平成超国家主義

 中島岳志さんのエッセイが今月号の論座に載っていたので、図書館で読んでみた。(暇人か?)

 彼は1975年生。論壇では最若年になる。でその世代には「オルタナティブな価値や世界のあり方を見出したいという欲求が広範に共有されている。」

この間の右傾化の流れの中でいわゆる右翼的になることも多いのだが、上の世代の右翼的な人たちとはだいぶ違う。福田和也や宮崎哲弥は世間にさからってあえて右翼的言説で行くといった選択をした人。が平成ネオ・ナショナリズムと名付けられる20代の彼らはもっとストレート。社会の曖昧な抑圧感への抵抗をそのまま「ナショナリズム」にもっていく。従来左翼的なものと親近していた、エコロジーや反戦運動、オーガニック、ニューエイジ的スピリチュアリティみたいなものに接近することも多い。でもって、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体化を唱えるナショナリズムとむすびついていく、と。代表的人物としては俳優の窪塚洋介が挙げられる。彼は映画「Go」で在日朝鮮人を演じ(おおげさに言えばそれに憑依す)るなかで、自己の中のナショナリズムに目覚めていく。社会システムに抵抗する自己の軸を「在日」ではなく「日本」に見出したのだ。といった話でした。

 で、中島によれば、オルタナティブを求める運動が国家主義に回収されるのは珍しいことではない。昭和初期の超国家主義も、国家主義のウルトラであったわけではなく、現実の国家を超越した価値を追求する思想だったと。

 ふむ。

noharra 『中道右派さん

>>>アメリカ軍人もハワイで第二次大戦中に軍用慰安所を設置したそうですね。相手によっては、未来永劫無知カードを突きつけてくるでしょう。私はしませんが。

--無関係な例が2行目に出てくるのが議論に負けている証拠。

>>>>中道右派さんは現在の米兵レイプを批判し、グアンタナモ基地での人権侵害、イラク占領軍の暴虐などを糾弾する立場に立つということですね。大変結構!

そのとおり。<<<

--大変結構!

>>>なぜこのような分かりにくい説明がはびこったかを、時系列に従って説明していくと、吉見氏の研究者としての不誠実さが浮き彫りになっていきますから。

--根拠を提示しない中傷。

>>>過去の日本の不道徳を犯罪と主張するのは結構ですが、ご自分の手法の不道徳さとも真摯に向き合うべきでしょうね。

--ですから「ご自分の手法の不道徳さ」って何ですか?根拠を提示しない中傷。

>>>八紘一宇の主張に瑕疵があったのは、誠に残念なことです。

私は、亜細亜女性基金には、道徳的責任を感じて、村山元首相の10倍以上の金額を寄付させていただきました。

---八紘一宇の主張に瑕疵があったかどうかは今問題にしていません。

太平洋戦争の初期に日本は広大な版図を手に入れた。「日本の成功は軍事的なものというより政治的なものであってことに注目しよう」とミヤーズという人は言っているそうです。「この日本の成功を支えたものは、アジアと南洋の人々の受動的なもしくは能動的な協力だった」と。p349『神聖国家日本とアジア』こういう話が好きなんでしょう。好きなのは良いのです。問題は膨大な被占領アジア人との日本人の関係、それを支えた思想です。アジア人に武器を与え彼らが独立の主体として強くなることを心から希望した人も少数ながらいました。1942年からマニラで活動した望月重信中尉がその例です。しかし彼は少数派として死んでいったに過ぎません。日本軍はフィリピンに独立を与える気など毛頭なくその行動はアジア人蔑視に貫かれていたからです。その顕著な例がフィリピン人「慰安婦」たちですね。フィリピンの場合は「もはや慰安婦ともいえないような」拉致~監禁~継続強姦の例が非常に多いのです。

---あなたは「レイシスト」という言葉に反応しているようだが、問題は「中道右派さん」にはない。大東亜共栄という思想が、アジア連帯なのは表面だけでその実体は「日本は欧米並みに偉い」「日本は神国だから偉い」というアジア人蔑視そのものであったという事実。しかもそれだけならまだしも“なかった派”は21世紀にもなってその〈恥ずかしさ〉を拡大再上演しているのですからもう存在自体が恥ずかしい!

>>>Q3-2:印象操作やレッテル張りをするなら、もっと正確に、売春婦派と呼んではいかがか?性奴隷派の野原さん。という提案です。

---売春婦と呼ぶための条件は、

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070321#p10 の第三項にも明示しています。その条件をクリアーしていることを立証してください。

>>>Q4-2:外国人の妻と家事労働を分担している事実・・・レイシストという名誉毀損に対する反証。

あなたは日常生活において外国人差別ではなくその反対を実施されているかどうかは論点ではありません。

多くの元慰安婦たちの証言に向き合ったとき、あまりためらいもなくその真実性を否定できるあなたの根性は一体何なんでしょう。それがレイシズムでないとすれば。』(2007/03/22 07:11)

* noharra 『(追記)--フィリピンの場合は「もはや慰安婦ともいえないような」拉致~監禁~継続強姦の例が非常に多いのです。--だいぶ前に図書館で借りて読んだ「ある日本軍「慰安婦」の回想 ―― フィリピンの現代史を生きて ――」

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0000690.html

からもそうした印象を受けました。アジア連帯に興味があるなら一度読んでみてください。』(2007/03/22 07:17)

真実や静止状態それ自体が解放的である訳ではない。

 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』5600円がベストセラーに、

なりつつあるらしい。うちの近くの三つの大きな本屋では売り切れのようで、より大きな都市に行ったらあったので思わず買ってしまった。

やっと200頁ほど読んだが、もちろん資本論に比肩するほどの本ではない。

だけど、20年前のベストセラー『構造と力』に比べると5倍ぐらい役に立つ、

かどうかは分からないが、思わずそう言いたくなるような図太い力がある。

『構造と力』は結局のところオタクのための本でしかなく、『存在論的、郵便的』なんか

恥ずかしいほどそうなのに比べて。

 分かりやすい。例えば、貧者、貧乏人といったことばは誰にでも分かる。

「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」なのである、貧者は。

とこの本は語る。p205

つまり、「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」というフレーズは

、一部のインテリ、ポストモダン業界のジャルゴンにすぎない。だけど、

貧者、貧乏人という言葉はそうじゃない。もう一つ「プロレタリアート」という言葉がある。

これは庶民の言葉と特殊インテリの言葉のあいだ、普通の(イデオロギー)用語

である。このように、この本は言葉の生きるいくつかの地層を勇敢に横断し、

言葉と思想を開いていこうとしている。

次の例。 ポストモダニズムって「支配的な語りへの攻撃と、真実に対する批判」

でないこともないらしい。でもそれってどういうことだろう。

「たとえば、エルサルバドル内戦の終結時に結成された真実究明委員会の使命や、

あるいはラテンアメリカや南アフリカで一独裁以後や全体主義体制以後に確立された

同様の制度の使命を考えてみよう。国家によるテロルや瞞着の文脈においては、

真実という概念を第一に考えしっかりと手離さないことは、強力かつ必然的な抵抗

の形式でありうるのだ。近い過去の真実を確定し公にすることーー特定の行為

について国家の公務員たちに責任を帰し、場合によっては懲罰を課すことーーは、

ここではどんな民主的な未来にとっても不可避の前提となる。〈啓蒙〉の支配的な

語りはここではとくに抑圧的なものとは思えないしー真実の概念は変わりやすく

不安定なものでもないーーその逆なのだ! 真実は、この将軍があの組合指導者

の拷問と暗殺を命じ、この大佐があの村の虐殺を指揮した、ということである。

これらの真実を公にすることは、近代主義の政治の模範的な〈啓蒙〉のプロジェクト

であるが、こうした文脈でそれを批判することは攻撃されている体制の欺瞞的かつ

抑圧的な権力を助けることにしかならないだろう。」p204

 日本でも従軍慰安婦を巡って、上野千鶴子と鈴木祐子が論争した。上野が

ポストモダン派で鈴木が真実派。だがこの本は上野の側を一方的に否定してる訳ではない。

「本当はあれかこれかの問題ではないのだ。差異、異種混交性、移動性それ自体

では解放的ではないが、真実、純粋性、静止状態もまた同じことである。

真に革命的な実践は、生産のレヴェルに差し向けられるものである。真実が

私たちを自由にするのではなく、真実の生産のコントロールがそうするのだ。

移動性や異種混交性が解放的なものなのではなく、移動性と静止状態、純粋性と

混合性の生産のコントロールが解放的なものなのである。」p205

 「生産」という言葉がまだ分からないので、結局レトリックで誤魔化してる

だけちゃうん?という疑問は残る。でもとにかく、クリアーな対立を取り上げ、

具体的な分かりやすい例を短い文章で説明し、「本当はあれかこれかの問題ではない」

と明確な結論を出している。分かりやすい文章、と言うことはできるだろう。

野原燐

他者

他者といっても自己と全然別のものではなく、本質的には自己と同じものなのです。*1

『精神現象学』は面白くないこともないのだが、読むのに時間がひどく掛かるのが困りもの。長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)で、読んでます。なんとか読了したい!すこしずつメモをつけてみようと思う。

 他者が自己と同じ、だなんてそんなことを言われても日常感覚としては納得できない。だがまあ儒学では、世界は<理>であり自己の根拠も<理>であるのだから同一性が支配している。それに比べると、ヘーゲルでは他者~否定性が最後には消滅する(のだろう)が、この分厚い本を通じてずっと大活躍し続ける。というか儒学では二千年経っても、仁、理、気、性など十いくつかの言葉があるばかりで、カテゴリーのダイナミズムやドラマがほとんどない。この本は同じく同一性の勝利に終わるはずなのに、まったくそう思わせない、むしろハラハラドキドキこれでもかいわんばかりに葛藤が出てくる。これは、なまなましい他者との葛藤をあつかった戯曲、小説たちが(ある変容を施しただけで)そのまま哲学として、取り上げられていること、からくるのだろう。アンティゴネ、ヴィルヘルム・マイスター、ファウスト、群盗、ドン・キホーテ、ラモーの甥、あるいは革命、ナポレオン、イエス・・・

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p128 isbn:4480082905

代理母の場合

 わたしたちの世界は所有権を不可侵のものとしているがこれはおかしい。例えば、世界的な美術品などを私有して破壊してしまうといった行為が許されないのは当然だ。同様に人間を私有することも許されない。しかし、現在日本でも過労死などはよく起こっている。これは実質的にその人間が私有された結果だと捉えられるのではないか。それに対し、基本的に分配可能なものは分配すれば良い、と立岩氏は言う。

 分配不可能なものはどうか。例えば、代理母が産む赤ちゃん。当初は子宮を貸すビジネスとして割り切れると思っていたがそうはならず、“そのもの”(赤ちゃん)とわかれられない。これが、「分けること、どちらかに帰属先を決めることが必要な場合もある。世界が既にあり、その中のあるものを私も欲しいしあなたも欲しい。」*1一つを半分に分けることはできない。そうした場合である。

 どちらに与えるか?実母(子宮提供者)に優先を与えると、ドゥルシラ・コーネルは言い立岩も賛成する。ただその理由は違う。実母に子供を手放せということは、「自らの性に関わる存在を表現する権利」を奪われることだ、とコーネルは言う。それに対し、立岩は「自らが作っていくその子との関係において、関係に対して自ら表現するものが権利性を規定するのだとすれば、親であろうとしている二人に区別はないのではないか。」

「その理由は、その人に対して、人との関係において、その人が接してしまった、既に会ってしまったことにある」だろうと立岩は言う。「そのこと自体においては自由なあり方ではない。」関わり自体は全くの偶然だったかもしれない、としてもその出会いをやり過ごすことが出来ず、出会ってしまった。「その存在に接する人、接してしまう人がそれについての権利を付与される」と考えるべきだろう。権利といっても、「それは決定できる権利ではなく、むろん処分できる権利ではなく、そのもとにいること、留まることについての優先を与えられるという権利である」が。

「ここで起こるのは、私の期待や願望が途絶し挫折すること、あるいはそんなたいそうなことは起こらないまでも、期待や願望と別のところに別の存在がいてしまうことを感じてしまうこと、そのことに伴って、そのものが存在し続けることに関わることを引き受けざるをえないと思う、そのような出来事である。*2

 ハイデガーはなぜ死についてなんか思索したのだろう、死ではなく誕生の方が微細に観察可能であり思索も深まるはずだと思った人は多いはずだ。21世紀になり立岩はついにその課題を達成しつつある、と言っても決しておおげさではないと思う。*3

*1:p267 isbn:4000233874 金銭を介した代理母契約は無効、とコーネルも立岩も言う。民法でもそうですね。ただ金銭を介さない場合、コーネルは認める。

*2:同書p270

*3:『私的所有論』の時から書いてたような気もするが。

『新潟』メモ1

金時鐘氏の長編詩集『新潟』*1の一部を読んでみよう。

この長い長い詩に作者は様々なモチーフをぶち込んでいるが、そのなかでも最も重く深い(表現不能性の方へ沈んでいく)モチーフの一つは、「1948年4月3日*2に火の手を挙げた済州島人民蜂起事件」*3だろう。その事件の無惨な敗北は、作者によって“やみくもにふくれあがった風船の中で自己の祖国は爆発を遂げた。”と言葉少なく語られるだけだ。だが祖国とは何か。祖国とは金時鐘にとって、済州島73,000人の死をその背後に張り付かせたものだ。

なぜ祖国は終戦とともにだけあったのか?!自己の少しもかかわりあわないところで生き返ったという祖国をみんなはどうしてそうもたやすく信じたというのだ?!少なくとも祖国は与えられるべきものではない。*4

 確かに大日本帝国は滅んだ。しかしたちまち、アメリカとソ連という二つの新たな勢力が朝鮮半島(この作品では形の類似から食用兎(ベルジアン)と呼ばれている)を分断するに至った。われわれのものである祖国は、終戦という瞬間において、確かに存在した。存在したとわれわれは信じた。だが失われた今となっては自らの闘いによって勝ち取ったものでもない祖国が本当にそこにあったのかも少し不安になる・・・そのような意味を読みとることもできるだろう。祖国への思いは今も金時鐘を呪縛している。

*1:isbn4-651-60048-4『集成詩集・原野の詩』 p299-478

*2:1953年と誤記していたので下記の指摘を受けた

*3:「済州島 人民蜂起 事件」をグーグルすると例えば下記が出てくる。http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htm というかよくみると野原のも3つ目に出てくるのだ。間違ってはいけない(自戒)。

*4:p404同書。これらの詩行は本当は、16行に行わけされているのだが、むりやりくっつけてみました。http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/niiga04.htm に縦書きで行分けした元のかたちを(前後をちょとだけ追加して)UPしてみた。

ブッシュ大統領の入植地容認発言を糾弾する!

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/mideast/news/20040415k0000e030062000c.html

毎日新聞によれば、「 米国はイスラエルがガザ地区からの撤退を約束する代わりに、ヨルダン川西岸について、イスラエルが必ずしも1949年の休戦ライン(第3次中東戦争の占領地外)まで撤退する必要はない、との言質を与えた。」とのことである。

入植地は今まで一貫して国際社会から違法とされてきたものだ。イスラエルはイラク国内を無茶苦茶にした責任の一部を負っているのにかかわらず、なぜこの時期にご褒美を貰えるのか?中東の平和に永続的な危機を与える、今回の容認発言を直ちに撤回せよ!

もう二人の人質たち

 美智子が不幸であることは国民はみな知っている。とんでもない努力の果てに子供を産むことができた雅子もまた、不幸の極みであることが今回分かった。皇太子がそう発言した。ここで興味深いのはその発言がどこを向いてなされたか、という点である。先日の元人質二人組は外人記者クラブ(かな?)で発言を行った。国内ではバッシングが強いので海外のメディア経由で日本人たちにメッセージを届けようとしたのだろう。そのもくろみはある程度成功した。皇太子の会見は日本人記者相手のものだが、彼は今後すぐ外遊する事になっている。彼も、「国内ではバッシングが強いので海外のメディア経由で日本人たちにメッセージを届けようとした」のだとわたしは思う。自他共に許す反日派と同じくらいの迫害を日々彼らは受け続けているのだ。かわいそうに。

 雅子は女性を不幸にする日本というシステムの象徴である。象徴天皇制を捨てない限り、この不幸から逃れることはできない。憲法1条の廃止を強く訴える。