白粉=残余

拉孟(ラモウ)というのがどこにあるのか皆目分からないのだが、古山高麗雄の三部作(断作戦・龍陵会戦・フーコン戦記)の舞台になったエリアだろう。慰安婦が出てくるシーンを引用したいが今出てこないので代わりにちょっとだけ。

それに板垣さんは、経理の上級将校であったから、女性の衣装や白粉などを提供してくれたのだった。それは、朝鮮から拉致して来て慰安婦にした女性たちに給すべく用意したものの残余であったもののようだった。

(p366『龍陵会戦』文春文庫isbn:4167291053

慰安婦のことは中曽根さんのような経理の上級将校が良く知っているのだ、ということの傍証にもなる。(1/28追加)

「その慰安所は軍が経営していたのか?」という問いもまだアクチュアルである。この慰安所は軍が直営していたに限りなく近いものだったようだ。

日本国民の手で裁ければよかった

参考:戦犯法廷問題では「悪役」*1になっている 秦郁彦さんですが、歴史家ですからちゃんとしたことも言っていました。

第二次世界大戦で日本の戦死者は中国での戦場をのぞくと約150万人。そのうち、約7割は餓死、または栄養失調の結果、病気を併発するというものだった。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050210#hata

そういう作戦を遂行したのが東条英機を始めとする陸軍首脳部だった。(略)

そんな人間たちの責任は本来なら日本国民の手で裁ければよかったが、戦勝国による裁判で開戦責任の問題だけ追求され、しこりが残ったと。(同上)

(2/12追加)

*1:vaww-net側から見てかな?野原は番組改悪問題は直接は論じてませんね。

niftyserveのFSHISO

 わたしは9年半ほど前、ニフティサーブでパソコン通信をはじめた。Fポエムというフォーラムに顔を出したりもしたが、FSHISO(現代思想フォーラム)というところを読んでたまに書き込みもしていた。3月末で終焉ということで今日訪ねてみたら今日が書き込みの最終日だったので試しにやってみたら書き込めた。あと過去ログ倉庫というところからだいぶダウンロードした。ダウンロードできないものあるのは何故だろう。

 Fshisoというところは、論争的口調自体を抑圧する傾向のある日本社会では例外的に、かなり攻撃的論争的論客のあり方がデフォルトであるといった独自の文化を持ったフォーラムだった。有名な訴訟事件を抱えながら、なお「反省せず」その文化を守っていたのは偉いと思うのだ・・・

 最初期の非常に初々しい文章の一節を引いておきます。マークさんという方の文章。

このHPでは、その線に沿って試行錯誤してゆきたいと思います。まだまだ参加者は少ないですが、ここでどんなことを語り合いたいか、皆さんから提起されるテーマがあればお聞かせ下さい。当面、自由に各自の問題意識を書いて頂いてからこのHPとしての討論テーマを決めたいと思います。

「FSHISO 哲学室 Vol.1 90/02」というログより

http://forum.nifty.com/fshiso/ <現代思想フォーラム>FSHISO

<公開の場で、わたしとあなたが対等に対話を交わすことにより何かを作っていくことができる>という<希望と緊張感>!!

それはその当時全然珍しいものではなかった(と思う)。

  わたしはいまでもそうした希望を大事にしたいと思っています。

国体護持とは?

 西武=堤家の国友会のニュースと、ニッポン放送の社員一同の声明文のニュースを続けて聞くと、あの<<国体護持>>*1ってのもそんなもんだったにすぎなかったのでは? とおもいますよね。

参考:

ニッポン放送の社員は全員「社員一同」が、ライブドアの経営参画反対だそうだ。

社員が全員反対論もなく意見が一致するなんてことはありえない。

つまり、ニッポン放送では、社員が自由な意見を発表できないってことだよね。

こういう企業には自由な空気がないのだから、マスコミとしてはふさわしくない。

http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20050303#p2

「国友会」について

http://diary.jp.aol.com/applet/druhcfrzcms/20041105/archive

*1:百万以上の日本人がそのために死んだ

本居宣長の神(迦微)概念(その2)

 まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すじなり、然るに此の道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失えり、(略)

異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、(略)

まづ第一に、この世の中の惣体(そうたい)の道理をよく心得おくべし、その道理とは、この天地も諸神も万物も、みなことごとく其の本は、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出(なりいで)来たる物にして、(略)されば神代のはじめに、伊邪那岐、伊邪那美二柱大御神の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給えるも、其の本は皆、かの二神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によれるものなり、

抑この産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどということは、さらに人の知恵を以て、測り識(し)るべきところにあらず、(略)

さて、イザナギ神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、ヨミの国まで慕い行かせたまひしが、この顕国(うつしくに)にかへらせたまひて、そのヨミの国の穢悪(えあく)に触れ給えるを清め給ふとして、筑紫の橘の小門(をど)のあはぎ原に御禊ぎし給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神成り出ましまして、御父大御神の御事依(よさ)しによりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)すなり、

天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即ち今此の世を照らしまします、天津日の御事*1ぞかし、

さて疲れてきたので、もう少しくだけて写すことにする。

天照大御神は皇孫尊(すめみまのみこと)に葦原中国(なかつくに)をしろしめせとありて、天上より此の土へ下し奉りたまふ、

そのときに、大御神の勅命に、「あまつひつぎは あめつちの むたときはかきはにさかえまさむ」とありし、この勅命はこれ、道の根大本なり、

勅命をひらがなだけで書いたので何のことか分からないでしょうが、要はあまつひつぎ(天皇のことだろう)に此の世の総てはまかせるぞ!みたいな意味なんでしょう。

以上「玉くしげ」本居宣長*2の最初のところからでした。

かなり長く引用したが、これが宣長によって再編された神道なるものの核心部分だ(と思う)からです。

 それまでの日本では華夷秩序的な世界像が普通でした。世界の中心に中国がありそこから周辺へ向けて段々文化、秩序が緩んでいくといった世界像です。江戸時代の中ごろから(明滅亡以後)は中国ではなく日本を真ん中に置くこともありましたが世界像の形は同じです。ところが宣長の場合は全く違います。世界は「まことの道」というものが普遍的に支配しているのだと宣言してしまう。でそれが神道なわけですから、これをまともに信じたら大東亜戦争期のように(いまでいう)海外に神社をいっぱいいっぱい作り続けるしかなくなる、わけですね。

  1. 万物は産霊(むすび)の神の産霊(むすび)の力によって生成した。
  2. 太陽でもある天照大御神が高天原を支配する。
  3. 此の世の総てはあまつひつぎが支配する。

という構造ですね。

前回と対比的に取り上げたのは、前回は、尋常でないすぐれたる徳があるものは神だ、ということで「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもあり」、となんでも善かったのですが、今回は全くニュアンスがちがうなあ~と*3

 この宣長の二つの部分を引用しようと決めたのは、教育委員会に君が代のことを聞いてつらつら考えたからでした。君が代の内容に意味があるわけではない、国歌だから認めて欲しいという低いレベルのお願いと、それほど遠くない過去にあった「生きて俘虜の辱めを受けず」的総動員体制との間にはちょっと同一化しかねるほどの落差があります。

 ところが、この宣長の二つの神の定義の間にも、同一化しかねるほどの落差があるわけです。

ということはこの四つはやはり国家神道的なものということで同一化して理解して良いのかもしれないですね。

ということが言いたかったのでした。(うーん苦労した割には?)

それと愛国心などをナショナリズムという範疇で語るべきなのかどうか。宣長の神道的なものなら、自国の論理で世界を支配できるとするものなのでちょっとどこからみても駄目だろうということにしかなりません。

*1:太陽のこと

*2:1786年

*3:前回は古事記伝巻三、1767年くらいなので、二〇年ほどは違いがある。とは言っても、この差異は同じ物の両面とみたい

公、天皇、国家に献身する精神

4/6の朝日新聞では「つくる会」教科書を特集している。

(扶桑社の歴史・公民の教科書)両分野を貫く形で強調されたのは、公、天皇、国家に献身する精神である。

歴史では武士道の忠義の観念に光を当て、「公のために働くという理念」としてコラムを新設した。武士を「究極的には天皇に仕える立場」と位置づけ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康らが天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調している。

ふーむ。「つくる会」教科書というのは、水戸学派のイデオロギーによって歴史を語るものなのだ。でも待てよ、尊氏は「廃主の命を奉じて、叛臣の名を免れ、光明院を擁立して以て正閏の分を乱す」*1人物ではないですか。尊氏について天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調しているのだとすると、大義名分論には反しますね。(水戸学とは何か分かっているわけではないのでまあちょっと書いただけですが。)

 中国では歴史の任務は「善を彰(あら)わし悪を貶(おと)す」ことと考えられていた。したがって歴史を学ぶことにより、いかなる権威や権力にも屈しない勧善懲悪の倫理的立場を理解することができるわけです。尊氏であれ誰であり彼がどの点において善でありどの点において悪であるかが書かれる。事実を直書するという方法により。それを鑑(かがみ)とすることで為政者は治世に資することができる。

 現代日本の右翼はまさにプチウヨであり、倫理とかいう言葉が大好きなようですが倫理という物の根本が分かっていない。天皇、国家なんてものは普遍的なものではない。倫理という限りは普遍的な善とか悪が語れなければ話しにならない。

 もちろん天皇は普遍的なものだ、と主張する神懸かり的な立場も有りうる。というよりも神道は、仏教、儒教という普遍思想との絡み合いのなかで自己を形成してきたので自己を普遍として語ることしかできない。「まことの道は、何れの国までも、同じくただ一すじなり。id:noharra:20050326#p2

 ところが明治になって採用した国民国家は、諸国家のあいだの一員でしかないのであり、多少大きくなって帝国を名のろうが、中国のように自己が世界の中心であると信じることはできない。ここにおいて国家神道を軸にした国家統合は最初から根本的矛盾を孕んでいた、ということが指摘できる。

 でもって現在のプチウヨは、「天皇、国家に献身する精神」などというアプリオリに普遍性を欠いた物を「公」という名前であたかも普遍であるかのように売りつけようとしてくる。

 倫理を欠いた献身などただの奴隷道徳であり、わたしたちはつい60年前に実際に国民全体で実践したではないか。これが分からない奴は馬鹿だ。

*1:安積澹泊「大日本史贊藪 」p177『日本思想体系・近世史論集』

靖国参拝はヒトラーの墓参だ

に賛成。

冷静に言えば、ヒトラーもヒロヒトも東条も民族の英雄(代表者)であったことは間違いない。したがってその死を悼むのは人間的に間違った行為ではない。

しかし、小泉氏の靖国参拝は政治的行為である。戦後日本は「反省」の上に成立した国家であり、自然性、自明性の上にしている国家ではないのだ。ヒトラー(の対応物)との不連続を常に確認した上にしか、国家の根拠はないのだ。日本の外を見ないという窮極の島国根性に安住するのでない限り。*1

ところで、東条は国を護る為に死んだわけではない。戦後日本を成立させるため*2アメリカが首くくったのである。アメリカが論理的に黙認し得ない筈の行為をなぜ黙っていたか。中国韓国と日本の不和がアメリカの国益につながるからである。靖国参拝賛成派の中にはアメリカの工作員が潜んでいることは間違いない、のではあるまいか。

*1:「国を護る」ことの自明性を承認した(としたら)国民の奴隷根性も問われるべきだろいう。

*2:ヒロヒトを免責するため

八木秀次を叩け

事情をよく知らないのですがチョンボがあった様子。

河野美代子さんからのメールの写し。

広島から河野です。

私の裁判に、どうしても必要で、昨日、本屋さんに「新、国民の油断」を買いに行きました。私を中傷した文にこの本からの引用があったので、必要だったのです。彼らの本を買うのはとてもいやなのですが。

あの、パンツをおろした人形の写真や、数々のうそ、でっち上げが書いてある本です。それから、女性学やジェンダーの学者さんや、性教育の実践家、総動員で個人名をあげて批判というか、中傷満載ですね。

著者は西尾幹二とあの、テレビの八木秀二です。

>

ところが、どの本屋さんに行っても本がありません。店員さんが、「おかしいな、ここにあるはずなのに」と、どこの本屋さんでもです。

そして、広島でもとっても大きな本屋さんで、丁寧に調べてくれた店員さんによると、

「出版社から回収の指示があったので、もう、在庫はおいてありません。」ということでした。もっと詳しく尋ねて、調べてくれたところによると、何か不具合があって回収、もし、あったとしても、販売をしないようにと。

それは、一昨日の夕方の連絡だったそうです。

>

そして、その不具合を直して、八月ごろにまた出版するかもしれない、ということでした。たぶん、私の考えでは、肖像権の侵害とか、そういうものだと思うのですが、でも、そこだけ削ってまた出版されたのではなんのもことやらです。私は、名指しされた人の反論や、明らかな嘘については、出版社にも当事者は抗議した方がいいと思います

今がチャンス。私は、早速、これらの根拠になっているこの本は、回収になっている、と使わせてもらいます。

小学校低学年から、コンドームの装着の実践をしている、なんて、いったい、どこの学校で?小学校の低学年では、まだコンドームがつけれる様なペニスではなく、とても無理なはず。誰が考えてもおかしな嘘満載の本です。

>     河野美代子

このメール転載可です。広めてください。

6月30日コメント欄

id:noharra:20050630

(1)

# drmccoy 『皇国・皇軍が「強制」したとおっしゃいますが、具体的にどのような方法で強制したんでしょうか?』 (2005/06/30 10:27)

(2)

# drmccoy 『あともう一点、noharraさんの考える責任の所在は「天皇」「皇軍」「当時の権力者」のいずれかもしくは、全部であり、他には無いという事でしょうか。この他にもありましたらお教え下さい。』 (2005/06/30 11:02)

(3)

# swan_slab 『サイパン島や沖縄戦での民間人の集団自決は、おそらく心理的には、投降の呼びかけに応じれば殺されないかもしれないが、恥辱を感じ、社会的信頼を失い、家族に社会的制裁あるかもしれず、それならば自ら死を選ぼうという意識があったでしょう。そしてもうひとつは、投降すれば食べられてしまうとまで考えていた人もいたなど、米兵そのものが鬼畜化してイメージされていたことががあげられます。

戦時法としての交戦規則について住民はちゃんと知らされていないうえ、敵国兵士に対する歪んだイメージを持っていた。これは国家主導のプロパガンダによる一種のマインドコントロールに近いでしょう。さらに継続的な皇国教育や精神論的な戦陣訓などが強く影響したことは否定できないと思います。そのような観点からすれば、集団自決を積極的に誘導したのは当時の権力機構そのものであったといえると思います。』 (2005/06/30 12:23)

(4)

# spanglemaker 『そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね。以下でswan_slabさんもおっしゃっているように、責任の所在は簡単には決められないでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p2』 (2005/06/30 19:48)

(5)

noharra 『マッコイさん。そんなことより「(天皇がサイパンで)もうすこし頭をさげたことにどれだけの意味と意図があるかちゃんととらえてほしい。…」について教えてください。責任逃れための責任談義にもっていこうとしているだけでしょう?』 (2005/06/30 22:58)

(6)

# swan_slab 『>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね

これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。

しかし、それでも”後から知る”ことはできる。わが子を殺し、自らも自殺する行為の悲惨さを、純粋無垢な戦争の犠牲者とだけ語り継ぐことはやはりできない。そういうことです。

>責任の所在は簡単には決められないでしょう。

かつて西尾幹二氏は「全体主義の呪い」という著作のなかで、この悩みを哲学的に表出していますね。非常に深いテーマで、私などの凡人にはにわかに答えは出せませんが。簡単な話にはならないですね。』 (2005/06/30 23:22)

(7)

# drmccoy 『野原さん、ご自身が言った事「皇軍の強制が原因」が正しいというなら、「具体的にどう強制したのか」答えてください。答えがなければ、答えられない、根拠無く説明できないと受け止めますがよろしいですか?

>責任逃れ

誰の責任ですか?まさか私には過去の指導者の戦争責任を追及する責任があるとかおっしゃるんではないでしょうね?一方的に糾弾されている彼らを弁護する責任なら多少感じていますが。

>頭をさげたことにどれだけの意味と意図

いつもそうなんですが、質問の主語がわからないので答えにくいんですよ。

「意味」とは誰にとっての意味ですか?見る人によってそこから感じる意味は違いますよ。私にとってどういう意味があるかという事ですか?

それから、「意図」とは陛下の意図ですか?それなら本人が「慰霊が目的」と言ってるますが。』 (2005/07/01 16:22)

(8)

# swan_slab 『自決と命令については、http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm参照。

私自身は、戦史のなかでは、栗林中将が玉砕やバンザイ突撃を決して指示しなかった硫黄島の戦闘の印象が強いです。

なんていうかな。まずはアジア太平洋戦争の戦記を共有することからはじめないと。』 (2005/07/01 17:46)

(9)

# drmccoy 『私にとっての意味または意義でしたらhttp://www.sankei.co.jp/news/050629/morning/editoria.htmに集約されています。

ところで、誤解されると困るので書きますが、私はかつての戦争指導者に一切責任が無かったなどとは思っていません。天皇や東条英機に一切責任が無かったと思っている人なんて希でしょう。石原慎太郎でさえ天皇は退位すべきだったとか言ってますから。

問題は誰が何に対してどこまで責任を負うか、そしてその罪はどれくらいかということでしょう。それらの検証なしにすべての責任を天皇やA級戦犯などに集約させてそれで終わりというのでは、結論を急ぎすぎではないですか?

これらを法的にも根拠のある法廷できちんと裁けていればこんなにややこしくなっていなかったと思いますよ。東京裁判だって法的に欠陥があるから、無実だったとか言い訳に利用されているわけです。』 (2005/07/01 17:52)

(10)

# drmccoy 『なるほどswan_slabさんの参照先は参考になりました。沖縄の例などからサイパンにあてはめて参考にしてみると、原因としては「天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育」「軍による共生共死の一体化」、「捕虜を恥辱とする観念」、「鬼畜米英への恐怖」、「逃げ場のない追い詰められた地理的状況」などなどで、米軍だけでなく、日本軍までもが住民を追いつめた。これならわかります。おそらく軍人の質も低い人が多かったのかもしれません。地上戦という特に悲惨な状況であったとは言え、日本軍が同胞の住民を追いつめた、その責任は重大だと私も思います。しかし、すべての軍がそうでだったわけではありませんから swan_slabさんの記述はその点のバランスも配慮されて書かれている点、説得力を感じました。』 (2005/07/01 18:16)

(11)

# spanglemaker 『swan_slabさん。

>>>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね

>>これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく

>>天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当

>>程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。

それってhttp://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p

に書いてあることと矛盾するようですが。

>>天皇制こそが諸悪の根源みたいな語り方は80年代にもよく耳にしましたが、

>>ものすごく単純化した図式のなかに何かの責任を押し付けて拒絶感を表明する

>>という傾向は、戦後ず~っとあったと思いますね

それともこれは肯定的な文脈で語ってらっしゃるんですか?

国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。

戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。

言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。

この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。

これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。

戦前も日本が民主主義国家であったことはちょうどsanhao_82氏が今日のエントリー論じておられますので紹介します。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

だからこそ責任の所在は簡単ではないわけです。』 (2005/07/01 20:45)

(12)

# swan_slab 『>spanglemakerさん どうも

「戦前は天皇主権だったので国民は権力の末端部品だった」というのと「天皇制こそが諸悪の根源みたいな拒絶は日本人の生き様に目をつぶるものだ」という論は矛盾するように読めるかもしれませんね。両者を極論すれば矛盾するでしょう。

でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。

>国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。

責任というのは、「どのように観察した場合に」という”アスペクト”で捉えなければならないと私は思います。国民の積極的・能動的自由が制限されていた状態を反省するなら、国民を悲惨な戦争に巻き込んだ責任の所在は自ずから国民ではありえません。そして、日の丸を振って地域の若者やわが子教え子を戦場に送り出した責任といったものは当事者の心の中にはありうるでしょう。

しかし、次世代についていえば、戦後の新憲法の理念を維持する責任は戦後の国民に課されたと私は思います。個人的な自責感だけではダメで制度的に固定化しなければならない、戦前の制度や考え方の何が間違っていたのかを反省し続けること、これが国民一人一人の責任だという具合に捉えています。

>戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。

>言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。

>この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。

>これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。

だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、

明治憲法が民主制をとっていたか、という問いに対しては、明治憲法上、主権の本質はやはり天皇主権とみなさざるを得ないので、天皇主権と民主制は背理します。

また「戦前の日本は立憲君主制だった」のではなく、立憲君主制モデルをもって明治憲法を解釈しようとする学説上の動きが有力になった一時期があったというふうにとらえたほうが正確です。おっしゃる美濃部の天皇機関説はその一例です。古くは、伊藤博文が憲法制定に際して、君主の権限を制限する立憲君主制を導入しようとしていたことも知られています。

つまり、まがりなりにも立憲主義を機能させようとしていた。おっしゃるように天皇にあたかもイギリスの君主のような役割を担わせようとする動きがあった。

また、臣民の間でも、英米やフランスなどの人権の概念や法の支配、住民自治について理解があった啓かれた人たちがいたことは確かです。

しかし、1935年頃から体制側から反動がくる。いわゆる国体明徴運動は古くは教育勅語(明治中ごろ)から使われている言葉ですが、より政治的意味を込めて使うようになったのは35年です。国体明徴問題についてはhttp://www.cc.matsuyama- u.ac.jp/~tamura/kokutaimeityou.htm参照。

「国体の真義によって、個人主義的な欧米文化のもたらした欠陥を是正する」と結語された『国体の本義』(1937文部省)に象徴されるように、天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方を根本から国民にわからせてあげなければならないという使命感のようなものが生まれていったわけです。国体明徴運動が激化してくると、文部省は上述の『国体の本義』を全国の学校・大学・図書館等に配布し、・・。

また、戦時体制が敷かれ始めると、国家の啓蒙活動は国体に限らなくなります。

とくに『厚生運動』は典型例ですが、要するに、国民の体力を増強しなければならないという命題のもと、厚生省が誕生する。厚生省はもともと”厚生省体力局”新設が主眼で、その他衛生・社会福祉・労働などの部署はついでについてきたものだったんですね。健康こそが国家に尽くす大本であって、病者や障害者は非国民扱いになってゆく。体力増強のために国立公園がやたらと山岳地域にばかりに生まれハイキングコースが整備されたのもこのころです。嫌がる商店主なんかを引っ張り出して休日に体操やハイキングをやらせていたのが厚生運動です。

まぁいわば健康を強制していたわけですが、44年ごろには完全に終息します。体操している場合じゃなくなって。

戦争で散っていった兵士の多くは、この厚生運動とか国体明徴運動の影響をもろに受けた世代だったということができます。』 (2005/07/01 23:24)

(13)

# spanglemaker 『1935年以降日本の民主主義がおかしくなったのはおっしゃる通りでしょう。

ところで明治憲法施行から1935年まで何年あるとお思いで?

コメントに書かれている日本を「立憲君主制」としようという努力は

1889年の憲法公布のさらにその前から1935年までの長い間の出来事なんですよ。

ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。

「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。

異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策であることは確かですし。

戦前の日本では日本国民が権力機構から疎外されていたと結論つけるのは

やはり妥当ではないと考えます。

なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流に

なるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います。

>>だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、

>>このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、

何様ですか?

>>でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。

ここの記事もすごい極論なので、私に反論して下さったのと同じように、

noharra氏にも反論されたらいかがでしょうか。

なぜnoharra氏の極論には何も言わないのか不思議です。』 (2005/07/02 12:37)

(14)

# swan_slab 『>ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。

>「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。

明治憲法下の日本を民主主義といえるかというと、いえないと私は思います。

プロイセン型の憲法を採用しながらも、民主的に(ないしイギリス立憲君主制的に)運用しようという動きがあったにせよ、そもそも制度的に民主制ではなかった。

>異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策

それはあまり根拠がないと思いますが。

>なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流になるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います

明治憲法において民主的要素が全くなかったわけではありませんが、統治機構だけでも次のような欠陥があった。権力分立が不完全で、各機関は天皇の大権を翼賛するものでしかなかったこと、法の支配という観念がなかったこと、公選に基づかない貴族院が衆議院を抑制し、政府や軍部に対するコントロールが極めて弱かったこと、そもそも内閣自体が憲法上の制度ではなく、大臣輔弼制度が及ばない天皇の大権が憲法上認められていたこと、内閣が議会に対して責任を負わなかったことなどです。

そして、民主的といえる部分については、かろうじて制限的ながらも臣民の権利義務が法律の範囲内において認められていたことがあげられます。この部分が近代化に果たした役割は大きいと思いますが、上記の制度的欠陥は致命的だったとみるべきでしょう。

明治憲法の規定に、立憲君主制を読み込む、あるいは国家法人説を読み込む努力が潰えたのは国体論の台頭があったからということのほかに、根本的に明治憲法の構造がイギリス型の立憲君主制を読み込むのに適していなかったからでしょうね。』 (2005/07/02 14:40)

swan_slabさん、drmccoyさん、spanglemakerさん コメントありがとうございます。

応答が遅れてすみません。