刊行リスト

  1. 松下 昇(についての)批評集 α篇1(88年5月)
  2. 松下 昇(についての)批評集 α篇2(89年6月)
  3. 松下 昇(についての)批評集 α篇3(95年6月)
  4.  ~        …α系は国家による批評 
  5. 松下 昇(についての)批評集 β篇1(87年9月)
  6. 松下 昇(についての)批評集 β篇1更新版(94年9月)
  7. 松下 昇(についての)批評集 β篇2(88年9月)
  8. 松下 昇(についての)批評集 β篇2更新版(94年9月)
  9. 松下 昇(についての)批評集 β篇3(94年9月)
  10. 松下 昇(についての)批評集 β篇4(94年9月)
  11.  ~        …β系はマスコミによる批評 
  12. 松下 昇(についての)批評集 γ篇1(87年11月)
  13. 松下 昇(についての)批評集 γ篇2(87年11月)
  14. 松下 昇(についての)批評集 γ篇3(87年11月)
  15. 松下 昇(についての)批評集 γ篇4(88年3月)
  16. 松下 昇(についての)批評集 γ篇5(88年11月)
  17. 松下 昇(についての)批評集 γ篇6(93年9月)
  18. 松下 昇(についての)批評集 γ篇7(93年9月)
  19.  ~        …γ系は個人による批評 
  20. 表現集1(88年8月)(註1)
  21. 表現集2(88年12月)
  22. 表現集3(94年4月)
  23.  ~        
  24. 発言集1(88年9月)
  25. 発言集2(88年12月)
  26. 発言集3(94年5月)
  27.  ~        
  28. 神戸大学闘争史 -年表と写真集-(89年5月)
  29.        〃        (その後さらに更新中)
  30. 神戸大学闘争史 -別冊1(93年4月)
  31. 神戸大学闘争史 -別冊2(93年4月)
  32.  ~        
  33. {3・24}証言集 上(89年12月)
  34. {3・24}証言集 下(90年1月)
  35.  ~        
  36. 菅谷規矩雄追悼集(90年10月)
  37.  ~        
  38. 救援通信最終号(91年5月)
  39.  ~        
  40. <6・20討論の記録-不確定な断面からの出立->(91年10月)
  41.  ~        
  42. 正本<ドイツ語の本>(77年9月)
  43. 五月三日の会通信1~26(70年7月~81年12月)
  44. 訂正リスト(93年5月)
  45. 時の楔-< >語に関する資料集-(78年10月)
  46. 時の楔への/からの通信(87年9月)
  47. 時の楔通信<0>~<15>~号(78年10月~86年7月~)、
  48. 訂正リスト(93年5月)
  49. 概念集1 (89年1月)
  50. 概念集2 (89年9月)
  51. 概念集3 (90年5月)
  52. 概念集4 (91年1月)
  53. 概念集5 (91年7月)
  54. 概念集6 (92年1月)
  55. 概念集7 (92年3月)
  56. 概念集8(92年11月)
  57. 概念集9 (93年11月)
  58. 概念集10(94年3月)
  59. 概念集11(94年12月)
  60. 概念集12(95年3月)
  61. 概念集 別冊1-オウム情況論-(95年10月)
  62. 概念集 別冊2-ラセン情況論-(96年5月)
  63.  ~ 
  64. 概念集シリーズへの索引と註(96年1月)
  65. 概念集シリーズへの補充資料(96年1月)
  66. 序文とあとがきから見た既刊パンフのリスト
  67.        〃            2
  68.  ~ 

闘@争 あるいは妄想戦士ルサンチマン

争とは何か? Panzaさんの造語のようである。@(主体の位置を示す)がたまたま闘争のなかに居ることを示している、ということか。

★妄想が闘争を支えている。

★妄想とは「夢を中核として鍛え上げた闘争に向けた言葉」

http://d.hatena.ne.jp/Panza/20051126/p1

 妄想という言葉に躓き、彼女は辞書を引く。「正しくない想念。みだりな思い。」である。想念というものは思想や理念に比べればとりとめのないものである。したがって「正しい/正しくない」という弁別以前の領域にたゆたっているのがむしろ普通である。であるのになぜ妄想に限って「正しくない」と言われるのか。おそらく妄想というのは〈平気ではみ出してくる〉という性格を持っているからであろう。

 「「妄」という字の構成も「亡き女」「亡んだ女」である。」「妄」という一つの字を通してわたしたちは、東アジア数千年の文化、歴史が女性差別的に構成されたものであることを知ってしまう。

もし現実に嬲られたら絶対やり返す。でも相手が漢字では怒っても怒りの向け先がはっきりしない。言葉をはじめ表象物のほうが恐ろしい。

ひとつひとつは些細でも降り積もれば人を厭世観の固まりにしてしまう。

(同上)

 わたしたちは文化総体の歪みから自由になることはできない。しかし文化とは何か。個々のパーツの歪みを周到にまとめ上げ、普遍とか国家の同一性の勝利を結論するシステムが文化なのか。であるとすれば、ぶさいくな肉体でありたゆたう想念である〈わたし〉は、文化総体の歪みから自由であることしかできない。とも言えるのではないか。

相手がどれほどの権威であってもワタシ一人の骨の髄からの感覚を信じることが大事。

嫌なことから逃げたって逃げ切れるものではない。

これからは嫌な言葉は分解して別のものにしてしまおう。(同上)

たぶん、骨の髄からの感覚もやはり、小さな小さな闘いの持続を通して生まれてくるものだと思う。

笙野頼子さんとPanzaさんガンバレ!

私も何かしら自分の出来る事で闘うぞぉ(^○^)

というわけでわたしも声援に声を合わせよう。

NIFTY-Serve 現代思想フォーラム名誉毀損事件裁判 判例

●東京地裁判決(1997.5.26)

http://pie-net.jp/shiryo/saiban/1shin.html

http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/juris/tdcj-h9-5-26.htm

●東京高裁判決(確定)

現代思想フォーラム事件 東京高裁平成13年9月5日判決

http://www.netlaw.co.jp/hanrei/gendaishisouforum_130905.html

       主   文

1 控訴人Aの控訴を棄却する。

2 原判決中,控訴人B及び控訴人ニフティの各敗訴部分を取り消す。

上記各取消部分に係る被控訴人の控訴人B及び控訴人ニフティに対する請求をいずれも棄却する。

3 被控訴人の附帯控訴をいずれも棄却する。

4 訴訟費用は,控訴人Aと被控訴人との間においては,控訴費用及び附帯控訴費用をそれぞれ各自の負担とし,控訴人B及び控訴人ニフティと被控訴人との間においては,第1,2審を通じて,被控訴人の負担とする。

(5)当裁判所の判断

 当裁判所は,控訴人Aの本件発言(一)から(五)までのうち,一部は名誉毀損又は侮辱に当たると認めたが,脅迫に当たる発言があるとは認めず,控訴人Aに対し原審の認容額と同じ50万円(但し,慰謝料40万円,弁護士費用10万円)及び平成9年5月27日から完済まで年5分の割合による遅延損害金の支払を命じる限度で相当であるものの,その余の部分及び謝罪広告請求は失当で,控訴人B及び控訴人ニフティについては,発言削除義務違反等の責任は認められず,損害賠償の責は負わないと判断した。

つまり、控訴人Aは負けましたが、控訴人B及び控訴人ニフティは負けていません。

AとはLEE THE SHOGUNさん  被控訴人はCookieさん。

従軍慰安婦・朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html

〔朴永心被害証人ビデオ証言]

--どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。

朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

--「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

--その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

--ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

--捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

黄検事

今ビデオ証言をした朴永心さんがこの会場においでです。朴永心さんです。

〔拍手〕

(p65-67 同書 2000.12.8つまり法廷一日目の記録より)

【第2文】Government is a sacred trust of the people,

政府は人民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

 原文、国民とあったが人民と変えた。the people というありきたりのことばに対し、国民はあくまで国家あっての国民という語感が強くするので嫌だ。大東亜戦争の終結自体、「国体の護持」を護持するという意志において行われたものである。したがってこのpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だろう。

the peopleというものはいまだなかったのにそれがあるかのように文章が成立しているのがおかしい。いやそんなことはないか。国民は立派に存在した。いまだ方向性は明確ではないものの訓育程度の高さを誇る日本国民というものはあった。国家は国民の権威によるという思想もあった。

 でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。そもそも憲法とは国民を成立させるための文章だろう。であれば国民という言葉を使うのは当然だ。問題は敗戦国をどういう論理で否定するか、にある。「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」ととらえてそれを否定した。それがおかしいわけでもなかろう。問題は、「このpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だ」とするわたしの感じ方にある。

論旨のない文章を書いたのは久しぶり。とりあえずメモしておこう。

労働

とにかく、精神現象学のポイントの一つは労働です。

ルカーチによれば、*1

  1. 労働の対象においては不変な自然の法則性が働いている。労働はその知識、その承認を基礎にしてのみ行われるし、また効果を持ちうる。
  2. そして、対象は労働によって新しい形式を得る。変容し他のものになる。

儒学でも格物致知といいますから、1)は理解していた。だが対象が変化するという把握がなかった。この差は大きい。(べつにヘーゲルのせいで産業資本主義が興ったわけではないが、その流れに棹さしていた。)

マルクスは『経済学・哲学手稿』でこう書いている。

「ヘーゲルは近代国民経済学の立場に立っている。彼は労働を人間の本質として、自己を確証する人間の本質として把握する。」「だがかれは労働の肯定的側面だけを見て、その否定的側面を見ない。労働は、人間が外化の内部で、あるいは外化された人間として向自的になることである。」

そして、私たちをとりまく外界、都市や住居、文化や文明を、人間の活動の総体によって人間の類的諸力が外へ作り出されたもの、と捉えます。人間とは自己とその環境を自己産出するものだ、と。(ヘーゲルは本当にそこまで言っていたのか、という疑問も少し感じるが。)*2マルクス『経済学・哲学手稿』といえば、ほどんど理解してなかったと思うが高校生の頃文庫本で持ち歩いていた思い出がある。1969年*3。<世界は私たちが作ったものだ、だから私たちが革命する>といった論理、というより論理以前の熱(fever)をわたしたちは持って歩いていた。

*1:同書p153

*2:ほとんど初期マルクスなヘーゲルをルカーチからちょっと孫引きしておこう。外化(エントオイセルング)に関わる。「(α)わたしは自分を労働において直接物たらしめる、つまり存在である形式たらしめる。(β)わたしはこのわたしの定在(ダーザイン)をわたしから同様に外化し、それをわたしから疎遠なものにし、そこにおいてわたしを保持する。」同書p168

*3:私の場合は1970年でしたが

<決裂>にわたしの本源はある

 私は存在する--わたしのまわりには空虚がひろがり、現実の世界の暗闇がひろがっている--私は存在する、不安のなかで、盲目のままに。*1

「<私は存在する>は必然的に真理だ」とデカルトは言う。それは間違っていないが、どのように存在するかは論証していない。上記のような<暗闇のなかでの存在>にも同等の権利があるのにそんなことに気付きもしない、という著しい偏差を持つ。*2

 私がついに逃げ場を失い、自分の本性をなしているあの決裂を、私が「在るもの」を超越するための場としたあの決裂を認めるに至るのは、まさに私が死につつあるときであろう。生きているかぎり、私は往復運動や妥協で満足することになる。何をどういってみたところで、私が一種族の一個人であることは分かりきっている。そして大ざっぱに見れば、私は万人共通の現実性と協調して生きている。私は、まったき必然性からして在るもの、どのようにしても除去できないものに加担している。「死にゆく自我」はこの協調を捨てるのである。それは、嘘いつわりなしに、自分のまわりにあるものを一個の空虚とみなし、自分自身をこの空虚へのひとつの挑戦とみなすのである。*3

「生きているかぎり、私は往復運動や妥協で満足することになる。<だがわたしは満足したくない>」“現実”というものがあってそれはわたしがそこに属するべきものだ、そうしなければ生きていけないことは分かっているが、その論理を自明のものとしてその上で生きていくのは嫌だ、出来ない!という悲鳴。それを力強く言表してくれる思想家。全共闘時代の直後バタイユは日本の若者に非常に人気があったが、難解さ訳の分からなさ*4を乗り越えて、どこに共感していたのかといえば、そうしたところだったのだろう。

わたしというものは<決裂>、かいま見るだけでも大きな衝撃を受けてしまうそうした危険な超越とともに存在する。将に存在/未存在する。だからといって“現実”というものが、社会人になるのを怖がる大学生にとってのように平板に否定されるべきものとは限らない。わたしの内に<決裂>があるのなら、その外側“現実”の方にも<決裂>があると考えることもできるはずだ。だがそれはバタイユの道ではない。バタイユは雄々しくもわたし(自我)だけに立脚し考え続けるのだ。

<決裂>が否定しがたいのは、「まさにわたしが死につつある」ときだ。それはそうかもしれないが、でも死の直前に何かを視たとしてもすぐ死んじゃったら無意味でしょ、と俗人は考えるがバタイユはその一点に執拗に関わり考え続ける。この持続力はすごい、私も学びたいものだ。

*1:p160バタイユ『内的体験』現代思潮社版

*2:永井均存在論はこの偏差の上で偏差を丁寧に展開したものであり冗談ぽい。?

*3:p165 同書

*4:その原因の過半は、翻訳者と本人の力量不足にあると酒井健氏は言っている。

誤情報の流布(5/2 20時7分追加)

誤情報の流布に加担してしまった。反省しおわびします。

(1)あるMLで、5/1 20時40分に流れたもの。

イラクでの米軍による虐待・性虐待の画像が公開されています。かなり酷いものです。

http://www.albasrah.net/images/iraqi-pow/iraqi-pow

(2)上記を5/2朝8時頃このダイアリーに貼る。野原はその後外出。

(3)同じMLで、どすのメッキーさんからの下記の指摘有り。(9時25分)

「 虐待は事実ですが、映像は、誤情報が流布されているようです。 上記は、最近のイラク情勢とは関係のない、レイプ画像は軍服を着て撮ったポルノサイトの写真で、軍服がイラク駐留米軍のものではない、日付がおかしいとの指摘がされているようです。」

(4)野原帰宅後上記メールを読み、日記の記事に

「誤り情報が混じっているとの指摘あり。」という文言を追加。19時ごろ。

(5)「イラク人への米英兵による虐待(訂正後)(5/2 19時43分)」

に差し替える。

他に、下記掲示板も参考にした。

http://awn.ath.cx/cgi/bbs2/light.cgi

(6)「訂正前」の野原発言の結論は下記。

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、わざわざイラクへ行って確認したらこういうものだった、ということで帰ってきたらよかろう。”

この文章を訂正するとすれば、

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、イラク戦争に続く占領については少なくとも現在イラク人の為のものにはなっていないようだ。日本の自衛隊はわざわざイラクへ行っているのだから、ファルージャにおける市民への攻撃の無法性や監獄での虐待の真相を早急に確認してほしい。それらが実際「イラク人のため」という目的によって合理化できるものかどうか?できないなら直ちに帰ってきたらよかろう。”