若年世代の超長時間労働

 わたしたちのすぐ身近に有るのに、見て見ない振りをされたり問題として認識されない、マスコミに取り上げられることなど全くない問題、ってけっこうたくさんあるものですね。今日hatenaでみつけた「問題」。労働問題についてはそれ専門で研究し声をあげるべき研究所~組織(労働団体)が腐るほどあるはずなのにね。

若年世代の「正社員」の一部で超長時間労働が絶対起こっているはずだと睨んでいたのですがこれまで統計的証拠を見つけられなかった.今日やっと見つけた.玄田有史先生の本にちゃんと載っていた. 年間200日以上就業し、1週間に60時間以上働いている35歳未満の若者は約190万人にのぼる(総務省統計局「平成9年度就業構造基本調査報告」)。週休二日制に換算すれば、150万人のフリーターを大きく上回る人数の若者が、毎日、朝9時から一時間の休憩を挟んで夜10時過ぎまで働いている計算になる。 しかし、若者の長時間労働を問題としてとりあげたり、それが晩婚化の一因かもしれないと危惧する声は、ほとんどきかれない。  -玄田有史「仕事のなかの曖昧な不安」(2001,中央公論新社

はてなダイアリー – -「労働・しごと」について考える- 日々日報

引用前半は、idiot817さん、後半は玄田有史さんの文章。

『新潟』の一部をUP

金時鐘の詩は1行が短い。一字のこともある。平均しても5字前後。普通の詩なら20行も引用すると充分だが時鐘の詩はそうはいかない。だがこの日記のようなところで百行も引用しても間が抜けてしまう。そこで、最低の一まとまり約240行を下記に縦書きで、UPしてみました。(「縦書きhtml」というフリーソフトを利用しましたが環境によっては間が抜けたレイアウトになるかも知れません。)

感想はあとから書きます。

http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/ikesu2.htm

       1行が短いサンプルは以下。*1

これが

親子爆弾の

子爆弾の

信管の

ネジ

る。

 このネジは朝鮮戦争のネジだ。「朝鮮戦争で五五万トンの爆弾を落とした。この量はアジア・太平洋戦争で日本全土に落とした爆弾の3.5倍であり、面積あたりにすると日本の十倍に達する。朝鮮戦争の結果、死者だけで南北合わせて126万人。」*2

「朝鮮特需は日本経済の『回生薬』であった。」*3ということは誰でも知っている。だが特需という肯定的な二字の本体が、実は血まみれの強力な武器であったこと、そうした理解はわたしたちに欠けている。だが関西の下層労働者だった在日朝鮮人たちは、自らの作るネジが自らの同胞の血と肉を裂くべきものだ、と言うことを知っていた。知っていたが、語ることはできなかった、それはわが身を同胞の殺害者と認識することだから。「反戦」「伊丹基地粉砕」を掲げた吹田事件など*4

に決死の思いで立ち上がっていった朝鮮人たちの根拠にはその<存在の分裂>があった。「である」の「で」と「あ」の間、「あ」と「る」の間の切断もその分裂を暗示するためのものだ。このようにして「詩集新潟」は不可避的に難解になっていく。

(米軍のクラスター爆弾に抗議するとともに、日本国内で部品のネジとかもし作っている場合は内部告発してください。)

*1:p321同書

*2:p29『在日朝鮮人はなぜ帰国したのか』isbn4-87798-186-1 この部分の著者は西村秀樹

*3:経済企画庁『戦後経済史』

*4:吹田事件については金時鐘自身下記で語っています。http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/sho_soto/suita.htm

北朝鮮は元在日の帰国を認めよ

下記によれば、1960年帰国事業で北朝鮮に渡った安本さんの姉の帰国を求める運動が起こっている。朝鮮総連は在日朝鮮人の感情と利害を最もよく理解している。関係者が死に絶えるまで待つつもりか?

http://www.chunichi.co.jp/00/ach/20040413/lcl_____ach_____008.shtml

朝鮮総連、受け取り拒否

上京の安本さん、姉の来日嘆願署名提出で

 重病の母(86)の見舞いに北朝鮮の姉(67)を来日させようと取り組む豊田市の在日二世、安本左久子さん(59)が十二日、実現を求める署名提出で東京を訪ねた。集まった署名は全国からの約七千三百人分。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は「前向きに努力はする」としてきた言葉とは裏腹に門前払いで、署名簿の受け取りを拒否した。 (辻渕 智之)

 安本さんの姉は一九六〇年、在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に渡ったまま、一度も日本に戻っていない。三好町に住む在日一世の母は昨秋、脳内出血で入院。北朝鮮は出国を認めないが、日本政府は昨年末、姉への渡航証の発給を認める異例の措置をとった。

情報収集のための拷問

[毎日新聞5月7日]より

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/human_right.html?d=07mainichiF0508m033&cat=2&typ=t

虐待内容の項目は20を超える。「男性収容者に自慰行為を強要して撮影」「弾薬を装てんした拳銃で脅迫」「収容者を裸にして数日間にわたり放置」「軍用犬をけしかけ脅す」……。屈辱と死の恐怖で収容者の精神をくじこうとする執拗(しつよう)な意図が浮かび上がる。何が目的だったのか。

 虐待の多くは、昨年10月から12月にかけ、同刑務所の「1A」「1B」と呼ばれるエリアで発生した。複数の容疑者は、同エリアは「軍情報部の管轄だった」と供述している。軍情報部の主な任務は、収容者を尋問して得た情報を、イラク国内の治安維持活動などに利用することだった。少将は報告書で「他の政府機関」の担当者も、尋問を行っていたと指摘している。米中央情報局(CIA)の職員らも含まれると見られる。

 容疑者の男性軍曹によると、情報機関員らが看守役の憲兵らに対し「こいつが口を割るようにしてくれ。夜も眠らせずにな」などと虐待行為を奨励・指示していた。別の容疑者の女性兵士も「MI(軍情報部)は、収容者から供述を取りたがっていた」と証言している。尋問が順調にいくと、憲兵らに「よくやってくれた。簡単に落ちたよ。全部の質問に答えた」と感謝したという。

 ついでに「赤旗」5/8からも引用。アブグレイブ収容所で民間の取調官として勤務していたネルソン氏の証言。

「舞台が目標の家を捜索した際、(被疑者が)居合わせなかったら、ほかのだれでもを捕まえる。それが彼らの仕事だからだ。」「兵士たちは強いプレッシャーにさらされている。彼らは、(イラク人を)だれも知らないし、文化的専門家でもない。彼らが望むのは、帰郷する日を数えることだけだ」

概念集・2 ~1989・9~ 目次

概念集(2への序文の位相で)  1

概念と像の振幅     2

技術          3

無力感からの出立    5

自主講座        7

自主ゼミ        9

連続シンポジウム    11

大衆団交        13

一票対ゼロ票      14

参加          15

瞬間          17

表現手段(過程)    19

年周視差        21

生活手段(職業)    22

華蓋・花なきバラ    24

メニュー        25 

訂正          27

六甲あるいは〈 〉空間の方法  29

イスラエルの存在の許容

 イスラエルのシャロン首相がプーチン大統領に電話した、というニュースは興味深い。結局のところ21世紀初め世界*1が血なまぐさくなった原因を作ったのはこの二人とそれに対し宥和した私たち自身にある、というのが真実だ、と将来の歴史家は判断するでしょう。

http://www.asahi.com/special/040904/TKY20040

 「イスラエルの平和を考える会」機関紙のミスターフvol8が今日は郵送されてきた。パレスチナ人政治学者アッザーム・タミーミーさんへのインタビューから引用。

ハマースがイスラエルに言うのは、「まず何よりも前に、あなたが泥棒であることを認めなさい」ということです。パレスチナ人に「あなたの土地を取ってごめんなさい。とても悪いことをしました。新しい生活を始めましょう。私たちはあなたたちと一緒に住めますか?」と。

もし彼らがそうすれば、南アフリカのアパルトヘイトが解決したように、私たちは「一緒に住めます。解決しましょう。」と言うでしょう。

 野原のブログは読者を向いていないが、ここだけは、どうしても読んで欲しいので引用した。だがわたしの真意は伝わらないだろう。「1917年のバルフォア宣言云々かんぬんそのことをいつまでも言い続けにないといけないのか。そうしたら北海道はアイヌに返さないといけないのでないか」、とわたしも数ヶ月前まで反応していたと思う。つまりここはリラックスしてゆっくり考えないといけない。土地を返せ、とここで「ハマース」は言っていないのだ。にもかかわらず、「土地を返せ」と言われたかのように反応してしまう。わたしの生活がその土地の上の数十年であるとき、そこはわたしにとって「私の土地」である。そのことの真実を他者は奪うべきでない。だが(わたしは第三者だから言えるわけだが)パレスチナ人が私の土地だ、と主張するとき、その主張は否定されるべきということになるだろうか?

 満州や朝鮮に生まれ数十年そこに育ってしまった日本人にとってそこがわたしの「故郷」であるのは事実であり、彼自身にとっての真実である。だが個人のレベルの実感と、国家間の調停の結果は違う。そしてこの問題は立場によって答えが違うといっても、わたしはわずかな勉強の成果として一応の答えを持っている。20世紀は帝国主義の時代だった。だが帝国主義を否定する価値観もあった。後者の価値観に立つかぎり「イスラエルは泥棒である」という表現は不当でないとわたしは思う。「満州国は泥棒国家だった」とわたしたちは認めたではないか。

*1:アフガニスタンやスーダンなど広い地域においてはそれ以前もそれ以後と同様血みどろだった!?

人質非難はどうかと思う(11/5)

http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1094319459/375 『結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。

バッシャー(情報操作に引っかかった人も確信犯も含めて)達がテレビ番組や雑誌記事、記者会見、ホームページ、新聞で、あれほど人質とその家族を攻撃したのに、未だに人質を非難する内容の本を出版した人は皆無。』

「それもあるだろうけれど、前回と違って、今回は官邸からの情報操作(スピン)が無かったからね。

結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。」

スピンって何のことと思ったら上記のようなことらしい。で小林って誰よ。スピンとは、フレーバーなんかと同じ原子核物理学用語で、それを小林秀雄が検証したのかと思ったよ(??)高齢者にも分かりやすい文章を書きましょう。

誰が国家にアイデンティティを求めているのか

id:noharra:20041030に二人の方からコメントをいただた、もう一人の方への応答。

(この表現は不正確。10/30に野原が突然引用したのが、お二人との関係の始まり。・・・)

# homoinsipiens 『こんにちは、トラックバック頂いたhomoinsipiensです。

いきなりですが、noharraさんとはちょっと事実認識がずれている気がします。

>前回の人質の親族は、その[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否しようと、必死で、しました。それが叩かれた。

今では数多く起こっている人質事件ですが、4月の人質事件はそのハシリだっただけに、米軍による救助という話が出てくるまでに結構な時間が経過した気がします。むしろ、叩きの原因、というか騒動の発端は、人質家族が事件発覚の実に翌日、自衛隊撤退デモに参加したことではなかったでしょうか。とりあえず私の記憶では、米軍による救助はだいぶ後まで現実的なオプションとして提示されることはなく、それほど中心的な論点ではなかったように思います。

あと、いやな指摘ですが、これまでザルカウィ派が捕らえてきた人質は11名、そのうち生還者は4人です。さらに、非イスラム圏出身者の生還者は0人です。軍隊による救出作戦の成功率をパーセンテージではかるなら、必ずしもこれより低いとは言い切れないのではないでしょうか。私自身、パーセンテージの問題ではないとは思いますが、ご参考までに。

>だってそれ悲惨でしょ。

国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。私も確かに悲惨だと思います。そして批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。このことへの無自覚さがjinjin5さん云うところの「『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という[…]傲慢」と繋がっているのではないか、と私は考えます。批判を名乗るなら、その批判は自らにも向けられるべきではないでしょうか。私はある意味で反・(暴走的)自己責任論者としての自分への戒めのつもりでかのエントリを書いたつもりです。』

homoinsipiensさん

レスが遅れました。というか以下もたぶんちゃんとしたレスにならないと思います。

「政府は人質の救出に全力を尽くすべきだ」とする意見をわたしは取りません。前回の人質の場合、救出については[「米軍の力を借りた人質救出」路線]とイラク国内の穏健派などへ働きかける路線、少なくとも二つがありました。人質の家族は国家方針である自衛隊派兵の撤回を訴えたことで世論の反発を呼びました。わたしが強調したいのは、[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否してくれと主張する権利を家族は持つはずだという点です。前回家族に拒否の意志はありました。この点について当局と軋轢があったことも確かだと思います。今回面倒なので過去資料は探しませんが。

「政府なんてなくてもいい、あるいはないほうがいいなんて考え方は、彼ら市民運動家たちが実は経済的に恵まれている…からこそじゃないのか。」に対し、私は肯定したのですが、これはいま一度考え直した方が良いようです。

「国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。」という想定の仕方は不正確です。

人質批判をした人でも(B)2チャンネルなどに自分で人質批判を書き込んだ人、と(C)テレビで大量に垂れ流される人質批判言説が自分の心のどこかに触れたため取り入れた庶民 は区別すべきです。さらに(D)新聞の1面に載るような言説一般に全然興味を示さない人々も存在するはずです。

それに対して(A)「僕の周りの連中の間では今も昔も反・自己責任論の大合唱。」を対照して見ましょう。知的にはA>B>C>Dというような階層差が存在するような気もします。

だとしても「批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。」というのは意味が明確ではない。

 イラクの10万人(?)の死者に対し、日本人として野原はその「悲惨の上に乗っかって」いると指摘されたらそうかもしれない。その悲惨を直視しどう関われるのか考えるべきでしょう。日本国内においても野原は階級的知的に劣位なものの上に乗っかっているかもしれない。だが階級的知的劣位であること即ち、「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」たちではない。

http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289(これを書いとけばトラックバックになるかな)

水俣病への接近

上の文章を書いたきっかけは『下下戦記』を読んだからですが、さらにそのきっかけはスワンさんが下記のような一連の文章にあります。量が多いのできちんと読めていないのですが。あらためて敬意を表します。

ちゃんと読まなくては。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041121#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041015#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041014#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613

村野タマノの叫び

67年には、公害対策基本法が制定する。

その翌年、初めて、厚生大臣が水俣を訪問する。

新潟水俣病の発生を背景に、1968年(9月22日)、熊本県天草郡出身の園田直は、厚生大臣として初めて水俣を訪れ患者を見舞った。孤独の中で闘病生活をしていた重症患者・村野タマノは激しいケイレンを起こしながら、「君が代」を唄い、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。(パネルより)

なかでも6/13の上記の部分は印象的でした。

1945年から日本は民主主義国家になったと信じている人が多い。(小学校でそう習うから)戦前の日本だって今と同じくらい民主主義だった、ということは必ずしも無茶な意見ではない。いわゆる15年戦争において国内が危機に陥ったのは最後の2年くらいでそれまでは大衆やプチブルは(一定の範囲内で)自由と消費を謳歌していたのだ。今の日本が民主主義なんだというタテマエを皆が疑わないのはその方が楽だからにすぎない。村野氏の行為には何の錯誤もない。*1

*1:いろいろ問題はあるがわたしの文は尻切れトンボで終わる。

壁のごとし

今日はちょっと酔っぱらっていたので、本屋に行って文芸誌なんかかったことないのに、「文学アジア」とかいう特集につられて『新潮』200501月号を買ってしまった。

ダルウィーシュ*1の「壁のごとし」という詩が載っている。ダルウィーシュはパレスチナの詩人なのでこの壁とは、イスラエルが建設している隔離壁(アパルトヘイト・ウォール)のことだろうか。そうであるとしてもそれは喩の彼方に隠され不分明である。

第3連はこんな感じ。天国にすでに入ったのか、すべては白である。

究極の天体のなかで、わたしはなるべきものとなるだろう。

すべてが白い。海は白い雲のうえで白い。

絶対の白い空にあって、白とは無だ。

わたしはいたのだった、いなかったのだった。

白い永遠を抜けてひとり彷徨い

時間前に到着する。

「地上では何をしてたのか?」と、

わたしに尋ねようとする天使はひとりもいなかった。

祝福された魂の賛美歌も、罪人の嘆きも聞かなかった。

わたしは白のなかでひとり、わたしはひとりだ。

パレスチナの現実では行きたいところに行く自由すらないから、死んで自由になるのか

わたしはある日、なりたいものとなるだろう。

わたしはある日、鳥となって、自分の無から存在を引っ掴むだろう。

というわけで、雲を掴むよう以上に難解。イスラム神秘主義の伝統に棹さしているのか。しかも詩としてはかなり長い、17頁。

終始、生と死の狭間の何もない空間を歩みながら、歴史と生の堆積の厚みを感じている。・・・もっと、彼の詩とその解説を読みたいと思った。

*1:この雑誌、四方田犬彦の紹介ではダルウィシュ