(特に中国大陸における)を語るときしばしば出てくるのが、レイプの話である。

 本やサイトでの記事の文章においては、語り手が(本来語り得ないはずのそれを)どのような苦渋に満ちた圧力を突破して<語った>のか、というその内面は一切分からない。ただレイプという事実があったとごろんとそこに記述されているだけだ。

 従軍体験はわたしの父や祖父、親戚の体験である。仮に<じいちゃん-孫>という関係性の中で、じいちゃんが本当はレイプしたとして、そのことは語りうるだろうか。語り得ない。語るべきだとも言えない。

「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中(うち)に在り。(論語・子路編)」

そこでこの「じいちゃん」という言葉をキーワードに、“なかった派”の聖典『ゴーマニズム宣言・戦争論』が生まれるわけである。*2

 過半が反戦平和の立場に立っていたのに、「中国大陸では皇軍はレイプしまわっていたのに、体験者は戦後はそのことに一切口をつぐみ、歴史を偽造しようとしている!」という糾弾は戦後長い間ほとんどなされなかった。おそらく、戦後二〇年ほどは、戦争に行かなかった者はそれだけで行った者より倫理的に劣位にあったのだから、前者の立場から後者のレイプの可能性を指摘糾弾することはためらわれただろう。このようにレイプは語られなかった。しかし「ない」と思われていたわけではない。本当は「まちがいなく、あった」それがリアルに分かるからこそ前者も後者も沈黙していたのだ。

 暗黙の了解に支えられた沈黙が存在した。しかしわたしたち子ども(あるいは孫)の世代になると、そうした微妙なものは時代を超えて伝えることができない。沈黙は「レイプは存在しなかったはずだ」「例えあったとしてもそれはどんなことがあっても否認しなければならないことだ」と理解されるに至る。

 

 レイプは糾弾されるべきだ。しかしそのとき自らを倫理的高みに置きその位置から裁断することはしてはいけない。わたしはむしろ金の力で徴兵逃れをしたはずべきプチブルの子孫であるだろう。レイプした彼の罪よりも逃れた<わたし>の罪の方が大きい、と宗教者なら言うだろう。戦争体験を<読む>だけのためにわたしたちは自己を父、祖父の代に遡り反転させなければならない。それなしに戦争を理解しうると教えた平和主義者は、戦争を「戦争の悲惨」といううすっぺら概念に平板化してしまった。それをひっくり返すと、戦争のどんな部分も批判できないプチウヨができあがるわけだ。

*1:近藤さんは輪姦に参加していない。

*2:この本は読んだのだがだいぶ前なので不正確かもしれない。

語り得ないものを教える

 レイプだけが語り得ない、というわけではない。隣で戦っていた戦友がふと気付くと死んでいたとか、肉親の破壊された身体を見たといった体験もやはり核心は語り得ない。したがって平和教育というものは本質に矛盾を孕むものだ、と私には思える。あまりに生々しい悲惨は人の目を背けさせることができるだけだが、だからといってそれ以外に何が必要なのか。

 わたしは平和教育を受けたことがない。広島、長崎、沖縄本島に行ったことがない。60年間平和教育のために費やされた努力というものがどういうものかまるで分かっていない人間がこんな発言をするのは許されないことなのでしょうが・・・

ひめゆりの死の上に、戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。

 ひめゆりに限らず、戦没者に対して、「みなさんの犠牲の上に戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。」という言い方がよくされる。

だが、本当だろうか?

 全員が生き延びたシムクガマと「集団自決」で多くの犠牲を出したチビチリガマとを見ればわかるように、チビチリの犠牲者は死ななくてもよかったんだ。なにも死ぬ必要もなかった。もし彼らが生きていれば、平和を築くために働くことができただろう。生き残った者が必死でがんばったからこそ現在があるんだ。「みなさんの死があったから、今日の平和が生まれました」というのはちがう。彼らが戦争で死なずに生きていれば、もっともっといい社会を作り上げることができたにちがいない、と。

チビチリガマに避難していた人々は、事実を教えられていたならば、誰も死なずにすんだはずだった。はっきり言えば、そこで死んだことはなんの意味もないことだった。

ひめゆりの女子生徒たちは、軍とともに南部に撤退し、看護婦としての仕事もないまま壕に隠れ、ついには軍に見捨てられた。第1外科壕の生徒たちは脱出したが、戦火の中で多くが犠牲になり、あるいは「自決」をとげた。第3外科壕では脱出前に米軍に包囲され、投降を拒否したため爆雷をなげられて、ほとんどが犠牲になった。病院壕であれば、表に赤十字の旗と白旗をかかげて、投降の呼びかけにしたがって壕を出ていれば、誰も死なずにすんだ。第1外科壕にしても、脱出といっても地獄に放り出されただけのことにすぎず、同じようにしていれば助かったはずだ。そこでの死に一体なんの意味があったのだろうか。みんな生きることができたのに、捕虜になることを許さないという日本軍の狂気によって犠牲にされたにすぎない。生きていれば、新しい沖縄の建設に若い彼らはきっと貴重な役割をはたしたはずだ。(林 博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/essay02.htm