水滸伝のような講談で、在日朝鮮人戦後史を語るなら、この大きな金日成の肖像画の登場が丁度真ん中辺に当たる。そして後半はひたすらうっとうしく本国からの指令と組織内の権力闘争だけがチマチマと続いていくことになる。以下はまあわたしの勝手な妄想なのだが、わたしたちは戦後約60年間を間違ったパースペクティブにおいて見ていたのではないか。戦後の最初の十年は飢えと暴力に表象される混乱期だった、と切り捨てられてきた。確かに飢えと暴力の時代だっただろう。しかしその裏面には真実の希望(日本人においては反省)もあった。五十五年体制。反体制派が社会においてそれなりの地位を占め慣性力を得たということは、「金日成の巨大な肖像画」に相当するものを自己のうちに育て始めたということなのだ。九十年代から左翼が退潮し右傾化したと言われているが本当は、五十五年の金日成の肖像画が歴史の転換点でそれ以後その<肖像画>は目に見えず、すり切れながら執拗に存在し続けてきたのだ。(6月11日追加)
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「対話概念を変換し…」
松下昇は、概念集5のp7「批評概念を変換し…」で次のようなことを言っています。
批評、とかいっても文学というものがあり批評というジャンルがどこかに存在するわけではない。
批評とは「任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する」そうした行為の総体を指す概念 である。
「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分のやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」その動きや方向の無意識性を対象化していくということが大事な課題である。*1
日常でも掲示板などでの対話でも、自分があたりまえだと思っていたことが相手にとってはそうでなかったと気付くことはよくあることです。発想の差異は、論壇においてはいくつかの座標軸によってきれいに分布しているかのように表象されます。しかしわたしたちが日常で出会う他者はそうした場(テーブル)に存在しているわけではありません。たとえば相手が小学生であればいくら正しいことを言ってもそれが「意見である」と検討されることすらふつうはありません。AとBとの自由で理性的対話によって民主主義の基礎が形成される、それは肯定すべきでしょう。しかし私たち日常の対話は性別とか役割、年齢など、位置~関係~存在様式の差異によって大きく左右される。インターネットは一般論として、誰でも参加できまた、各参加者間の形式的平等が保証されているというおどろくべき長所を持っているように見える。それは嘘ではないし長所は活用していくべきだ。ただここで指摘された「存在様式の差異」といった問題は残っている。忘れられているとすればいっそう何かを抑圧していることになる。
さて各主体間に存在様式の差異が存在したとして、それが矛盾であり止揚されるべきものだ、とアプリオリに決めつけるのはおかしいのではないか、と読者の大半は(読者がいたら)思っただろう。(差異という言葉こそポスト・モダン情況の指標の一つであり、それは矛盾、止揚や闘争というタームの忌避を伴っていた。)だがわたしたちの存在様式が分断されており、そのせいで対話ができないなら、その矛盾が解決されなければ対話は開始できない。
意見を言うとはどういう事態なのか?それは知識を持つ者だけに許された特権的な価値のある行為なのか。そういう側面があることは否定できない。例えば自分がある意見を持っているとしてそれを1枚のビラにして見ろと言われればかなりの勉強と労働が必要になる。だがそうしたあるレベルを越える勉強というハードルを越えないと意見を言ってはいけないのか。断固としてNOと応えたのが全共闘だろう。
言説を精緻化することは敵の土俵に乗ることであることが多いし、そのことに無自覚であると敵の論理に巻き込まれていってしまう。そうではなく、他者からは幼くナイーブに見えたとしても「わたしの怒りの原点」といった初発性を忘れずに耕していくことの方が、困難で貴重な営為である。<69年性>といったものをそのようにパラフレーズしても良いのだろうか。
わたしたちは誕生から死滅の瞬間まで言葉と言説にまみれて生きている。「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベル」において批評の根拠ないし原初形態が常に出現している、という把握はさすがだと言わなければいけない。「また料理のように自分のやりうる範囲で」というフレーズは分かりにくいが、料理が苦手な人がそれでも料理をした場合なんだか変で美味しいとはとうていいえないものができあがるがそれでも食べられないことはないのだ、みたいな感じか。
言説といったものを考える場合、フーコーのエピステーメーみたいに全体的に考えるか、それとも個々の差異に注目するかのどちらかになりがちだ。この隘路を抜け出すためにエージェンシー(行為体)への注目(バトラー)などがなされた。松下も“批評の根拠ないし原初形態”を原点として持ち上げるのではなく、その近傍を含んで把握しさらにそれ自体ではなく〈その動きや変容〉(とそれが無意識のうちに起こっていること)にこそ注目すべきだ、と考える。
わたしたちは、まいにち他者に出会いながらそれをなんとかやりすごして日々をおくっている。まあ生きるとはそうしたことなのだろうが、対話(に似たこと)をしている以上はわたしたちはいつでもそれをもっと深めることはできるのだ。
参考 http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/hihyo.html#hihyo
*1:以下、『概念集・5』より原文を引用しておく。「私にとっては批評という概念は基本的に、概念集3の〈批評と反批評〉の項目が引き寄せる領域で揺れ動いており、より厳密にいいなおすと、任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する時に対象とする概念として論じようとした。どこかに批評というジャンルがあるのではなく、一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分でやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現しているのであり、その動きや方向の無意識性の対象化こそが各主体にとって不可避の課題であるということは、六九年情況を潜った私にとって自明であった。私が一連の資料の刊行を私が書いた批評集ではなく、私について書かれた国家(α)やマスコミ(β)や文筆業者(γ)による批評の集成から開始した契機は、このような把握からの必然であったし、この試みは段階や度合の差異はあるにしても、任意の人によって、いや、まずプロの批評家によってやってみる価値のある作業であると確信している。」
無料のアンティウイルスソフト
だいたいわたしはセキュリティ感覚がない方なので、アンチウイルスソフトも入れていない。(今のところ迷惑は掛けていないと思う・・・)うちのもう一台のパソコンはマカフィーを入れていたが1年の期間が切れ継続版を購入した(金をコンビニで払った)がダウンロードに失敗、返金してもらった。で頭に来てアンインストールしてしまった。ので無防備な期間があったが、やはり入れろと言うので、考えた。ある人がMLで教えてくれた、AVG Free Edition というのをダウンロードしてインストールしてみた。
http://free.grisoft.com/freeweb.php/doc/2/lng/us/tpl/v5
すると翌日、うちの子(小学生)が面白フラッシュの頁かなんかを見まくっていて見事感染。(前回は、トロイの木馬という大騒ぎするほどのこともない奴ということだった。今回のも、デスクトップがどんどん壊れていき見た目は派手だが、たぶん同じようなものだったのだろう。)(リセットしたが「ウィルス検出」という警告はでなかった。)早速、【Complete Test】を行う。半時間ほどで終わり感染ファイル1個を発見。(それだけで隔離してくれている?)ウイルスソフトのこともよく分かっていないし英語も読めないのでたよりないが現状肯定。
チェコのソフトだそうです。無期限無料。軽いなど市販品より良い点もあるらしい。
http://airtracks.hp.infoseek.co.jp/ 【AVG-JP】
日本語化パッチがある。(やってみました)
http://homepage2.nifty.com/asagiura/afswoos/f_avg.htm
こちらには、AVG日本語化ウィンドウ一覧 がある。
http://homepage2.nifty.com/asagiura/afswoos/f_sec.htm
ついでに、キプロスのファイアウォールソフトの紹介もある。
http://www10.plala.or.jp/palm84/avg_free.html
詳しい説明。AVG Anti-Virus Free Edition 6.0について
(11)
# Cman 『おやおや、逆ギレですか・・・。批判されることに耐性がないならコメント欄を外したら如何でしょうか。それか、反対意見はお断り、と注意書きをしておくとかしたら。』
批判がないから怒っているのだが?
著作権者は文化を殺すな!
日本音楽著作権協会(JASRACジャスラック)が、著作権使用料徴収の「前線」を拡大している。今まで慣例的に支払ってこなかったライブハウスやジャズ喫茶、ディスコ/クラブにも積極的に督促を始めている。
http://d.hatena.ne.jp/miyutomo2/20041111#p3 はてなダイアリー – 遠くまで。
言ってはいけない「女が好き」
デリダが女の形象を発見したのは固有化(略)の批判によってである。このようにしてデリダは、非決定性の「記号」、真正ならざることを固有財産とするものの「記号」である(理想化された)女を盾としつつ、男根中心主義の伝統から自らを差異化した。*1
(スピヴァク『文化としての他者』紀伊国屋書店p96
現代思想12月デリダ特集p216 新田啓子氏の文章から孫引き)
新田氏の解説によれば、スピヴァクはここでデリダを批判しているらしい。こんなふうにデリダは「女」という記号に特権的普遍性を与えてしまった、と。「ゆえにスピヴァクは一見フェミニスト的な正義に溢れる「世界」ではない、どこか「他の世界」を選び、決定不可能な意味の受け手として、他者の到来を待つことを選ぶ。*2」でも他者であるなら到来しない可能性もあるからあまり良い考えにも思えない。
イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。しかし、この暴力の連鎖は確実に、「敵」と「味方」を峻別する政治を永続化し、殺伐としたものとなるだろう。*3
新田は間違っている。50年以上前に遡る「イスラエル政府の残虐性」を正確には認識してこなかったヨーロッパ-アメリカの知の布置が倒錯であると知らずに「言うまでもない」など言ってみても、仲間内のエクスキュズにしかならない。イスラエル政府を正確に憎悪することこそが、「「敵」と「味方」を峻別する政治」から抜け出す道である。
であるからして、わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。
インドネシア・アチェへの支援を
スマトラ沖地震については、Pナビ経由で、下の二つの記事を読んでください。
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200412311924.htm P-navi info : スマトラ沖地震 インドネシア・アチェへの支援を
http://www.nindja.com/ ■スマトラ島沖地震:アチェの被害者への緊急カンパのお願い
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/aceh0412.html 「アチェ:津波と占領の犠牲」
自然災害の被災者には純粋の善意をもって援助したいが、現地の政治対立の一方に肩入れしたくはない、というのは一見もっとものようだがそれでいいのだろうか。
日本政府はインドネシアに対する最大の援助国だそうです。
ところが「インドネシア軍は、アチェの自由アチェ運動(GAM)を「テロリスト」と呼び、アチェ民間人に、超法規的処刑、拷問、不法拘留などを加え続けてきました。」
現在世界は史上はじめてアチェに目を注いでおり、もしかすると今後二度とこんなに熱心にアチェに目を注ぐことはないかも知れません。けれども、今回の自然災害で5万人あるいは6万人がアチェで死んだことは劇的で恐ろしいことですが、けれども、それは、アチェでここ数年、貧しい状況のため、餓えや栄養失調、下痢などで主に子どもに出た死者の数よりははるかに少ない死者数なのです。(アラン・ネアン)
インドネシア軍がなぜインドネシア国民を抑圧し殺害しなければならないのか、わたしは勉強不足でよく分かっているわけではない。だけども上記二つのサイトに書いてあることはおおむね正しいのだろうと判断する。
控訴棄却
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/isaiban_ichiran.html 「慰安婦」裁判一覧 を見ると多くの裁判があって、負けてきたことがわかります。
■(東京高等裁判所判決 2000.11.30)平成一一年(ネ)第5333号 謝罪等請求提訴事件
【判決要旨】 控訴人 宋神道 被控訴人 国
の一部分だけ引用します。
一 国際法又は条約に基づく直接の請求権について 及び
三 国家賠償法に基づく請求について、については全く抜かしました。
二 民法に基づく請求について
1 従軍慰安婦の設置運営は、戦地での旧日本軍兵士管理の一環として行われたものであって、慰安所における慰安行為ないし売春行為に旧日本軍の公権的監督が日常的に及んでいたとまでは認められず、旧日本軍と慰安所経営者との間には慰安所を軍が専属的かつ継続的に利用する専属的営業利用契約に相当するいわゆる下請的継続的契約関係があったと推測される。
控訴人らは、その意思に反して慰安所経営者との従軍慰安婦の雇用契約を締結することを強いられ、隷属的雇用関係の下で、慰安所経営者と旧日本軍の管理の下で、日常的に長期にわたり旧日本軍人に対する強制的売春を強いられていたものであると認められるから、当時の公娼制度を前提として考慮しても、慰安所経営者と旧日本軍人の個々の行為の中には、控訴人らの従軍慰安行為の強制につき不法行為を構成する場合もなくはなかったと推認される。そのような事例については、被控訴人に慰安所の営業に対する支配的な契約関係を有した者あるいは民間業者との共同事業者的立場に立つ者として民法七一五条二項の監督者責任に準ずる不法行為責任が生ずる場合もあり得たことは否定できない。
(略)
3 控訴人ら大韓民国の国民の日本における財産、権利及び利益については、昭和四〇年の日韓基本条約、協定の成立までは、その処理、権利等の実行の帰趨が確定していない状態にあったと認められるから、このような特別の事情があることにかんがみると、控訴人が遅くとも昭和二〇年八月十五日迄に取得した可能性がある被控訴人に対する損害賠償請求権については、その除斥期間の起算日は、…昭和四〇年一二月十八日であると解すべきである。そうすると、控訴人の被控訴人に対する損害賠償請求権等は、昭和六〇年一二月十八日の経過により、除斥期間の満了によって消滅したものと認められる。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/zainichi_hanketsu_kou.html 在日「慰安婦」裁判高裁判決
従軍慰安婦問題は裁かれるべきか
従軍慰安婦問題は道徳的に遺憾なことだったかもしれないが、法的に有罪ではないではない、と主張する人たちがいます。
いまや上記星野氏も感じ取っておられるように“従軍慰安婦問題については見たり聞いたり感じたり”してはいけないという空気が日本国内を覆っているといっても過言ではない情況です。そこで、「法的に有罪ではない」が圧倒的に優勢なのではないか。
しかしそれは違うだろう。http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050127 に野原が付けたコメントを自己引用。
「オランダが開いたバタビア(インドネシア)軍事裁判で35人のオランダ女性が被害を受けたことで、日本の軍人が死刑および2~15年の刑を宣告されたことが、「慰安婦」について裁いた唯一の裁判でした。p9全記録1」いわゆるBC級戦犯ですね。これを基準にすれば(実行者については)犯罪であることは認められた、ということです。非日本のアジア人女性はオランダ女性に比べてかなり差別されていたので、立件されなかっただけ、と理解できます。46-48年頃には各国にちゃんとした主権国家がまだなかったわけだし。
帝国主義国を警戒せよ
国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可からずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。
福沢諭吉 p256『文明論の概略』岩波文庫
なぜ、アメリカとかを警戒しなければいけないのでしょうか?
今の亜米利加とは元誰の国なるや。其国の主人たる「インヂヤン」は、白人のために逐われて、主客処を異にしたに非ずや。(p252、同上)
事実は諭吉の言うとおりなのに、わたしたちはなぜアメリカのことをそういうふうには絶対考えないのでしょうか?