他者

他者といっても自己と全然別のものではなく、本質的には自己と同じものなのです。*1

『精神現象学』は面白くないこともないのだが、読むのに時間がひどく掛かるのが困りもの。長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)で、読んでます。なんとか読了したい!すこしずつメモをつけてみようと思う。

 他者が自己と同じ、だなんてそんなことを言われても日常感覚としては納得できない。だがまあ儒学では、世界は<理>であり自己の根拠も<理>であるのだから同一性が支配している。それに比べると、ヘーゲルでは他者~否定性が最後には消滅する(のだろう)が、この分厚い本を通じてずっと大活躍し続ける。というか儒学では二千年経っても、仁、理、気、性など十いくつかの言葉があるばかりで、カテゴリーのダイナミズムやドラマがほとんどない。この本は同じく同一性の勝利に終わるはずなのに、まったくそう思わせない、むしろハラハラドキドキこれでもかいわんばかりに葛藤が出てくる。これは、なまなましい他者との葛藤をあつかった戯曲、小説たちが(ある変容を施しただけで)そのまま哲学として、取り上げられていること、からくるのだろう。アンティゴネ、ヴィルヘルム・マイスター、ファウスト、群盗、ドン・キホーテ、ラモーの甥、あるいは革命、ナポレオン、イエス・・・

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p128 isbn:4480082905

代理母の場合

 わたしたちの世界は所有権を不可侵のものとしているがこれはおかしい。例えば、世界的な美術品などを私有して破壊してしまうといった行為が許されないのは当然だ。同様に人間を私有することも許されない。しかし、現在日本でも過労死などはよく起こっている。これは実質的にその人間が私有された結果だと捉えられるのではないか。それに対し、基本的に分配可能なものは分配すれば良い、と立岩氏は言う。

 分配不可能なものはどうか。例えば、代理母が産む赤ちゃん。当初は子宮を貸すビジネスとして割り切れると思っていたがそうはならず、“そのもの”(赤ちゃん)とわかれられない。これが、「分けること、どちらかに帰属先を決めることが必要な場合もある。世界が既にあり、その中のあるものを私も欲しいしあなたも欲しい。」*1一つを半分に分けることはできない。そうした場合である。

 どちらに与えるか?実母(子宮提供者)に優先を与えると、ドゥルシラ・コーネルは言い立岩も賛成する。ただその理由は違う。実母に子供を手放せということは、「自らの性に関わる存在を表現する権利」を奪われることだ、とコーネルは言う。それに対し、立岩は「自らが作っていくその子との関係において、関係に対して自ら表現するものが権利性を規定するのだとすれば、親であろうとしている二人に区別はないのではないか。」

「その理由は、その人に対して、人との関係において、その人が接してしまった、既に会ってしまったことにある」だろうと立岩は言う。「そのこと自体においては自由なあり方ではない。」関わり自体は全くの偶然だったかもしれない、としてもその出会いをやり過ごすことが出来ず、出会ってしまった。「その存在に接する人、接してしまう人がそれについての権利を付与される」と考えるべきだろう。権利といっても、「それは決定できる権利ではなく、むろん処分できる権利ではなく、そのもとにいること、留まることについての優先を与えられるという権利である」が。

「ここで起こるのは、私の期待や願望が途絶し挫折すること、あるいはそんなたいそうなことは起こらないまでも、期待や願望と別のところに別の存在がいてしまうことを感じてしまうこと、そのことに伴って、そのものが存在し続けることに関わることを引き受けざるをえないと思う、そのような出来事である。*2

 ハイデガーはなぜ死についてなんか思索したのだろう、死ではなく誕生の方が微細に観察可能であり思索も深まるはずだと思った人は多いはずだ。21世紀になり立岩はついにその課題を達成しつつある、と言っても決しておおげさではないと思う。*3

*1:p267 isbn:4000233874 金銭を介した代理母契約は無効、とコーネルも立岩も言う。民法でもそうですね。ただ金銭を介さない場合、コーネルは認める。

*2:同書p270

*3:『私的所有論』の時から書いてたような気もするが。

『新潟』メモ1

金時鐘氏の長編詩集『新潟』*1の一部を読んでみよう。

この長い長い詩に作者は様々なモチーフをぶち込んでいるが、そのなかでも最も重く深い(表現不能性の方へ沈んでいく)モチーフの一つは、「1948年4月3日*2に火の手を挙げた済州島人民蜂起事件」*3だろう。その事件の無惨な敗北は、作者によって“やみくもにふくれあがった風船の中で自己の祖国は爆発を遂げた。”と言葉少なく語られるだけだ。だが祖国とは何か。祖国とは金時鐘にとって、済州島73,000人の死をその背後に張り付かせたものだ。

なぜ祖国は終戦とともにだけあったのか?!自己の少しもかかわりあわないところで生き返ったという祖国をみんなはどうしてそうもたやすく信じたというのだ?!少なくとも祖国は与えられるべきものではない。*4

 確かに大日本帝国は滅んだ。しかしたちまち、アメリカとソ連という二つの新たな勢力が朝鮮半島(この作品では形の類似から食用兎(ベルジアン)と呼ばれている)を分断するに至った。われわれのものである祖国は、終戦という瞬間において、確かに存在した。存在したとわれわれは信じた。だが失われた今となっては自らの闘いによって勝ち取ったものでもない祖国が本当にそこにあったのかも少し不安になる・・・そのような意味を読みとることもできるだろう。祖国への思いは今も金時鐘を呪縛している。

*1:isbn4-651-60048-4『集成詩集・原野の詩』 p299-478

*2:1953年と誤記していたので下記の指摘を受けた

*3:「済州島 人民蜂起 事件」をグーグルすると例えば下記が出てくる。http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htm というかよくみると野原のも3つ目に出てくるのだ。間違ってはいけない(自戒)。

*4:p404同書。これらの詩行は本当は、16行に行わけされているのだが、むりやりくっつけてみました。http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/niiga04.htm に縦書きで行分けした元のかたちを(前後をちょとだけ追加して)UPしてみた。

ブッシュ大統領の入植地容認発言を糾弾する!

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/mideast/news/20040415k0000e030062000c.html

毎日新聞によれば、「 米国はイスラエルがガザ地区からの撤退を約束する代わりに、ヨルダン川西岸について、イスラエルが必ずしも1949年の休戦ライン(第3次中東戦争の占領地外)まで撤退する必要はない、との言質を与えた。」とのことである。

入植地は今まで一貫して国際社会から違法とされてきたものだ。イスラエルはイラク国内を無茶苦茶にした責任の一部を負っているのにかかわらず、なぜこの時期にご褒美を貰えるのか?中東の平和に永続的な危機を与える、今回の容認発言を直ちに撤回せよ!

闘争

「詩というものが無数の表現方法をとるように、闘争にも無数の方法があると思いますから、*1」わたしたちは「闘争」という言葉につまずく。わたしは闘争主体に成ることができるのか?闘争主体として生きていくとはどういうことだろうか?闘争主体であることと「まともな就職」は背反する。闘争主体であることはこの社会がその上で成立しているルールに敵対することではないのか?わたしたちは資本主義なしに生きられない。わたしたちは国家無しに生きられない。であれば少なくとも、資本主義を否定する論理、国家を否定する論理を口にすることは思想的に潔い態度とは言えない。まず仙人になってから言うべきだ。このような気分は20年ほど前から社会を覆っている。そしてついに、自民党の柏村武昭・参院議員(広島選挙区)が、4/26日「そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」と、反体制的発言をする人自体を非国民としてバッシングする事態に至っています。闘争主体であることは可能なのか?

 まあ落ち着いて考えてみよう。最後の柏村発言について言うと、これは間違っている。現在「自衛隊撤退」の方が国益にかなう可能性は充分ある。その可能性に対し、「撤退」派を非国民と呼ぶことで日本は戦争から引き返せなくなって悲惨な目にあった。柏村氏は国会議員として日本の歴史に責任を持つ態度から逸脱している。次ぎに、国家や資本主義を否定する言説はどうか。国益を土台にする言説とは土俵が違う。土俵が違うだけのことで、前者が禁じられなければならないということではない。それに、国家や資本主義への否定といっても、わたしたちは「否定」を提起しえたことは一度もない。わたしたちは大学を占拠した。占拠の根拠に「否定」即ち革命があったわけではない。それは錯誤であり、そう信じた者たちの一部は連合赤軍事件で自滅した。占拠は不法、不当なものとされたが、それは情況の推移に応じてそうなっただけのことで最初からそうきまっていたわけではない。学生は大学に存在する。存在することはSEXすることや出産することでもあるが、通常それは授業の場としての大学の範疇からはずれるものとして指弾される。しかし存在することはつねに逸脱であるのだ。わたしたちはロボットではない。したがって忙しく仕事しながらも仕事以外のことをしょっちゅう考えていたりする。そうであることを禁圧することは、とりあえず雇用者の利益になると考えられる。しかしそれを完全に禁圧することなどできないし、そう考えられるだけのことでそうと決まった訳のものでもない。

 つまり、難しく考えなければ「わたしは闘争主体になれるのか?」というのは、「わたしはいつの日かSEXパートナーを獲得できるのか?」というもてない君の嘆きとほとんど同じ物にすぎない。後者の問いだって「わたしは話も上手くないし、収入も少ないし、根性もない」云々と列挙していけば、答えは限りなくゼロに近づく。うーん、ところで「闘争」って何だ?

*1:松下昇「わたしの自主講座運動」より http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040222#p2

金日成の肖像画

 水滸伝のような講談で、在日朝鮮人戦後史を語るなら、この大きな金日成の肖像画の登場が丁度真ん中辺に当たる。そして後半はひたすらうっとうしく本国からの指令と組織内の権力闘争だけがチマチマと続いていくことになる。以下はまあわたしの勝手な妄想なのだが、わたしたちは戦後約60年間を間違ったパースペクティブにおいて見ていたのではないか。戦後の最初の十年は飢えと暴力に表象される混乱期だった、と切り捨てられてきた。確かに飢えと暴力の時代だっただろう。しかしその裏面には真実の希望(日本人においては反省)もあった。五十五年体制。反体制派が社会においてそれなりの地位を占め慣性力を得たということは、「金日成の巨大な肖像画」に相当するものを自己のうちに育て始めたということなのだ。九十年代から左翼が退潮し右傾化したと言われているが本当は、五十五年の金日成の肖像画が歴史の転換点でそれ以後その<肖像画>は目に見えず、すり切れながら執拗に存在し続けてきたのだ。(6月11日追加)

秘密

 「秘密の使命ですって?何の使命ですか」と私は低い声で尋ねた。「何と無礼で手に負えぬ奴だ。少しも分かってないな。どんな使命か言ったら、秘密でなくなる」 こう言うと、ドゥリートは扉の下から姿を消した。 *1

ところで近代小説というものは、秘密についてだけ語り続けた。なぜだろう。秘密だけが価値であり価値だけが交換できるからだろうか。 

*1:p163『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』isbn:4773801050

丁玲による農村革命報告(3)

『太陽は桑乾河を照す』(ハト書房)からの引用、第三弾。この上下本は図書館から借りたのだが、1951年発行で作りが粗末、紙が全体に茶色く変色し外側は焦げ茶色になってしまっている。乱暴にあつかったらすぐにも壊れそうだ。

 さて今回は革命派のリーダー格二人が対話しているところ。主要人物メモの地主の筆頭にあげられていたのがS、「最も陰謀的な人物」でありその狡猾さは「息子を八路軍に入れている」といったところにも現れている。村内の階級闘争を進めるためには彼をまず第一に攻撃(清算)しなければならないのだが、いろいろな事情で出来ないできた。だが章品(彼は若いが経験を積んだ土地改革工作の指導者)が村に来たのをきっかけに流れは変わる。Sに対するみなの長年の怨みに火がついたのだ。だがリーダー二人は考え込んでいる。

 張裕民はずつと彼を送って出て行つた。彼らは話しつずけた。村の出口につくと章品は、やつとこう言つた。「おめえ、もう帰りな。何事につけ、百姓衆の意見を見てるだよ。そうすりや楽にやれるだ。けさのこの様子はどうだ!‐みんな意気ごんでるでねえか。もう闘争に立たねえなんて心配ねえだ。だけどな、えゝ--」彼はしばらく、ためらつていたが、とう/\次を言わすにしまつた。

 張裕民は彼をジッと見つめ、彼もまた張をジッと見つめた。ふたりは何の問題がこう引つかゝつているか、ハッキリしていた。なお、しばらくたつた。章品はもう口を開かずにおれなかつた。「あれ、どうあつても殺すでねえだぞ。」

「そんじや、おめえ方に渡すべえよ。」

 章品はまた考えに沈んだ。彼は良い方法を考え出せたかつた。彼は常々、村で工作しているので、農民組合の心持ちをよく知つていた。--闘争しないなら始めから闘争しない、その代り闘争始めたらトコトンまでやる。彼らは法律的手続きを経ることを望まない、彼らは法律的手続をとると、彼らが銃殺にすべきだと認めたような者が、ただの軽い刑になるということを恐れているo彼らはいつも八路軍が寛大すぎると思つている。彼らはまだ、より遠大な眼界を備えていない。彼らは仇をとることを要求し、腹の虫を収めることを要求する。だから、村によつては彼らは、何はともあれ、まず腕ずくで殺しておいてから、話を持ち出す。問題になると区や村の幹部はそれを百姓衆に押しつける、ところが百姓衆は多いので、結局、誰がやつたものか判らなくなる。章品は村の幹部が百姓衆と同じ思想でいて、みな将来の仕返しを心配していることを知つている。だから、やるとなればとことんまでやる。かと言つて、一時に多くの人に呑みこませようとするのは、まつたく容易なことではない。

「おらたちに渡す?そらよくねえ。県じや今すぐ、たくさんの人間を解決できねえだで、やつばり村で解決するだ。」

「うん、」張裕民は、やり切れなく感した。彼はひどく、とまどいながら、こう言つた。「おめえさん、どうして判つてくれねえだ?百姓衆が踏み切るか、踏み切らねえかあ、まつたく、こゝんとこだがなあ。」「おめえさんも、そういう考え方してるだか?」章品は言つた。

「幹部は、まあ、たいていこう考えとるだよ。」

「それが、やつぱり一種の宿命思想だぞ。おらたちあ、あいつを問い正さにやいけねえだ、勝手に人を殺しちや影響も良くねえ。おらたち、あいつの罪状をよくよく探し出して裁判所に出すことできるだよ。裁判所を通さねえで人を殺すなあ、まちがつとるだ。おらたちの、きようの闘争はだ、政治上であいつを叩きをつぶし,あいつに人民に向って頭を下げさすこつたでな、何も、あいつの肉体を消滅しちまおう、ちゅうわけじゃねえだで。ええか、おまえさん、みんなを説き伏せにやなんねいぞ。」

「うん」張裕民は、ただこう答えるほかなかった。*1

 階級闘争というほどのものも経験なく、まして殺すとか殺されるとか思いも及ばない私などには荷が重い問題だ。だがまあ話は分かる。昨日までの支配者に対して立ち上がる、それは素晴らしいことだがその後が問題だ。積年の恨みに裏打ちされた革命の熱狂のおもむくままに支配者を殺してしまう。だがそれは実は、支配者への恐怖を払拭できない主体の弱さそのものの現れではないのか。

「闘争のなかで宿命思想を滅ぼすこったぞ。」宿命思想、原文では「変天思想」となっていた。時代が変わったからもう今までとは違い何をしても良いんだみたいな思想を指しているのだろうか。Sを殺してはいけないとは言っていない。*2

革命とはわたし(たち)が主人になることだ。彼を殺すか殺さないかは、彼がどれだけひどい奴だったかまた更正の可能性がないのかなどを考えた上で、正面から殺せばよい。情念の吹き上がりや裏に隠された恐怖なんかによって殺してしまったら、その場はそれで治まっても、天の理法にそった革命ではなくなり、権力の為の権力に堕落していくしかないのだ。と、彼らは理屈では分かっている。しかしそれを実現していくことができるのか?

*1:ハト書房 p380-382

*2:殺すとか殺されるとかいう極限的情況に立ち至ったことが無いだけなのに、そうである自己を掘り下げもせず「殺人は悪」という善の立場に立って安心しているひとが多いが、どうかと思います。

日本的精神とレイプ

10/13の犬伏氏の言う「日本国及び国民の誇り」というものは、明治三〇年頃井上が確立しようとした「日本的精神」の出涸らしの出涸らしではないか。

幾多の日本人がレイプしたという事実はあった。しかしながらそれが「日本的精神」に関わるものであれば、日本的精神とは唯一の普遍であるのだから、それがレイプすることはありえない。日本的精神が支配する言説空間においては、事実が事実として認められることがない。

イラク人ライードさんより香田証生さん拘束事件に関連して、

次のような公開書簡が翻訳されているので、こちらにもコピペして掲げさせてもらう。

自衛隊のイラクでの存在に対し、復興支援などという名目を信じて(信じようとして)いる人もいるが、今頃給水車をまわすことに意味などない。意味は、「ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与え」るという点にしかない。

http://raedinthejapaneselang.blogspot.com/ Raed in the Japanese Language; originally Raed in the Middle(日本語)

日本の方々への公開書簡(4月に引き続き)

今イラクで起きていることをいかに僕が悲しく思っているかを,みなさんにお伝えしたいと思います。そして,一般のイラク人には,事態に無関係な若い日本人人質の香田さんを見つけるために,あるいは彼を解放するためにできることは,何もないのだということをお知らせしたく思います。

どうかわかってください,一般にイラク人は日本には敬意を抱いています。第2次世界大戦後に国を再建した日本の方々を尊敬しています。あの残虐で非人間的な一般市民に対する核攻撃は,人間の歴史始まって以来,最悪の大量殺人のひとつです。イラク人は日本の文化的体験を信じているし,日本のみなさんがなさってきたこと,今なさっていることから学ぼうとしています。

どうか知っておいてください。僕はこれまで,日本の人々に対して憎悪や敵対心を抱いているイラク人には,まったく会ったことがありません。これらの誘拐事件は,イラク人の多数が抱いている日本の方々への感情を表しているものではありません。僕たちのほとんどは,これらの事件が起こらなかったらよかったのにと願っています。

僕たちの文化の関係が,このような暴力的な事件で始まらなければよかったのにと願っています。

しかし残念ながら,今回の誘拐は,前回の日本人誘拐とは異なっています。イラクがこの6ヶ月の間にいかにややこしく混沌とした状況になってしまったか,それを僕は知っています。

どうかみなさんの政府に,イラクから日本の軍隊(military Forces)を撤退させるよう,もっと圧力をかけてください。事態の解決は,ブッシュ政権(あるいはケリー政権)とイラク人に任せてください。これは彼らの為すべきことなのです。ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与えないでください。イラクにあなたがたの国の武装集団(your military groups)がいることは,ただ単に,政治的なものなのです。米国政権の誤った対外政策を支持するためだけなのです。人種差別的な「アメリカ帝国のための戦争」を支持することは,あなたがた平和的な国民のしたいことではないでしょう。

どうかお願いです,あなたがたの息子さんや娘さんを,イラクで戦死させないでください。お願いです,あなたがたの一般民間人の息子さんや娘さんがイラクで殺されるようにしないでください。あなたがたの政府にこの新種の大量殺人に参加させ,あなたがたと僕たちの間に暴力と憎悪の恐ろしい歴史を始めないでください。新たな広島・長崎を作るのを,手助けしないでください。

http://raedinthemiddle.blogspot.com/