2015/06/13コメント欄

bogus-simotukare2015/06/13 13:45 id:noharra

でいつになったら野原君は

1)「河野談話否定論者・三浦小太郎が幹部を務める守る会を退会して、三浦への抗議意思を表明」

2)「退会しないが三浦のような歴史修正主義者のデマゴーグは守る会役員にふさわしくないとして三浦の役員解任、守る会除名を主張」するの?

 手前が三浦のような河野談話否定派のデマ屋を野放しにしてる時点でこんなお為ごかし文章を100回書こうと200回書こうと何の説得力もないと気づけよ、チンカス野郎。

bogus-simotukarebogus-simotukare 2015/06/13 13:48 noharraくん

悪い、悪い、間違って二度投稿しちゃったけど二度目は削除してくれると助かるわ。

それと浅野については「ある理由」とかぼかさないではっきりと「浅野の米国人学者声明翻訳を誤訳だと小山エミ氏が批判してるから」てはっきり書いたらどうよ?

 「君と三浦小太郎の関係みたい」に浅野をかばわないといけないい、腐れ縁、しがらみでもあんの?。本当に君ってくだらないゴミ野郎だよね(毒)。

中道右派 『コメントには、後ほどお答えしますが、まず、下記をお読みください。

http://www.donga.com/fbin/output?f=f__&n=200703130324

韓国語がおできにならなくても、翻訳サイトを通せば、機械翻訳ではあるものの大意はつかめます。

残念なことに、私の予測は杞憂には終わらなかったようです。』

ノーモア 『読みました。感想を申し上げるとするならば「so what?」の一言です。』

ちょっと儒学入門です。

さて最初は、天です。(ちなみに仏教では下位の神さまのことになる。)

『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 によれば、

  1. 天とは、つねに人のあるべきあり方の理想態、根拠、本来態。 p15

人倫社会の根拠をなすもの、ということです。

  1. 知識人は常に、天人の一致を志向する。
  2. 天の命ずるこれを性と謂う。性に従うこれを道と謂う。 中庸。36

儒学は教育を重んじます。その目的は、性つまり<内面化された天>を完全に実現することです。そしてその修養は必ず他人とのつながりの中で行われるのが特徴です。+天子の務めは民の養であり教である。p32

民は天子にも国君にも責任がない。物みたいなもんである。p33

えーどうもそのなんだ日本という国は、根本原理というものがないのかね。

大東亜戦争に負けて、国土が焦土になったのだからヒロヒトは皇祖皇宗に詫びるべきだったのではないのですか。よーわからんくにじゃ。

(11月14日記)

ヘーゲルとは

滝沢克己氏が、ヘーゲルの核心を簡明に語っている。

『現象学』の数年前に書かれた『キリスト教の精神とその運命』において

  1. ヘーゲルは出会った、ほかならぬ自己そのものの成立の根底、すなわち 真に無条件に実在する基体であり同時に主体である聖なるもの、に。(ヨハネ伝に、「太初の言」といい、「われは生命なり、真理なり」と親しく語る絶対者)に。
  2. 人間各自の脚下にはこの基点が存在するが、それに気付かず、他のことに気を取られる。「無意識の自己欺瞞」
  3. それにもかかわらず、その背後から働いてくる真実の基体即ち主体の治癒的圧力によって覚醒への過程をたどる。「弁証法的運動」*1
  4. (ところで話は飛びますが)「たまたま貨幣や資本のダイナミックな交錯であるわたしたちの社会全体」というものが、マルクスの資本論で取り上げられたのは、まさにそれこそがここで言う<基体>だと思われたからだ。ヘーゲルは自己の脚下にある基体を重視したが、マルクスは自分が世俗生活を営むその関係性の総体をそれに代えた。*2

神さまが見てらっしゃるのよ!!、とそれを知らずに「絶対知への到達なんてそんなに都合良くいくものか」と言ってるのは無知。というか神がいなくてもそう考えるしかない、と(もちろん)ヘーゲルは言っている。

*1:cf白水社『ルカーチ著作集11・若きヘーゲル・下』の月報13より

*2:基体という言葉を「実体」に置き換えても良い、そうしようと思ったが、とりあえず変えないでおく。

わたしたちはその偽善性が気に入らない

「限定経済学から一般経済学へ」のレジュメを書かないといけないのに、他のことに気を取られてばかりだ。ところで、バタイユはやっぱり良いね。

「19世紀に、人間の知性が高度に研ぎすまされ、自分を世界の中心であり極致であると見ることができなくなった瞬間が来た。無限の尊厳という感情のあとに、悲嘆と孤絶との感情がつづいたのである。皮肉が尊厳を切りくずし、飢えと激情とが尊厳を憎むべきものとしていった。*1

「ヘーゲル以前の古い観念論は、たしかにわたしたちの、がさつで、おちつきのない精神にはきわめて無縁な哲学大系である。わたしたちはその偽善性が気に入らない。マルクス主義や実存主義にあっては、いずれの場合にも、仮借のない唐突さと「確固とした決断」とが、永遠の諸観念にわたしたちを対立させてくれている。」*2

「マルクス主義の立場は必ずしも実存主義の立場と対立するものではない。思考に対する生の優位性は双方の理論に共通である。」

 実存主義とは何か?この文章「実存主義から経済の優位性へ」ではそれは「わたしたちが自分自身と世界とについて抱いている概念を変革しようとする」*3一流派と捉えられている。

 これは1947~48年に書かれた文章だが、戦後、<新しい地平に向かって解放された>時期の空気をよく伝えている。わたしはいまもって実存主義というものがよく分からないが、生きることが問題なのであれば生きればいいから別に実存主義は必要ないか。

こうした実存主義を甘やかすような時代の雰囲気を対しバタイユは無批判なわけではない。「それは必ずしも立派なものではない。苦悶する感動へのしまりのない欲求や感傷的な悪趣味」を指摘できる。しかしそれは、「<生のどろどろした深み>にのめりこむ自在性」の裏面でもあるのだ。<新しい地平に向かって解放された>かのような時期は1968~69年以後にもあった。ここで指摘されている感傷性(短絡性)と自在性の二面性ということについては、わたしもすこしかいま視た。わたしはわたしが思っているより自由である、これが真実である瞬間は存在する。

*1:このテーマを深く面白く展開しているのはドストエフスキーですね。

*2:p259『戦争/政治/実存』

*3:「自己と、その存在基盤を変革する可能性」という松下昇氏の表現を思い出させる。

見捨てられた死者

「生きていても死んでいても」と書くと囂々たる非難がやってくる可能性があるがとにかくイラクの3人の日本人は日本中の注目を集め続ける、しばらくの間は。それに対して死んでしまったり囚われているイラク人には日本人は誰も注目しない。人の命は地球より重いというが、その重さのコロニアルな落差は百倍を越えていよう。<三人>の方はその落差を埋めようと志し自らの存在を駆り立てた方たちのようにも聞いている。もし三人が殺害されたら世界はより暗くなる。

永続する大学祭

松下昇において、“大学祭の永続化”という発想はすでに1969年にあった。*1

 我々はその事を理想的な形だと決して思っているわけではありません。むしろ、自分でマンガ的な行為だなと思い、笑いながらやっているのです。闘争には笑いが不可欠な要素だろうと思うし、最もよく笑った者が大学闘争の勝利者ではないかと、此頃、思うのです。決して、深刻な、不気嫌な顔をしてやるものではなくて、いわば大学祭を永続化しうる力量だけが闘争を支えていくのだと思います。

*1:「私の自主講座運動」 表現集p27 より

人権侵害の持続

http://www.asiavoice.net/nkorea/ の5月23日より

kazhik氏の論説の一部

周辺諸国が積極的に北朝鮮を支える状況になってきたことで、金正日体制の危機は過去のものになりつつある。その一方で、強制収容所や「出身成分」制度に象徴される北朝鮮の深刻な人権状況はなんら改善されていない。中国にいる脱北難民は放置されたままで、支援団体の活動もままならない状況になっている。そして今回、新たに日本の拉致被害者も切り捨てられることになった。曽我さんのケースは先行き不透明、安否不明の拉致被害者の問題は事実上の棚上げだ。

東北アジアの平和は人権と民主主義に基づくものでなければならない。しかし現在確定されようとしているのは単なる現状維持、人権侵害の現状維持でしかない。このような「平和」をいったい誰が支持できるのか。

わたしの心身のうちにも神明は宿る

高島元洋『山崎闇斎 日本朱子学と垂加神道』isbn:4831505439 からちょっと引用して見よう。

 しかし大雑把な言い方をすれば神道の歴史ば、共同体の個々の神々と、この限定を超えて普遍化する方向にある神観念との対立の歴史である。前者の神を共同体の「八百万神、後者の神を普遍的な「一神」と、今は単純に置き換えておくと、神道の流れは、「八百万神」から「一神」へと重点を移して展開すると考えられる。むろん、「八百万神」と「一神」の間題は、記紀の神々の系譜が示すように神道の歴史の最初からあり、そこでの「一神」の意味はさまざまな共同体を一つに結合するところにあった。「一神」は、「八百万神」をそのまま結合して成立していたわけであるが、このような事態がおそらく中世から近世にかけて変化する。すなわち「一神」はさらにこの「八百万神」の個性を吸収すべく機能する。つまりそれぞれの共同体は、外部に対して持っていた独自の殻のようなものを徐々に失い、同時に内部の統合を弱め、そこで自由になる個々の成員は、共同体に代わる新たな秩序を人倫に求めることになる。

 共同体の神は「八百万神」で祭祀によって支えられるが、人倫における神は「一神」であり、祭祀というよりはむしろ日常倫理が重要なものとなる。こうして「八百万神」から「一神」へと重点が移ってゆくわけであるが、これはまた「神」観念そのものの変化でもある。つまり共同体の神とは、本来畏怖すべき何ものかであり、その圧倒する力において共同体を加護しこの成員を統合する。ここで個々人は基本的に共同体の成員としてのみ神に関与する。

 これを変化せしめるのが、個々人が私的に神を求める私祈祷の現象である。言うまでもなく個々人の願望は、共同体の願望ではない。この二種類の願望のずれたところに「一神」の観念が発達する理由がある。願望は、神の加護を求める。そして共同体の願望からはずれた私的な願望は、神に加護だけを求める。すなわち「神」は、共同体という限定された空間を磁場にして働く畏怖と加護の二重の力であったが、「一神」へと抽象化されることで畏怖の性格が弱くなり、加護するだけの力となる。「八百万神」が個性を失って「一神」に吸収されるということは、かくて「神」観念が変質することであるが、実はこの過程に「神人一体」説が成長する。神は加護するだけの力で、人の願望に応えて人に宿る。神は容易に人の接近し得るものとなり、神は誰にでも宿り、誰でも神になり得ると捉えられる。こうしてここに「神人一体」の考え方が生まれるわけであった。「神人一体」説の背後に共同体からずれた私的な願望の問題がある。つまり、「神人一体」説は日本の古来からの宗教的土壌であるシャーマニズムに成立するものであるが、通常のシャーマニズムと異なる点は共同体の意志に結びつくか否かということであった。*1

ここで語られているのは簡単なことだ。八百万の神の時代とはひとが共同体の成員として自足していた時代であり、ひとは祭祀を通して畏怖すべき神に加護を求めた。近世になって共同体のたがが緩み、個々の共同体を越えた「一神」が求められ「神人一体説」が出る、それは神道の倫理化でもある。ここで面白いのは、わたしの内に神があれば、わたしについてはそれで終わりで社会や祭祀など超越した存在になりうるのではないかという問いが発生するだろうという点である。実際にそれに近いひとはいたらしい。話が一挙にドストエフスキー的になる。実際ドストエフスキーの投げかけた無神論云々の問題は見かけと違って近代的問題ではないのだろう。同書p575から孫引きする。

問曰く、心は神明の舎なれば一心の外に神はなしといへば、祭などと云事も無用の事、迷の者のする事也と云人あり。いかに。

答曰く、心の外に神なしとは、心の理の外に異なる神はなしとの事なり。灯をさして此の火の外に火はなしと云たるに同じ。さりとていづかたにも火なき事あらんや。此火にちがひ又異なる火と云物はなきとなり。あしく心得て宗廟社稷の神はなきものなり、祭祀もいたづら事なりなどいふやからは、一心の量をせばく見て一向偏見のものなり。灯を見て火と云ものは、是ばかりにて国土に火ともしたる所はあらじとおもふにひとし。又外に神ありとのみ心得て本心をわすれたる人は、余所の宝を羨み尊ぶに同じ。何の益なき事なり。其上神明の教にもそむくものなり。よく工夫すべし。*2

*1:p572

*2:『陽復記』度会延佳p106 日本思想体系・近世神道論、前期国学