旧左翼のどこが駄目なのか

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031210 に書いた沢田さんから返事が1週間ほど前に来たので、それへの返信を書いていた、一日中。しんどかった・・・

 書くことがないので無理して書いてみよう。昨日広河隆一さんの講演を聴いたのでその感想を。彼の発言は物静かで、分かりやすかった。“戦争といっても軍隊と軍隊がぶつかり合うといった普通の戦争をわたしは体験したことがない。わたしが知っているのは、もっと一方的な、一方が他方にクラスター爆弾*1のような強力すぎる兵器を落とす、落とす側と落とされる側がはっきりしている「戦争」ばかりだ”、といっていた。

広河さんは、イラク人の被害者の被害よりもアメリカ兵の故郷から離れた寂しさなどの方を大きく報道し、結果的にアメリカの側に立った世界観しか持たせないようにしていまう現在のメディアのあり方を強く批判していた。

 イラク戦争の現在などの場合、敵は国家でも公認された交戦団体でもないので、国際法によっても保護されません。思えば、日中戦争(日華事変)もそうだった。<日華事変>をどう考えるかが戦後最大の問題だったのに、ヒロヒト留任と同じく誤魔化してしまったので、日本はとうとうこんなていたらくになってしまった。

 えー。その集会は広河さんの講演集会ではなく主催者は、自治労某県支部だった。その自治労(かなんかしらないが)の書記長とかが2,3人発言した。発言の内容というよりその姿勢、根拠というものにかなり疑問をもった。カメラマンは世界中の戦場を駆け回って被害者の写真を撮り、日本に帰ってその写真を売る、あえてそういう言い方をするならえげつない商売だとも言える。他者の悲しみを表象=代行することにはやましさがつきまとう。他者の悲しみに対抗するだけの<真実の力>というものを自分の力で自分のなかに作り出すことができなければそのような営為は持続できない。ところが自治労委員長の方はどうか。かれは自分が何も支払わずに正義の発言をしている、ということに何の疑問ももっていない、ようにみえた。小泉は悪であり、労働者は護憲、平和の陣営であり保証されているその正義を唱えているだけだ。

これでは大衆に見放されて当然だ。わたしは彼の意見にまあまあ賛成なのだが、どうもそう思ってしまった。どうすればよいのだろう?“労働者はその即自性において平和勢力だ”などというドグマに基づいた運動展開はやめるべきだろう。労働組合に所属するとしても、各個人の自発性において、反戦なら反戦集会に参加するとすっきり割り切るべきだろう。まあそうなって何の集会も開けなくなってしまっている地方も多いだろう。それはそれで困るが、でも民主主義だからしょうがない・・・

きみたちの国だ。

*1:200メートル四方ほどに文字通り無数の鋼鉄の微細な玉をまき散らす。マイニチインタラクティブによれば「クラスターは英語でぶどうなどの「房」。投下された親爆弾が花びらのように開き、中から200個以上の子爆弾が約200×400メートルの範囲に飛散、わずかな衝撃で爆発する。ベトナム戦争当時から米軍が使い始め、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガニスタン攻撃などで約6万4000個使われた。」

世捨て人(削除予定)

入金したので「波状言論05号」、とか言うのをメールしてきた。1/4ぐらい斜め読みしたが、北田氏と東氏若いのに昔語りなんかして うーん みっともないんじゃないの。要は自分の思想の核がないんだろう、だったら学問だけしとけ。

まあ野原の如き世捨て人がこんな雑誌読むのが間違いだが。

誰が人質解放を遅らせているのか

を、考えてみると、すんなり人質解放が実現すれば、手柄は被害者の親たちと、アルジャジーラ、それに「いわゆるテロリスト」の三者である。これはアメリカから見ると<反米トリオ>である。しかも、現場はファルージャであり、惨状に世界中の注目が集まるとヒューマニストたちが大騒ぎする可能性が大きい。三人が英雄として帰還すれば、連日テレビに出ることになり、キャラ立ちした高遠さん、今井君などは古くさい左翼とは違う新しいスターとして日本の世論に大きく影響を与える可能性がある。したがってテロリストのヘゲモニーによる「すんなり」とは違うストーリーでの、「解放」が行われる必要がある。幸運にも現場には米軍が展開している。米軍はファルージャ攻撃を中断してまで、このことに熱中している。陰謀説みたいなことは言いたくないが、ありうることかもしれない。

おそらく現在も

我々アメリカはアパッチ戦闘ヘリとF16戦闘機、そして様々なミサイルを使って家々や女性、子ども、学校、病院を破壊している。それにもかかわらず、自分たちの家や家族、文化を破壊から守ろうと我々を止めるために立ち上がる人々のことを「テロリスト」と呼ぶ。ここでもまた、我らが米軍や米国政府の者たちは言語を逆さまにしている。

(「逆さまのファルージャ」サム・ハモッド Information Claring House原文) 益岡賢氏のページより  http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/  

北野勇作 ささやかな日常?

北野勇作はわたしが知らなかっただけで有名人のようだ。最近は『人面町四丁目』という新作も出たようでリンクも多い。そのうち下記が丁寧に批評していた。

http://d.hatena.ne.jp/marron555/20040712#p1(風街まろんさん)

いままでのSFは青春小説だった、「状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描く」。それに対し「北野勇作のSFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。」「いわば中年小説」とのこと。

なるほど。これはSFというより小説一般、いやむしろ現在の青春の不可能性そのものに関わる問題だ。いや「青春の不可能性」をテーマにしてしまえば青春小説になる。不可能性をその主観的形態「絶望」において描こうとするのが従来の小説であったとすれば、そうではない形態(ゲーデル的とでも言っておこうか)で描こうとするのが北野SFかもしれない。

妊娠から遠いわたし

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 strictkさんへの応答が遅れている。今日、漫画「NANA」というのを少しだけ読んだ。続きを読もうと近のリサイクル古書店にいったら、十数冊でているはずのこの漫画だけが一冊もない。少女マンガの棚には慣れていないのでそう確認するまで数分かかった。*1準備ということもないが、「西尾幹二のインターネット日録」というのがあるのを知り読んでみると、大したことは書いてなかった。

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/ 9/9

落合恵子(作家)さんの文を批判している。

(落合)私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。

(西尾)落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。

「落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。」というのは「為にする問いかけ」である。人間存在というのはマルクスを持ち出すまでもなく関係性の束とも考えることができる。存在としてのわたしが「けっして「個」ではない。」というのは正しい。

しかし、<実存としてのわたし>については「やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。」という断言が適切であろう。ところが、次の文章「このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。」を読むと少し違和感が残る。人権を考えることは普遍的政治的な立場に立つことではないか。セクシュアリティを含む困難に真正面からぶつかったとき、人権概念は役に立つこともあればそうでないこともある、と思える。*2人権という概念を最終審級とすべきではない。概念ないし言葉を大事にするのではなく、困難にあるあなたと(それに関与しなければならないわけではない)わたしという関係が当為ではないが不可避である、ことが大事であると思われる。(しかしながらたぶん)落合さんが立ち止まっている問題もそうした問題であることは間違いないであろう。したがってここでの落合さんへの疑問は、わたしとは多少言葉の使い方が違う、というだけのことになった。

一方、西尾幹二の方はいちゃもん付けをしてるだけだ。「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」この文章の多義性に、西尾氏のマジックの種が隠されている。「野原9/23」などで丁寧に触れたとおり、母ないしそれに代わる他者に依存する時間の持続がなければ、わたしたちは「ポリス的動物」になりえない。それと「独立した大人でも諸関係や国家に依存している」というのは別の問題だ。はっきり書かないのはそこに思想的弱点があるからだろう。

「彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」この二つの文章は明らかに矛盾してますね。後者はニーチェとも言えるが、芸のないニーチェはニーチェから最も遠いものだ。

追記「トラックバック」というもがよく分かっていなかったので、一度やってみようと、畏れ多くも西尾氏あてに試みたが、2回失敗しあきらめた。無難だったろう。

*1:翌日もう一度行ったらちゃんとありました。人気漫画コーナーという棚で集英社の棚とは別のところにちゃんとあるのだ!

*2:ろくな体験~闘いもしてないくせに、えらそうに言っても良いのか?(陰の声)

糾弾は関係を切断する?

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2 はてなダイアリー – +   駝  鳥    + については上に触れたが、スワンさんからコメントがあったのでもう一度考えてみた。

歴史的判決というべき04年10月15日に、水俣病を語るブログや2chの言論が閑散としていた状況は、そうしたジレンマから私たちの意識が完全に自由であったことを意味するだろう。郵貯が何に使われているかなんて猪瀬直樹が日本国の研究を書く以前は誰も関心をもたなかった。最近はずいぶん情報の風通しがよくなったが、それでもチッソの賠償金倒産を食い止めるために国や県が財投を通じて金融支援をしており、その原資が私たちの預金や郵貯であることを知る人は少ない。

そのことは全く知りませんでした。70年代に大きく報道され三里塚とならぶ社会運動の拠点ともなっていた<水俣>がその後どのように継続していたのかについても全く知らず*1、今回の判決もわたしにとって突然だったので受け止めかねました。

ただ、難癖を付けるような読み方をすると、ジレンマから自由であることはむしろ「チッソが悪い」と言う(書く)事につながるはずでネットが閑散としてたことには繋がらないように思う。

チッソは68年まで排水をやめなかったし、国もやめさせなかった。チッソが悪い、国が悪いというのは簡単だ。

「イスラエルの残虐」については日本のテレビでも一定は報道されている。ところが(スワンさんは例外として)「イスラエルが悪い」という素直な感想はhatenaでは(一定はあるが)それほどない。*2

「イスラエルが悪い」と思うのは簡単でも、言うのは簡単ではない、ということのようだ。それと同じように「チッソが悪い」、というのは実は簡単ではないのではないか。

「私たちもまた、加害性を抱えながら果実を手にしてきた。」黙っている人たちは発言すればジレンマに向きあわなければならないことを(どこかで瞬時に)察知したからこそ黙っているのではないか。

 チッソにせよ戦争責任にせよ私たちを困惑させてしまうジレンマと向き合い続けることでそれを乗り越えていくしかないと、スワンさんはおっしゃっているのだと思います。(違いますか?)わたしもそう思います。

 差異は糾弾というスタイルに対する好悪にあります。

ある日本人がステロタイプな殺人鬼だったこと、それは日本人には見たくない、(ともすれば)見ることができない事実である以上、殺人鬼という画像を突きつけるという行為はまず何度でも行わなければならない、とわたしは考える。しかしスワンさんは糾弾することは、世代間の連続性を切断することになると捉える。「加害者とのコミュニケーションが切断されているだけで、殺人鬼のイメージをふくらますことは非常に簡単なことは私たちは日常的に経験していることだ。」

これは難しい問題だが大事なことなので、上手く書くことはできなかったがもう一度書いてみた。

*1:石牟礼道子さんに対する美学的敬意だけはかろうじて継続しつつ

*2:スワンさんは、http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041019#p2 でも書かれています。

たすけがくるまで待っていた

 ヴァジニア・ハミルトンの『マイ ゴースト アンクル』島式子訳原生林 という本を読んだ。(原題は「Sweet whispers,Brother Rush」)大傑作だ。障害を持った弟と二人で暮らしている貧しい黒人の少女が幽霊を見る話。(お母さんは1、2週間に1度くらいしか帰ってこない)ヤングアダルトものだがジャンルを越えた力を持っている。幽霊はブラザー叔父さん。叔父さんのあまりのかっこよさに主人公(ツリー)の少女は引きつけられる。彼女が幽霊を見るのはもちろん、彼女が生きている現実が苛酷すぎて、別の現実(彼女がかろうじて知っているのは彼女の幼児時代とそのとき格好良かった叔父さんだけだ、彼女は父のことを知らず、遠慮して母にそのことを聞くことさえできない)をどうしても必要としたからだ。すべてのファンタジーはそうした世界を裏返さずにはおかない呪詛を隠しているはずだが、この小説のようにそのベクトルを露わにしつつなお小説としてみごとに成功しているものは希だろう。「黒人特有の致死の遺伝病・ポーフィリア」なんて聞いたらそりゃいくらなんでも露骨すぎる道具立て!と思うかもしれにないが、そんなことないんだな。

 赤木さんもこういっています。「物語としても文学としても、第一級の逸品です。(赤木かん子)」http://www.hico.jp/sakuhinn/7ma/my02.htm

ボストングローブ・ホーンブック賞1983年など。

ただ現在入手不可かな。わたしは古本屋で百円でゲット。