遺体を運び出そうと

ジョラン地区*1のせまい通りを通れない戦車は、構わず両脇の家々をなぎ倒して進んで行きました。攻撃に一段落した皇軍*2は、市内中にあふれる遺体を金属のフックでまとめて、装甲車でひきずって行きました。遺体は空き地に集められました。まるでゴミのような扱いでした。住民は米軍に見つからないように、チャンスを見つけては遺体を空き地から運び出そうとしました。身元の確認ができればそのリストを作りますが、いずれにせよ、どの遺体も墓地まで運ばれるべきなのです。しかし、どの遺体も姿からは身元を確認できる様子ではなく、ポケットにある身分証明書などが頼りでした。ほとんどの遺体が体内に溜まったガスで膨れ上がり、犬に食い荒らされていました。

 総攻撃の少し前あたりから、今まで見たこともないような大きな犬をよく見かけるようになりました。私は犬を怖いと思ったことは今まで一度もなかったのですが、ある時、モンスターのようにでかい犬が口からだらだらとヨダレを垂らしながら、私の乗っていた車のフロントガラスに突っ込んできました。私は恐ろしくなり慌てて猛スピードで逃げました。この頃から病院などで狂犬病にかかった人たちが次々と運ばれてくるようになっていました。町中を大きな犬が走り回り、人間に喰らいついていたのです。

高遠菜穂子さんのブログから引用した。http://iraqhope.exblog.jp/ 2005.1.11 イラク・ホープ・ダイアリー より。ファルージャ支援のプロジェクト・メンバー、カスムからのメールより。

 イラクは日本から少し遠いとはいえ、現在のアクチュアルな課題である。しかもわれわれの代表たる小泉氏が「支持」をきちんと公にした米軍によるファルージャ攻撃の一こまである。わたしたちはファルージャの惨状の事実を知るように努め、それを元に小泉へ政策変更をせまっていかなければならない。それはそうなのだが、わたしがこれを引用したのは、上記の70年以上前の東アジアを舞台にした寓話的小説のトーンと非常に似ている、という気がしたからです。事態が残虐すぎるとそれを伝えようとする文は深い静寂をたたえてしまう。静謐なシュールレアリズム。(1/12追加)

*1:ファルージャ市内

*2:本当は米軍

N・B氏発言(3回目)

(1/25 21時、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

連続投稿、歓迎していますよ!

ちょっと……応答が遅れていてすみません。

# N・B 『 どうも、連続投稿すいません。あまり重大に取られるとちょっとまずいかなと思っています。ただ、誤解があるかもしれないのでとりあえずもうひとつだけ。前提として、私は野原さんの発言に賛成です、1月23日の『「正義の模索」を「高次の正義の設定」にすりかえるのはやめていただきたい』という意見は全く賛成です、あの日の書き込みはそれについての追加意見のつもりでした。このようなすりかえがただ現状追認だけをもたらすのは明白です。

    

 ところで、今までの議論の参考になるかもしれないような、書籍とネット上のやり取りをいくつか紹介します。ご存知かもしれませんが。

「アウシュビッツと表象の限界」未来社、「三点確保」山田広昭(現代に問題としてカール・シュミットを考えるためには、ライブラリ相関社会科学12号や現代思想03-12に寄稿されている方の論文がいいと思いますが、とりあえず単著を)、「1968」作品社(とりあえず座談会の後半を立ち読み、現代日本の話です)

 内田樹さんのブログをめぐるやり取りです、以下に差別言説への批判が厄介かという見本のようなものだと思います。

http://blog.tatsuru.com/archives/000672.php http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050114

http://www.osk.3web.ne.jp/~irabuti/ http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/

 NHK問題について、まっとうな意見として。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/ 

http://deadletter.hmc5.com/blog/

 暇人に付き合ってくださりありがとうございます。私は暇ですからこれからも反応しやすいと思います。忙しいところ失礼しました。』

善に対する正の優越

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050210 note of vermilion で、下記サイトを教えてもらった。

http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/priority.html THE PRIORITY OF THE RIGHT OVER THE GOOD

ちなみにマイケル・サンデルは、「善に対する正の優越」には二つの意味があると説明している。一つは、個人の権利は社会一般の善のために犠牲にされてはならない (功利主義批判)、という意味で、もう一つは、上で述べたように、これらの権利を規定する正義の原理は、いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない、という意味である。 (see `The Procedural Republic and the Unencumberd self’)

Right であってJustice ではない、わけだが、それがどう違うのか無学な私には分かりません。ところで、「いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない」といくら言っても、すべての(ほとんどの)善は金に換算(表現)できるという思想によって私たちは制圧されているのではないのか。リベラリズムとは結局の所、権利=「かね」の自由を制限するなという主張ではないのか? という疑問も。

(2/11 12時追加)

“搾取されながら売春する”権利(7/5追記)

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050618/p2 より

「人身売買罪の創設やテロリストの不法入国対策を盛り込んだ改正刑法、改正出入国管理・難民認定法などが(6月)16日午後の衆院本会議で、全会一致で可決、成立した。」とのことである。

○江田委員 ・・・(略)

今回の法律案につきましても、売春をすることについて同意をしている場合であっても人身売買罪が成立するのかどうか、そこを法務当局にお伺いいたします。

○大林政府参考人 御指摘のような事例におきまして、表面上被害者がみずから売春をして金銭を稼ぐことに同意していたといたしましても、本来は、不特定多数の相手方と性交等を行うことなどを希望しているものではなく、家族を貧困から救うため金銭を稼ぐには売春によるほかはないと考えてやむなく売春に及ぶに至ったと見る事案がほとんどであろうというふうに思われます。このような場合には、被害者の同意は自由かつ真摯な意思に基づくものとは認めがたく、当然に犯罪の成立が否定されるものではない、このように考えております。

「駆け込みたい」と思ったときにそうできる権利を保障していくべきだろう。

世界のじくじくした縁(へり)

「世界のじくじくした縁(へり)」という題の文を書きたいと思っている。

 私と世界は自明のものとして私に与えられている。私が健康である限り世界も健康である。語りうるものだけが世界である。あるいは語りえないものはしかるべき祭壇におさまっている。ものはあるかないかのどちらかであり、あるともないとも決められないものはない。

 そのような世界像が果たして正しいのかどうか、を問いたいのだ。そうではなく、世界の縁(へり)はつねに揺らいでおりじくじくと滲んでいるのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050212#p1 で「素顔は差延する」という奇妙なタイトルで、あるところである人が死んだ話を書いた(コピペした)。ある人とは誰か。ある若い妊婦と書いてあったがいまは名前は思い出さない。

「わたしは彼女を思い出さない。」この文章はパラドックス(成立しえない文)である。対象が特定できたとすればそれは思い出したということであり、「思い出さない」は虚偽になる。彼女という言葉が発せられた以上それはなにものかを指しているわけですから、「対象が特定できなかった」場合はありえない。忘れたものはその対象を名指しえない。

 ある若い妊婦の話は、もちろん私に何の具体的関わりもない。あるメルマガで流れていたものをたまたま引用したのだ。それを引用した動機は二つ在る。一つはインドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人、そのことにわたしたちは関心を持つべきだという社会派としての関心。もう一つは、ある女性の死(殺されたこと)が私に関係あるのかどうか、という哲学的問いの素材としての関心。前者を否定できない以上、後者を取り上げるのは不謹慎だ。だがわたしの問題意識は2/12の段階でも後者に比重があった。

「ある人の死(殺されたこと)」とは私にとって何だろう。いまこのブログは二人の死者の名前をヘッダに掲げている。死者の名前を何に利用しようとしているのだろう。死者は決して語り得ない。したがって死者の名前に言及することは彼女のものであった何かをわたしが横領することであり暴力的である。だがヘッダの二人の名前は私によって選ばれある効果のためにそこに置かれている。わたしは幾ばくかの関係を彼女たちの名前との間に結んでいるのだ。また、id:noharra:11001201に、トマサ・サリノグ、朴永心という二人の女性の名前が証言と共に載っている。名前ではなく「従軍慰安婦」というおかしな普通名詞で呼ばれるだろう彼女たち。国際法廷とは普通名詞ではなく固有名としての彼女を奪還する闘いでもあった。この4人に対しては「あなたを忘れない」との思いを肯定する多少の人々の集まり(それぞれ別の)があるだろう。だが東アチェ郡の彼女について、「あなたを忘れない」と思っている人はほとんどいない。わたしにしてもそれほどの思いはない。そうした状況は是正されるべきだ。インドネシアにおける国家犯罪に対し、日本国家と国民はイスラエルのそれに対するよりずっと大きな責任を持っている。そのことは事実であり、皆がそれを自覚すべきなのだろう。

 一瞬通り過ぎたがそれきり私とは何の関係もないあるニュース。わたしが私である限り、知っているものだけでわたしは構成されている。というのは嘘である。世界の果てには幅広いじくじくした領域があり、そこではたくさんの殺人やレイプがある。そうであるのにわたしたちはそれを深くは気にせず生きている。2/12に書いた死者とわたしとの間には関係は成立していない。いや正確には「成立している」と記述する必要はない、とわたしは思う。

 わたしは奇妙なことを言おうとしているのだ。なんども書くが、「インドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人」としての彼女についてはわたしたちは関心を持つべきだ。だがそのようにその彼女をわたしたちの価値の内側に引き入れたとき、その外側にじくじくした領域は残る。

愛国心

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050316#p5 ここなどで、引用されている文部科学省の調査結果。自分の将来に対して肯定的な子供が少ない、とのことだ。うちの子ども(小学校高学年)に聞いても将来に対し驚くほどシニカルである。こんなことではいけない(将来に夢がなければがんばって勉強することもできない)。「テレビを見て、ゲームをして、インターネットで検索して、たまにスポーツする」という彼らの生活は多くの大人と全く同じだ。ゲームなどに費やす時間においては彼らの方が恵まれている。金は大人の方が持っているだろうが、それによって決定的差はつかない。RPGを楽しむ能力は中学生、高校生の方が上だという可能性は充分ある。であれば大人にならなければならない、という動機は持ちようがない。「しかたがないから(勉強を)やってやるか」でしかない。大人しかできないことは、

α・自立した生活を自分で建設すること  β・他者(子どもを含む)と家庭をつくること  γ・連帯し社会を少しづつでも変えていくこと  くらいかな。金を稼ぐことは本来、αの手段でしかない。しかし子どもたちは人生とは消費であると教えられている、テレビで。金を使うことが善でありそれ以外は無である。そうだとするとαは「金を稼ぐこと」になり、βは「絵に描いたような幸せ家族」を作ることになり、実際にやってみると敗北感しか味わえないことになる。

 どうしたらいいんでしょうね~

森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。(pavlusha/20050316#p5より)

自国という言葉を、“自分が生きている社会”と捉えれば異論はない。わたしたちはわたしたちの社会の主人のはずなのに、なぜこんなに閉塞感があるのか。

この国の若者だけが「戦争を仕掛けられたら国のために戦うか?」という問いに1割足らずしかYESと答えない現状は、こっけいである。

(略)

結果論で、現代の価値観で、父祖の世代を否定ばかりするようなイデオロギーにふりまわされ、歴史の負の部分にばかり焦点を当てるような偏向教育とはおさらばしたい。

http://www.cty-net.ne.jp/~my5913/aikokushin.htm

“自分が生きている社会に誇りを持てない”若者を産みだしたのは、「偏向教育」だ*1、なんていうのは責任を一部の人に押しつけているだけだ。

 愛国心を涵養するために、日の丸君が代を卒業式などにだけ強制する。愛国心ってなんだ。60年前だらだら戦争を続けた責任は誰にあるのか、それに応えずに戦前と戦後を断続させることによって利益を得たのは誰か。吉田茂などの支配階層ではないのか。

 愛国心がないところで、日の丸君が代を強制しても奴隷根性の涵養に役立つだけでしょうに。

*1:あるいはアサヒ・岩波文化人だ

日の丸君が代百年戦争

クローズアップ現代「国旗国歌・卒業式でなにが起きているか」。 ここにも貼っておけばよかったのだが、昨日夜7:30分からNHKで上記の番組をやるという情報が入ったので、ビデオ取って(冒頭が切れたが)今朝見ました。

 さすがNHK、hatenaでもたくさんの人が見ているようです。

目に付いた物だけちょっと挙げておきます。

(1)

http://d.hatena.ne.jp/Taipei/20050328/p3

そもそもそんな問題出るなら卒業式に日の丸掲げる必要もないし、君が代歌う必要もないんじゃねぇの?

http://d.hatena.ne.jp/ryamu/20050328#p7

確かに大切にする、と言う気持ちはわからんでもないが、監視して

命令して、違反したら処分があって…やりすぎのような。

…そんなギクシャクするような法律、指導方針って、おかしいよね?

日本人は卒業式が好きだ。*1

ある時同じ校門を通って卒業していった仲間。その幻の団結こそ、私たちが遠い昔に失ってしまった原郷(パトリ)であるあろう。その平穏を乱すものは誰か?「日の丸君が代を強制する当局」がそれなのか、それとも「日の丸君が代強制に反対する教師・生徒・市民」がそれなのか?

 「秩序を大切にすべきだ」というのはもっともだと言わざるを得ないのだが、強制される「卒業式の日の丸君が代」は、「既成の国家=秩序」(あるいは戦後的秩序より戦前的秩序)への服従というイメージが強すぎる。アンチ日の君派を育てているようなものではないか。

(2)去年より、当局は後退しているという良い情報。

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050328#p2

前回の卒業式には都の教育委員会から2名来校し、1名は来賓席、1名は教師の席のうしろから、監視をしていたというが、今回は来賓で来た1名のみだったという。政府見解とは違い、生徒の内心の自由を犯しているということで第二弁護士会からでた声明*(註)を教育委員会も無視できないものになっているようだ。

(註)1999年(平成11年)7月21日の衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会においても、国旗・国歌の指導について「何らかの不利益を被るようなことが学校内で行われたり,あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはなら」ず、「学習指導要領は直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」と確認されている

(3)

http://d.hatena.ne.jp/Arithmatix/20050328#p1

生産現場の人間が、生産現場の上っ面しか知らない得意先の人間につまらないクレームつけられているようなもんだ。現場のプライドや良心踏みにじって教育もクソもあるか。もちろん、発注主はあんただ。でも、客は神じゃない。やっていいことと悪いことはあるんだ。受注愛国心ってのは誇れる自分たちを持って、大人たちや社会や友達や文化を知って、初めて生まれるんじゃないか? 君が代日の丸にビッとしてその中身育てなかったら、そんなん何の意味もない。裸の王様にすぎないぜ。そんな下らないことに心血注いでえらそうな顔してやがるなら、大田区の弱小工場の技術を後世に残せるような政策を考えやがれ。額に汗して、低賃金にあえぎながら、世界の技術の底辺を持ち上げているあの親父たちの生活を楽にしてやれ。彼らこそニホンの誇りだろう? あの職人たちを胸張って誇れるような教育がまずいるんじゃないか?

 愛国心を肯定して論を立てるか、否定して論を立てるかをこの間ずっと議論してきた*2のだが、上の論者は前者。

愛国心とは、“大人たちや社会や友達や文化、そして自分たちへの愛”であるはずだ。そうでない【強制される愛国心】はなんだか変 で嫌! という意見。強く同意したい。

*1:同級生を殺害した犯人も同級生の輪の中に入れるべきだと考えるひとも少なくない。

*2:強制に賛成の人は後半の参加者にはいない

宗教上理由で君が代拒否

宗教上理由で君が代拒否 / 欠席扱い撤回を / 石狩管内の高校生

宗教上の理由で三月の卒業式での国歌(君が代)斉唱を拒否し、式に出席しなかった石狩管内の道立定時制高校の在学生(17)が、学校側が「欠席」扱いにしたのは不当だとして、学校に撤回を求めている。「日の丸」「君が代」実施をめぐり、生徒が学校の対応に抗議するケースは異例。生徒に「式に出席しない権利」は認められるのか。また、生徒が「出席できない」と申し出た場合、学校はどんな対応ができるのか。今回のトラブルは、そんな問いを投げ掛けている。

 抗議しているのは、宗教団体「エホバの証人」を信仰する男子生徒。

 同校は式の数日前、在校生に対しホームルームで、国旗・国歌の掲揚、斉唱を実施する方針と同時に憲法で保障された内心の自由を守るため、「歌う、歌わない権利」「立つ、立たない権利」があり、「それによって不利益を被らない権利」があることを説明した。

 生徒は副担任の教師に信仰を打ち明けた上で「出席できない」と申し出た。「君が代の歌詞が教義で禁じている偶像崇拝に当たる。自分で歌わなくても、聞けば音楽が耳に残ってしまうので、その場にいたくなかった」と訴えている。

 副担任が、国歌斉唱終了後に入場できるよう受付係をするなどの方法での参加を提案したが、生徒は「これを受けてしまうと、来年も再来年も同じ事で、何の問題解決にもならない」と拒否、出席を見送った。

 生徒は「学校が式に出席できない状況をつくつているのに、事務的に欠席扱いと処理されるのは、納得できない」として、「欠席」扱いの撤回と同時に、来年以降の配慮ある対応を求めている。

 これについて、校長は「一人のために国歌斉唱をやめることはできない。欠席した生徒は規則上、『欠席』以外には扱えない」と従来の対応を変える考えがない意向を示し、今後については「生徒と話し合い、学校の考えを理解してもらいたい」としている。

 しかし、副担任は「公立学校はどんな考えの生徒も行事に参加できるよう配慮すべきだ」と反発、同調する教員も多い。生徒は札幌弁護士会に人権救済申し立てを行うことを検討しており、学校は対応にゆれている。              

                    ( 2005年4月10日 北海道新聞 朝刊)

以上新聞からの転載。

(首相に対し)「靖国参拝なんざ止めろっ!」

と綾川亭さんは歯切れが良い。激しく同意したい。

で、あげくにこのざま。あれだけ、国内外からとやかくいわれながらも、靖国通いを止めなかったのだから、何か策があるのだろうと思いきや、なんだい、いざとなったら、行くということを明言しなくなり、次第次第に離れるようにし(最近のぶらさがり会見では小泉は靖国通いに触れなくなった)、そして今回のような国際会議の場で、あいもかわらずのお詫びの繰り返しか? だったら、お前のやったことは靖国に通って中韓の対日感情悪くしただけ歴代のお詫び外交より始末が悪いわ!

http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050422#p3

 東京大空襲*1から広島長崎の犠牲者に対し当時の支配者は、戦争をさっさと止めなかった責任がある。そこから考えると、日本人は東条免責して良いのか、とわたしは問うている。出発点は違っても、参拝反対という結論は同じ。

 それと本来(言うだけ無駄という徒労感もあるが)、自分の思想を他人にも分かるような言葉で分節化し、文章化するのが、政治家の仕事であるはずである。小泉の思想が私と違うのは当然だが、自分なりの理屈を堂々と世界に向かって表明すべきである。「日本人なら犠牲者を弔って当然」という「当然である」「自然である」という語彙しか持たない人々。それでは他者はまったく説得できない。

 それでも付いていく人たちが沢山いる・・・・

*1:綾川亭3月25日にリアルな描写あり