他者の出現

野原のサイトとしてはここ以外に、(ほとんど更新のない)親サイトと、掲示板がある。掲示板と言っても開いて3年基本的にわたしだけが発言する場所になっていた。ところがこの5月21日におじゃる丸さんという方が書き込んでくれて、以後対話的に発言が重なっていった。ところが(わたしの不徳のいたすところもあって)どうも発言がどうどうめぐりになっている気もする。わたしの発言を下記に掲げ、もう一度読み返して見よう。

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=291&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=293&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=297&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=300&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=305&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=307&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=309&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=312&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=313&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=315&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=317&range=1

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=321&range=1

けっこう量があるのだが、中心的モチーフは下記のようなものだろう。

#291で言っているのは、「日本(日の本)って中国からみた呼び名だね」ということ。

教育勅語までの時代は中国中心的世界観の上で、日本人の文章は書かれていました。例えば、忠臣の代表として名高い楠正成もそうです。「楠正成の兵を用ふるや(略)孫・呉に髣髴たり。而して忠勇、壮烈は、殆ど唐の張巡と相似たり。」*1

#297 より。「日本の前期水戸学と後期水戸学の間にも、そうした解釈の地平(エピステーメー)の切断面があると言えます。つまり後期水戸学というよりその通俗化である教育勅語以降の感覚から見ると、同じ尊王論にしかみえないわけですが、そこには明らかに違いがある。」

#313 で。 家族、祖先祭祀中心主義とか権威主義に結びつきやすい傾向とかいったいわゆる保守的な発想、とは別のものを、B)(儒教的文化)のうちから、発掘することは可能であるはずです。というかいわゆる保守的なものは近代国家へのあせりというベクトルにおいてその反動として形成されたものであり、近代の印を帯びたものです。数百年前に現実にあったものは今日の保守派の言う伝統なるものとまったく違ったものであることは間違いないでしょう。わたしが見ようとする儒教も、21世紀の問題意識から発見しようとするものではあります、が。(略) そういった問題意識から見た場合、ちょっと古い本ならどこにでもあるB)の文化の香りを尋ねることは意義のあることだと思っているわけです。

*1:安積澹泊「大日本史贊藪 」p162『日本思想体系・近世史論集』

死刑を望むのは甘えではないか

1.グアンタナモの収容者を米軍は即時解放せよ。

参考  http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/991.html

2.さて宅間某(宅間守氏)に対し、死刑が執行されたそうです。

わたしは死刑廃止論です。肉親とかが殺されたら犯人を憎悪するのは当然だと思う。だがその思いを国家が私に代わって晴らしてくれるべきだ、などという発想はおかしい。殺されたということは絶対的な不条理であり、宗教によって被害者の気持ちが救われることはありえても、国家はそうした問題には関与しなければいけないわけではないし関与することは不可能である。第三者が被害者感情がどうのこうのと口を出すのもおかしい。被害の絶対性に思いを致すならば、そこにひたすら立ちつくす被害者を放っておくことしかできない。

汚辱にまみれて死んでいくべき

わたしなのに。ついついごまかして普通人のふりをしてしまう。

http://bbs7.otd.co.jp/273430/bbs_plain?range=-50&base=3000 西尾幹二(日録)感想掲示板

左翼というだけで、「汚辱」と決めつける上記のようなサイトはわたしの守らなければならない<初心>を思い出させてくれる。感謝。

2985 日録の 年上の長谷川 2004/10/13 22:17

女性 広島県

トラックバックをたどっていたら

こんなところや

こんなところにたどりついてしまった。

やはり全共闘系列とジェンダーフリーと、反つくる会と、

反日自虐史観主義者?は同じ仲間であると実感しました。

「汚辱に塗れ」の(c)はミシェル・フーコー。

198 汚辱に塗れた人々の生 丹生谷貴志訳

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm06.htm

『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』

聖人でなければ孤独である

詩に、悠々たる大空*1は父母だとある。とすれば、四海の内は皆この父母の子の兄弟だ。だが、この兄弟たちのつきあい(相友愛する)方を見ると、なかには性命(本性や天命)を以てつきあう者もあれば、表面的なつきあいにとどまる者もあり、またたがいに縁のない人たちもいる。熊沢君と私とのつきあいは性命を以てするつきあいであった。「徳は弧ならず必ず隣りあり」(『論語』里仁篇)と言われ、自分は孤立しないような徳をもっているとはいえないが、昨秋、有徳の隣人の訪問を受けた。(後略)*2

この文章で興味深かったのは、「徳は弧ならず必ず隣りあり」を逆に読んでいるところ。(わたしは絶対的で絶望的な孤独のなかにいる)つまりわたしは未だ徳をもってはいない。というふうに。わたしたちは幾人かのあるいはたくさんの人々に囲まれて生きる。だが、恋愛といい家族といい同志といい国家といいそれらはすべて「表面的なつきあいにとどまる」のではないか。(このわたしの孤独をわたしはどうすることもできない。)

病弱で絶えず死を意識しながら生きた中江藤樹の無意識にはそうした孤独感があったのかもしれない。であればこそ毎朝着飾って礼拝を捧げたのだろう。だが絶望感を語ることは無意味である。友人との関係を喜び、日常生活の些事に喜びを見出すこともできる。ひとはポジティブにしか生きられないものなのだ。意識など切り捨てても生きていける。

*1:コウ天

*2:p230『中江藤樹』山住正己 朝日新聞社

ファルージャの惨状

今日、「イラク占領監視センター」元所長エマン・ハーマスさんというイラク人女性の講演を聞きに行った。残虐な事実を詳細にメモも見ずにしゃべり続けるすごい方だった。本当は文学研究者。

ファルージャは30万人都市だが、その8~9割はすでに市外にでている。残った者たちを全員テロリスト(に準ずる者)と決めつけ、4方から取り囲んだ上で「皆殺し」にしようとする作戦。現在も市内に数万の市民が残っているとみられるが、家の外に出ると撃たれるので餓死さえ迫っている状態だという。

また米軍は赤新月社をはじめとする医療物資、医療スタッフが市内にはいることを拒んでいる。

もらったビラのうち1枚は次のとおり。

http://noharra.at.infoseek.co.jp/iraq1.jpg

http://noharra.at.infoseek.co.jp/iraq2.jpg

アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動 のサイトはここ。

http://www.jca.apc.org/stopUSwar/

アジア人になれるのか

だけども野原は、12/20の文章で水村を引用しながら、この結論には触れず、「日本人の名誉白人意識は揺らいでいない」という反対のことを断言しているのだ。

 日本国内で無自覚に生きている限り、韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける、という国内体験だけで生きる人の実感をベースに語っているからだ。“なかった派”やネット上の嫌韓人士の存在を身近に感じているのも理由の一つだろう。

わたしは数年前次の文章を書いた。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm「わたしたちは忘却を達成した」

日中戦争時の日本軍の残虐行為をことさらに強調したものである。わたしたちの現実というものはいくつかの忘却、いくつかの隠蔽のうえに成り立っているものでであると思う。しかしここで書き手はあるアポリアに突き当たるのだ。日本という現実の内部存在者でありながら何故、野原だけがその「忘却」に気づき、現実総体を糾弾するという外部の立場に立つことができるのか、という。

「日本軍の残虐行為」がほらこんなに存在するじゃないか、と事実とされる物の膨大さを突然提示するという方法は有効ではないだろう。わたし、日本国内で平和に暮らしているとされるわたしからその「残虐行為」への回路がわたしにとって必然であることを同時に提示しない限り、説得力がない。

 「日本国内で無自覚に生きている限り、韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける」、という国内体験だけで生きる人の実感というのもあやしいものだ。

「今、若い人に、あなたは自分がアジア人であるのを知らないと、そんなことを教えても無駄である。」かもしれない。いずれ歳取ればわかるだろう。それでは遅すぎるのかどうか、は分からないが。

・・・

(長くなったので一応UPします。苦労した割にまともな文章が書けなかった・・・)

控訴棄却

http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/isaiban_ichiran.html 「慰安婦」裁判一覧 を見ると多くの裁判があって、負けてきたことがわかります。

■(東京高等裁判所判決 2000.11.30)平成一一年(ネ)第5333号 謝罪等請求提訴事件

【判決要旨】 控訴人  宋神道  被控訴人 国

の一部分だけ引用します。

一 国際法又は条約に基づく直接の請求権について 及び

三 国家賠償法に基づく請求について、については全く抜かしました。

二 民法に基づく請求について

1 従軍慰安婦の設置運営は、戦地での旧日本軍兵士管理の一環として行われたものであって、慰安所における慰安行為ないし売春行為に旧日本軍の公権的監督が日常的に及んでいたとまでは認められず、旧日本軍と慰安所経営者との間には慰安所を軍が専属的かつ継続的に利用する専属的営業利用契約に相当するいわゆる下請的継続的契約関係があったと推測される。

 控訴人らは、その意思に反して慰安所経営者との従軍慰安婦の雇用契約を締結することを強いられ、隷属的雇用関係の下で、慰安所経営者と旧日本軍の管理の下で、日常的に長期にわたり旧日本軍人に対する強制的売春を強いられていたものであると認められるから、当時の公娼制度を前提として考慮しても、慰安所経営者と旧日本軍人の個々の行為の中には、控訴人らの従軍慰安行為の強制につき不法行為を構成する場合もなくはなかったと推認される。そのような事例については、被控訴人に慰安所の営業に対する支配的な契約関係を有した者あるいは民間業者との共同事業者的立場に立つ者として民法七一五条二項の監督者責任に準ずる不法行為責任が生ずる場合もあり得たことは否定できない。

(略)

3 控訴人ら大韓民国の国民の日本における財産、権利及び利益については、昭和四〇年の日韓基本条約、協定の成立までは、その処理、権利等の実行の帰趨が確定していない状態にあったと認められるから、このような特別の事情があることにかんがみると、控訴人が遅くとも昭和二〇年八月十五日迄に取得した可能性がある被控訴人に対する損害賠償請求権については、その除斥期間の起算日は、…昭和四〇年一二月十八日であると解すべきである。そうすると、控訴人の被控訴人に対する損害賠償請求権等は、昭和六〇年一二月十八日の経過により、除斥期間の満了によって消滅したものと認められる。

http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/zainichi_hanketsu_kou.html 在日「慰安婦」裁判高裁判決

従軍慰安婦問題は裁かれるべきか

 従軍慰安婦問題は道徳的に遺憾なことだったかもしれないが、法的に有罪ではないではない、と主張する人たちがいます。

 いまや上記星野氏も感じ取っておられるように“従軍慰安婦問題については見たり聞いたり感じたり”してはいけないという空気が日本国内を覆っているといっても過言ではない情況です。そこで、「法的に有罪ではない」が圧倒的に優勢なのではないか。

 しかしそれは違うだろう。http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050127 に野原が付けたコメントを自己引用。

「オランダが開いたバタビア(インドネシア)軍事裁判で35人のオランダ女性が被害を受けたことで、日本の軍人が死刑および2~15年の刑を宣告されたことが、「慰安婦」について裁いた唯一の裁判でした。p9全記録1」いわゆるBC級戦犯ですね。これを基準にすれば(実行者については)犯罪であることは認められた、ということです。非日本のアジア人女性はオランダ女性に比べてかなり差別されていたので、立件されなかっただけ、と理解できます。46-48年頃には各国にちゃんとした主権国家がまだなかったわけだし。

帝国主義国を警戒せよ

国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可からずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。

福沢諭吉 p256『文明論の概略』岩波文庫 

なぜ、アメリカとかを警戒しなければいけないのでしょうか?

今の亜米利加とは元誰の国なるや。其国の主人たる「インヂヤン」は、白人のために逐われて、主客処を異にしたに非ずや。(p252、同上)

事実は諭吉の言うとおりなのに、わたしたちはなぜアメリカのことをそういうふうには絶対考えないのでしょうか?

常識的判断

swan_slab 『こんにちは。門の外は建造物じゃない=構成要件該当性が認められない、という常識的過ぎる判断です。警察の逮捕・検察の行為は刑法の精神どころか一般人の常識的な判断能力をも逸脱したものといいうると思います。公権力の濫用として糾弾するべきですね。』(2005/03/09 07:26)