id:noharra:20050203 の続き。
カテゴリー: idea
ビラをまく自由
投票に行くことより、デモをしたりビラをまいたりする方が有効な政治的行為だと思っている、わたしは。
去年くらいに駅構内でビラをまいてはいけないという通知がJRの各駅長宛出たという噂をきいた。
2月24日、東京のある高校前で、ある大学生がビラを配っていたという理由で、その高校長が警察に通報した、という事例があるようだ。
また次のような噂もある。
また、式典会場及びその周辺においてビラまきなどがなされた場合には、「住居侵入罪」「道路交通法違反」を活用して警察力を導入せよとの校長宛指導がなされているとの情報もあり、
道路でビラをまくことについて、警官に嫌がらせをする権利があるかどうか、前から気になっていたので、道路交通法を見てみた。
第76条
4 何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。
1.道路において、酒に酔つて交通の妨害となるような程度にふらつくこと。
2.道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。
3.交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。
4.石、ガラスびん、金属片その他道路上の人若しくは車両等を損傷するおそれのある物件を投げ、又は発射すること。
5.前号に掲げるもののほか、道路において進行中の車両等から物件を投げること。
6.道路において進行中の自動車、トロリーバス又は路面電車に飛び乗り、若しくはこれらから飛び降り、又はこれらに外からつかまること。
7.前各号に掲げるもののほか、道路又は交通の状況により、公安委員会が、道路における交通の危険を生じさせ、又は著しく交通の妨害となるおそれがあると認めて定めた行為
これを見る限り、「道路交通法」ではビラ撒きは禁止されていない。公務員が法的根拠なく市民の政治的自由を制限してはいけない。
もう一つの固有名
だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia
おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)
南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。
ところで引用先には次のような文もあった。
ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。
レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。
難民とアイドル
# hal44 『またちょっと書きました。
基本的なところでは異議があるわけではありません。
ただ、相互の思想の差異を確認するために少し書いてみます。
では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。
(野原)
現在多くのプチウヨとかが口にするのは、被害者としての「横田めぐみ」です。日本人少女めぐみさんが無垢な被害者であり、彼女に対する加害者として「敵」=金正日一派=北朝鮮国家が名指されます。このような排外主義は私にとっても不快なものです。ですがそこで思考停止して良いのでしょうか。このごろ思うのは、めぐみさんというのは「日本人」というより「難民」である、ということです。彼女が失踪してから20年近く、少しは気付きながら日本国(外務省)は、国家と国家のつき合いを重んじて、一人の日本人の運命に深く関わっていこうとはしませんでした。それが数年前から家族会、救う会とかができて、少しづつ世間の注目もあつまり、ようやく現在のような(そういう言葉を使うことが許されるとしたら)国民的アイドルに成ることができたのです。世界中でひどい目にあっている女性たちはたくさん居り、めぐみさんにだけ注目することが正しいわけでは無いのは言うまでもありません。しかしいまでは有名になった「めぐみさん」自身たった2,3年前までは国民的レベルでは誰も知らない、見捨てられた存在であったわけです。めぐみさんを見捨てたまま知らん顔を続けるのが正しいわけではない、と言うことには同意いただけるのではないでしょうか。とすると、次の問題は、「めぐみさんに多くの人の関心を集める方便としてナショナリズムに訴えること」の是非です。これは例えば、韓国人慰安婦某女にできるだけ多くの人の関心を集める方便として韓国人ナショナリズムに訴えること、とパラレルな問題です。
わたしはこのような方便を肯定すべきだと力説したいわけでは別にないのですが、全く無視すべきだと言うことにもならないと思っています。
またこのブログはいまヘッドに「米国人のレイチェル・コリーさんがイスラエル軍に轢殺されました。」という文を掲げています。パレスチナ人は毎日のように殺されているのに、何故パレスチナ人ではなくたまたま殺されたアメリカ人の名前を掲げるのか、という問題とも関わる問題にもなってきます。
以上の話は、狭義のナショナリズムには関係ありません。ナショナリズムに類似のアイドル利用の大衆動員方法みたいなことをどう評価するかという問題です。
教育基本法
教育基本法
昭和22・3・31・法律 25号
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の方針)
第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
(教育の機会均等)
「われらは、さきに、」「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」とは要は、先の大東亜戦争は間違っていました、これからは別の道を歩みますということだ。
「君が代」がこのような思想に背反する、大日本帝国と戦後日本との連続性を意味する事は明らかである。
少なくともそう理解する多くの教師が居た。この確信が正しい限り、卒業式に「君が代」は不要だという論理は、「憲法-教育基本法」によって肯定される。指導要領は学校教育法の下部の通達?であり、本来教育基本法の範疇っぽい領域を規制できない。
にもかかわらず、48年前から一部の教育官僚は、君が代に執拗にこだわり続けた。それは何なんだろうか。3月に止めておけば良かった戦争をずるずる引き延ばして国民(だけでない)に被害を拡大した責任を追及されたくないという意志。そうした「悪」と一体になったベクトルである事ははっきりしていると思う。
どちらが先か?については、法的根拠なく「君が代に執拗にこだわり続けた」文部官僚の黒い意志が先である、ことになる。
神さまがいっぱい
えー最近では古事記伝というと別の本のことだとかいう話を聞いたがまあそれはどうでも良いとして、岩波文庫の本居のそれは、1940年に(戦争中ですね)作った版をそのまま使っているので活字がかすれているし読みにくいことこのうえない。でもまあわたしは、無意味に近い言葉に惹かれるたちなので、苦労しながらなんとか読んでいます。やっとp298まで来ました。火の神カグツチを生むところです。天地初発之時からここまで岩波文庫古事記の原文(漢字ばかり)ではわずか3頁。それが『古事記伝』では約160頁です。
ところで新潮日本古典集成の『古事記』(西宮一民校注)の付録には神の名前がずらずらと1番から321番まで番号付きで丁寧な解説付きで載っている。とりあえず最初の部分を載せたいと思ったが古事記の神名は使われていない漢字などもあり書くのが難しい。ちょっと下記の古事記研究所というところからコピペして神の名のところだけ使わして貰います。記して感謝します。(一部勝手になおしたりしています)
- 天之御中主神。(あめのみなかぬしのかみ)
- 高御産巣日神。(たかみむすびのかみ)
- 神産巣日神。(かむむすびのかみ)
- 宇摩志阿斯訶備比古遲神。(うましあしかびひこぢのかみ)
- 天之常立之神。(あめのとこたちのかみ)*1
- 国之常立神。(くにのとこたちのかみ)
- 豊雲野神。(とよくもぬのかみ)*2
- 宇比地邇神。(うひぢにのかみ)
- 妹須比智邇神。(いもすいぢにのかみ)
- 角杙神。(つのぐいのかみ)
- 妹活杙神。(いもいくぐいのかみ)
- 意富斗能地神。(おおとのぢのかみ)
- 妹大斗之辨神(いもおおとのべのかみ)
- 於母陀流神。(おもだるのかみ)
- 妹阿夜訶志古泥神。(いもあやかしこねのかみ)
- 伊邪那岐神。(いざなぎのかみ)
- 妹伊邪那美神。(いもいざなみのかみ)*3
これでイザナミが17番になるだろうか?
10人の場合
を考えてみよう。
数字は1~10。すると、1巡目で偶数が消える。奇数は二進法では最小の桁が0。つまり答えは最小桁が1。1巡目の個数をF(1)=10とする。個数10を2で割る。10÷2=5余り0 g(1)=0 F(2)=0+5
2巡目は1,3,5,7,9のうち3,7が消える。つまり g(1)=0だが、1巡目と逆に*1、二進法では10の桁が1のものが消える。つまり答えは10の桁がゼロ。5÷2=2余り1 g(2)=1 F(3)=1+(5-2)=4
一拍置いているので3巡目は1,5,9のうち1,9が消える。つまり g(2)=1なので、2巡目と反対に二進法では100の桁が0のものが消える。つまり答えは100の桁が1。4÷2=2余り0 g(3)=0 F(4)=3-1=1 終わり。
つまり答えは2進法で101。10進法で5。
これであっているのかな。与えられたxについての式がわからないのでまだ不安。
エクセルでフォームを作った。1000を入れると17になる。本当か?
*1:数が0001から始まるから
夢の浮き橋
バンザイクリフの死者は誰に殺されたのか?
間違いは訂正すればよい!
モヒカン族とやらが流行っているという。世捨て人が流行りものに手を出すのも恥ずかしい。だけどまあ面白いかもしれないので引用して見よう。
http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80
モヒカン族 – モヒカン宣言
■ 宣言
1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する
2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない
3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい
だいたい賛成です。特に3. 「余計な装飾語はいらない」というのが理想ですが、私は意味なく相手の気分を害していることが多いのではとも思う。
■ モヒカン族5つの価値
校正
間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。
共有
アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。
ツッコミビリティ
校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。
(1項目略)
差異
お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。(同上)
正しい、というか反論しにくい。あえて言えば、読みとりにくい文体で書かれた文章をどう評価するか、という問題が考察されていない。
文学的には、文章とは伝達可能性と不可能性のバランスにおいて成立する。文章を書くとき、ツッコミビリティを高めるという意識を持って書くべきだというのは賛成だ。だが一方では他者には“全然分からない”といわれるそうした文章を書く権利も人は持つ。それは「詩」であり、文章(論説文)は自ずから別だろう、と言われるかも知れないが私はそうは思わない。例えば磯部浅一のように反逆罪で訴えられたらそれに対する反論は、論理=合法性を離れ詩に近づくだろう。だからといってそれを揶揄することしかできないものは、自らえらんだわけではない東条英機を許しながらあと千年生きることになる。
「その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。」わたしの文章にはソースの提示はあるが推論過程の提示がないな…
ちなみに、<野原燐 気付 自主ゼミ実行委員会>の原則は下記の通り。
1.公開。
2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。
3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。
考えてみればわたしたちの社会も、すべての市民の「自由な討論ですべてを決定する」というラディカルな原則を“原則としてだけは”とっくの昔に採用していたのだった。その場合、モヒカン宣言に類する心構えは当然必須ということになるべきだったろう。モヒカン宣言なるものがけっこう新しく見えるのは、「自由な討論ですべてを決定する」を真面目に押し進めようとする勢力がごく少なかったことを意味しよう。したがって、上記のような留保は付けつつも、モヒカン宣言に賛成し発展を祈りたい。