碁を打つ女

 シャン・サの『碁を打つ女』isbn:4152085851(平岡敦訳) はなかなか名作だと思う。

 霧氷につつまれ、千風広場で碁を打つ人々は、まるで雪だるまのようだった。鼻から口から、白い息を吐き出している。縁なし帽の端から、小さな氷柱が地面にむかって伸びていた。空は真っ赤な夕日に染まり、螺鈿細工の輝きを放っている。沈みゆく太陽の墓場はどこにあるのだろう?

 碁を楽しむ人たちが、いつからこの場所に集まるようになったのかはわからない。御影石の小卓に刻まれた碁盤は、幾千もの対局を経て、いつしか沈思と祈りの表情を宿していた。

 わたしはマフのなかで青銅の懐炉を握りしめながら、血の巡りが鈍らないように足踏みをした。対戦の相手は、駅からまっすぐにやって来た外国人の男だった。戦いが白熱するにつれ、わたしの体もほんのりと熱を帯びてきた。迫り来る夕闇に紛れ、碁石が見えなくなってくる。唐突に、誰かがマッチをすった。男の左手に蝋燭が握られていた。(後略)

 匪賊はいくら追っても捕まらない。おかげでわれわれは、狼や狐たち相手に新年を迎えるはめになった。

 新雪が昨日の雪を覆いつくしている。敵が食糧と弾薬を使い果たすまで追い続けるのだ。

 支那北部の冬の厳しさには、筆舌に尺くしがたいものがある。あたりでは風がうなり声をあげ、凍りついた雪の重みで木々が折れた。樅の木は、まるで墨絵に描かれた墓碑のようだ。ときおり、斑点模様のある鹿がそっと姿を見せた。びっくりしたようにこちらを見つめ、逃げ出していく。

 一時間も歩くと、暑くて息苦しいほどになる。けれどもひと休みすると、たちまち寒さが外套のなかまで疹み入り、手足が凍えてきた。

 狡滑で土地勘のある敵は、奇襲を仕掛けてはすぐに身を隠した。わが軍は被害を受けながらも、持久戦をもちこたえた。

 疲弊に耐えた側が、この戦いを勝利者として終えることになる。

12

 新たな指令が届いた。匪賊たちの物資補給を絶つべく、村という村の納屋を焼き払うのだ。

 略奪にあった集落は、墓地のように陰鬱としていた。黄色い炎と黒い煙に包まれた家の前で、打ちひしがれた農民たちが泣いている。その声に混じって、ひゅうひゅうという風の音が聞こえた。

 この三ヵ月、われわれは雪に覆われた森にこもったまま、外部から閉ざされていた。兵士たちのあいだに、日々暴力が膨れあがっていく。みんな酒に酔っては、些細なことで喧嘩を始めた。どこまでも続く白と灰色、照り返し、果てしない歩みが、徐々にわれわれの精神を蝕んでいった。おととい、ひとりの伍長が服を脱いで逃げ出し、小谷のなかで気を失っているのが見つかった。われわれは伍長を縛り、首に縄をかけて引っぱらねばならなかった。かん高い笑い声と呪いの言葉を繰り返し聞かされ続けているうちに、私の頭まで同じ思いで共鳴し始めた。

 やがて狂気に取りつかれるまで、雪のなかを、雪にむかって、ひたすら歩き続けねばならないのだ。

 主人公は清の宮廷に仕えた家柄の少女。古い町の広場で男たちに混じって碁を打つ。それだけではなく、出口のない退廃の中で反日本軍国主義の幼い蜂起に傾斜しようとする若いブルジョアたちと恋もする。もう一人の主人公は侵略者、日本の若い軍人だ。彼は厳しい軍事行動のなかで暴力にむかって自己崩壊してゆく戦友たちをみながら、崩壊しない自己を持ちこたえる。

 女、男変わりばんこに短い断章が並ぶことにより物語は進行する。囲碁のようにこの進行は最後まで乱れない。*1主人公にとってたった一つの外部との通路は広場での碁だった。もう一人の主人公もここに引きつけられ、二人は碁をはじめることになる。

 戦いは上記のように簡潔に美しく書かれる。カフカのようでもあるが、フランスや中国文学の伝統にも負っていよう。匪賊(今で言えばテロリスト)と名指すことにより困難な戦いは始まる。「疲弊に耐え」戦い続けなければならない。周辺住民は付随的に家を焼かれ拷問される。満州での討伐はやがて中国全土に広がっていく。60年前に終わった戦争だが日本はまだそれを総括できずにいる。一方中国では、匪賊という言葉を使うことは、つまり現在の権威に通じる解放勢力としての位置づけを明示せずに使うことは承認しえないことであるだろう。ただいつまで経っても政治的話題であることはそのようにしか話題に出来ないことであり、多様な現実の一面だけを捉えることになってしまう。

 私と情況を越えた不可能を求めようとする者たちは恋を演じてしまう事もある。

*1:章数=奇数は女性の語り、章数=偶数は男性の語りとなる。

正義は遂行的に

N・Bさん

はじめまして。コメントありがとうございます。

「「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?」

なるほどそうかもしれませんね。(従軍慰安婦問題とか言うと議論がすぐに感情的に過剰に対立的になる危険性があり注意しなければいけませんね。)

北田さんの「責任と正義」ですか。前から気になっていたのでこの際買ってみよう。わたしは勉強不足で、N・Bさんが前提にされているのであろう多くの本を全然読んでいません。(2,3冊読んだのは立岩氏くらい)

「「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現す」ということも分かったようで分からない。

梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがある、というのは、そうだと思います。ただ、「歴史からの反省」、というのがよく分からない。

孫歌と結託した溝口一派がいつまでものさばっているのが気にいらんというようなのはどこにでもある関係性なのかもしれないけど、学界外部にはほとんどないのでは?

わたしは全くの素人です*1。ただ、いまや戦争のことは誰も実体験としては知らないわけで、そこで声の大きい方が勝つ(大衆のイメージ操作に成功する)ということは事実起こってきていることだと思います。

緻密な議論は必要ですが、慰安婦あるいは兵士の声に耳をかたむけるという行為がまずは必要だということになるのではないでしょうか。傾けたからと言ってヒステリックな慰安婦主義者にはならないでしょう、だいたいそういう者がどこで実害を及ぼしているのかが、よく分からない。(わたしもあまりできていないが)

ぜひ、もう少し説明してください。

*1:デリダや岡野氏の文章の一部をむりやり引用して書いているだけで、それらの文章がふつうどう読まれているのか分かっていません。ですからコメントはとてもありがたいです。

北朝鮮難民受け入れ

日本は北朝鮮から難民を大量に受け入れる用意があると宣言せよ!

日本国民はその覚悟をせよ。

百万人程度ならさほど混乱も起こるまい。

そうすれば金正日体制は崩壊し、めぐみさんも帰ってくる(だろう)。

排外主義者たちこそがつねに隣の独裁政権を維持し続けることを洞察せよ!

トラフィッキングとは

 最近トラフィッキングという言葉があるみたいです。

トラフィッキングとは

「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約 (以下「国際組織犯罪条約」という )の「人の密輸に関する議定書 (以下「人の密輸議定書」という )において」

「trafficking in persons (人の密輸)とは 「搾取を目的として、暴行・脅迫その他の態様の威迫、略取、欺もう、権限または弱い地位の濫用、又は他人に支配力を有する者の同意を得るために支払い若しくは利益を提供し、若しくは、受領するという手段によって、人を募集、移送、蔵匿又は収受することをいう。搾取は、少なくとも、売春その他の性的搾取、強制労働、奴隷又はこれに類する行為、隷属又は臓器摘出を含む 」。と定義されている。

http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/siryo/bo14-1.pdf 

平 成 1 4 年 7 月 1 7 日 内閣府男女共同参画局 のbo14-1.pdf(application/pdf オブジェクト)によれば。

役所の文章にはめずらしく分かりやすい流れ図がついている。

【送り出し国(タイ、フィリピン、コロンビア等)】

勧誘者 :メイドやウエイトレスなど、虚偽の仕事内容を説明し、言葉巧みに日本へ行く女性を集め、運び屋に1人約50万円で売り渡す。

運び屋 :旅券(パスポート)や査証(ビザ)を用意(偽造、変造を含む )し、女性を日本へ入国させ、日本の受入者に1人約150万円で売り渡す。

【日本】  

受入者(暴力団関係):マンションの一室等の拠点に一旦女性を監禁し、様々な手段で脅しをかけた上、風俗店経営者等に約250万円で売り渡す。

風俗店経営者等:買取り代金に約100万円を上乗せし、女性に約350万円の借金を課し、その返済のため強制的に売春をさせる。一定期間後、女性を転売することもある。

日本は条約は承認したが議定書の方はまだなのかな。

 こうしたことは少なくとも1980年代からあることで、1986年には日本キリスト教婦人矯風会の人たちがはじめての民間シェルター「HELP」を作って活動を開始した。支援者が「正規の在留資格がないために日本に来て搾取される女性たちの救援活動をしている」と法務省で自己紹介すると、「日本にはそういう人たちはいないことになっています。」と言われたとのことである。

http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/pdf/2003tr_hayashi.pdf  2003tr_hayashi.pdf(application/pdf オブジェクト)

まさに窮極のサバルタンである。わたしたち市民も彼らにあまり関心を持たず、日本は「東南アジア、南米、東欧からの女性の人身取引の目的地国」になっていったわけである。

 入国の段階で、もしかしたら自分は日本で性的搾取に合うかもしれないという未必の故意を持ち、ブローカーにお金を払って不正入国したとしても、そのことによって、その人の人権が全て奪われていいということではありません。

http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/pdf/2003tr_hayashi.pdf  

被害者の人権回復を中心にすえて行政は動いて行くべきだと、

上記の文章で、林陽子弁護士は論じているが、同感である。

弁護士滝本太郎さんのブログ

うし 『弁護士滝本太郎さんのブログの記事を紹介します。

私達が愛するおまわりさんのイメージとはかなり違う感じです。

ビラをまく側と批判される側のイザコザはよくあることなのに、

警察も、もうちょっと違う対応が取れないものなのでしょうか。

「罪刑法定主義・警察とは」

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/3/trackback

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/2/trackback

メタファーとしての公益

# swan_slab 『>N・Bさん

さしずめ私の着想は、「メタファーとしての公益」なのかもしれません。

でも、hikaruさんのエントリをみながら、これをそのまま使い続けると公共という言葉の意味が固定化され、公共性を再定義する障害になりかねないので、断念しようと思います。私は言語学者ではないですし、周到に考えられたメタファーを使うことはできそうにありません。

しかし、レイコフの議論は大変興味が惹かれました。

>幕末明治や「大東亜戦争期」のような危機の時代はともかく、現在「愛国心を語る」事自体には、もう、うさんくささしか感じとれない!のは確かなのですが。>野原さん

そうですね。ただ、hal44さんのところにも書いたのですが、語ることが問題なのか、それとも、それを手ごろなメディアを通じて押し付けてくることが問題なのかという問いを立ててみれば、恐らく、前者の表現の自由はたとえうさんくさかろうが誰もが享受するはずです。したがって、問題は、「君が代・日の丸」というフォーマットが前時代とあまりに連続性を持ちすぎていること。例えば歌詞が変更されていない、など。そのことによって、過去の歴史との断絶(反省)を強くモラルとして持つ人々にとっては、君が代・日の丸の意味が先鋭化してしまうのでしょう。そして先鋭化してもやむを得ない歴史を日本国は負ってきた。

私はこうした心理状態をうまく説明できないのですが。』 (2005/03/24 23:18)

超国家的社会公共的価値

# index_home 『こっちにコメントをつけてよいか迷いましたがとりあえず…

hal44さんの「人権」は確かに「愛国心」よりも超国家的社会公共的価値として注目されていますね。二番煎じのようですが私も同意します。

いまだそれぞれの国家が自らに変わる枠組みとして認めきれていない(先進国でさえもその気配アリ。特にアメリカとか…)ことが一番の問題なのかもしれないと思います。』 (2005/03/27 08:58)

# swan_slab 『ちょっと関連することですが、例えば民主主義・人権を「超国家的社会公共的価値」と普遍性をみとめたのは戦後のことですが、それには功罪もあるように思えます。

先月、パリで所信表明演説を行ったライス国務長官は

 「我々の責務は明確だ。我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者として、不幸にも誤った側に生まれた人々を救う義務を負う。」

と述べています。

また、フランスの哲学者のポール・リクールは、「他者の苦しみゆえの義務」という観念をみとめ、他国への人道的武力介入の正当化を模索します。

かつてフランス的価値の領土的拡大を目指したのがフランスの植民地主義だったとすれば、アメリカの世界戦略は、価値の普遍性の名の下に、相対化を阻害されているという印象ももちます。』 (2005/03/27 09:38)

「地獄の幽鬼」を見た

従軍慰安婦といっても色々なイメージがある。*1綾川亭さんが紹介しておられる水木しげるによるものが非常に印象的なので、引用させていただきたい。

なおこの日の綾川亭日乗に対して、賛否両論(ケンカ的)のコメントが付き、そのうちの一つが上記の「レイプ犯許すまじ」さんだということになる。

http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050114#p5

私に印象深いのは、水木しげる御大が兵士として見聞した話である。御大の従軍中の話は、御大自らが回想マンガとして折に触れて描かれているが、さらりと、実にさらりと、とんでもないものを提示されるから、読み手はびっくりだ。

南方の戦線である…熱帯のジャングルだそうである。その日本軍の陣営の中に、粗末な掘っ立て小屋が作られている…全容は細長く、中は小部屋で仕切られている。その一つ一つの部屋に女たちがいて、兵士とコトをいたしているわけだ。で、扉の外には兵士がずらりとならんで、順番を待っているんだそうである。御大は、とてもじゃないが並ぶ気にはなれず裏手の川に出たという。と、その時、若き一兵卒の御大は、「地獄の幽鬼」を見たのだという。

髪はボサボサ…衣はアカでむさくるしく汚れ果てたその「幽鬼」は川べりにしゃがみこむと、ぴゅーっと、尿とも便ともわからぬものを放っていったという………。

これが、南方戦線に送り込まれた従軍慰安婦の姿である。

*1:今年は、従軍慰安婦それ自体をまったく見ようとしない人々が多いみたいだが。

反普遍を求める日本

ハイネの生を受けた社会は、フランス革命の影響の強かった19世紀初頭の十年間においてすら、スピノザの十七世紀オランダの社会よりも遙かに遅れていたのである。*1

 で二十一世紀の日本はどうかというと、スピノザの社会より遅れているとも言える。近代を通り越して超近代に至ったはずのわが日本でいくら何でも、という気もするのだが。

卒業式における君が代斉唱問題に出会い、ブログで他の方の体験とも交流できて考えを深めることができた。なぜいまごろ愛国心なのか。靖国参拝とシンクロする愛国心とは、戦前との連続性の強調でしかない。「生きて俘虜の辱めを受けず!」として国民を死に追いやったことへの反省がどこにもない。それでも何が何でも愛国心なのだと言う。何故かと言うと、それは結局日本にはそれしかないから、だろう。民衆の不安や空虚を埋めるべき宗教的なもの、日本にも神仏混淆を始め豊富な伝統があったのだが、教育勅語以後それを国家神道にむりやり統合してしまったため、豊富な水脈はほとんど失われてしまった。上からの国家統合のために、「民衆の不安や空虚を埋めるべきもの」を求めるものたちは愛国心(靖国的なもの)の復権だけを六十年間願い、多くの努力と金銭を掛け地道に努力してきた。それは成功した。

 かわいそうな日本はどこへ行くのか。

*1:p40『非ユダヤ的ユダヤ人』I・ドイッチャー岩波新書1970年