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靖国神社メモ
靖国神社 占領下の知られざる攻防 ◎ NHK について
http://d.hatena.ne.jp/ja1bui/20050815
戦前、陸海軍省が管轄していた靖国神社は、軍国主義の象徴と見なされていた。終戦後、GHQは靖国神社を廃止することを検討し、国家と国家神道のつながりを断とうとした。しかし、靖国神社は生き残った。そこには、占領政策を円滑に行おうとするアメリカの思惑や、日本政府、旧日本軍、神社関係者の戦略があった。番組では、日米に残された膨大な資料や関係者の証言から、靖国神社が一宗教法人として存続するまでの攻防を描く。
靖国神社の存続をアメリカが許すことになった経緯などは、番組を見ていないわたしにはよく分からない。ただA級戦犯合祀以後の靖国をめぐる中国、韓国とのトラブル、は基本的にアメリカの国益にそったものだ。アメリカが何がなんでも阻止しなければならないと考えているのは、東アジアにアメリカに対抗しうる力が成立すること。つまり中国と日本との強い友好関係の成立である。首相の靖国参拝とはこれを阻止するための楔であるから、アメリカの陰謀である。
ひるがえって、天皇退位をアメリカが斥けた理由も、“王の死”による王権のリフレッシュをアメリカが嫌ったからである。日本が強大化しすぎれば過去の罪悪を持ち出して国際的にいびり倒せる切り札の温存でもあった。日本の60年はこのように過ぎていったわけだ。
内田樹バブル
http://d.hatena.ne.jp/merubook/20050923/p1
あらかじめ批判を封じ込めてしまう、あらゆる言説を相対化(「絶対」などないのだから)してしまう戦術など、ポストモダニストの遣り口そのものだ。
merubookさん はじめまして。
メモとして引用だけさせてもらいます。ありがとう。 (9/30追加)
金比羅・2 ほか
宗教的参拝は違憲
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051025-00000090-kyodo-pol
Yahoo!ニュース – 共同通信 – 外観上宗教目的なしは合憲 首相靖国参拝で政府答弁書
政府は25日閣議決定した答弁書で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に関連し、仮に公式参拝であっても戦没者追悼の目的で行い、宗教上の目的ではないことが外観上も明らかな場合には、憲法20条3項の禁じる国の宗教的活動には当たらないとの見解をあらためて示した。
民主党の野田佳彦衆院議員の質問主意書に対する答弁書。公式参拝について「国民や遺族の多くが靖国神社において国を代表する立場にある者が追悼を行うことを望んでいるという事情」を踏まえ、「追悼を目的とする参拝であることを公にするとともに、神道形式によることなく追悼行為としてふさわしい方式で追悼の意を表する」ことで、憲法には反しないと指摘している。
(共同通信) – 10月25日12時5分更新
(10/27記入)
被害者の名誉回復
上記のように、合祀の大義が何処にあったのか、を問おうとするのはミスリードかも知れない。
http://d.hatena.ne.jp/nachin7/20051109 には
2005年11月09日(水)の東京新聞記事「靖国神社のA級戦犯合祀」が引用されている。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20051031/mng_____kakushin000.shtml
要点だけメモする。
(1)
66年2月 旧厚生省(現厚生労働省)が刑死するなどしたA級戦犯の「祭神名票」を神社側に送った。
その背景:
旧厚生省援護局は、旧陸軍省と旧海軍省の流れをくむ第一、第二復員省がルーツだ。
ここに戦後間もない四五年十二月から六三年三月まで在籍し、強い影響力を行使したのが、終戦時の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の高級副官を務めた故美山(みやま)要蔵氏だった。
戦時中、美山氏は靖国への合祀を決める責任者だった。
(2)
神社側は七〇年、東条内閣で大東亜相を務めた総代の青木一男参院議員(当時、故人)に「東京裁判の結果を受け入れることになる」と迫られるなどし、合祀を決めたとされる。
(3)
時期については「宮司預かり」とされ、旧皇族の山階宮家出身の故筑波藤麿宮司は在任中に合祀しなかった。
それが七八年、一転して合祀に踏み切るのは、筑波氏が亡くなり、後任に故松平永芳宮司が就任してからだ。元海軍少佐で、陸上自衛隊に勤務した松平氏も元職業軍人。義父は、インドネシアでのオランダ軍事法廷で死刑とされた醍醐忠重海軍中将だった。
結論として東京新聞は「こうしてみると、東条氏らの合祀は、戦犯の名誉回復を望む、旧日本軍や大日本帝国の色濃い人々のリレーで進んだことが分かる。」と述べる。
例えば、“わたしは本来庶民ではなく恥じるべき出自などもっていない。だのに戦犯の娘と呼ばれ屈辱を味わった。なんとしても被害者の名誉を回復したい”、という怨念からのひたすらな一念がそこにはあったのだろうか。戦犯とよばれた人がリードした戦争が巨大な災厄をもたらしたことへの責任というものは彼らには存在しない。<皇祖皇宗>も戦争それ自体も存在しない。ただ被害者意識があるだけ。
日本人の同情を獲得できてよかったね!
うーん 松下昇
というわけで、松下昇ですが。
まず彼を紹介しないといけないか。
生年は1936年であるとのこと。
1996年5月6日朝10時ごろ死亡。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matut11.htm
同時代生まれは誰か調べてみよう。
http://www.excite.co.jp/book/guide/chrono/?index=1 現代作家ガイド―年代別/生年月日検索
ところが、30年代生まれは
1934生 筒井康隆 ともう一人しか居ない。
流行作家としてもてはやされる年齢はとっくに終わって数十年後に再発見される(かもしれない)のを待つ年齢になっているということか。
1936生 寺山修司 1983死。
横尾忠則 もかな。
(生年別に著名人をざっと並べたデータベースがありそうなものなのに、みつからなかった。)
とりあえず見つかった3人をみるとかなり個性派ですね。
破壊~ハチャメチャ~前衛 みたいなイメージがうかぶ。
松下もそのような、ポジティヴなハチャメチャ派だった。とここでは紹介してみよう。
われあり、われらあり。
Ich bin. Wir sind. Das ist genug.
Ich bin. Aber ich habe mich nicht. Darum werden wir erst.
(p7『ドイツ語の本』冒頭)
これはあるドイツ語初級教科書の冒頭の例文なのだが*1
、ドイツ語なので全く分からない。Ich bin. Wir sind.とは英語の「I am.We are.」のようだが。
genug=enough(英語)=assez(仏語)のようだ、google翻訳では。十分に、ということか。
I am. We are. That is enough.
I am. But I do not have myself. Therefore we become only.(英語)
Je suis. Nous sommes. C’est assez.
Je suis. Mais je ne m’ai pas. C’est pourquoi nous devenons seulement.(仏語)
「I am.We are.それで十分」ということか。
Das ist genug.という場合の〈genug〉は、たんにこれ以上は必要ないといい切っているのではなく、むしろいまは、これを最低限の条件として出発するのだ、という一種の覚悟が内包されていると思われる。次の Darum werden wir erst.の〈erst〉は、個々の〈私〉が自らの存在を対象化しえていない不確定さと同じ度合だけ、関係性としての〈私たち〉におしやられつつ、〈はじめて〉相互の構造に気付く、というニュアンスを帯びてもいる。 (たぶん松下昇 p3「正本ドイツ語の本」)
Ich bin. Wir sind. Das ist genug.はエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』という本の冒頭。われあり、われらあり。とは、どんな場合でもそれだけは言えるというわれわれの表現や行為の土台である。*2ところがブロッホはそれを、果てしない努力の果てになお辿り着けないユートピアの青い鳥、でもあるかのように提示している。*3
「われあり、われらあり。」がユートピアの青い鳥であることは、最近のプチウヨの諸君を見てるとよく分かる。彼らはわれであるためには、是が非でも「日本あり」を成立させなければならず、そのためにはアサヒ、中国をはじめとするあらゆるもの*4に罵詈を投げかけ否定しなければならない。彼らはこっけいで有害だ。しかし、
「われあり」のために「われらあり。」が必要ないとするのはどうか。個人の自立を信奉する進歩派知識人は、憲法9条への愛だけを語り続けることにより、対米従属自衛隊強化沖縄植民地化を黙認し続けただけでなく、自らの幻想である平和国家という「われら」を強固に信じている。わたしたちはどんな既成の「われら」をも拒否するしかない、端的に時間の無駄だからだ。だが何んらかの「われら」を非望のように求めてしまっていることをむしろ認めるべきなのだ。
とここまできてやっと、
「Ich bin. Aber ich habe mich nicht. Darum werden wir erst.」から始まる本「Spuren」というのが、菅谷規矩雄訳で本棚にある本だと気づいた。
私は、在る。だが私は私を所有していない。それゆえにまず私たちが成る。
(p2『未知への痕跡』E・ブロッホ 菅谷規矩雄訳 イザラ書房)
この本の方法を菅谷は次のように解説する。
ひとつの神話、ひとつの物語は、それぞれその発生・成立時の支配イデオロギイその他に制約されていて、ほんらいのモティーフを充全に表現しえていない。主体において〈いまだ意識されない〉もの--それゆえ客体において〈いまだ存在していない〉もの--その双方はしかしやがて実現されるための変化のプロセス、つまり主体=意識の前線にあらわれでようとする意向(Intension)、客体の生成過程に未来的に潜在する傾向(Tendenz)の相関関係を、なお不充分なままでおしとどめ、そしてかすかな〈きざし〉のみを私たちに伝えてよこす。
(p296『未知への痕跡』E・ブロッホ への菅谷規矩雄の註と解説 イザラ書房)
Ich bin.とは、ブロッホにとって出発点であると同時に不可能なテロス(目的)であったようだ。
さて、わたしは松下にとって「be」とは何か?を訪ねるためにその周辺を回遊してみたわけである。
六○年代に出現した全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ、
存在(Sein)所有(Haben)生成~自己実現(Werden)の相関のうちに、松下のこの問いの群はどのように直立しているのか。
*1:この本については下記に言及有り。http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_6/koumura.html 好村冨士彦追悼
*2:であるがゆえに言及されることはない。
*3:ユートピアの精神とは翻訳もある分厚い本だが私は全然読んでいない。したがってわたしの解釈は間違い。
*4:最近では&query=フクダユウイチ
6.沈んでいる死者もあり、浮かんでいる死者もいた
筑紫峠も、辰平は忘れることができず、フーコンという言葉を聞けば思い出すのであった。サモウの野戦病院というのか、患者収容所というのか、あれもひどいものであった。患者が多くて、とてもあの瀬降り病棟に全部を収容しきれず、土の上に、何人もの患者が横たわっていた。雨が降ると、そこでそのまま打たれて、ずぶ濡れに濡れていた。そのような患者が次々に死んだ。死体は、共同の死体壕に投げ込まれた。死体壕に雨水が流入してできたプールに、沈んでいる死者もあり、浮かんでいる死者もいた。禿鷲が降下して死者の肉を爪にかけて、飛び去った。
あの死体壕に投下されるまで、死者は泥土に顔を突っ込んでいた。あるいは、仰向けになって、眼と口をあけていた。
あれは確かにあったことであり、実際に見たことなのだ。辰平にはしかし、幻のようにも思えるのであった。あんなに多くの人が、あんな姿で死んでいる光景を、俺は本当に見たのか。もしかしたら、幻想ではないのか。そんな気がするのである。死者の光景だけではない。あの戦場のすべてが夢の中の光景のように思えるのであった。
(p12-13『フーコン戦記』isbn:4167291037)
昨日(5/19)、あるところで、「従軍慰安婦をめぐる6枚の紙片…」と題して話しました。
その時に使った6枚の紙片です。
悲しみは北の果てに
慰安婦とはなにか、定義をめぐってもたぶん異見があるのだろう。下記は慰安婦ではなくただの辺境の下級娼婦(予備軍)だろうか。とにかく(おそらく満州国ができる前)そのエリアの田舎道を歩いている若い女の群、である。
くずれかかった島田髷をグラングランとゆすりながら、赤いおこしをまくり、ゴム長靴をはいて、しめじめした田舎道を歩く十五、六人の若い女の群がいる。
ここ密山あたりへ来る女は、ひ子窟(ヒシカ)の女市場から売られて来たのである。あまりきれいなのがいないのは、下物だからだろう。きれいであってもゴム長じや興がさめるが--
女共のうしろには、面構えのよろしからん男が鞭を持って、羊か豚を追うように尾いている。女共は大ぶん歩かされたとみえヒョロヒョロしている。これからもっと奥の、ソ連境へまででも連れて行って売り込むものとみえる。今夜にも売れたらその日からでも、何ともわからん男--どこの国の人間やらわからぬ男を抱かねばならぬ。「女販売人」からみれば、女というよりは女に似たけだものと思っているだろう。男を抱かせさえすればそれてお金になるのだから、女みたようなものでありさえすればいいのである。どこのだれの子か、どこの村から拾って来たのか知らぬが--
どうせこのあたりに稼いでいる男は、女のいいも悪いもない、徳利の穴から出すものを出せばすむ
のだから--
しかし、このあわれな女たち、これからどこへ行ってどうなるものやら。どうせ、このあたりの土となるものだろうが--それもしらずに--
櫻井忠温の『哀しきものの記録』文芸春秋新社(昭和32年発行) p251 より。
この女たち、わたしは日本人じゃあないと思っていた。でも良く読むとおそらく日本人だ。p203にこう書いている。
大連の北にひ子窟(ヒシカ)という海岸がある。(略)ここが内地で浚った女共を陸揚げするのである。そして女の市が立って、上物と下物とを選り分け、それぞれ相場を極めて送り出すのである。下物は大てい北満送り、あの方さえ役に立てば目っかちでもいいという程度--そんな片輪は拾っては来ないが--大連や奉天向きは特種、遼陽、四平街だのはまず上玉の方である。下物の下物は競売にかける。
「内地で浚った女共」というのは日本人ということになりますね。わたしが日本人と思わなかったのは、この七〇年以上女性であっても日本人であれば満州あたりでそんな扱いは受けないと思っていたからです。でも八〇年以上前にはこういうこともあったのでしょう。
というかわたしがいいたかったことは、女が何国人であってもそんなことはどうでも良い。ただじめじめした田舎道を歩き続ける女たちはあわれだ、とそう思うことが大事だということです。*1
従軍慰安婦問題は、語り得ない言葉を語り初めた彼女たちの実存によりそうように見ることはもちろん必要だが、上記のような哀れさの底、あるいは彼女たちと交わった男たちのことも直ちに断罪しない、すべてを呑みこむ歴史の巨大なはらわたの一つのエピソードとしても理解すべきだと思う。
*1:「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ」聖徳太子以来の、日本人が大事にすべき伝統的感受性です。