こびと=小人って差別用語なのか、ATOKで出ないな。
8人の小人が輪になっていました。1~8と番号が付いていると考えましょう。妖怪ミツハノメ*1が来て一人おきに止まります。止まるとその子は消滅してしまいます。またたくまに2,4,6,8番は消滅。最後に誰が残るでしょうか?
また7人、9人、10人のときはどうなるでしょう?
*1:古事記No78
# amgun 『どうも。色んなことで煮詰まっているamgunです。世の中まだまだ「と」な人たちがたくさんいますねぇ。中庸も篤胤も守部も現在の科学的見地?から見れば「と」な人たちなのでしょう。世界の中心で「トンデモ」を叫ぶ。なんかネタに出来ないかな?』 (2005/06/09 09:56)
noharra 『確かに、超愛国的トンデモと括ると、八木某と中庸、篤胤はおなじ括りに入ってしまうけど、私は後者には滑稽感、恥ずかしさは感じますがどこかで愛と尊敬も持っているのです。それに対し、八木某には困惑と侮蔑しか感じません。だいたい江戸時代の感覚では、男子直系相続でなければならない、も反ジェンダーフリーも国学的というより儒教的だし。そんなものを「伝統的」だと信じてたら宣長が怒るよ、と。
宇宙論や救済論は本来神話などとシンクロしてるし、自然科学とは別の場所にあるので可笑しくても良いのです。イエスさまのお話なんかもそうですね。それに対抗できるような話をなんとか作ろうとすること自体は、試みるに値することだと思います。
明治以来の日本が自然科学も社会、人文科学も欧米から取り入れそれを真理だとしてきたその根拠が、追いつき追い越せの時代の終わりとともにかなり揺らいでいる。そういった情況への反応が、恥ずかしいけれどなんとか自前で考えようとした「三大考」への関心を呼んでいるのでしょう。
八木秀次は馬鹿にだけしとけば良いみたいだが、政界では小泉、安倍、石原と中央を占拠してるから困ります・・・』 (2005/06/09 21:17)
http://d.hatena.ne.jp/charis/20050609
サンフランシスコ講和条約第十一条:「【戦争犯罪】日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」
について、charis氏は次のように読む。
正しい、と思う。
サンフランシスコ条約以前は、占領状態であったから、極東軍事裁判の「裁く主体」は戦勝国である。日本国ではない。だが、サンフランシスコ条約の、「日本国は、・・・裁判(判決)を受諾する」という条文は、加害者の規定主体が、戦勝国から日本国へ移行したことを意味している。これが、日本国の「独立」の法的意味であり、つまり、日本国として、戦争への加害責任を全世界に対して公的に認めたのである。(同上)
勉強になりました。
* 日中戦争・南京事件 http://critic.exblog.jp/i64
* 東京裁判 http://critic.exblog.jp/i65
* 歴史認識 http://critic.exblog.jp/i66
軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十殺」という言葉を「沖縄県民の決戦合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四五年一月二十七日)。(林博史)
民間人が竹槍かなんかで重火器で武装した米兵を一人だって殺せるわけがなかろう。そう言うことを言って住民を叱咤しながら自分だけは生きのび、戦後素知らぬ顔で生きのびた奴ら。そういう人は60年経っても憎悪に値すると思う。違うかね?(こうしたスローガンを表明して恥じない奴らって今でもいる。)
2005年08月14日(日曜日)付朝日新聞社説です。 全面的に同意します。
なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える
明日、60回目の終戦記念日を迎える。あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもその疑問がわいてくる。
犠牲者の数を調べてみて、まずそう思う。日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本人の戦没者は310万人にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万近い人が命を落としているのだ。
その1年に、戦線と日本の政治はどう動いたか。
●1年前に勝敗は決した
44年6月、西太平洋のサイパン島に米軍が上陸した。日本はこの攻防と周りのマリアナ沖海戦で完敗した。もう攻勢に出る戦力はなく、この島から飛んでくるB29爆撃機の本土空襲を防ぐ手だてもない。軍事的な勝敗はここで決まった。
同じころ、連合軍はノルマンディーに上陸し、日本が頼みとしたドイツの敗勢も明らかになっていた。
軍の内部でも負けを覚悟する人たちがいた。大本営の一部の参謀たちは「今後、大勢挽回(ばんかい)の目途なし」と部内の日誌に書いた。そのうちのひとりは、参謀総長を兼ねる東条英機首相に終戦工作を始めるよう進言した。
だが東条首相はこの参謀を更迭し、内閣改造で危機感を封じ込めようとした。陸相時代に「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を発し、兵に降伏より死を求めた人物である。負けを認めることはできなかった。
それでも、終戦を狙う天皇周辺の重臣たちが手を組み、逆に東条内閣を総辞職に追い込んだ。44年7月の政変である。
だが、戦争は終わらず、日本の迷走は劇的な段階に入る。フィリピンでの敗走は50万人の死につながった。軍はついに特攻という無謀な戦術に手を染め、多くの若者に理不尽な死を強いる。軍隊として、国家としての自己崩壊としかいいようがない。
ようやく45年2月、近衛文麿・元首相は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。
せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。
いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。軍事史に詳しい歴史家大江志乃夫さんは「私にもわからない」と首をかしげる。
いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。
●救えたはずの数百万の命
政治家や軍人の証言をまとめた「終戦史録」などを読むと、重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていたことがわかる。だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探りあいに終始したという。情けない限りだ。
結局、当時の政府は、広島と長崎の原爆とソ連参戦という、だれの目にも明らかな破局の事態を迎えて初めて降伏を決める。これを決断と呼ぶとすれば、あまりに遅いものだった。
政治家や軍人は戦後になって、「戦争は欲しなかった」と口をそろえた。
手厚い待遇を受け、安全な場所にいる高官たちは、政策を決める会議で自ら信ずるところを発言する責任がある。それを果たさなかったという告白だ。そんな無責任な指導者のもとで命を落とした数百万の人たちはたまらない。
つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる。あの無残な1年間の理由はそれしか考えられない。
確かに、戦争終結への動きを憲兵がかぎまわり、軍部には負けを認めぬ狂信的な一団がいた。だが大臣や将軍たちにはそれを抑える権限と責任があったはずだ。ところが、行きすぎを本気でただした形跡はほとんど見つからない。
検閲があったとはいえ、新聞も追従する紙面を作った。重い戒めとしたい。
戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。
終戦直後の東久邇稔(ひがしくになる)彦(ひこ)首相が呼びかけた「全国民総懴悔(そうざんげ)」の言葉は、人々の胸に落ちたわけではなかろうけれど、都合よくもあった。責任を突き詰めて考えるのにふさわしいときではなかったのかもしれない。
http://www.asahi.com/paper/editorial20050814.html
asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-社説
原文はこのあと「●あの時代だけか」という段落がある。これももっともだがここでは省略する。
「いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。」そうであるとすれば、天皇裕仁自身の責任がこのような具体的文脈でもクローズアップされざるをえない。
「 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。」「国体護持のため」というのが当時の答えだった。そして実際に天皇は生き残った。裕仁が退位しなかった意味は何か。「戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。」というのは正しいだろう。
とすれば日本の戦後とは一体何だったのだろう。裕仁無罪から東条無罪へ。ふ。
「ゆきゆきて神軍」ほかの原一男特集、今日から22日木曜まで。
原一男トークショウは今日16.30より。いずれも
阪急宝塚線「売布神社駅」前・ピピアめふ5F シネピピアにて。
ではその古代復帰の精神とは何か?(中略)これは今日普通に唱えられている日本精神とか、国民精神とかいうような封鎖的な、排外的なものではなくて、道徳としては「直ぐな心」を第一に建て、理想としては「自然に帰る」ことを憧憬し、実際的には「洋学をもって砥石として更に日本的なもの」を磨き上げる進歩的な方向を求めるものである。これが見逃されてはならない。この道徳と、この理想と、この実際とが、具体的にどう一致するかは、半蔵においても、作者においても問題ではなく、ただそうした素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」こそ、彼らにとって「新しき古」の道なのである。
(青野季吉)
これは青野の『夜明け前』評から。上記「半蔵」とは島崎藤村『夜明け前』の主人公青山半蔵を指す。
朱子学がその社会倫理の根源とした仁をはじめとする徳目の実体を国学は否定したわけではない。徳を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。
わたしたちの現在の「右傾化」も、アサヒ*1に対する批判として形成された。平和主義を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。とも言える。
現在、祖国というものにわたしたちは、<素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」>を幻視することができるのだろうか。
私としては、ぷろれたりあ・インターナショナリズムやマルチチュードの想いを唱い上げることに異論はないのだが、・・・ 上澄みだけのプチブルの普遍主義、コスモポリタニズムより、「新しき古(いにしえ)」に魅力を感じないでもない。
*1:左翼的な物が権力になっているとする今までは多少とも存在したこと
上記佐々木八郎氏の遺稿の一部は『あゝ同期の桜』という本にもでてくるらしい。*1
http://www6.plala.or.jp/Djehuti/355.htm
海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 /トート号航海日誌(読書録)
小泉首相も、彼らと同じくらいの年齢でこの本を読み、「戦争は二度としちゃいかん」、「戦争をするぐらいなら、どんな我慢もできる」と感じたそうです」。
小泉首相が靖国参拝しましたね。参拝について首相は、「日本の平和と繁栄は、現在生きている方々の努力だけではない。戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々(らの)、尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。これからも日本が平和のうちに繁栄するよう、様々な祈りを込めて参拝した」と述べたそうです。参拝自体には賛否両論あるようですが、「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」という箇所はまさにその通りだと思います。
ある個人(例えば佐々木)は確かに自らの命を皇国に捧げた。だが、彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。」と言えるのか。多くの犠牲を出したが外敵を撃退したといった場合とは、犠牲の意味合いがかなり違っているはずだ。
戦争は有限性のゲームである。しかし第二次大戦は(終わるまではおおむね)ドイツと日本に於いては最終戦争として無限性のゲームというイデオロギーのもとに戦われた。ナチスドイツと違い日本はそのことの(国民に対する支配者の)責任を取ってこなかった。
佐々木が苦悶の末に差し出した彼の命は、当たり前のように気にも止めず受領され、21世紀になっても日本=日本という同一性の神話を太らせるために使われる。
短い命を国家に捧げた彼の悲劇。彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」ということで彼らは少しでも慰められるのだろうか。例えば、結果的には少しでも早く戦争を止めておけば被害は少なかった、そうできなかった責任追及を果たしていく、そうすることが彼らの苦闘に応えることであろう。
*1:『きけわだつみのこえ』にもでてくるらしい。