ラファ・ラファ

http://nekokabu.blogtribe.org/

15日までのラファでの家屋破壊は、UNRWAの調べによると88軒の民家が破壊され、1064人(!)が家を失ったということだ。他に商店やモスクも壊されている。が、これで終わったわけではない。イスラエル軍はまだ数百軒規模で破壊をすると言っている。(5/17)

今、入ってきたガザからの緊急報告を。「今朝(17 日)、イスラエル軍の戦車がガザ南部のソファ検問所から入ってきて、南北の幹線道路サラハッディーンのラファとハンユニスの中間時点に道路閉鎖をもうける準備作業をしている」とのこと。ラファの孤立化を図ろうとしているわけで、予告されていた「大規模破壊」が始まるかもしれない。 . . . .(5/17)

マンダ人とは?

http://homepage2.nifty.com/bet-aramaye/aramaica/gno.html

というところに、マンダ教とマンダ人についての紹介があるのを発見。マンダ人なんて始めて聞く! と興味を持った。西暦3世紀に勢力を失ったグノーシス派を現在でも信仰している人たちだという。ヨルダン川への浸礼による洗礼を重視する、洗礼者ヨハネに従う。ユダヤ教でもキリスト教でもない。とのこと。

「ルーテルス、アルリヨ、カルピノ、マニケヲの類、皆是ヱレゼスとす。」

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=321&range=1 で、上記のような新井白石の文を引用したが、マンダ教も(ローマから見れば)ヱレゼス(異端)には違いない。

スーダン・ダルフールの悲劇

 わたしはチェチェンに対して無知だ、と先日書いたがダルフールについてはそれ以下だ。

極東ブログさんがスーダン問題について発言されており、スーダン・ダルフール危機の情報を共有していくためにWikiを作成されたことを(たぶん昨日)知った。

http://wiki.fdiary.net/sudan/

今日、「スーダン 虐殺」で グーグルしてみた。

「国境なき医師団」の頁にたくさん記事があるので読んでみてください。

http://www.msf.or.jp/news/news.php?id=2004071603&key=sudan

ちょっと引用します。「まだ大人にならない14‐15才の少女が身の回りのものをすべてもち、ロバに乗って丘を越えていくという信じられない光景を見ます。彼女たちは、きっと殴られ強姦されるであろうことを知っています。しかし彼女たちは『他に選択肢はない』と言うのです。」

男性でありながら

男性でありながら真っ昼間から、女性もののらしいブログをのぞき見していると、なんだかゲームへの参加を呼び掛けられたので、男性でありながら初老でありながら参加してみようと思ったが、男性でありながら配偶者から急に電話が掛かってき男性でありながら息子を4時までに病院に連れて行かなければならないのに息子はいっこうに帰ってこないので男性でありながら窓から外を覗いて心配しているのだった。(昨日は2ちゃんでありながら反反ジェンダーフリーのひと発見。)男性でありながらこのブログを読むと男性でありながら「居心地が悪い」。

http://d.hatena.ne.jp/maki-ryu/20041018#p1 はてなダイアリー – あたしはレズビアンだと思われてもいいのよ のコメント欄に参加。

以下は、その後追加。

男性でありながら、小学校の門の前で息子を待ちかまえキャッチし、男性でありながら病院まで連れて行き、男性でありながら母子手帳を看護婦にさしだし、男性でありながら息子のアレルギーの有無とか細かい健康上の質問項目に答え、男性でありながらやっと終わった。自分が何をしているのかあまり分かっていなかったのだが(だって男性なんだもの)三種混合の第二期予防接種を子供に受けさせたのだった。予防接種をどう考えるのか、というのは、母の自己決定(自己じゃないんだが)を問われる重要な問題。だが、(だって男性なんだもの)野原は何も考えてなかった。今日も配偶者の指示に従っただけ。「母子手帳」というものが子供が10歳過ぎになっても大切に手元に置いておくべきものだということを初めて知った(だって男性なんだもの)。三種混合というのはなんと10年も経ってからもう一度やらないといけないので、「母であれば」その10年をしみじみ振り返ることができるのだろう。小児科には、赤ちゃんの様々な色の便のリアルな写真が18種類も立派なパネルで表示されており、そんな時期を速やかに忘れた私と息子本人はけっこう熱心に見入ってしまった(だって男性なんだもの)。雨が降ってるのに自転車に乗って息子たちは出て行ってしまい、びしょぬれになるだろう、そのくらい注意したれよ(だって男性なんだもの)!

「一般の結婚制度を利用しているヘテロのカップルはこうは行かない。本当にたいへんなことだと思う。」

「女と男が結婚制度の中でうまく行くなんてあり得るのか?とあたしは疑っている。」というフレーズを発見。うちの配偶者が「たいへんである」という事実を再確認し  ました。

国家とアイデンティティ(2)

homoinsipiensさん

下のコメントを受けて考えてみました。

「批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。」という文章の、「この悲惨」というものが一体何を指しているのか?は下記コメントを読んでも依然として不明です。

「自衛隊が派遣されているから起こった事件か? 否。」

「イラクでは米軍に協力するイラク人はおろか、派兵していないフランス等の国民も誘拐されているのである。」

http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289

イラク国内の混乱の原因は戦争を仕掛けそして現在占領者である米英にある。日本はアメリカとに媚びを売るために自衛隊まで出した。自衛隊派兵と香田さんの誘拐が正の相関関係にあることは間違いない。「否。」といって見得を切るのは安っぽいデマゴーグのやり口だ。

私は文脈を外れた自己責任論の醜悪とともに、この醜悪を生み出した他己責任論者(のちに多数が反・自己責任論にも加わる)の無自覚ぶりに怒りを覚えました。

他己責任論者の無責任っていったいどういうことなのかついての説明がありませんね。

「noharraさんによる自己責任論者の「悲惨」を突き放す態度」について説明します。

人生は不条理なものでありそこにおいて、神とか(儒教的な)天とかそのようなものへの祈りはたぶん必要だと思います。ところがそこに日本国家というものを置くことは、馬鹿げて悲惨なことです。日本国家は最初から普遍とは全く違う存在だからです。有限の存在であり魂の問題には関わることができません。<普遍>から<日本精神>へのこのすり替えは教育勅語のころ起こりました。当時は日本が何が何でも近代国家に成らなくてはいけない時代だったのです。(それでもそこに色々な意見があるでしょうが。)21世紀にもなって「日本国家と自らを同一視する以外に確固たるアイデンティティを持てない人」を作ろうとする勢力がありそれに応じる形でそうした人々が沢山出てくるとしたら、それは私にはとても悲惨な事態だと思われます。

非対称の性

松下昇氏の性に関わる文章を掲載します。

  非対称の性

 生理ないし言語の規範における〈性〉が男性、女性、中性などと呼ばれるけれども、それらを一たん全て破棄して考察してみることが、このテーマに踏み込む基本原則である。この原則は、性の比較、交差、交換などは、自明の価値ないし魅惑性をもたず、自明さと対等に無関係さを内包ないし外包しているという仮説を軸としている。この仮説がどこからきているかについて、いくつかの関連ヴィジョンを提出してみる。

 (1)ヨーロッパ系の言語にどうしても身体感覚としてなじめない理由の一つは、名詞に性別があることであった。名詞の指示するイメージから多分この性なのだろうと推定することもできるが、それは一部分であり、推定に反するものがたくさんある。例えば、ドイツ語でいうと、なぜStern(星)やSee(湖)が男性名詞であり、なぜGeschichte(歴史)やFreiheit(自由)が女性名詞であり、なぜWeib(女)やGedanke(思考)が中性名詞であるのか、どうにも納得できなかった。名詞の性別が判らないと格変化の場合に前にくる冠詞や形容詞の変化もできなくなるので、苦行のようにして暗記したり、名詞が動詞などから派生する過程や語尾の特徴を知ることなどによってある程度の区別ができるようにはなったけれども、根本的な異和は深まるばかりであった。言葉と言葉の間の対称軸の欠如ないし一方的な既成事実化に親しめなかったともいえる。念のためにいうと、だからといってヨーロッパ系の言語の中で名詞の性別のない英語とか、非ヨーロッパ系の言語が好きだとか得意だとかいうのでは全くない。どんな言語に対しても(特に日本語に対しては!)異和があるのだが、ここでは、ヨーロッパ系の古い起源をもつ言語の名詞に性別があるのは、言語の発生から血族社会内部での流通過程において、人々があらゆる対象を直接ふれたり評価したりできる〈もの〉として記号化し、かつ〈性〉的に区分する世界観(共同幻想)の中で相当長い期間を過ごしたことを推定させる、という独断をのべておく。

 ついでにのべておくと、血族社会から氏族~部族~民族国家への移行と対応して、対象を〈性〉的に区分する世界観の放棄をしいられたであろう。しかし、幻想的拘束の残像としての名詞の性別は依然として持統した。この事実は、あらゆる対象を〈性〉に区分して認識する段階を越えても、慣性的な逆作用により、あらゆる対象を区分~交接可能な概念としての〈性〉質に区分~体系化しようとするヨーロッパ系言語の基底にある認識方法が強化されたことを意味するのではないか。また、前記の世界観の(無意識的な)放棄の度合は、社会的関係の拡大により直接ふれうる〈もの〉が減少する度合に対応しており、その際に貨幣制度の導入が大きい媒介になったのではないか。ヨーロッパ系の言語における〈性〉区分を離脱した英語圏の民族国家が資本制、さらに帝国主義へ最も早く到達したのは偶然ではない。このような独断は、専門の学者からは一笑に付されるであろうが、かれらが、これと異なる事実と方法を(言語ではなく)生理としての<性>に関心を抱く任意の人が納得しうるように示すのでない限り、私の独断は挑発力をもち続けると考える。

(2)前述の独断?は、言語(史)を媒介する〈性〉の領域以外でも意味をもちうる。アメリカの実験心理学者H・G・ファースの「言語なき思考」(染山、氏家訳は82年)の調査結果と私の身近な人との体験と総合して考えると、目や耳の不自由な人の場合には、ある概念(A)の反対概念(│A)の具体的な理解は困難であるが、その度合だけA→│Aという単一の至近ベクトルヘのためらい、いいかえると対称概念(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)への関心が高まることが確認できる。このことは、意識ないし幻想性の〈不自由〉さの自覚を逆用する場合には、Aが問題とされる時にも、直ちに│Aを認識ないし提示することは不要あるいは有害ではないかという示唆を与えうる。

 六○年代末以降の〈大学〉闘争において、〈大学〉(に象徴される知の体系)を解体せよ、すでに本質的に解体している情況を生きよ、と私たちが主張した時に、たえず出会った反論?は、大学の改革の必要は自分たちも認めるが、改革された大学のイメージを提示してくれないと討論できないではないか、それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、授業も続いているではないか、このことは大多数の人にとって君たちが対案を提示するまでは現在の形態の大学が必要であることを示すのだ、というものであった。たしかに私たちは言語による改革案は提示しなかったが、それは、無意識のうちに、現在の目の前にある矛盾Aをたんに転倒しただけの│Aを言語で提示しても、Aの言語レベルにとりこまれ、消滅させられる、と直観していたからである。そして、私たちは矛盾Aが〈目や耳や~の不自由な人〉に確かに感じとれる苦痛の深さへ下降し、その深さをためらいを含む〈身振り〉で、ある場合には道具や言語をも用いつつ地上の管理者~支配者に対して提示することにより、│Aの集合を結果させているAの集合を破壊することを目指してきたのである。この方法は今後さらに、機構としての大学だけではない〈大学〉の根底的解体のために必要であることを強調しておく。

 さて〈性〉へもどろう。いや、ずっとそれについてのべてきてもいるのだが、この項目の冒頭の原則との関連でいいなおすと、男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度であること、〈性〉を論じるためには(1)の言語による接近方法の反対概念として直ちに(3)生理・器官からの接近方法を対比させるのではなく、(2)の前記の視点からの媒介的把握が不可欠であることを指摘したいのである。

 人間は、なぜ性の区分を意識したり恥じたりするのかについて記そうとしている時に、突然うかび上がったヴィジョンを先に記すと…、逮捕されて留置場に入る前に身体検査があるがパンツは脱がないでもよい。拘置所~刑務所に入る前にはパンツも脱ぐように指示される。私は制裁と起訴の二重処分を受けて拘置所と警視庁の留置場を何度も往復している間に殆ど脱ぐことを意識しなくなり、何回目かの留置場では、要求されていないのにパンツを脱いだので、立会いの警察官たちはあわてて目をそむけた。(栗本慎一郎は?)

 性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何か(エデンの園でアダムとイプが禁断の木の実を食ぺた後に相互の性の違いに気づかせ、バベルの塔以後、人間の言語を相互理解困難にしたものと同じかもしれない。)の呪縛から私たちは脱していないのではないか。このテーマには(3)と往還しつつ迫りたい。

(3)生命の発生以後に器官としての性が発生した段階と、人間が性に関心をもつ段階の差は、母体の胎内で性別を区分しうる段階と、その子どもが生誕後に自分と他者の性別に関心をもつ段階の差に対応している。そうであるとして、胎内での性別を区分しうるのは医学の技術であって胎児が意識して性別を表示しているのではなく、生誕後の子どもも、自他の性別に関心をもつというよりもたされるのであり、いずれの場合にも性別の存在と性別の意識は不均衡~非対称である。〈性〉についてのこの特性は人間が対称化~転倒していく全てのテーマの象徴ではないか、と私は何かの胎内でもあるバリケードの中でまどろみつつ予感していた。言葉にするのは今はじめてであるが。

 それにしても、遺伝子や染色体が原初に全てを決定しており、生命体はその存続のための乗り物にすぎない、という流行の見解は、世紀末にふさわしいニヒリズムである。これは〈存在が意識を決定する〉というマルクス思想の核心を最低部で補完するものであり、論者自体の破産に釣り合っている。このテーゼの真の復活の契機については、概念集4でいくつか示唆しているが、項目としては改めて論じる。)

 ここで私が公開の場で〈性〉を論じた時の経験を挿入してみる。徳島大学が懲戒免職処分を公表した山本光代さんは、その後、大学構内で清掃用モップを、法廷内で包丁を、路上でポルノグラフィーを手にしたことでニつの公訴事実とたたかうことになり、私は公訴棄却をそれまでの経過から主張するために証言した。そして、〈 〉を手にすることが罪とされていく過程を批判するために必要であるとのべつつ、なぜか困惑している裁判官に許可決定を出させ、おそるおそる運んできた書記官の緊張ぶりを不思議におもいながら、路上の古本業者の「猥褻物所持」の証拠である多数のポルノグラフィーを一枚ずつ眺め、私のその様子を法廷内の人々が息をつめてみつめていた。私は猥褻罪についての証人ではなかったから猥褻の概念や度合については殆ど証言しなかったけれども、かりに証言したとしても、これらのポルノグラフィーはだれの欲望をも刺激しえない、とつぶやく他なかったであろう。

 たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。普遍的にのベると、〈性〉に関する表現は、結合前の回路に対して一方的に非対称である場合には欲望も刺激しないし、その表現が〈性〉を媒介して〈性〉以外のどのテーマの深化をおしすすめているかを(大衆団交の本質的レベルにおいて…概念集2の項目参照)開示しえない限り、生存の矛盾をおおいかくす役割しか果たしえないであろう。この視点からは、商品の場合は勿論のこと、努力や、逆に惰性による性表現(行為を含む)は何ひとつ〈性〉を生かす表現として成立していない。多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、この視点を疎外する位置にある場合には、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも(あるいは、この経験によって一層)、性的本質とは無関係であり、敵対している。

 最後に(むしろ、これまでの論述過程を対等な身体性から私と共に追求しようとする人にとっては最初にというべきであろうが)、(1)、(2)、(3)に共通し、今後の〈作品〉のテーマにもなる〈非対称〉のヴィジョンを、予告的に記しておく。

 これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提があるように思われる。それは、〈性〉行為についての考察を、成熱した男と女の自然な行為として開始していることである。〈性〉行為の範囲を、たんなる器官の結合として把握しない場合(とりわけ、交通~交換概念の応用としての追求は必要であるが)にも、前記の前提はそのままである。むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因~止揚条件から考察を始めるべきではないのか。

 このことを例えば宮崎勤は、相手の共同作業を絞殺するという決定的な錯誤を通してではあるが私たちに呼びかけており、この声に耳を傾けるのは、ビデオ文明の中での事件として把握するよりも遙かに重要であると考える。宮崎問題の発生以前から発生している私のこの視点と共通する見解を交差させてみると…

 笠井潔は、「対幻想とエロティシズム」(八八年三月発表後「思考の外部・外部の思考」に収録)において、吉本隆明が「対幻想を一対の男女の自然関係としての性」の観念的疎外として把握してエンゲルスを批判し一定の成果をもたらしつつも、「男女」という概念を先験化する点においてエンゲルスに無限に接近せざるをえない、と指摘し、自然関係ではなく、決断を媒介する非自然軸から性に迫ることの必要を主張している。これは私の知る限り、吉本の対幻想論の最良のレベルを継承しつつなされた最良の批判である。ただし、笠井が、性的な他者を外部からの挑発~戦慄として、自己解体をかけて捉えるべき対象であるという時、情念としては了解しうるとしても、かれはまだ成熟概念の内部でのみ把握することにより、吉本と対照的な、しかし共通の自然関係の枠を越えていないといわざるを得ない。〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展関する作業にこそ、六九年以来の〈連帯を求めて孤立を怖れず〉のスローガンが非対称的にふさわしい。

註ー笠井の論点は、七二年の運合赤軍事件を契機として全革命思想の再検討へ向かった過程での評論「テロルの現象学」(八四年五月)の、対的領域への応用として読むと示唆に富んでおり、革命論としても読める吸血鬼SF「ヴァンパイヤー戦争」(文庫本は九一年一月に全11冊刊行)で多彩なイメージによって追求されているが、これら二書の非対称領域が今後の私たちに必要となるであろう。

 なお、私が成熟や非対称という時、性的な具象というよりは、〈性〉概念の再検討に際しての概念の転倒を意図している。例を上げると、永遠の女性ベアトリーチェをみつめた「神曲」のダンテは器官の結合としての性の行為を表現してはいないが、対称的な女性の器官に精通してもいたはずである。また、古代インドの性典カーマ・スートラは、交際や抱擁や器官の結合の仕方などを詳細に説明しているが、それが、社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうることは消去しておこなっている。この二例は併合的に把握すれば人類史における性の対象化を片面ずつ驚くべき成熟度で示しているとしても、相互に止揚し合うための双方からの非対称領域への欲望において未成熟だといいたいのである。

松下昇『概念集・4』~1991・1~ p23-26

 松下昇の1991年のテキストである。

もう遅すぎますか?

「圧倒的に多数の日本人は誰もが自分たちは西欧文明圏に属していると思っている。」溝口雄三氏の文章だそうだが確かにその通りだろう。小学生の息子にきみたちはアジア人だと教えようとしたのだが上手くいかなかった。*1

 きらびやかなパーティにある男が出席している。楽隊が音楽を奏でる中、燦と光り輝くグラスを手にした紳士淑女が歓談している。恰幅のよい、富貴な生まれであるのが見て取れる人たちぱかりである。男はたいへん自分に満足している。貧乏な田舎の家族や親戚を足蹴にして都会に飛び出しトントン拍子に出世するうちに、いつのまにか自分だけこのような人たちの仲間に入れるようになったのである。そんな場に男の兄弟が突然姿を現したらどうなるか。流行遅れの安物の服を着ている。きらびやかな人たちが眉をひそめるのが見える。その兄弟が自分とそっくりであるとはいかに恐ろしいことか。

男は一人G7という金持同盟に入っている日本である。兄弟は一昔前の韓国である。

【「もう遅すぎますか?」--初めての韓国旅行 水村美苗】新潮200501月号 p340

道を歩いていて、あ、日本語が聞こえると思うと、それは韓国語であった。そして、そのような経験は二十年にわたるアメリカ生活のうちにそれこそ何百回となくあった。

 韓国人と日本人が似ているのは、韓国と日本の地理を考えればあたりまえのことにすぎない。地理が近ければ遺伝子も近い。また、地理が近ければ、言語も近い。(略)

 だが、近代日本を動かしてきたのは鹿鳴館以来の「脱亜」精神である。日本人から見て「亜」に属する人たちと自分がそっくりなのを認めるのは、「名誉西洋人」としての自分のアイデンティティーを危うくする。日本人はまさに韓国人とそっくりだからこそ、韓国人とはちがわねばならなかったのである。まさに韓国人とそっくりだからこそ、韓国人とはちがうと思いこみ、そう思いこむことによって、「名誉西洋人」としての自分のアイデンティティーを保たねばならなかったのである。(同上 p340)

 日本国内で無自覚に生きている限り、在日と出会うことはあっても韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける。世界とは、アメリカとそれに付随する欧州諸国でありそれ以外は発展途上国であり日本とはレベルが違うという意識。「今となってはなんと旧い世界観かと人は言うであろう。すべてはここ十五年ほどで音を立てて変わってしまった。ことに、中国という国が世界市場の中央舞台に躍り出たのが決定的であった。」と水村は書いているが、日本人の意識は変わっていないように思える。日本人の自信の根拠は経済的優位にありそれはこの15年間でほとんどなくなったのだろう。だがわたしたちは経済的水位に自信を合わせるのではなく、かえってその落差を空虚なイデオロギーで埋めようとし、名誉白人意識は揺らいでいない。

わたしは日本人である自分が西洋人ではないことを、ほんとうの意味では知らなかったのである。(同上 p338)

 わたしはわたしなんだから、アジアも日本もそんなことはどうでもいいじゃないか、とつい思ってしまう。それのどこがいけないのか。大東亜戦争の総括ができていない。日本のほんとうの独立を悲願としてきた人たちがブッシュのポチになることを祝わざるをえないという(大笑い)な現状。それはきみたちの国にとっておおきな問題のはずだがそんな問題は存しないと皆がいうなら・・・、わたしは闇斎でも読みながらもう一つの日本を探求しよう(似たようなものではあるが)。

*1:「アジア」とは何か。大ざっぱであることを許容するとしてもそれは、中東、インド、中国の三つの全く異なった文化圏を無理に一つにした物のようだ。間違ったカテゴリーなのだから理解できないのは当然だろう

報道の自由の終わり

 番組改竄事件へのコメントとしては、研幾堂さんの下記が分かりやすく納得がいった。

http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20050116

 今回の報道で、改めて一面の記事になるほど、新たに加わった事実は、放送前に政治家が、その修正を指示要求していたという点が、上記二政治家へのインタビューによる確認も含めて、明らかになったというところにある。

(略)

ところが、この報道は、ほんの数日のうちに、逆襲を受けて、現在、朝日新聞の劣勢というところである。NHKが、例の如く、知らんぷりと頬冠りと蛙のしゃっつらで、何らの問題も無かった、と逃げているのに加えて、不思議なことに、先の二代議士が、手のひらを返したように、放送日前に面談したことも、意見を述べたこともなかった、と言い始めたことで、スクープがスクープでなく、そのまま虚報となってしまうかの様相を呈してしまった。

朝日新聞については、その曖昧で、どっち付かずの態度と、報道の職分を、持てる力と地位にまったくそぐわない仕方でしか、果たしていないことについて、随分と罵った文章を書いていたので、今から、次のようなことを書くと、皮肉に聞こえるかも知れないが、そんな意図は全く無しに、今回の帰趨では、朝日新聞記者達には、頑張ってもらいたいと思う。朝日新聞がここで負けるならば、恐らく、日本の大組織のジャーナリズムは、政治と社会の流れに飲み込まれた活動しか出来なくなるであろう。(同上)

正しく「暴力的に振る舞う」

# N・B 『 どうも、星野さんの引用が出ていたので思わず日ごろの鬱憤が出てしまいました。おかげでかなり話がずれてしまって、相手の批判に答えられくて逃げ回って、贅言を費やすみっともない人みたいになってすいません(最近見かけたので)。

 まず、アレナスについての基本的事実、彼はキューバ革命後『夜明け前のセレスティーニョ』で作家としてデビュー。しかし、その後当時のキューバの同性愛抑圧政策によって(現在は少しは変わったようですが)、出版ができなくなり投獄も体験し、1980年に亡命、その後はニューヨークで生活するが、1990年に自殺。遺著は自叙伝『夜になる前に』(すいません、まちがってました)。最後のラテンアメリカ文学の「ブーム」の作家だといえるでしょう。

 2、ですが私が星野さんの「紹介の仕方」(映画は国境を越えるとでも言い訳すればごまかすのは簡単なのに)は、やはり、現体制へのコミットメントを含んでいると判断します。その傍証として、チェチェンについての本の感想を対比したのです(こちらはロシアの現体制への明白な批判です)。これはあくまで私の判断です。ちなみに、私はアレナスは明らかにプロパガンダをしていたと思います(自叙伝を読む限り)。でも、彼を批判する権利は私にはないと思います。

 補足しましたが野原さんの理解は正確だと思います、わかりにくいこと書いてすいません。

>その前に、アレナスのキューバ~反共

 そうです、でもマッカーシーとソルジェニーツィンはあるレベルでは区別されるべきだということですね。古いものは何度でもよみがえるので。

 とりあえず、マッカーシー(あるいはロイ・コーン)と「対話」あるいは「議論」することが必要となってくると、しかしそのときに「従軍慰安婦」や「アレナス」のような声はあると、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」と相手が主張しても、そのこと自体を批判することは単純にはできない、なぜなら、私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。その前提の上で正しく「暴力的に振舞う」にはどうすればいいかを考えるということになるのではないかと思います。今回は補足ばかりですいません。

 ちょっとこれは質問ですが「反共」というのはヒットラーやレーガンから2ちゃんまで由緒ある政治的立場ですが、たとえばその下の星野さんの引用のように何かの力に言葉を使わされているとお考えなのでしょうか?(私はそう考えているので)』

またまた応答遅れてすみません。アレナスについて全然知らないのでちょっと書きにくいです。

 キューバとチェチェンの比較についてですが、もちろんこれについても無知なのですが、常岡さんがとにかくチェチェンはイラクの十倍以上人が死んでるとか強調していたのを思い出しました。キューバも封鎖された国家みたいになっているからひとは結構死んでいるかもしれないけど、でもチェチェンの情況は十倍ひどい、というようなことがあるのかな、とおもいました。応えに成っていませんが。

「従軍慰安婦」問題というものはすでに日本国家が存在を認めているものですね。ですから、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」という主張はおかしいことになります。ありうるとしたら、「契約によるもので支払った」という形くらいですね。

「私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。」もちろんそうだと思いますが、「ある部分」というのがどういう部分なのか、それが問題なんだと思っているなら言えばいいじゃないと思うのですが。

何かの力に言葉を使わされている、というのは反共、親共といったシーンで使うと平板に理解される危険がありますね。わたしたちが本当に困ったときも人権や差別という言葉を使って裁判に訴えたりもするわけですが、そのときわたしたちの思いは非常に遠い言葉たちを使ってしか表現できない。逆に小説やブログを書いたりするときは全く拘束なく自由に書けるのだが、実は誰かの口まねをしているだけの自分に気付く。慰安婦言説なんて典型的にステロタイプな左右の言説が行き来するだけの退屈なゲームと思われていましょう。でも今回やってみていろいろ考えることがあって面白かった。

(2/13 21.39追加)