わが岡のオカミ

103 わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に落らまくは後

天武天皇

104 わが岡のおかみに言ひて落らしめし 雪の摧(クダ)けし 其処に散りけむ

藤原五百重娘

万葉集です。

天武が 大雪が降ったぞ!と自慢すると、藤原の夫人はまたうちの岡の雨龍に降らせた雪がそこまで散っていったのでしょう、と子どものように言い返すという歌、折口によれば。

応答可能性と政治的正義

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918 の続き

責任/応答可能性という発想は、岡野八代においては政治的正義実現のための一つのステップとして現れる。

私の人生がこんなになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。今の日本や韓国の若者は、こんなことがあったことを知らないので、事実を教えてあげなくてはいけないと思っています。(元従軍<慰安婦>金学順)

「責任」を考える場合に、わたしたちは、在る行為を自らが「自由」になしたからこそ、その行為に対する「責任」が生じる、と考える。だがしかし、呼応関係においては、「かつて自らが自由になした行為については、今その責任がある」といった<責任に先立つ自由>といった考え方が覆される。なぜなら、<わたし>がいま、金学順さんの言葉を聞いた時点で、すでに否応なく彼女の声に応えることが要請されており、聞いてしまった時点でわたしには、いかなる自由もなく、すでにその声に応える責任/応答可能性のなかに巻き込まれてしまっているからだ。そして、その後に、その声に応えるか否かの自由に開かれることになる。*1

責任とはまず無限責任なのだ。そして無限責任であるかぎりその責任を<わたし>は果たしえない。そんなことは不可能なのだ。p248同上

わたしたちは、ある意味で偶然出会う個別のひとびとからの呼びかけを個別の受信者として聞き取ることしかできないのである限り、あらゆる人からの無限の責めとしての倫理的責任は、ある限定した範囲の中で果たされるしかない。つまり、実際に彼女たちに正義が回復されるためには、わたしたちは、誰にどれだけの正義を返すのか、という限定的な正義の範疇や正義を回復するためのルールを確定しなければならない。(略)

そうではなく、倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的正義が存在していることを意味しているのだ。p269同上

岡野はこの正義を「政治的正義」と呼ぶ。これは(アリストテレスからロールズに至る)現代正義論の立場、即ち「配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる*2」そのことに対する批判として、なされる。

*1:p246 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699

*2:同上p265

「なぜ人を殺してはいけないか」再考

(1)

Qなぜ人を殺してはいけないか?

A国家が、正当な殺人を独占しているから。つまり、国家が、それ意外のものが殺人をしようとすることを押さえ込んでるんだよ。

http://blog.lv99.com/?eid=311232 こどものもうそうblog | 「なぜ人を殺してはいけないか」再考

その通りだと思う。なんとなく、この方のブログをはじめて覗き、上記の表題を見つけたので(失礼ながら)どうせ大したことは書いてないだろうと思いながら読んでみるとそんなことはなくて非常に素晴らしいのでビックリした。

萱野稔人『国家とはなにか』を最初だけ読んだ。エキサイティングな本の予感。

マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を引用し、

国家とは、正当な(合法な)物理的暴力(破壊や殺傷、拘束、監禁といった具体的な暴力)行使を独占し、もし、他の個人や集団が物理的暴力を行うならば、国家はその暴力を上回る暴力によって実際に押さえ込むもの、といった内容(乱暴な要約で難しげになってるかもしれないけどね)が最初の20ページで展開される。(同上)

というヒントから生まれたものだという。

わたしは前から、死刑と戦争を肯定している社会に住みながらつまり間接的には殺人を肯定しながら、それとは無縁に「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いを考えることができると思っているようなインテリやマスコミ関係者に深い疑問を感じていた。

(2)

ここでは、たまたま読んでいた『戦争責任と「われわれ」』という本のなかにあった中岡成文の文章の一部を批判したが、ちょっと強引すぎるかもしれないので一旦削除します。

神の死について

近代において、共同体内存在であった個が自由になり個人になった。ここで自立した諸個人による交流の場市民社会が形成されればよいが、実際は上手くいかないことも多い。市民社会から排除された女性や犯罪者からの異議申し立てが起こる。

また市民社会を形成しうるのは教養ある市民であり、教養とは国家と神への信頼である、と考えられる。

しかし<神は死んだ>。

ここで対応法は3つ。

α.一つは神は死んでないとがんばる。

β.一つは神無しで生きる。

γ.一つは「神の代わりを出現させようとして狂う」*1。である。

βは一番スマートのようだが、結局世界にある圧倒的な不正義に目をつむり自分たちだけの権益を守る思想とつながるのではないか。

α、神が死んだとしても、神という名前だけは残る(例えば「皇高皇宗」)その名前とイデアへの尊敬を絶やさないような私個人の思いをなんとか拡げていけばいいのだ。このように考えると否定しなくともよいようにも思える。

神がない以上、わたしたちはいつも狂気の淵にさらされている。そう考えるとαβγは余り違わないところに収束してくかもしれない。しかし、体制派のひとは既成の権力関係をそのまま神の代わりに信仰せよと迫ってきたりするのだ。侮蔑し唾を引っかけてやれ。

祇園に行きました

一昨日。四条河原町から観光客用の窓がずっと並んだ道を少し行ってつき当たりに階段があり登ると祇園さんです。最初に蘇民将来の社がある。手を合わせた。*1行灯の沢山灯ったところの向こうにメインの神社がある。ここの祭神は牛頭天王だったな、と思って説明書きを見るとスサノオになっている。あとから考えるに、これはやはり明治の廃仏毀釈期に訳の分からない神を記紀の神に整理し直した影響だろう。その向こうは円山公園。戦争と基地強化のための日米首脳会談反対! 11・15-16京都行動 というのに参加するためわざわざ電車に乗ってきたのだ。誰からも誘われず誰にも言わずに。京都15日(火): 午後6時30分~  場所 円山公園 ラジオ塔前 というメモだけをたよりに。時計を持っていなかったがまだ予定の時刻より1時間近く早いかなと思って行くと灯りのまわりにそれらしき人々が十数人居た。公園が広いので人数少ないなあという印象。自販機の灯りをたよりに本を読みながらそこでじっと待っていたがかなり寒くなってきた。月がとてもきれいだ。…やっと始まる。沖縄や座間、韓国など現地の反基地運動との連帯のアピールが主だった。鳴り物を鳴らしているのが面白い。デモ出発。人数がだいぶ増えている。数が多かったせいか、一列3人とか4人とかの規制はされずいい加減に広がって歩く。わたしは大きな横断幕の端を持つことになった。通行人の反応は余りないが良かった方だろう。デモとは歩くことと怒鳴ることだ。アーンポ フンサイ、トーウソウショウリとシンコペートする二拍子はジグザクデモの時か。まあそれの変形が主流だが単調になりがち。ここは開発の余地が大いにあると思った。

 <反ブッシュ>の意志表示をしました。という報告。

*1:八坂神社の境内摂社である疫神社は、疫病除けの神、蘇民将来を祀っている

結城浩さんて

今読んでいた、「結城浩のWiki入門」isbn:4844319159の作者じゃないか。

今(1/28)に気づいた。日本に数あるWikiクローンの母体となったYukiWikiの作者である。YukiWikiの直系のPukiWikiを私も一週間ほど前から使い始めたばかり。まだどうなるか分からないが、非常に自由で使いやすいことは確かだ。

IT関係者はみなホリエモンのように敬虔さから最も遠い人ばかり、というイメージを持っていました。そうじゃないのですね。(1/28記)

3/21 まず、ここをお読みになることを

中道右派 中道右派 『http://blog.goo.ne.jp/pontaka_001/e/af4531aa5c4741cac16c64c16fdd1467

まず、ここをお読みになることをお勧めします。

数回の連続で、素人にも分かりやすく書かれています。

コメント欄は玉石混交ですが、鋭い意見もあります。

法的責任と道義的責任の区別を、まずはよく考えてみることをお勧めします。』

noharra noharra 『>>>法的責任と道義的責任の区別を、まずはよく考えてみることをお勧めします。

道義的責任を定義、提出する主体を、きみたちが一貫して用意できない、かろうじて成立したものを潰してしまうのが問題なのです。かわいそうな日本!

「区別を、まずはよく考えてみることをお勧めします」は議論の放棄ですね。よっぽど自信がないのか。』

中道右派 『>で、今度はホンダ議員の「事実誤認の有無」ですか?議論のすり替えを何度行えば気が済むのでしょうか。もとの論点とは似ても似つかない論点になっていることが分かりませんか?

議論のすり替えと思ったのは、あなたの誤解ですよ。

あの決議案って言うのは、4項目の上に色々書いてあった事実関係を客観的事実と認めて、その上で4項目を要求するという内容です。

仮に日本が決議成立後にこれにしたがって国会決議をする場合、法的拘束力は無いので事実関係についても当然受け入れなくてもいいんですが、ホンダ議員らの意図は、あの事実誤認だらけの内容を事実と認めて謝罪し将来の教育もしろということですよ。日本独自の事実認識に基づく新たな謝罪をしたら、ぜんぜん法的拘束力は無いのにおそらくまた叩かれる。本当に事実関係部分が真実だと思い込んでいる節があるというのは、ホンダ議員はいわゆる売春婦的慰安婦は他の国にもいたが奴隷制的慰安婦は日本だけだという差別化を報道で強調していたんですよ。この報道はソースが必要かもしれないのでこれから検索します。

>ただしそれについて散々それを台無しにするような発言が繰り返されてきた経緯も御存知ですよね?ホンダ氏も諸外国もそういう経緯を知っているんですよ。だから「曖昧でない謝罪を」と言っているんじゃないですか。謝罪というのは加害者が頭を下げた回数で決まるんじゃないんです。謝罪は一人じゃ出来ないんですよ。

これは本当に安倍首相のうかっりうかつ発言の悪影響。発言するなら練りに練ってから発言すべきでした。揚げ足を取られるようなら河野談話修正は言い出すべきでなく、事実関係の再調査と文言案が出来てからにすべきでした。それに米左系マスコミの歪曲報道でダブルパンチ。

>まあ加害者が犯罪被害者に謝るとき「俺には俺なりのやり方があるんだ」と言いだして謝罪が成り立つかといえば、その可能性はゼロに近いでしょうね。

そうかも・・・国家犯罪の問題と思われている点が、世界的に蔓延している誤解でしょうね。

この問題の本質は、法的には救済不可能な事例を道義的見地から救済した、ということだと私は理解していますが、おそらくマスコミでは世界的に賛同者は少ないでしょうね。

>私だけの主観ではありません。それは諸外国でも「日本の謝罪は曖昧だ」という認識の方が多数派なのでは。。今回安倍氏が「謝罪しない」と言った時の諸外国のメディア・政界の人たちのあまりの反応にこれまで「日本を悪く言うのは特アだけだ」と言っていた人たちがうろたえていたのを見て不謹慎ですが笑ってしまいました。まあこれは蛇足ですが。いずれにせよ謝罪は一人では出来ないという「リアリズム」に立ち返って欲しいものですよね。

同意せざるをえませんね。犯罪解決ではなく道義的救済だという本質(私見)を世界に伝えるには、大変な労力が必要かも・・・

>>町山氏のブログ

>知ってますよ。しかしそれが今回の件と何の関係があるのか私には全く分からないので正直困惑してます。

批判や責任追及は、あくまで正確な事実に基づいてすべきであって、インチキ=事実誤認をほうっておくと大変なことになり、一旦広まった世界的一般的イメージは修正するのにものすごく労力がかかるという点で、天安門事件と慰安婦問題のそれとは、共通すると私は思っています。あなたは事実誤認は無いという立場かも知れませんが。

>>先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

>これもよく分からないんですが詳しく経緯の御説明を願います。

それでは、説明のために必要なソースを検索してきます。

しばらくお待ちを。』

算数

突然ですが算数の問題です。

ある整数で、61,89,161をそれぞれ割ったときの

余りの和は38になりました。ある整数を求めなさい。

分かった方はコメント欄に。