吉田公平『日本における陽明学』isbn:4831509213 によれば、中国思想において必須とされた概念は「修己」と「治人」という二つであった。*1
修己とは何か?
修己説の中核を構成するのは、本来成仏・本来聖人・本来完全などといわれるように、いわゆる人間の本来性を完全なものと理解する人間観である。この本来の完全性を、近世の思想家たちは、孟子の言葉をかりて「性は善なり」と表現した。このことを全面に押し出して主張したのが程朱学派である。
それに対する修正意見として、胡五峰、王陽明などの無善無悪説があるが、これは、性善説の持つ本来の活力を根本的に強化するために主張されたもので広い意味では性善説の範囲内である。
いずれにしても「人間は本来完全である」。
それは現実の人間がいかに背理の可能性に満ちて、現にどれほど非本来的姿をあらわしていようとも、それがあくまでも非本来的な姿であるからには人間はその本来性を回復できること、それも他者の力に依存せずに、自らの努力で回復可能であることを意味する。(略)
「復初」「復性」とはこのことをいう。つまり自力による自己救済を意味する。(p109-110)*2
で、それがどうした、というわけですが、上のアーティクルのように民主主義を真正面から論じるためには、前提がいるわけです。
「本来聖人に至りうる自己」という説、そしてそれの拡大版である「世界*3に正義をもたらしうる」とする平天下の確信。現在のわれわれは儒教をそのまま採用することはできないでしょうが、上記の<二つの思想に近い物>は、民主主義を成立させるためには、必要である*4。といえると思う。
それなしに、民主主義という言葉を使っても単に、国家の行為は正しいというトートロジーを主張しているだけで、言説はいくらでも回転しますが根本的にはむなしいだけだ。
(わたしはたまたま今、中江藤樹などの本を読んでいて、儒教は現実から遠いと思われているのでむりやりひきつけてみました。jinjinjin5さんとの応答と直接の関わりはありません。)