「風、強力な流れ、強大な大洋が征服され開拓される。そういうものに遠慮しないこと--個別的なものにすがりつく哀れな感傷性。」(ヘーゲル1805~06年講義録欄外の書き込み)*1
哲学書に突然意味不明の詩的文章が出てきたので面白く思っただけ。えーと。たった一人で大洋を渡ったとすると、それは自然の合法則性、必然性、因果関係に対する人間の意志力の勝利のように思えるがそんなことはないでしょう、といっている。
*1:ルカーチ『若きヘーゲル下』p186
自分の思惟を言表せんとしたわたしは、どうしても哲学様式をとるほかなかった。だからと言ってわたしは、哲学者たちに語りかけているのではない。*1
巨大な“革命を怒号する騒乱”であった全共闘運動期に<何をどのように変革するのか、自分一人で表現せよ>と小さな声で語った松下昇は、造反教官とか革命者とか呼ばれもした。活動家や政治家のようにみえたとしてもそれは彼にとって“強いられた仮装”だったにすぎない。それが真に新しいものであるなら既成の政治や哲学の文法では語り得るはずもない。“あらゆる詭計、術策、擬態”を持ちいて書いたバタイユと、彎曲という言葉や<>という記号を用いて書いた松下は、意外にも近いものを追求していたのかも知れない。
*1:バタイユ「瞑想の方法」『内的体験』の「沈思の方法」のことだろう。デリダp191『エクリチュールと差異下』から孫引き
外務副大臣はファルージャへ行き、惨状をちゃんと見てくれ! ということが解放条件に付け加えられた。これはアルジャジーラで一時伝えられたが現在公式なものではないとされているらしい。どちらにしても、日本はイラク復興のために兵を出しているのだから、イラクの現在の悲惨を外務副大臣が自分の目で確認し打開策を考えることは必要なことであろう。人質に成る可能性が強いというのなら自衛隊員を数人連れて行けばよい。
解放すると伝えられてから、「テロとの闘い」というスローガンがまったく空疎なものであることが明らかになりつつあることに危機感をいだき、「テロとの闘い」をヒステリックに叫ぶ当局者(及びマスコミなお)が急に増えている。彼らの発言は3人の命を危険にさらすものだ。
坂本守信でグーグルしたら、http://www.m-n-j.com/medianetjapan/ousc/link1.htm 「岡山大学学友会の起こりと変質」という23頁もある長い文章が出てきた。
ちょっと読んでみると、80年代に入り「そして学友会が決める一つ一つの規程、規約に坂本氏の思想・考え方が反映されていった。」云々。「学友会は坂本氏の思想に傾倒し一般学生の願いや希望を全くかえりみない組織に変質していたのである。」云々と書いてある。
http://www.erde.co.jp/~masaru/okayama/238/5.html こちらには、「’78大学祭基調--大学祭実行委員会アピール」というのがある。この時点では、坂本氏を含む多くの学生が「新しい共同性を目指す流れをもつ大学祭を創り出すため」という当為でもって運動を作り上げようとしていたようだ。
訂正中。一時消去。
常識的な、そして伝統的に固定した見方からすれば、日常生活の流れ、ひいては人間の歴史は、正常な連続の過程であるが、それは支配者の安定した立場からの、あるいは支配者の立場に賛同する(意識的であれ無意識的であれ)人々の立場からの理解の仕方である。ひとたび被支配者の位置にたち、視線を上方に向けると、日常生活そのものがつねに不連続であり、毎日がいわば危機であり、非常事態であることがわかる。*1
わたしとはのべたらで空疎な連続であり、不連続、危機などというものは実感できないというひともいるだろう。被支配者というところで例えば、被拉致者(例えば地村夫妻)を思い浮かべても良いだろう。彼らの場合はたった一度の不連続により、越境が強いられた。そして日常が流れ子供が産まれた。生まれた子供は朝鮮人として育てられたのか(良く知らないのだが)。ここで「彼らは本来日本人であり朝鮮人でない」という断言は上記で言う「支配者の立場」のものだ。地村氏たちが本来の日本人性を強く主張し続けたら、彼らは北朝鮮の地で生き続けることはできなかったかもしれない。彼らが存在しているのは「北朝鮮国家の思想」を部分的にではあれ承認したからだ。地村氏たちは帰ってきた。そうすると今度は地村氏家族は子供を含め「本来日本人だった」という真理へ回帰することが求められる。朝鮮に生まれそこに二〇年生きた子供に対し、きみの今までの人生は仮のものだ、これから真実の人生が始まると告げるのだ。安物の宗教みたいなものだ。存在丸ごとを国家に包括しようとする力学。自由なはずの日本社会が北朝鮮と同じような全体主義国家であるというおかしさ。わたしも実は地村さんの息子と同じなのだ。「日常生活そのものがつねに不連続であり、毎日がいわば危機であり、非常事態である」とはそういうことなのだと思う。皇軍兵士の息子に生まれいまは退廃US文化だけを裸身にまとったわたしたちだ。
前に地村氏に触れた文はここ。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040601#p1
*1:p116 今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』
私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れるはたらき(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである。(ニーチェ)*1
「抑(そもそ)も意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相(あい)称(かな)える物にして、上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、
後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代、
漢国は意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も漢国なる」*2
私たちは私たちが予め持っている範型(パースペクティブ)によって、考え言葉を使っている。そこで宣長がいうように、古代とか外国のような他の文化、あるいはニーチェが言う<新しいもの>はわたしたちの持っている何かに直ちに翻訳されてしかわたしたちのもとにやってこない。アポリアですね。
というわけで、わたしが最近すごい!と思っている言葉たちは彼女のものだ。
何が納得いかないのだといって、言葉に納得がいかないのだ。
本当に子供だった時私は家も家族も服も靴も鞄も男も友達も何も要らないただ自分の身体を忠実に翻訳する言葉だけが欲しいと思って生きていた。
http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041019
はてなダイアリー – chimadcのサミズダット
# F 『先日はありがとうございました。
新潟を中心に起きた今回の地震後、最近「火事場泥棒」的行為が頻発しているとのニュースが報道されていますが、先日夕方のニュースを見ていたら、どこぞのアナウンサーが、「(ATMを荒らしたり、家屋に盗みに入ったり)こんなことをするのは日本人ではない、と思いたいですね」と発言したことに愕然としました。「こんな悪いことをするのは(たとえ「日本人」であっても)善良なる日本人の範疇には入らない」ということなのか、単純に悪意から「これは外国人(三国人)のやったことである」といいたいのか、とにかく、石原などを好き勝手言わせている状況が、この様な発言をしても許されると思っている輩を生み出しているのでしょうね。
折りしも、同じ職場の人々が同じような話題をしながら「阪神大震災の時の長田区の火事は、誰かが放火したのだ」と話しいるのに接して、こういう連中が関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を撒いた」というデマに惑わされて虐殺をしたのだろうと思い、ぞっとしました。
李良枝は小説の中で、「日本人」に殺されるかも知れないという脅迫観念から自傷自罰を繰り返す人物を描いていて痛ましかったのですが、「善良なる日本人」にいつか殺されるかもしれないという恐怖は日々増してきていると思います。』
# 思わずカキコミ 『こんにちは。いつも更新を楽しみにしています。ところで「先日の夕方のニュース」私も見ました。「日本人ではない、と思いたいですね」の後に《日本人ではないと思いますが。》と付け加えたことも。抗議のMAILを送ったわよ。この件についてあまり触れているブログ等がないので、思わず書き込んでしまいました。』
へーえ、そんなことを言う日本人が、(アナウンサーが)、いるのですか。困ったものですね。
まあわたしなども日頃つい無意識で「日本人」という言葉を使ってしまうことはあるのですが、これはひどすぎますね。
人はひとりで生きているのではないのにそれを忘れている、というのは正しいと思います。ですがそれを「きみは日本という伝統と共同体、国土に包まれた存在なのだ」というのはマチガイ。世界で最大の間違いです。日本人はつい60年前にひどい目にあった(自分自身も)のにまだこりないのか。ばかちゃうか!、と思ってしまいますね。
(Fさん、“思わずカキコミ”さん コメントありがとう。読んでくれて嬉しいです。今後ともよろしく。)
(Fさん 金時鐘をめぐる討論会行きませんか?上に案内書きました。)
えーと。(11/27訂正版UP)
「男性/女性/中性など、生理の規範としての性を、一旦すべて破棄して考える こと」について考えてきたのでした。
松下の文章は4頁(4部分)からなる。要約すると以下の通り。
1.わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。
2.「性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何かの呪縛から私たちは脱していない」
「男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度である」
3.胎児の段階でヒトは男女に分化するが、性というものを自意識において捉え返すことは、幼児~思春期までなされない。
「性別の存在と性別の意識は不均衡~非対称である。」
4.性行為を複素数空間において考察すること。
(2)
反対概念というのは奇妙なもので、<明るい/暗い><高い/低い>など、反対概念の和は全体であるかのようにイメージされてしまう。目の見えない人は<明るい部屋/暗い部屋>の差異が理解できない。明るさを直接把握することはできないのだ。しかしながらすべての文章のうちから<明るい又は暗い>が付くフレーズを集めれば、それがどんな時につかわれる言葉なのか、どういう雰囲気をもった言葉かが分かるだろう。それと同時に、<明かるさ>をあらかじめ知っている人たち(わたしたち)には普通理解できないあることにも気付くのだ。つまり(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)がどこにあるのかが分かる。
「それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、」というセリフはとても滑稽な印象を与える。大学に対し反大学というものしか頭のなかに描くことができず、つまり広い意味での大学(知的世界)だけが世界であると思っている自分を知らず知らずに白状してしまっているからだ。
さて、「大学はすでに本質的に解体している」とはどういうことだろうか。知の体系が存在するためには、〈(考察し研究する)主体-対象〉という構図が必要である。〈大衆団交〉が実現可能だったことは、その構図が崩れたことを意味する。〈死者の声は聞き取ることができる〉〈サバルタンは語ることができる〉というアプリオリから出発するのが、松下のスタイルである。サバルタンの声を想定することはサバルタンでないものがサバルタン性を表象代行する事であり犯罪的である、という批判の可能性がある。しかしその批判が成立するかどうかは、わたしがどこに立っているかによる。大学の中のインテリとして発言することと、それと対極的な場で発想することは違うのだ。〈現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでid:noharra:20040721〉語る場合とは。
(3)
たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。
松下は何を言っているのだろう。ポルノ写真の性器とわたしの器官が出会う回路とは?毎日送られてくるスパムメールには美女の写真付きの物もたぶんあり、その場合その女性に出会うべき回路も指示(または暗示)されているのだろうが、そういう場合を除けば、ポルノは出会えない可能性においてポルノであると思われるのに松下は違うという。その写真をどのような眼差しで見るのか、スケベオヤジの視線でか、商品としての視線でか、少年の無垢な好奇心か、失われた横田めぐみさんを見るようにか、そのような視線のあり方を言ってるだけだろう。読者の性器写真への眼差し(回路)の在りようは多様であり、それを一概に「猥褻」「オヤジの眼差し」と決めつける根拠は裁判所にはない、と松下は主張する。
ところで女性にとってなぜポルノか?<具体的に股開いて金稼いでない人は、自分の変わりに誰かが股開いて生きている、という一瞬(へ?)というしかないような構造で世界が成り立っているということを肝に銘じておこう*1>といった発想がおそらく山本氏にはあったのだろう。ポルノ写真を一枚一枚見ながら松下はその裏側に<世界を転倒せずには生きられないが、同時にそうした文に決してたどり着くことのない>性器たちの静かな叫びを聞き続けたのだろう。
ただ、そのような理解ではまだ不足だろう。叫んでいない性器たちから無音の叫びを聞くとは、性器を〈サバルタン〉と位置づけていることだ。あるひとがサバルタンであるとはその人との回路が非対称的である、つまりわたしが主体でありサバルタンは客体であるという関係がどのようにしても動かしえないことを意味する。しかしながら松下は断言する。非対称性は欲望も刺激しないし、性的本質と敵対すると。*2
「多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも、性的本質とは無関係であり、敵対している。この視点を疎外する位置にある場合には。*3」
ポルノを見てオナニーしたりあるいは娼婦を抱くといった行為は本物にたどりつけない人のための不完全な偽物だと一般に思われているが、いわゆる本物の性行為に対し松下は、性的本質に敵対するものだ、と断言する。それでは性的本質とは何なのだ?
(4)
成熱した男と女の自然な行為として〈性〉行為を考えることを松下は批判する。「むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因~止揚条件から考察を始めるべきではないのか。」というのが松下の主張である。正常な器官の結合を基準とする直線的価値観を廃棄し、未成熟~はみ出した身体同士の接触の多様性平面を想定しそれにさらに幻想過程という次元が追加されたn次元において、ズレだけでなく一致も存在しうることの驚きを展開していく、といったイメージだろうか。
「〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展関する作業」こそが求められている。
ダンテはベアトリーチェを誉めたたえることにより性愛の幻想が「社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうること」を描いた(予感した)。*4性愛の器官的実践を含む多様な幻想的~器官的実践と考察が、あくまで現代文明(既成概念)の対象化~転倒の試みを基軸として試みられなければならない。と書いたが「……しなければならない」とは松下は書いていない。そうではなくて現代文明につきまとう当為というモードこそ、解体されなければならないものに含まれる。←この文章もまたパラドックスになった。「これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提」として、目標に向かって進む(目標が実践的なものであれ否定神学的なものであれ)というモードがあった。とも言って良い。松下の思想が、現在の文法では語り得ない目標に向かっていることを、彼の文体の分かりにくさが示している。何重にも留保し、結論を繰り延べ、かと思うと急に過剰に断言するといったスタイル。
*1:http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041111のコメント欄 のchimadc発言
*2:〈男〉はいつもサバルタンを抱いてきた。 非対称性とは何か?「股開いて金稼いでない人」とは?それはつまり典型的には、USAならWASP、日本では有名大学卒業有名企業就職男子という存在様式を持ちながら、なまじインテリで左翼で善意を持ち、セックスワーカーなんかに手をさしのべる存在。と彼らの知の対象であるサバルタン存在。(詩人たちはいつでもサバルタンを必要とした。学問がこのレベルに到達したのがポスト構造主義ないしポスコロの時代だったと考えることができる。)インテリ/サバルタンという構造を、ブルジョア/プロレタリアにならって社会全体に押しひろげることができる。と稚拙に描かれた構図がふつうに具体化している現実があったとき、ひとは「一瞬(へ?)というしかない」! (だが、「一瞬(へ?)というしかない」その一瞬に「へ?」と言えるのはサバルタンの側であろう。反サバルタンは鈍感であることによって定義される。) 即ち、善意の左翼インテリである野原燐(男性)は、「鈍感である」という自覚において辛うじて左翼たりうる。ここには越えられない溝があり、その深さに無自覚であれば“一生幸せに生きていく(他者を殺しながら)”ことしかできない。
*3:野原が文章を少し縮めています
*4:ダンテのことは分かりません。