「世界史という根源に対して可能な私の責任」

徐寅植(ソ・インシク)の文章を少しだけ引用しておこう。

運命とは端的に私のものである。人はそれぞれ自分自身の運命を生きるのである。私の運命であるかぎり、私はマッチ一本だけを持ってでも世を燃やそうと投げかけよう。しかしわたしの運命ではないかぎり、私は今後には路の小石一つも動かそうとしまい。それは出来ないことである。当為と可能が端的に一致するのが運命である。*1

 尹東柱の有名な詩「死ぬ日まで 天(そら)をあおぎ/   一点の恥じることなきを」をちょっと思い出させますね。

 徐寅植は戦後、越北した。そして「越北後の活動は知られていない」。朝鮮人の自由を幾分か代表していた徐は、彼の自由とともに北の体制によって圧殺された(とわたしは想像する)。

*1:同上p46より

チェチェンに対する無知

ジャーナリスト常岡浩介氏のブログの■2004/09/03 (金) 17:31:42 ザカエフ・インタヴューというところから引用する。

http://www2.diary.ne.jp/user/61383/

これまでチェチェンに関して日本で報道されてきたことは、わずかなフリーランサーの例外を除いて、ことごとくロシア当局の主張のトレースに徹してきました。一秒たりとも、独立運動の当事者の声を大手メディアが伝えたことはありませんでした。対立する当事者双方を取材するのは、報道の基本中の基本であるにも拘らずです。

だから、その不作為の当然の帰結として、この10年間に、チェチェン民族全人口の25パーセントが、残虐極まりない方法でロシア軍と諜報機関に殺されてしまったこと、生き残った人々が、死ぬよりも過酷とすらいえる虐待の渦中にあることなどについて、日本では一切、伝えられてこず、市民が事実を知る機会もありませんでした。

わたしはチェチェンに対して無知だから正しさに近づいていけるかどうか分からない。<<ある事実ではなくその事実が(マスコミによって)取り上げられる基盤が(決定的に)歪んでいるのではないか?>>について、この文章は疑問を突きつけている。そのような主張は検証が困難だ。だがどんな場合もまずそういった問題意識を持たなければいけないのだということを、わたしたちはこの間学んできた。

追記1:天神茄子さんのブログのリベラシオンの翻訳からの引用。かたよったところだけ引用しているので、元のブログの方もみてください。常岡さんについても同様。

http://d.hatena.ne.jp/temjinus/20040905#1094310455 samedi 04 septembre 2004 (Liberation – 06:00)

最後に西欧社会のプーチンに対する物分りのよさにも疑問を持たねばなるまい。プーチンに反テロ努力の支援者を見るあまり、西欧はチェチェンにおけるプーチンの過誤を許している。

追記2:下記では、学校に突入したロシア軍の兵器が対戦車誘導弾など強力すぎるという指摘。

http://d.hatena.ne.jp/q-zak/20040905

追記3:

http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20040906 経由で

http://chechennews.org/chn/0429.htm チェチェンニュース から

どうしても、繰り返して書かなければならないことがある。チェチェン戦争が「対テロ戦争」だというのは、ロシア当局のプロパガンダに過ぎない。その内実は、たった100万人弱のチェチェン共和国に対して、人口2億の大国ロシアが、常時10万人の軍隊を送り込んでおこなっている侵略戦争だ。そのために、この地域は今までにないほど不安定になっていて、どんな事件が起こるか見当もつかない。

 チェチェン戦争は、「対テロ戦争」ではなく、91年に宣言されたチェチェンの独立を挫折させようとする戦争だ。だからこそ、住民の虐殺が放置され、石油資源は略奪され、親ロシア派の傀儡政権によってチェチェンの人々の政治的権利も剥奪されている。8月29日に、さまざまな事件に紛れて行われた傀儡政権の大統領選挙では、こっけいなほどの不正が横行した。

追記4.もひとつリンク  http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20040908

・・もいっこ。

http://d.hatena.ne.jp/junhigh/20040906#p1「はてなダイアリー – 迷路の地図」さんの文章を利用して。野原の感想を考えてみた。

「国家による暴力の行使は、国民の安全を保障するためのものである」というたてまえがある。当為である。これを逆転して「国家による暴力の行使を、自らの安全を保障するものと考えてしまう」国民も少なくない、というか大部分に近いかも。

(5)

# hiyori13 『あなたホントに大丈夫? 「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの? ちなみにぼくは5回は読んでるよ。あたりまえじゃん。もとの書評を書いたのがぼくだし。さらに少しは自分のことばに責任持てよな。フィクションという言い分に「納得した」と言いつつ、その説明を求められると「わたしのことばじゃない」って、そんなら何にどう「納得」したわけ?』

・・・そんなら何にどう「納得」したわけ?・・・

については説明していますが。

・・・もとの書評を書いたのがぼくだし。・・・

山形さんでしたか。わざわざ来ていただいてありがとうございます。

応答?(12/12、追加、引用は11月時点のコメント欄から)

# jinjinjin5 『しっかり認識すべきって、だからお互い視点が違うってなんども言ってんのに… あなたの思い描く思想仮想敵に私を強引にあてはめられても困りますね。依存ですか(苦笑 じゃ依存症ということにでもしといてください。国家という共同体に全く依存すること無しに生きていくのは困難だと思っておりますので。その依存を美化するつもりはさらさらなく完全に依存している人は軽蔑しますが。こちらからのコメントはこれ以上ありません。』

# jinjinjin5 『依存の度合いとやらの判断基準ついては、あなたと私の例で顕著なように各人で大きく異なるでしょうから受け取り手にお任せします。自分では依存する部分もあるものの、一応フィフティーフィフティーだと思っておりますが。』

# noharra 『jinjinjin5さん

応答は1ヶ月ほど経った後、にさせていただきます。申し訳ない。

そのときTBがいくようにしますが、もちろん無視していただいても結構です。』

1ヶ月以上経ったので読み返しましたが、応答すべき論点も見あたりませんでした。

id:jinjinjin5さん、変なresをつけてすみませんでした。

上記からリンクできないので、jinjinjin5さんははてなを止められたのかな?(12/12)

水俣病は語りうるか

 そン頃はな、チッソの安賃闘争(昭和三十七年の反合理化闘争)が終わってしばらくした頃じゃったで、工場も町も部落もメチャクチャ荒廃しとった。会社行きが第一組合(合化労連)と第二組合(御用組合)に分裂(わかれ)ちゃって、部落づき合いや親戚の間まで「一」と「二」に分裂させられて、そもそも出月の部落自体が狂ってしまったじゃもん。なんもかも薄ら寒い季節やった。生活保護が打ち切られてなぁ。母ちゃんの荒れて荒れて誰も手のつけようがなかったっじゃ。家がつぶれかかって、借金がかりられなくて、それだけ気になってたんやろなあ。母ちやんの何かあったなて思て、フスマ開けたら、ぶわあ~って吐いたもんな、焼酎一升五ン合分のヘドば。六畳いっぺえ吐いたんだよ。

 家ン中は暗くて昼も電燈つけてたから、そン薄暗い部屋いっぺえのヘドの中でのたうってる母ちゃん見てたら、俺もオエーッとこみあげてきた。鬼じや。鬼じや。もうこの世の者とは思えんかったよ、そン時の顔は。ああ、この野郎さえ居なければ……。俺、もう我慢出来んかったもね。ぶち殺そうて思て、首しめたったい。母ちゃんの、飲んで部落歩くどが。それ止めさそうて思たわけたい。その事でどっだけ俺がつらい目みとるか知っとるのかぁ。「お前(め)が母(か)ちゃんな、化物(ガゴ)じゃがね」「ガゴン子じゃがね」ち。みんなから囃されて誰一人寄りつきもせんじゃないかぁ。止めさそうて思たら、転落(ころげ)らったもん。ころげた拍子に頭ば打って、泣いて吠(おめ)くとたい。「親ば殺そてしたあ~Z」(笑)。父ちやんのす~ぐ飛んで出て来(ご)らって、もう足の立たん如(ご)つ殴(う)ちまわされてね、そこに爺ちやんの来らって、今度あ爺ちゃんと父ちゃんがケンカおっ始めて……、メチャクチャ、あの日は。

 俺ぁバタバタ便所ン中に逃げ込んだけど、父ちやんな一日中便所の出口で番しとらっった。光童園(町の孤児院)さたたき込んでくるる」ち。「親ば殺そうてした。末恐ろしい……」ち。小坊主やみなし子が修業してるだろ、光童園で。恐ろしくて出て行かれんかったよ。便所ン中からカギ閉めて、父ちゃんの寝らってから出て来た。まああの臭え~所によく一日もしゃがんでいられたもんだなあ、俺も(笑)。

 しかし、人間ちなどうゆうもんかね。母ちゃんな饅頭に毒入れてもう一家心中せんばんてブツブツ考えながら、焼酎飲んどらったちがな。それがお前、自分が実際首しめられたら、「助けてくれ~ッ」じやろが(笑)。

 んで、この俺が首しめて母ちゃんの目ば覚まさせんば、俺達一家は全員毒殺されとったかも知れんとたい。ヘン、ざまあ見やがれってんだ。

 とは言うものの、これを手始めに親をぶち殺そてしたのは、二度や三度にゃとどまらねえてんだから、我ながら嫌ンなるぜ。

p36-38『下下戦記』(吉田司・文春文庫・515円+税)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167341026/249-0324697-0483570

国家あるいは、一般社会との関わりにおける、水俣病とは何か?は 下記でスワンさんが見事にまとめている。文章の順番を年代順に変えました。

1)1968年、国が「チッソ水俣工場の排水中の有機水銀が原因」との公式見解発表し、公害病に指定するまで、チッソの工場廃水はたれ流されていた。

2)熊本水俣病の裁判闘争のはじまりは1969年だ。「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございます」と患者らが立ち上がって

3)そして2004年10月の今日、最高裁がようやく国家の責任を肯定した。

59年には行政は企業の排水をやめさせるべきだったと最高裁は判断した。半世紀近くもたってやっとね。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613  はてなダイアリー – +   駝  鳥    +

 それに対し、上の発言は胎児性水俣病患者(である)敏(とし)くんのものである。 『下下戦記』という本の「下下の下下、下下の世界の……」という章にある。ゲゲゲの鬼多郎みたいなタイトルみたいだが、人間でありながら化物(ガゴ)そのものであった我が母と我、を語った文章だ。下下とは貧困である。貧困つまり貧しさとは何か,誰でも知っている、だが本当に知っているのか、少なくとも私は知らない。生まれ落ちた瞬間から愛情に包まれて育ち、人並みの屈折は経験しつつも安定した生活を踏み外さずに生きてきた。バタイユやバロウズや松下昇など趣味で読んでいただけだ。*1

それよりなにより、俺が母(か)ちゃんたい。ありゃもう人間じゃなかったもん。神経(気狂い)と一緒ッ。ひーどかったなあ。もう毎晩のように飲んでてなあ。焼酎でも飲まんば水銀で脳ン中がジリジリジリジリ焼けて来てしょんがなかったっじゃもん。で、飲めば終(し)めえさ。魂のどっかへうっ飛んでしもて。ウォンウォン泣きながら外にさまよい出て、あっち行ったりこっち行ったり、うろうろうろうろ。もぉ夜中の四時頃までも部落中吠(おめ)て歩(され)く。歩くともつか~ず、走るともつか~ずッ。下駄なんかどっかうっちゃらかしてしもて。裸足で。髪なんかバッサバサにふり乱して。そっで誰かの家の戸でも少し開いとろうもんなら、突然そっから押し入るわけたい。飯を食っとろうが、お客が来とろうが関係なしにあがり込む。大声上げてよお~ッ。「昨夜(ゆんべ)、道で俺(お)が悪口ば言いおったろがあ~」ち。「奇病、奇病ち馬鹿(ばけ)えすっとかッ、んなら、お前が責任ばとれ~ッ」ち。「元ン身体にしてもどせえ」ち。(p34-35 同上)

敏の存在様式とわたしのそれは交差しない。わたしは文章を転記したが、そのとき何が出来て何が出来ないのか?

 狂った母がいる。だが父や祖父とてそれより上のレベルに立ち母を牽制することはできない。幼い敏はなおさらのことだ。だが幼いといっても、「俺、俺だって引き止めるよ、人前ちゅうもんがあっだろ、子供心にも。」といった自覚くらいはできたのだ。そうした日々が続き、敏は少しづつは大きくなる。「一家心中」をブツブツ唱える母を呪いながら。学校で「化物(ガゴ)ン子」と囃されながら。そしてある日、母が畳みいっぱいに吐いたとき、今まで溜まっていたものは殺意となって噴出する。「ぶち殺そうて思て、首しめたったい」といっても子どものことである。大人が本気になったら跳ね返せるのではないかと思うが、母は予想外のことに戸惑い転けてしまい頭を打つ。そして父、祖父を巻き込み暴力の水位は容易に下がらない。そのように<へど>にまみれた生の時間があった。

 それに対し、法的言語というものは、現実を、「Aは水俣病として認定しうるが、Bはそのカテゴリーからはずれる」、といった書類上に記載しやすい現実に翻訳することしかできない。極めて限られたことしか出来ないにもか変わらず、それでも成果が得られれば、それは極めて大きい。やはりなんといってもそこでいちおう「正義」というものがどこにあるのかが示されるのだから。法的言語、マスコミ言語、そして科学的言語や支援者の運動言語それぞれ力を持っている。しかし、それらの言語で語りうるものはいずれも氷山の一角であり全てを合わしても極一部でしかない。当事者つまり患者の身体のなかには、それでは語り得ないものが「ヘド」のように悪臭を放ち高温を発し渦巻いている。

 語り得ない領域といいながら実際上に語られている。しかしそれはそうであるかのように見えるだけだ。表現者=敏が物として語る言葉を、読者は暗喩として理解するそうした誤解によって、あたかも表現が受け渡されたかのような幻が生まれるだけだ。言説として成立していない。

 読者の側からは、例えば次のような評価が生まれる。水俣がわたしたちの歴史においていつまでも語り継がれなければならないのは、既成の諸言語とは違った<他者の言語>つまり<患者の言語>をうち立てた、点にある。この点で石牟礼道子と並んで、この本の著者吉田司氏の功績は圧倒的である、と評価していいのではないか。しかしそのような評価はそうも言えるというだけのことである。*2

 わたしとは何か?私のうちにも<悪臭を放ち高温を発し渦巻いている「ヘド」のごときのもの>が存在するのか?と問うことができる。というか、その問いに出会わなければ書き始めるべきではないのだ。

 なお、「へど」とは辞書によれば「反吐・嘔吐」「一度飲みくだしたものをはきもどすこと。またそのはいた汚物。たぐり。たまい。」とある。

*1:松下についてはそう言うことは禁じられているが。

*2:もちろんわたしはこちら側に立っているので『下下戦記』は名著であるので復刊させないといけない、と強調しておきたい。

華やかなクリスマスのイルミネーションとキリスト教の愛は何の関係もない。キリスト教の愛は、酒鬼薔薇を愛せるか、という不可能性に存在する。

最も安易な立場

どうして誰も最も虐げられた者、従軍慰安婦の立場に立とうとしないのか?それが言説にとって最も安易な立場であるのではなかったか。わたしたちはこの十年以上そう聞かされてきたのに。

彼らの「声」はある

N・B 『 私も精神的余裕はないのでブログなどを作ってません、ですからややずるいかなと思っています。こんな操作までしてくださってありがとうございます。

 私としては別に、おおやさんの弁護をしているわけではありません。あくまで、彼らの「声」はあるということがいいたいのです。

 少し話をずらしますと、星野智幸さんの10月31日の日記で『永遠のハバナ』という映画を紹介しています、私は映画そのもが3月公開なのでなんともいえないところがありますが、やはりあの映画をああいう風に紹介することは特にロシアについて書いた後では(実際キューバに行っていることからみても)、現在のキューバに一定のコミットメントをしてしまっていると思います(マイアミ・ヘラルドも誉めてるようだけど)。ここでそれが重要なのは、彼がレイナルド・アレナスという既に亡くなった「亡命キューバ作家」を愛読し、ユリイカの「アレナス」特集などに参加していることです。アレナスの観点からは、この映画へのあのような賛辞自体が「カストロの回し者」の証拠にみえるでしょう、グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。私はユリイカで独裁反対に安易にもたれかかって、アレナス全面賛美(また適当に書いてるんだ)を「芸術的に」書かれた仏文屋の方々にくらべて、アレナスを読みながらキューバに行き、自分のコミットメントを示される星野さんははっきりと違う

$H$$$$$?$$$N$G$9!#

 もちろんキューバについては逆の立場(上に書いたことはあくまで私の判断ですし)もあるでしょう、私の論点は、たとえラテンアメリカ全体の状況の中で考えてもアレナスの声と他の声(日本のいい加減な仏文屋ですら)は原理的レベルでは区別できないと思います。また、優れた作家の声がそうであるがゆえに尊重されてはならないとも思います。

 以上の話は、アレナスの「告発」が野原さんの意味でもより広い意味でも暴力的(たとえば当時のエルサルバドルの人に!)だと私が認識したことが前提です。従軍慰安婦とアレナスを並べるのは異論があるでしょうが、私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。

その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。

 こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。

上に書いたような前提を無視できるのは、(最も近くの)権力に寄り添っていることを気にしない人に限ると思います(これは最初の書き込みと同じく、社民党からヒンデンブルグ、さらにナチスへと次々とパトロンを変えたカール・シュミットを念頭においています)。

 というわけですが、星野さんのように徹底的にラ米にコミットした人と私みたいな半可通は違うわけです。そのあたりは2つ目の論点と重なってくると思います、さらにどうやって従軍慰安婦やアレナスと、私たち(現状認識の違う人を含む)は区別されるのかですがますます難しくなってきたので次回ですいません。

 「差別語~正当化」というのはもちろん慎太郎を念頭においてました。ちょっと誤解を招いたようで。しかし差別語は使用のありかたの問題だという原則を知らない人はいまだうんざりするくらいいますね。

 アレナスについては上記ユリイカや自伝「夜が来る前に」国書刊行会などを参照してください、星野さんのページなども。

 なお、おおやさんの立場に野原さん的な視点から批判している人もいるので彼のブログのコメント欄などを見てください。答え方もひとつの答えですし。

 少し答えがずれたみたいですいません。ただ、証言することで「主体のようなもの」となるというのは重要な視点だと思います、我々はみなかつてサバルタンであった「かもしれない」ということですから、それを突きつけられるのが怖い人もいるかも知れせん。』

すいません。今回の文章どうも分かりにくかったです。

1)アレナスはキューバ国家に抑圧された。

2)星野智幸さんは『永遠のハバナ』という映画を紹介している。これはキューバ国家の是認だ。

3)グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。

アレナスが抑圧されたのは事実だが、彼のキューバ国家攻撃は日本の軽薄なインテリなどによって増幅されている。アレナスの発言は結局“反キューバプロパガンダ”になっている。と、N・Bさんは認識する。

アレナスやラテンアメリカの情況に暗いのでこの理解も不正解かも。

従軍慰安婦とアレナスは、いずれも暴力的にある問題設定を成し遂げたひととして等値しうるのではないか、と。

私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。

その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。

 こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。

でこの結論部分が何を言いたいのかがよく分かりません。

その前に、アレナスのキューバ攻撃というのは結局反共攻撃ではないの?それだったら新しい問題設定ではなく古いものですが。*1

「明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。」

あえて話を単純化して、前回書いた「差別発言はいけない」説に立ちます。すると「違ったモラルを持つ人がいる」としてもそれはより正しい立場によって啓蒙されるべき人と位置づけられてしまう。そうしたらいけない、という意見ですか?

(2/9追加)

*1:アレナス/キューバについて私はよく分からないので、反共だからいけないとか何も言いません、留保。

ナターシャさんへの手紙

ナターシャさんへの手紙

 はじめて手紙を出します。ほんとうはタイの言葉でかきたいのですが、私は、ほとんどわからないので、日本語でかくことをゆるして下さい。しかし、タイのことばの本をすこしよんで、こんにちわ、ということばだけでもタイのことばでかいておきます。

 わたしは神戸に住んでいるので、1月17日の地震や、それいごの、たくさんの不便さを味わっていますが、元気です。そして、ナターシャさんの裁判の判決が延期されたのを、よい方向へ応用するために、この手紙をかくことにしました。

 わたしは、1年前からナターシャさんの裁判や集会に参加しているものです。木村さんや、青木さんや、牧野さんや、そのほかたくさんの人たちと何度も話をしてきていますが、この人たちのようにはボランティアの活動をしているとはいえません。少しちがったところから、関心をもってみているのです。というのは、私は、1969年いらい日本や世界のたくさんの大学を中心におきた闘争に参加し、そのために職をうしない、いくつかの行為について裁判をうけてきている被告人で、今は外に出ていますが、闘争は何年もつづき、いくつかの留置所や拘置所に出入りしました。1985年と1986年には、みじかい間

ですが、大阪拘置所に入っていたこともあります。そして、いろいろな人が、いろいろな事件で拘置所に入れられ、裁判をうけていることを、じっさいに知りました。

 たくさんの事件の中で、私が、ナターシャさんの事件に大きい関心をもつのは、まとめてかくと、次のような理由からです。

①外国人が、日本の法律とことばで裁判をうけていること。

②タイ人女性が日本にきて、しごとをする時の苦しい面が、タイ人女性にだけ重くかかっており、日本の社会や男性に大きい責任があること。

③弱い立場にあるタイの女性どうしの対立の中で、いっそう弱い方のナターシャさんが、自分を守るためにもった包丁が、きづかないうちに相手を刺してしまったのに、殺人として起訴されたこと。

④二人の娘さんや父親の行方不明などのために日本国籍がとれず、判決のあとはタイへ送りかえされること。

⑤二人の娘さんと、拘置所の面会室ではなく、法廷で、だき上げながら話すようにしてほしい、と私たちが考えていること。

 このほかにもいろいろありますが、このような点に大きい関心をもっています。

 ①、②、③については、弁護士のかたがたが、よくやって下さっていますが、④と⑤については、もんだいが、せまい法律やきそくを、はみ出してしまうため、なかなかむずかしいようです。                   【G12-13】

 ④と⑤については、二人の娘さんが日本に残ること、法廷でちょくせつ話をすることのどちらも、じっさいにはできないだろうと思うと、私たちの力の弱さがざんねんです。ただ、ナターシャさんも、二人の娘さんがタイへもどることにさんせいしておられるようですし、しせつの保母さんや、牧野さんたちも、ついていかれるようですから、これが、せいいっぱいのところかもしれません。また、子どもをだき上げることについても、ナターシャさんが、11月25日の法廷で、「私は、いつの日か、子どもをだけるけど、リサさんは、だけない。」と語って、私たちのそうぞう以上の心の深さを見せて下さっていますから、法廷での出会いがじつげんしなくとも、ナターシャさんが、がっかりすることはない、と思います。ほんとうは、どんなにか、だきしめたいと思っているはずで、私たちは、むねが、しめつけられるような気がしますが…。

 判決の前に、私から、ぜひ、のべておきたいことがあります。それは、ナターシャさんに対する判決が、どのようなものであっても、この事件によって、日本社会のまちがっている面が、はっきりとしめされ、これをかえていこうとしている人たちが出てきていること、ナターシャさんの立派なたいどに心をうたれている人たちがふえていることです。このような動きを、さらにひろげていくために私たちは、これからも努力していきます。

 そして、ナターシャさんの方でも、自分のやってきたことに反省するところがあるとしても、けっして自分を、だめな、わるい人だとばかり思わないで、それいじょうに、日本の社会に大きい問題をなげかけ、日本の社会をよいものにしていくために役にたっているこという誇りをもっていほしいのです。また、そのことを、今すぐにでなくてもよいから、二人の娘さんに語ってほしいと思います。きっと娘さんたちは、わかってくれるでしょう。

 私が、ナターシャさんの事件について書いた文章を二つ、いっしょに送ります。むずかしい字や、むずかしい考えでかいていあると思うかもしれません。それは私の力がたりないためで、もうしわけないことです。しかし、かいてある内容は、私の長い人生と、苦しいたたかいから生みだした*1もので、日本やタイのおおくの人たちによんでいただくだけのものはもっているはずです。まず、ナターシャさんに、そして成長された時の娘さんたちにもぜひ、よんでいただき、いっしょに問題のかいけつをめざしたいと考えています。

 できれば、この手紙が、私の文章と共にとどいたかどうか、〈ナターシャ〉という名前をタイのことばでどうかくか、だけでも返事してくだされば、たいへんうれしいです。

   1995年2月11日  神戸市灘区    松下昇

ナターシャ・サミッターマン さま              【G12-14】

ふりがな付き原本は、ここ。

p13-14 『概念集・12』~1995・3~

*1:原文「産みだして」だが誤植と判断した。

田中貴子『性愛の日本中世』

isbn:4480088849 ちくま学芸文庫 という本をやっと読み終わりました。

ちょっと雑然とした論文集ですが、非常に鋭い考察にあふれた好著です。最初の文章は「稚児」(ちご)と僧侶の恋愛を取り上げる。男色つまり同性愛である。しかし同性愛という現代のカテゴリーをそのまま中世に当てはめてはいけない、と著者は強調する。中世には中世特有の知と身体の配置があったのだ。そうして稚児の詠んだ和歌を調べ、「「夜離れ」を恨む「女歌」を多く詠んでますから、女のジェンダーになっていると考えてもよいと思うのです。」p22と言っている。そして稚児のセックスについても、それを単純に男性としていいのか?と問う。そしてジュディス・バトラーを引きつつ、「そのセックスもまた中間的なものへと変化したと思われます」とする。その当否については判断できないが、古くさいだけの古文書にも現代的問題が眠っていることを明らかにしており、スリリングである。

「愛は平等」という近代的な恋愛観に縛られていた人は「愛のかたち」がさまざまであること、しかしそれは決して常に対等なものではなく、時には搾取と被搾取者の関係になりうるということを、心の片隅に刻んでおいて頂きたいと思います。

ぶっちゃけて言えば関係は、大なり小なり常に「搾取と被搾取者の関係」である。しかしそう居直るのではなく、また搾取でしかないものを「稚児が神仏に等しい存在になる」などと仏教的観念で飾り立てることのグロテスクさをひたすら糾弾するのでもない。著者は実はひたすら幸せをめざす現代の性愛も、同じくらいグロテスクだと知っている(たぶん)。大なり小なり歪んだ関係のなかでせいいっぱい生きるものたちをせいいっぱい読みとろうと著者はしている。

 

このごろ「政治的」文章ばかりでしたが、本当は日本思想史とかのいろんな本を読んだりするのがメインのブログなのですよ!