応答?(12/12、追加、引用は11月時点のコメント欄から)

# jinjinjin5 『しっかり認識すべきって、だからお互い視点が違うってなんども言ってんのに… あなたの思い描く思想仮想敵に私を強引にあてはめられても困りますね。依存ですか(苦笑 じゃ依存症ということにでもしといてください。国家という共同体に全く依存すること無しに生きていくのは困難だと思っておりますので。その依存を美化するつもりはさらさらなく完全に依存している人は軽蔑しますが。こちらからのコメントはこれ以上ありません。』

# jinjinjin5 『依存の度合いとやらの判断基準ついては、あなたと私の例で顕著なように各人で大きく異なるでしょうから受け取り手にお任せします。自分では依存する部分もあるものの、一応フィフティーフィフティーだと思っておりますが。』

# noharra 『jinjinjin5さん

応答は1ヶ月ほど経った後、にさせていただきます。申し訳ない。

そのときTBがいくようにしますが、もちろん無視していただいても結構です。』

1ヶ月以上経ったので読み返しましたが、応答すべき論点も見あたりませんでした。

id:jinjinjin5さん、変なresをつけてすみませんでした。

上記からリンクできないので、jinjinjin5さんははてなを止められたのかな?(12/12)

水俣病は語りうるか

 そン頃はな、チッソの安賃闘争(昭和三十七年の反合理化闘争)が終わってしばらくした頃じゃったで、工場も町も部落もメチャクチャ荒廃しとった。会社行きが第一組合(合化労連)と第二組合(御用組合)に分裂(わかれ)ちゃって、部落づき合いや親戚の間まで「一」と「二」に分裂させられて、そもそも出月の部落自体が狂ってしまったじゃもん。なんもかも薄ら寒い季節やった。生活保護が打ち切られてなぁ。母ちゃんの荒れて荒れて誰も手のつけようがなかったっじゃ。家がつぶれかかって、借金がかりられなくて、それだけ気になってたんやろなあ。母ちやんの何かあったなて思て、フスマ開けたら、ぶわあ~って吐いたもんな、焼酎一升五ン合分のヘドば。六畳いっぺえ吐いたんだよ。

 家ン中は暗くて昼も電燈つけてたから、そン薄暗い部屋いっぺえのヘドの中でのたうってる母ちゃん見てたら、俺もオエーッとこみあげてきた。鬼じや。鬼じや。もうこの世の者とは思えんかったよ、そン時の顔は。ああ、この野郎さえ居なければ……。俺、もう我慢出来んかったもね。ぶち殺そうて思て、首しめたったい。母ちゃんの、飲んで部落歩くどが。それ止めさそうて思たわけたい。その事でどっだけ俺がつらい目みとるか知っとるのかぁ。「お前(め)が母(か)ちゃんな、化物(ガゴ)じゃがね」「ガゴン子じゃがね」ち。みんなから囃されて誰一人寄りつきもせんじゃないかぁ。止めさそうて思たら、転落(ころげ)らったもん。ころげた拍子に頭ば打って、泣いて吠(おめ)くとたい。「親ば殺そてしたあ~Z」(笑)。父ちやんのす~ぐ飛んで出て来(ご)らって、もう足の立たん如(ご)つ殴(う)ちまわされてね、そこに爺ちやんの来らって、今度あ爺ちゃんと父ちゃんがケンカおっ始めて……、メチャクチャ、あの日は。

 俺ぁバタバタ便所ン中に逃げ込んだけど、父ちやんな一日中便所の出口で番しとらっった。光童園(町の孤児院)さたたき込んでくるる」ち。「親ば殺そうてした。末恐ろしい……」ち。小坊主やみなし子が修業してるだろ、光童園で。恐ろしくて出て行かれんかったよ。便所ン中からカギ閉めて、父ちゃんの寝らってから出て来た。まああの臭え~所によく一日もしゃがんでいられたもんだなあ、俺も(笑)。

 しかし、人間ちなどうゆうもんかね。母ちゃんな饅頭に毒入れてもう一家心中せんばんてブツブツ考えながら、焼酎飲んどらったちがな。それがお前、自分が実際首しめられたら、「助けてくれ~ッ」じやろが(笑)。

 んで、この俺が首しめて母ちゃんの目ば覚まさせんば、俺達一家は全員毒殺されとったかも知れんとたい。ヘン、ざまあ見やがれってんだ。

 とは言うものの、これを手始めに親をぶち殺そてしたのは、二度や三度にゃとどまらねえてんだから、我ながら嫌ンなるぜ。

p36-38『下下戦記』(吉田司・文春文庫・515円+税)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167341026/249-0324697-0483570

国家あるいは、一般社会との関わりにおける、水俣病とは何か?は 下記でスワンさんが見事にまとめている。文章の順番を年代順に変えました。

1)1968年、国が「チッソ水俣工場の排水中の有機水銀が原因」との公式見解発表し、公害病に指定するまで、チッソの工場廃水はたれ流されていた。

2)熊本水俣病の裁判闘争のはじまりは1969年だ。「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございます」と患者らが立ち上がって

3)そして2004年10月の今日、最高裁がようやく国家の責任を肯定した。

59年には行政は企業の排水をやめさせるべきだったと最高裁は判断した。半世紀近くもたってやっとね。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613  はてなダイアリー – +   駝  鳥    +

 それに対し、上の発言は胎児性水俣病患者(である)敏(とし)くんのものである。 『下下戦記』という本の「下下の下下、下下の世界の……」という章にある。ゲゲゲの鬼多郎みたいなタイトルみたいだが、人間でありながら化物(ガゴ)そのものであった我が母と我、を語った文章だ。下下とは貧困である。貧困つまり貧しさとは何か,誰でも知っている、だが本当に知っているのか、少なくとも私は知らない。生まれ落ちた瞬間から愛情に包まれて育ち、人並みの屈折は経験しつつも安定した生活を踏み外さずに生きてきた。バタイユやバロウズや松下昇など趣味で読んでいただけだ。*1

それよりなにより、俺が母(か)ちゃんたい。ありゃもう人間じゃなかったもん。神経(気狂い)と一緒ッ。ひーどかったなあ。もう毎晩のように飲んでてなあ。焼酎でも飲まんば水銀で脳ン中がジリジリジリジリ焼けて来てしょんがなかったっじゃもん。で、飲めば終(し)めえさ。魂のどっかへうっ飛んでしもて。ウォンウォン泣きながら外にさまよい出て、あっち行ったりこっち行ったり、うろうろうろうろ。もぉ夜中の四時頃までも部落中吠(おめ)て歩(され)く。歩くともつか~ず、走るともつか~ずッ。下駄なんかどっかうっちゃらかしてしもて。裸足で。髪なんかバッサバサにふり乱して。そっで誰かの家の戸でも少し開いとろうもんなら、突然そっから押し入るわけたい。飯を食っとろうが、お客が来とろうが関係なしにあがり込む。大声上げてよお~ッ。「昨夜(ゆんべ)、道で俺(お)が悪口ば言いおったろがあ~」ち。「奇病、奇病ち馬鹿(ばけ)えすっとかッ、んなら、お前が責任ばとれ~ッ」ち。「元ン身体にしてもどせえ」ち。(p34-35 同上)

敏の存在様式とわたしのそれは交差しない。わたしは文章を転記したが、そのとき何が出来て何が出来ないのか?

 狂った母がいる。だが父や祖父とてそれより上のレベルに立ち母を牽制することはできない。幼い敏はなおさらのことだ。だが幼いといっても、「俺、俺だって引き止めるよ、人前ちゅうもんがあっだろ、子供心にも。」といった自覚くらいはできたのだ。そうした日々が続き、敏は少しづつは大きくなる。「一家心中」をブツブツ唱える母を呪いながら。学校で「化物(ガゴ)ン子」と囃されながら。そしてある日、母が畳みいっぱいに吐いたとき、今まで溜まっていたものは殺意となって噴出する。「ぶち殺そうて思て、首しめたったい」といっても子どものことである。大人が本気になったら跳ね返せるのではないかと思うが、母は予想外のことに戸惑い転けてしまい頭を打つ。そして父、祖父を巻き込み暴力の水位は容易に下がらない。そのように<へど>にまみれた生の時間があった。

 それに対し、法的言語というものは、現実を、「Aは水俣病として認定しうるが、Bはそのカテゴリーからはずれる」、といった書類上に記載しやすい現実に翻訳することしかできない。極めて限られたことしか出来ないにもか変わらず、それでも成果が得られれば、それは極めて大きい。やはりなんといってもそこでいちおう「正義」というものがどこにあるのかが示されるのだから。法的言語、マスコミ言語、そして科学的言語や支援者の運動言語それぞれ力を持っている。しかし、それらの言語で語りうるものはいずれも氷山の一角であり全てを合わしても極一部でしかない。当事者つまり患者の身体のなかには、それでは語り得ないものが「ヘド」のように悪臭を放ち高温を発し渦巻いている。

 語り得ない領域といいながら実際上に語られている。しかしそれはそうであるかのように見えるだけだ。表現者=敏が物として語る言葉を、読者は暗喩として理解するそうした誤解によって、あたかも表現が受け渡されたかのような幻が生まれるだけだ。言説として成立していない。

 読者の側からは、例えば次のような評価が生まれる。水俣がわたしたちの歴史においていつまでも語り継がれなければならないのは、既成の諸言語とは違った<他者の言語>つまり<患者の言語>をうち立てた、点にある。この点で石牟礼道子と並んで、この本の著者吉田司氏の功績は圧倒的である、と評価していいのではないか。しかしそのような評価はそうも言えるというだけのことである。*2

 わたしとは何か?私のうちにも<悪臭を放ち高温を発し渦巻いている「ヘド」のごときのもの>が存在するのか?と問うことができる。というか、その問いに出会わなければ書き始めるべきではないのだ。

 なお、「へど」とは辞書によれば「反吐・嘔吐」「一度飲みくだしたものをはきもどすこと。またそのはいた汚物。たぐり。たまい。」とある。

*1:松下についてはそう言うことは禁じられているが。

*2:もちろんわたしはこちら側に立っているので『下下戦記』は名著であるので復刊させないといけない、と強調しておきたい。

華やかなクリスマスのイルミネーションとキリスト教の愛は何の関係もない。キリスト教の愛は、酒鬼薔薇を愛せるか、という不可能性に存在する。

NHK・ETV特集から消された戦場の証言

NHK番組改ざんに抗議する!

政治圧力によって消された 

元兵士による戦場の証言

は下記で読めます。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/nhk_special.htm

一部引用する。

元陸軍伍長・金子安次さんの証言*1

――こうした証言をするには勇気が必要ですね。

 撫順でもこの強姦の問題は深く告白をしたわけではなかったんです。というのは、強姦というのは表面に出にくい問題で、管理所側は証拠がない問題は追及をしませんでしたから、強姦の問題は黙って済まそうと思えば済ますことができたからなんです。もちろん、その時には人間としての良心が芽生え始めていましたから、ある程度は告白したんですけれども、それはただ「強姦をした」という内容で、具体的なことは私は書きませんでした。…強姦というのは、これはちょっともう…。本当に残酷な問題なんですよ。

――戦場では強姦は頻繁に行われていたのですか。

 作戦中はね、それはもう毎日のようにやっていました。私もそうです。当時、中国の女性は纏足をしていて逃げられず、家にいることが多かったので…。

――こうした証言をするようになったきっかけはなんですか。

「慰安婦」だった人が名乗りをあげて、この問題が出てきたとき、これは言わなければいかんかなと思い始めたんです。その後、「慰安婦」問題で、戦争の実態を何にも知らない人間がこの問題でもウソを言い出してきて、これは言わなければいけないと、そう思ったんです。戦友会の連中は言わないでしょう、黙りこくっちゃって。年もとって体面もあるしね。

 しかし、事実は事実として伝えなければならない。そしてそれは戦争を行った我々にしかできないこと、我々の責任なんです。生きている限り、ありのままの事実を語りつづけていきます。

追記:上記に引用した部分ではないが下記にあるのは、「最後の3分にカットされた部分」に当たるようです。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/nhk_special.htm

長井:

まず最初に最後の三分でカットされたのは中国人の被害者の方の紹介と証言部分、もうひとつは東チモールの元慰安婦の方の紹介と証言部分、あと加害兵士、元日本兵士の証言部分その三点が全く抜け落ちました。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050115#p1 + 駝  鳥 + から孫引き

*1:正確には証言後のインタビューより

法が最小限の正義であることをやめたとき

2/5

# mojimoji 『過分に褒めていただいてありがとう。乗せられるとのめりこむ人なので、どんんどん焚きつけてください(笑)/今述べていることは「法が最小限の正義であることをやめたときには、法を尊重せよというクレイム自体が無効」という、女性国際戦犯法廷の中身の検討抜きにできる議論をしています。なので、当初の主旨とはだいぶ違っている気はするのですが、まぁ、「アイロニカルなサポート」ということになるんでしょうか。/女性国際戦犯法廷の中身については、天皇有罪を言おうとする動機は理解できるのですが、それを法解釈として正統なものとできているかは、ちと悩んでいます。できてなくても擁護しますが、それはそれとして、確認したいところではあります。/ただ、日本政府の賠償責任についてはせいぜい時効の問題くらいしかないのですから、「死者を訴えた」ことを理由にこの民衆法廷を全否定するのはまったくうなづけないかなぁ、と考えてます。』

「法が最小限の正義であることをやめたときには、法を尊重せよというクレイム自体が無効」の議論、難しいですね。というか私にとっては、たぶん「法の外に正義がある」のは当たり前のことであり、それを頭から否定する論を立てられても絶句するかキレるかしかないのに、ちゃんと論理で丁寧に返しておられるので感心してしまいます。で論理を追おうとするとそれはそれで難しい・・・

「全記録1」については、証言のところ、なかなか興味深く読むことができました。残酷な場面もあるがそうではない場面もある。(不謹慎ですね)

日本国家がやったことと思うともっと反省の痛みを持たないといけないのでしょうが・・・

とにかく無視しているより、読んだり見たりする方が良いと思う。

革命的法創造の営為

田島正樹氏のもう一つの論点は、法創造的営為の必要性である。

3)今般問題となってゐるのは、権力自体の機能不全・戦後処理をめぐっての問題解決能力の欠如・ならびにそれに伴ふ権力の権威の崩壊に、いかに対抗し、補填するのかといふことである。

 それは、権力の空白を放置すれば、そこを必ず恣意的なマフィア的暴力が横領してきて、自然状態の荒廃を回帰させてしまふからである。この空白(法の203高地)をめぐってマフィア的暴力と革命的(法創造的)左翼が、常に陣地争ひをしてゐるのだといふことを自覚せねばならない。

http://alicia.zive.net/MT/mt-comments.cgi?entry_id=152

おおやにき: Comment on 法廷と手続的正義・続々々

既存の中立的制度を形式的に守っていこうとする、常識的に正しい態度は、「すでに右翼的なのである。」

むしろわれわれは「当面の政治状況が左右の敵対性に引き裂かれていることをすすんで承認」しなければならない。

「むしろこの視座からは、既存の制度の中に広がる空洞化・無政府状況に抗して、公共性を奪取し更新することによってのみ、それを保守し救済する事ができると考へられるのである。」

 正義のために法を創造して行くべきであるという発想には力づけられる。

1/29の日記では、国境を越え民衆が自前で実力で審理の場を形成したという点を大きく評価した。どのような主体性、公開性、デュープロセスにおいて公開審理の場を作っていくべきなのか、わたしたちは本気で考える。考えられることはいろいろあるだろう。

悪役から逃れるための「反省」

「ホモ・ホスティリスの悪循環」のホモ・ホスティリスとは敵対人。意味が分からなかったので英和辞典で引くと、ホステスやホスピタリティに音は近いがhostilityという言葉があり、敵意、敵対、反抗、戦争状態のこととあった。

 「残酷な東洋人」というイメージ原型が(十字軍のころから)ある。対日戦争も「褐色の民(アジア・アフリカ)を黄色の有色の民(日本)から救った白色(英国)の民」というレイプ・レスキューの図式にはめ込まれる。そのとき英国は、邪悪な龍と戦って成敗する正義の騎士聖ジョージそのままになる。*1

 で数十年前のヒロヒトに代わり邪悪な龍の場所を占めたのがイラクのフセインだった。日本が米英のイラク占領に加担するとは「自らの悪のイメージをぬぐうために、他のものを悪として、自身は何食わぬ顔をして正義組にはいって安心する*2」という振る舞いだ。そう考えるとたいへん情けない!

 従軍慰安婦問題も自分が聞きたくないから耳を塞ぐという態度では、過去の事実に誠実な誇りある日本人として向きあうことにならない。そして否認することは、このような「残酷な東洋人」としての「日本=レイピスト」イメージを延命させることにもなる(西欧人から見た場合)。中国や韓国朝鮮にとっては、「日本=レイピスト」イメージは国家の独立に関わるもっと必須なものに容易になってしまう。日本の実像がどうであろうとそれを悪と決めつける図式にそれらの国が囚われているわけではない。だが過去においては((現在でもかな)、国家当局がイメージ操作を振りまいたことも確かにあっただろう。

「大東亜戦争」という歴史において皇軍がアジアの過半に展開しそこの民衆を苦しめ、そしてレイプの例も多いというのは、事実である。わたしたちは、こうした事実をどう認めるかについて国民的合意を形成できなかった。A級戦犯の靖国合祀などをしてナルシズムに浸っている場合ではないのだ。今年は戦後60年。国家が自己を他国に向かってどうプロデュースするのかの正念場だ。安倍晋三的なものを排除することが国益だと思うぞ。

*1:同書p129

*2:同書p138

「北朝鮮人権侵害救済法案」支持!

 前にも書いたように3/13に大阪経済大学での北朝鮮・脱北者についての集会に参加した。その会の終わりに「集会決議」という文書が読み上げられ皆が拍手で確認した。そのなかに次の文章があった。

1.北朝鮮の人権改善と被害者救済にわが国が実効ある政策を実施できるよう、日本政府ならびに国会に対し「北朝鮮人権法」の制定を求めます。

拍手はしたものの、北朝鮮人権法案というものを読んでないので気になっていた。今、ネットで確認することができた。

まず、民主党・北朝鮮問題プロジェクトチームの中川正春座長(衆院議員)は(2/25日)に国会へ「北朝鮮人権侵害救済法案」を提出した。一方、「北朝鮮人権法・自民党案の提出は、3月半ばごろになるもようで、今国会での成立を目指す。」とのことで足並みがそろっていたが、自民党は法案の今国会提出を見送る方針を固めた、らしい。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1008500/detail北朝鮮人権法 民主座長に聞く

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1010594/detail北朝鮮人権法 自民座長に聞く – livedoor ニュース

http://www.asiavoice.net/nkorea/ 3/12朝鮮民主主義研究センター

で、民主党が提出した法案はここにある。

http://www.masaharu.gr.jp/nkjinkenhou_050225.htm 民主党北朝鮮人権侵害救済法案050225

興味あるところを抜き書きしてみる。

第一条 この法律は、拉(ら)致問題への対処に関する国の責務を明らかにするとともに、脱北者の保護及び支援、北朝鮮に対する支援に係る基本原則等について定めることにより、拉致問題の解決その他北朝鮮当局により侵害されている人権の救済及び北朝鮮における人権状況の改善に資することを目的とする。

   第三章 脱北者の保護及び支援

 (脱北者の保護及び支援に関する国の責務)

第六条 国は、脱北者(北朝鮮を脱出した後生活の本拠を有することなく我が国に保護を求める者(北朝鮮に戻った場合に迫害を受けるおそれがないと認められる者を除く。)をいう。以下同じ。)を保護し、及び支援する責務を有する。

2 政府は、脱北者から在外公館に対して保護の要請があった場合には、その安全の確保に努めるものとする。

3 政府は、脱北者がその希望に応じて本邦に帰国し、若しくは入国し、又は他国に出国することができるよう努めるものとする。

4 政府は、脱北者の安全の確保等について、関係国の理解と協力を得るよう努めるものとする。

5 政府は、脱北者の保護及び支援を行うに当たっては、脱北者及びその関係者の安全を確保するため、これらの者に関する情報の取扱い等について、十分に配慮するものとする。

6 政府は、関係国及び国際連合人権委員会、国際連合難民高等弁務官事務所その他の国際機関との緊密な協力の下に、北朝鮮を脱出した者の保護及び支援に積極的な役割を果たすものとする。

脱北者=(北朝鮮を脱出した後生活の本拠を有することなく我が国に保護を求める者(北朝鮮に戻った場合に迫害を受けるおそれがないと認められる者を除く。)、という定義が目を引く。経済難民なんていう言葉を使い、脱北者の難民性を薄ようとすることは、彼らを北朝鮮に帰国させて迫害にさらされることにつながる。そうした今までの経験に照らし、脱北者の生身の人権に配慮した定義になっている。強く支持したい。

 (脱北者の保護及び支援を行う民間の団体との協力並びにこれに対する支援)

第七条 政府は、脱北者の保護及び支援に当たって民間の団体と協力するとともに、脱北者の保護及び支援を行う民間の団体の活動に係る安全の確保及びその活動の促進を図るため、情報の提供、財政上の措置その他の必要な措置を講ずるよう努めるものとする。

 (脱北者の認定)

第八条 法務大臣は、北朝鮮を脱出し本邦にある者から法務省令で定める手続により申請があったときは、その提出した資料に基づき、その者が脱北者である旨の認定(以下「脱北者の認定」という。)を行うことができる。

2 法務大臣は、脱北者の認定をしたときは、法務省令で定める手続により、その者に対し、脱北者認定証明書を交付し、その認定をしないときは、その者に対し、理由を付した書面をもって、その旨を通知する。

 (脱北者の認定の取消し)

第九条 法務大臣は、脱北者の認定を受けている者について、偽りその他不正の手段により脱北者の認定を受けたことが判明したときは、法務省令で定める手続により、その脱北者の認定を取り消すものとする。

2 法務大臣は、前項の規定により脱北者の認定を取り消す場合には、その者に対し、理由を付した書面をもって、その旨を通知するとともに、その者に係る脱北者認定証明書がその効力を失った旨を官報に告示する。

3 前項の規定により脱北者の認定の取消しの通知を受けたときは、脱北者認定証明書の交付を受けている者は、速やかに法務大臣にこれを返納しなければならない。

6条の3では、脱北者がその希望に応じて本邦に帰国し、若しくは入国することが認められる。だがそのまま在留資格を得るわけではなく「脱北者認定」というステップを踏む、ことになっている。11条には、認定にあたって「入管法第二条第十二号の二に規定する難民調査官に事実の調査をさせることができる。」との規定もあり、入管法という言葉には良いイメージをもっていないわたしとしては大丈夫かなとも思うのですが、でもまあそういうものなのだろう。

 キム・ハンミちゃん事件の映像を見ても、<難民>とは、国と国の境、領事館の壁の上に何年も生きることを強いられる存在だ、といえるように思う。

 領事館の壁の上みたいな不安定な場所におかれる時間を短縮し、一度日本国内に移動させてから、(判断が必要なら)その判断を行うとするこの法案は大変な進歩であり、強く支持してよいと思う。

# swan_slab 『ちょっと【邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念できるか】という私の問いに戻したいことがあるのですが、これまでの議論をふりかえると、

hikaru さんhal44さんは愛国心はそもそも悪いものにならざるをえないといった議論を展開しているように思います。そもそも悪いものにならざるをえない理由として、hikaruさんはすでに存在している多元的社会における生活を提示します。これは例えば「国籍保持者に奉仕活動を義務付けるべきだ」という考え方を例にとれば分かるように、愛国心は国内的にも排他的性格を持たざるをえない。つまり差別を助長する。

hal44さんは同じく多元的社会あるいはグローバル化した社会を前提に、その排他性を「敵の必要」という観点から説明しているように思われます。お二人の議論を重ね合わせると、国外に敵をつくるのみでなく、国内にも敵をつくる論理であるから、愛国心は忌避されるべきであるということになろうかと思います。

それに対して、私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。もう少し具体的にいうと、現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。もちろん、愛国心の多様性を前提としますので、現行制度に否定的な愛国心もあり得る。この着想は、17世紀にアメリカに渡った移民たちの契約モデルをイメージしています。何が「善い」のかはさておき、善い社会を目指していこうというコンセンサスです。しかし、通常、メイフラワー盟約も、憲法的秩序への忠誠も、パトリオティズムとの関連で認知されていませんね。

それから、野原さんは

>進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。>

と述べています。

この多数派がどのような人たちを指すのかちょっとぼんやりしていますが、私の考えでは、戦後の日米外交は、「巻き込まれリスク」と「見捨てられリスク」の均衡のなかで対米距離を測ってきた。しかし、江畑謙介が指摘*1するように「巻き込まれリスク」といった観念は、冷戦後強力に推し進められたアメリカの「全世界戦略」の現実に目をそむけるものであると。そういう側面は恐らく日本の知識人の間にもあっただろうと思います。

また、左翼的知識人のなかには、依って立つ立場自体を問題にされることがあった。例えば丸山眞男はそのたち位置「精神的貴族主義」が批判の的となった。

>パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。>N・Bさん

ちょっとよくわからなかったですが、私自身は「隣人とは誰か」の対象をアトミックな個人に見定めるか、個人を育む歴史的・文化的・政治的中間集団の多様性を認めるか、といったことに興味があります。』 (2005/03/26 18:22)

# index_home 『スワンさん

>私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。

もちろん、現代は多元的な社会になってきているといっても、国家が崩壊したわけではありませんから「愛国心」の価値はあると思います。もっとも、価値があるだけに危ういともいえるかもしれませんが。』 (2005/03/26 22:15)

# hal44 『「社会公共的価値」あるいは、道徳律の基礎としては、遍性のある「人権」を私は採用します。「人権」の保証には超国家的な枠組みが必要なんですけど、現実的な問題は多々ありますね。「愛国心」は国民にしか人権を認めませんから。』 (2005/03/27 06:17)

*1:『日本の軍事システム』P21

「考えが甘い」のはあなただ。

考えが甘いと思うけど。

ネットワークにおける言論は、newsgroupやパソコン通信のSIG、フォーラムの時代から淘汰圧が非常に高く、かつ玉石混淆なのが特徴で、少数意見を唱えるのであれば多数派を説得しうる高い論理的整合性を主張しなければ袋叩きにあうのは、私の過去15年来の経験に照らしても、(ネットワーク界においては)自然なことです。

azamikoさんの行動は突飛である(段階を踏まずにいきなり最終手段を取っているような感じ)と私には思えます。極端な行動は心理的な反発を受け易いものですし、たとえ目的が正当でも手段に問題があればやはりそれは問題です。

目的の正当性を信じるのであれば、より手段の妥当性にも拘るべきで、それらを失すれば非難を受けるのは致し方ないと思います。

そして前述したとおりネットワークにおける言論の淘汰圧は非常に高いので、小倉弁護士の命名する所の「コメントスクラム」なる状態に陥るのは当然だと思います。

これらのことを弁えずにblogを書いているのであるとしたら、覚悟不足としか言いようがないかと。

小熊善之

http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html

多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ

2005/04/07 17:51)のコメント欄より

ネットで「少数意見を言いたければ」死ぬ気でやれ、とでもいいたいのでしょうか?あまりにも不愉快なのでコピペ。

「手段の妥当性にも拘るべき」ってどういうことだ。

「手段に妥当性がない」という貴方の主張を「コメントスクラム即ち、言論の力ではない暴力」以外の方法で立証できるのか。

「自己=多数派」という前提だけに依拠した自己!!