門松の力

古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はばむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来(しきた)り」によって純粋にせられる事が多い。其の多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかなる力を与える。門松を樹(た)てた後の心持ちのやすらいを考えて見ればよい。日の丸の国旗を軒に出した時とは、心の底の「歓び」--下笑(したえ)ましさとでも言ふか--の度が違う。

(p16「古代生活の研究」『折口信夫全集・2』)

 「家庭生活を優雅にししなやかなる力を与える」という目的に対し、国旗よりも門松は著しい効果を持つと、折口は言う。家庭生活は楽で合理的健康的であればよく、優雅などといった精神的価値は必要ないと考えるのが戦後の常識であろう。それは優雅などといった精神的価値が結局の所、戦争への総動員体制へわたしたちの意識を収束させていくシステムの下位部品にすぎなかった、という批判からもくる。しかしあまりにコンビニエントを追求した現在の生活はわが身体の資本主義化(短く言えば自己喪失)に行きついており、そこからの渇きから、逆に国旗=国家主義への渇仰といったアナクロなものが急速な勢いで復活しようとしている。

家庭生活 のための 精神的価値 といった論理だったのが、

国家=精神的価値 のための (孤立し衰弱しきった)個人 といった論理へと、転倒している。日本列島を焦土化に至った窮極のマゾヒズムを再び選択するとは大笑いですが、ドイツ人もやったことだし歴史とはそういうものなのかもしれない?

 さて話がそれました。合理的な生活を目指しても限度があり、庭をあの醜悪なディズニーの置物で飾ったりするに至るのが関の山。またもっと最悪な「日の丸」なんぞが心の隙間をうめにきたりしてしまう。とすれば、わたしたちは21世紀に新たに立てるべき「門松」を作り出さないといけない。

門松を立てることは日本人としてのアイデンティティを求める行為だ。だから、門松を立てる必要などない。という意見のひともおりましょう。

わたしの家では子供の頃から門松を立てるという風習はなかった。だから門松について実は私は分からない。

ただ、門松とか、日常の習俗とされることがかならず、国家主義に収束していくべきものだと決めつけて批判するのはかならずしも正しくないと思う。

削除記事(2009.10.11)

負けるケンカはしない方がよかったのでは。(訂正前)

youtubeのビデオでは9割以上の支持を(おそらく)獲得しながら、わざわざ対抗デモを企画し、1/10程度しか動員できなかった。動員数について下のブロガーの認識が正しいなら、企画としては失敗だったということになるだろう。権力を相手にしたたたかいなら少数でも意思表示することに意味がある、と言える。しかし、民間対民間で、わざわざ相手に満足を与えるような企画をしてしまったのは愚かと評価される。問題はそうであってもどうしても行うべき他の要因があったかどうかだが、そんなものはなかったと思う。

6.左翼の反対派、可哀想なくらい参加者が少ない。

たぶん、在特会(300人くらい?)の10分の一程度(30名程度?)。

左翼の反対派より警備していた警官の方が多かったかも知れない。 

それに、正直、何を主張したいのか分かり難い感じ。

あれでは歩行者に何も伝わらなかっただろうな。

7.左翼団体の参加者、全共闘崩れというか…運動家の成れの果て?みたいな50-60代のオジサンばかり。

服装も、ちょっとヤバそう。

正直、あれじゃ、逆効果だろう…

拡声器で言ってる内容は、在特会の方が酷いが、見た目では、左翼団体より在特会の方が相当マシ。

心は錦、ってことなのかも知れないけど、あれじゃ駄目だろうなぁ…

何か伝えたいなら、服装も含めて戦略を練ったほうが良いのでは?という印象。

 うーん、服装についてですが世間の人はこういう風にみているのか。私も服でも買おうか。

(10/11記)

160 資料:建国記念日の祝い方 野原燐 2003/02/11 23:33

建国記念日というのがどういうものなのかよく分からないまま文章を

書いたので、後からnet検索してみると次のような文章が見つかりました。

2年前に熊本の女子高校生が書いたものらしいが良く書けている。

引用させてもらいます。

http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/01032.HTM

皆さんご存知のように、我が国は今年で建国二千六百六十一年を迎えました。そ

して、今日この日は、我が国最初の天皇、神武天皇が御位(みくらい)につかれた

日であります。この日本国建国にあたっての神武天皇のお気持ちは、『日本書紀』

にこう記されています。

「今、私はこの橿原(かしはら)の山林を開いて慎んで天皇の位につく。これから、こ

の国の民が心安らかに住める平和な世の中にしたいと思う。この国が神の住まい

にふさわしい清らかな所となり、他の国もそうなったならば、世界は一軒の家のよ

うに仲むつまじく、平和な世界となるだろう。それは、なんと素晴らしいことではない

か。」

このことから分かるように、日本民族国家の建国精神というものは、決して、自国

のみを愛し他国の衰亡を願うというような侵略精神ではなく、この日本国は「世界

総国家の大調和」の理想をもって建国されました。つまりこのご宣言は、世界の各

国すべてが家族として、家庭の一員として、仲良く繁栄する国家群となるための礎

として、この日本国を建てるという意味を持っているのです。私は、日本の長い歴

史の中でこの建国の理想が途絶えることなく、第百二十五代にあたる今上陛下に

も受け継がれていると思うと、感銘を受けずにはいられません。

神武天皇の和名はかむやまといはれびこの命。

彼はあるひめと寝たとき歌を詠んだ。

葦原のしけしき(汚い)小屋に 菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し

高校の運動部のエースが汚い小屋で彼女と寝てそれでもすごく嬉しいみたいな良い歌だ。

ところで、世界が「仲良く繁栄する国家群となるための礎」には日本国が必要だと。要は世界の中心は日本=天皇なわけで、それが普遍的である為には

もういっかい世界戦争するしかないことになりますね。

               野原燐

生命

長谷川訳のヘーゲルをちょっと引用してみよう。

まわりの生命界から栄養を奪いとって自己を保存し、自己統一の感情に浸る個体は、この行為によって、自分の自立の根拠たる他との対立を克服する。自己統一を自覚することが、まさしく、他との区別を流動化することであり、形態が一般的に解体することである。が、個の自存状態の破棄されることが、逆にそれがうみだされることでもある。というのも、個の形態の本質たる生命界の全体と、自立した生命体とは、もともと単一の存在であって、生命体が自分とは別のものをとりこめぱ、この単一の本質が破れて分裂が生じるのだが、こうして、無差別の流動状態に分裂の生じることが、まさに、個が形成されることにほかならないのだから。このように、単一の生命界は、分裂してさまざまな形態をうみだし、と同時に、自存する区別を解体していく。分裂の解消がさらなる分裂と分化なのだ。運動全体のうちに区別される二つの側面--自立した共通の媒体のうちに静止して共存する形態と、生命の過程--がたがいに浸透しあっていて、過程が形をなすとともに形をこわしていき、形は形で、こわれたかと思うとまたできあがっていく。流動する場というとらえかたは生命の本質を抽象化したもので、形をなすときはじめて生命は現実の生命となる。そして、それが部分にわかれるということは、部分がさらに分裂することであり、部分の解体にほかならない。まさにこうした循環過程の全体が生命をなすのである。*1

例えば、我々自身も生物の自立した一個体でありながら、他の生物を食べることつまり、<生命界>との連続性を確認することによってしか生き延びられない。生命界は絶えざる分裂と分化でありまたそれと同時に、「生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動--静止しつつたえまなく変化する無限の運動--」でもある。生命界における多様な力の葛藤が総体としてある均衡において一つの世界として語りうるものになる、という思想は儒学的だ。儒学においては生命界におけるエコロジー的絶妙なバランスがむしろ人間社会の理想モデルになる。<生命>はヘーゲルにおいては体系の最初の方に出てきて、つぎに出てくる<自己意識>によってあっさり否定される。この二つのカテゴリーは王陽明の「心即理」に似ている(もちろん「理=生命」「心=自己意識」)が、王陽明にとって「理」が最終のカテゴリーとしての権威を失うことはなく、唯一の我が心はなるほど全肯定されるのだが聖人のそれと同一として理の側に引きつけられた上で肯定されるにすぎなかった。前項「食欲」で書いたように日常生活のなかの些細だけれどえげつないと言えば言える否定性みたいなところに執着するというのは哲学者ヘーゲルの偉大なところだ。

*1:p125『精神現象学』長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)

同一性の論理に抗して

 デリダ『マルクスと息子たち』という本は、デリダ『マルクスの亡霊たち』(未訳)という本への批判への応答である。言い訳であり、繰り返し丁寧に書いている。あの大デリダにしてなお、これだけ完璧に誤解されるのかという感想をもってしまう。

例えば、「デリダは階級、階級政治を拒否している」とアフマドは語る。デリダは弁明する。「階級闘争の概念が標的にしていたものに関心を持つこと、社会的諸力間の抗争を分析することに関心を持つことは今もなお絶対に不可欠であると思います。」*1しかしながら、「社会階級とはそれがそれであるところのものであるという考え、つまり、社会階級が「究極の支持体」として、自らと同質であり、自らに現前しており、自らと同一であるという考え」に対してはデリダは反対する。「支配する者とされる者という単純な対立」という図式も疑問だ。つまり公式マルクス主義によって歴史を前進させる本当の主体として保証されているそのもの、現実の社会に生きているというよりむしろ論者の頭の中にある特権的カテゴリーとしての階級、というものに対しては疑問を持つと、デリダはいう。

 これは当たり前のことのようだが必ずしもそうではない。日本では、階級というものをすこしずらした、憲法9条、平和主義あるいは「(平和を希求する、被害者である)国民」といったものが、「究極の支持体」となっていた。去年ぐらいから急速に勢力を失ってきていますが。「自己に対するある種の差異とか、社会的力の中のある種の異質性といったもの」を平和主義者たちや日本共産党は抑圧してきたといえます。したがって<差異>に敏感であり、「階級、国籍、市民性に依拠してはならない」と語りうるわたしたちが、社会的闘争の運動にたちあがらなければいけないのです。

とは言っても「わたしたち」は圧倒的に少数派だし、元気もでないし困ったなあ。

この本のポイントは<メシアニズムなきメシア的なもの>にある。(キャッチコピーとしては分かりにくく最悪ですが。)メシアニズムとは、要するに 出来事であるはずのものを、プログラム可能なもの、プログラムされていたものとみなす思考、のことである。将来において必ず救済されると予定されている立場に依拠して考えるといった態度と考えてもいいだろう。それに対して、メシア的なものとは「到来する誰か(何か)という出来事に向けて張りつめられた」現実主義的で無媒介的な憂慮である、とされる。「それは最も具体的で、また最も革命的でもある緊急性である。」「それは事物や時間や歴史がいつものように流れているその流れの中断を今ここで命じてくるのだ。*2

<メシアニズムなきメシア的なもの>についてはこの本を読むだけではわかりずらい。でもわたしは(誤解かもしれないが)、何かをそこに読みとり希望を掛けることにした。

*1:p63『マルクスと息子たち』

*2:同書p91

自衛隊監視テント村が弾圧を受けた

下記サイトによれば3名の事後逮捕があったということです。大衆が、行った者はしかたない元気に帰ってきて欲しいという「しかたない」意識に傾いているので舐められた、ということでしょう。

2月27日早朝、私たち立川自衛隊監視テント村は「イラク反戦」を理由に全面的な弾圧を受けた。逮捕者3名、事務所・個人住宅の家宅捜索6ヵ所。これは小さな反戦市民団体としては大きな打撃である。令状には、1月17日に自衛隊官舎に反戦ビラを配ったことが住居侵入にあたる、とあった。 団地のポストにチラシ広告を投函する全ての行為がこの弾圧の対象になりうる。はてなダイアリー – 隔離される私と相互監視社会

自衛隊即時撤退せよ(続き)

バクダッドのリバーベンドさんのブログから少し引用させてもらいます。http://www.geocities.jp/riverbendblog/

「2004年4月4日日曜日」の一部 バグダードとナジャフでは、アル・サドル支持者のデモが続いている。バグダードでは、グリーン・ゾーンとシェラトン・ホテルの近くに何千人も集まっている。怒りにみちた黒衣の大群衆。ナジャフでは、デモの群衆は、スペイン軍駐留地のすぐ外にいて、スペイン軍兵士は彼らに向けて発砲した。少なくとも14人が死亡、数十人が負傷と伝えられる・・・ (略)

 これだけははっきりさせておきたいのだけれど、私は、アル・サドルの支持者では”ない”。イラクを第2のイラン、サウジアラビア、クウェートにしようとしている聖職者たちは嫌いだ・・・だが、デモに対し、軍隊が銃弾と戦車で応じているのを見ると、心底激しい怒りがこみ上げてくる。集まった人々に向けて発砲するつもりで、デモを許可したってわけ? デモの人々は、武装していなかった、ただ怒っていただけ__最近ブレマーとその一派がアル・サドル派の新聞を発行禁止した。また、サドルの側近ナンバーツーが南部でスペイン軍に拘束されていると言われている(スペイン軍は否定しているが)。サドルの信奉者たちは憤激している。そして、(ちゃんと聞いてね)__その信奉者たるやほんとに半端な数じゃないのだ。(略)

そして、ラムズフェルドたちはアブサドル一派をアルカイダ並の主要敵に位置づけてしまった。自衛隊は「復興支援のために」イラクに存在する、なんていう理屈はいまやびしょぬれになったティッシュのように崩壊した。イラク人の集団と闘い彼らを殲滅する自衛隊を望む人たちだけが、自衛隊即時撤退に反対するだろう。

リバーベンドさんのブログ(の翻訳)によれば、かっては女性たちでにぎわっていた市場は今や女性たちにとって危険な場所になり、ほんの少数の女性たちしか見かけなくなった、とのことです。しかも女性たちは例外なくヒジャブを被っている。米軍はアフガンでは女性をヒジャブから解放したと宣伝された。1年間の米軍主導による統治はその逆をもたらした。つまり失敗したのです。

現代思潮社

わたしは、すがさんという人読んだことないし、好きでもない。ですが下記はすがが正しい、と思う。(小熊の『民主と愛国』は最初の所読んで良くない本だと思った。)(現代思潮社が現代思想社と誤記されていた)

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/text/21c-suga.htm

60年安保の時に、吉本隆明という人が6月行動委員会というところで、当時の中核を「三一書房」にあった、と鶴見が何度も言っているんです。ただ、ちょっと調べれば分かるんですが、当時の知識人界隈の雰囲気を知っていれば、それが間違っていることはすぐに分からなきゃいけない。6月行動委員会の中心は「現代思潮社」なんですが、何故か「三一書房」と言っているんですね。それをチェックできてないんですよね、2人(上野、小熊)とも。