更新履歴

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/

の更新履歴です。

050503

2)indexファイル: 「掲示板についての原則」のテーブル化

3)indexファイル:「松下昇への接近」の案内文の最初「ここを開始してから2年以上経ち、惰性で継続しているという批判は免れがたい。」の削除、など。

(訂正前の文章)

ここを開始してから2年以上経ち、惰性で継続しているという批判は免れがたい。

「故人」の完成したテキストを公開~広告していくのではなく、いまここに突き出される提起としても提出したいと思ってきました。それはいくらかは実行できた、と自負するものです。しかし、<松下昇の~わたしの原告団>の全体像を開いていくだけのプランの力強さが欠けていたと反省せざるを得ません。現在試行中。松下のテキストを読みたい方は下記野原までメールしてください。20030812~1005

4)「刊行リスト」での「スペースAK」へのリンクが切れていたので繋ぎ直す。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu992.htm

5)

 現在までうちのサイト(インフォシークnoharra)、及びhatena(ここの1100年のところ)(htmlファイルを白紙から作るべきだが面倒なのでとりあえずhatenaを利用している)にUPした、松下昇の表現は数えると10個あった。(洩れているものもあるかもしれない。)

あんかるわ版表現集から、「私の自主講座運動」と「情況への発言など」、あとの8つは概念集シリーズ(全14冊+α)からだ。下記に目次掲載した。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000110#p1

indexファイル(表紙)には、「私の自主講座運動」「情況への発言など」「「概念集」から」と、三つに分けて表示し、最後のに上記をリンクした。

050502

1)概念集3の目次 テーブル化やっとできた。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000111#p4

(エクセルでいうセル結合を、tableでどうやってやるのか、まだ分からない。)

050501

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe1.html Let it be

誤字訂正 4ヶ所

(訂正前)・至らしめ、、

・とこかで

・この対応への耐えがたさか

・・・・

040811

・概念集の1項目の「批評概念を変換し…」を追加。索引から入ってください。きっかけは、掲示板で「無意味と言葉」について話がでたため。

参考:

040509

・『表現集・1』より「わたしの自主講座運動」を追加。表紙から入れます。

040429

・・ 野原燐の頁「いま非国民カードを引こう」に「天皇あるいは言説について」を追加。

040427

・概念集の1項目の「連続シンポジウム」を追加。索引から入ってください。きっかけは坂本守信氏の学友会裁判の最高裁判決がでたため。

参考

040307

・トライポッドからライコスへの移行に伴い、壊れていたカウンタを再作成。リセットされた。ちなみにはてなの野原日記は、短期間で現在1345。

・更新履歴が「新しいものが下」になっていたが「新しいものが上に」置き換える。

0402某日

・「noharra(野原の日記)」を「彎曲していく日常(野原の日記)」に変更。

031124

・「掲示板」の上に「noharra(野原の日記)」を追加。

いままで掲示板に(平均週1回程度)野原は書き込みをしてました。

11月から「はてなダイアリー」というところで、日記というか文章をUPすることにしました。現在、こちらの方によく書き込んでいます。。

031011

・「Let it be」の文章の行間を開けて読みやすくするために、

スタイルタイプの記述を入れてみた。

(そのtagをここに書くとhatenaではここまでしか表示してくれない)

スタイルシートというものだそうだが上手くいくのか。

・「更新履歴」を作成、UP。

031005

・タイトルを「O<<   >>O」から、

「<<<<<<   >>>>>>」 に訂正。

・「表紙」訂正:メインコピーの1行目に、

「全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ!」を追加。

・更新履歴を追加。(中身はなし)

・概念集の1項目「Let it be」をUP。(上記「存在せしめよ!」からリンク)

・「バリケードと松下(写真)」を追加。(中身も)

・「掲示板」自由に書き込んでくださいの下に下記を追加。

|(今頃言うのもおかしいが原則を定めます) 1.公開

|2.参加者の自由な討論ですべてを決定する

|3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が

|  各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。

030812

・「表紙」訂正:下記メインコピー二つを削除。

「…… 告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう。」を追加。(松下氏のフレーズ)

・「一旦縮小」の文章追加。

ここを開始してから2年経ち、惰性で継続しているという批判は免れがたい。

故人の完成したテキストを公開~広告していくのではなく、いまここに突き出される提起としても提出したいと思ってきました。それはいくらかは実行できた、と自負するものです。しかし、<松下昇の~わたしの原告団>の全体像を開いていくだけのプランの力強さが欠けていたと反省せざるを得ません。2週間以内に再出発する予定で、一旦縮小します。松下のテキストを読みたい方は下記野原までメールしてください。 20030812

・「亡くなりました」訂正:(蛇足)で何が書いてあるのか を追加。

030717

・「表紙」訂正:メインコピーを二つ。(いずれも松下氏の文)

「 いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。」

「汝はなぜここにいるのか。もはや、ここから脱出することはできない。ここに集中してくる全てのテーマを一人でも生涯かけてひきずっていく力を獲得するまでは。」

2001/07/24ごろ このサイト開設(掲示板「北海」も)。

・・・・さらにその前史。hi-hoとあと一つの場所で開始を試みる。2年ほどはやっていたような気もします。内容はここと大体同じ。

神武天皇のY染色体

初代の神武天皇のY染色体は、男系男子でなければ継承できない。

八木秀次(高崎経済大学助教授)

(「皇室典範に関する有識者会議」での発言)

“神話”を、(最新の?)自然科学的知見に合うように合理化立体化して、それが太古から伝えられた真実であると高唱する点で、八木氏は服部中庸などの立派な後継者である。まぐわいとはY染色体を継承するための行為なのだろうか? その辺の古事記解釈を詳しく聞きたいところである。*1

さて「男系系譜が125代続いた伝統である」、「歴史の重さ」などというレトリックも使っているようだ。日本には「万世一系」というイエオロギーしか誇るものがないから、このイデオロギーの歴史は古い。

*1:ついでに「三大考」21世紀ヴァージョンも書いてください。

二・二六事件と中国侵略

 村上一郎の『北一輝論』という小さな本の最後に「私抄“二・二六事件”--「革正」か「革命」か?--」という文章がある。フラグメンテとされておりきちんとまとまったものではない。二・二六事件のことも戦争の歴史もよく知らないので難しかった。1970刊行の古い本であり、ここで批判の対象にしている『昭和史』という本はさらに古い。だが根本的な処では(世間の常識というか偏見は)あまり変わっていないのではないかと思う。少し長いが貼ってみた。

 いったいに、戦後の社会科学者の間における解釈では、五・一五事件も血盟団も神兵隊も二・二六事件もこみにして、日本型のファシズムとしてひとくくりである。それのみか、ニ・ニ六事件や五・一五事件の将校も、太平洋戦争への道を歩んだ「省部幕僚」もこみにされてしまう。皇道派と統制派という色分けをする者はあっても、それは一種の勢カ争いというように解釈され、当時の新聞記者の感覚以上には進んでいない。

 たとえぱ、満州事変以後の頃、「国内のゆきづまりを打開し、日本の危機を救うためには、“満蒙問題の解決”とならんで“国家改造”が必要であるとの見地から、軍国主義化の先頭に立ったのは、民間右翼とむすんだ青年将校であった」とみなす「昭和史」(新版)の著者、遠山茂樹・今井清一・藤原彰らの解釈は、非常に浅薄なところを含んでいる。この書では、その青年将校として、海軍の藤井斉、陸軍の菅波三郎を中心人物としてあげているが、この二人を中心とするグループが、「軍国主義化の先頭」に立ったものとは、どう考えても解釈できそうにない。また「国家改造」を、「満蒙問題の解決」と「ならんで」要求したのかどうかも、すこぷる疑問である。「満蒙問題の解決」をもし武カ解決という意味にとるなら、藤井斉にせよ菅波三郎にせよ、いずれも武カ侵略主義者や植民主義者であったという証拠はない。彼らが考えた「国内改造」は、満州のみならず、すでに日本が領土内に入れていた朝鮮の武カ支配をも、なろうことなら避けて、国内でやってゆけるような日本の改造である。だからこそ「国内改造」は「昭和維新」であったのであり、満蒙の武カ占有というようなプログラムを第一義約にもつものであったなら、けっして「維新」とよばれることはなかったであろう(「支那を救う」という言棄はニ・ニ六より前に五・一五で現れている。が、これは『昭和史』のいうニュアンスでない)。

 戦後「進歩的」社会科学者の旗手である『昭和史』(新版)の著者のような論者たちには、いわゆる「軍部」の「革新政策」も、青年将校の「維新」運動の推進も、同一のものとしか解せられていない。また、これはたいせつなことなのだが、権藤成卿のような農本主義者の運動(自治農村協議会なぞ)も、社会ファシズムの運動も、くずれた社会民主主義者の運動も、『昭和史』(新版)ではたんに並列され、同一視されている。

 「つらつら思うに今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは蓋(けだし)武断政治を措きて他に道なし」と、永井荷風が昭和六年十一月十日の日記に記したこころも、わたしは省部官僚による「軍部」的な「革新攻策」ヘの期待ではなく(そこに真の「武断」はない)、けっして永続はすることのない「維新」断行への渇望の庶民的な表白であったと考えたい。省部幕僚・官僚の形成する「軍部」を荷風は終始嫌悪した。

 満州を攻略した軍人ならぴにその周辺の官吏・民間人・浪人たちの間にも、ただ単に満州を領有すれぱよいという考えがあったのではなかった。石原莞爾がまずはじめは満州の領有=軍政施行を考えており、それから満州建国=王道楽土の思想に転向するのはドラマティックである。そしてしかも、石原らの理想、理念は、その後の日本権力者の意向によりふみにじられ、建国=王道楽土の思想は一掃され、石原派は追われる。

 満州がまず武カ占領され、軍攻をしかれねぱならぬという関東軍の考えから、実際占領してみての人民の能力の高さ、抵抗の強さ(それまでもっと低く見ていた)におどろいて、石原莞爾の「転向」に急カーブしたいきさつは、わたしらの編集した『支配者とその影』(「ドキュメント・日本人」第四巻)で佐々木二郎が語っているとおりであり、「王道楽土」の理念が日本の中央権カによってくずされ、石原派が追放されるくだりは高橋和巳の小説「堕落」にくわしく描かれている。満州国を、真実のカイライ国家(正にそれのみの)と化したのは、「王道楽土」の理念に生ききろうとした大陸浪人や石原派の軍人や、その周辺の民間人・官吏たちではなかった。満州を小さいコンミューンの単位から組み立ててゆくことを嫌悪し、そういう方向を弾圧し、中央集権を強カに推進しようとした日本の権力と独占資本とが、満州国をまったくのカイライと化したのである。これは日本の「維新」を推進しようとする純真な青年の支持しない方向であった。

 満州の産業を財閥の手にゆだねると同時に、全土に憲兵の眼を光らせ、「憲兵政治」を確立する東条英機(関東軍参謀長)らの政策は、また当初の「王道楽土」の理念をふみにじるものであった。石原莞爾と東条英機との宿命的な対立も、この満州の支配の仕方において、まず開始されたのである。石原も一個のファシストであったが、彼は農村主義的ファシストであり、東条は、自分一個の思想には欠けたが、大ざっばにいって社会ファシストの上に戴かれた。

        * * *

 二・二六事件がもし成功していたならば--「成功」というのがどういうことかはむつかしいが--万が一にも日中事件はおこらなかったか、ないしおこっても小規模な戦闘のみで解決せられたろうという予想は立つ。多くの社会科教科書や左翼歴史の解説書が、二・二六事件を戦争体制強化のためのクーデターであるかのごとく書いているのは、まったくの誤解である。北一輝にも磯部浅一にもシナ侵略の意図はなかった。対米戦争の意図もなかった。ソ連に対する掣肘は考えられたが、それは「支那を救う」方向だった。

(p169-172『北一輝論』村上一郎 三一書房)

天皇は天神の御子なり。

 明治4年に死んだ鈴木雅之という国学者がいる(らしい)(1837-1871)。「気一元論とも言うべき性格を有した壮大な宇宙論をベースにした」思想家だそうだ。*1

辱(かたじけ)なくも天神の高天原に坐まして布行せたまう生成の道

というものが万物を生む。そしてその「生成の道」を行うことが「万物」・人間の行き方である、とする。ところで雅之において、天神とは、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ、アマテラスの4神のことだが、アメノミナカヌシが創造主宰神として中心化、絶対化されている。

人道とは、いはゆる天神の生成の道、即ち君臣親子夫婦兄弟朋友等の理をいふなり。

君は(略)天神の大任をうけたまわりて、善を賞め悪を刑ふ職位に居たまへば、実に軽々しく容易ことにあらず。さらば何事も天神の大御心を心として執はからいたまい、かりにも私を用ゐず。

従って、「臣」や「子」の側でも、もし「生成」に反する所業が「君」「親」に見られた場合は、「命をもすてて諫(いさ)むべき」であり、*2

天皇は天神の御子なり。

天皇は形而上学的存在である。それは一方では「生成」を完遂する(しなければならない)という存在であり、倫理的責任から自由でない、ことになる。

明治憲法

1条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。

3条 天皇は神聖にして侵すべからず。

 神学的には明治憲法の方がウルトラ化している。天皇は国家(くに)と等値されることにより絶対者となる。生身の天皇より上位のもの、<天神の大御心>つまり普遍は存在しない。(短絡的に言うと、現在中国韓国と和解できないのも他者理解のためのベースが存在しないからだ。)

 憲法上記だけから見るとそう言えるが、<神聖>即ちすべての価値の源泉とも読める。その場合普遍は存在し、(かならず)天皇と同一化しているだけ、ということになる。

 その時の権力者が強力な批判をはね返すことができずに居直るとき、に前者の論理が必要となる。

 即ち、226事件御聖断と815敗戦である。

天皇は神であるのだから、人民が何万人死のうが気にしないのかもしれない(東アジアの伝統からははずれるが)。仮にそうだとしても、日本を焦土にしてしまったこと、そのことを<天神>に対して詫びる絶対的な責任がヒロヒトにはあったはずだ。

・・・

*1:p109『幕末民衆思想の研究』桂島宣弘isbn:4892591858

*2:桂島 同書p115

日本軍は沖縄住民を殺した

沖縄戦の最大の特徴と言ってよいのが、日本軍によって多くの沖縄住民が殺されたことである。

(略)

米軍に保護されたり食糧をもらった者、米軍に投降しようとした者はスパイだとして殺された。今年になって見つかった新しい資料では、警察や密偵を使って、米軍の占領地区で保護されている住民の動向を密かに探り、米軍に協力している者を見つければ殺せという命令が出されていた。沖縄本島の西にある久米島では、住民しかいないから攻撃しないでくれと米軍に頼み、住民を救った者はスパイとして処刑された。

戦闘の邪魔になるという理由で殺された者も多かった。自然の壕(ガマ)に隠れているとき、赤ん坊などが泣くと米軍に知られるというので小さな子どもたちが殺された。戦場で精神に異常をきたした住民も殺された。壕に隠れていた住民を追い出して兵隊たちがそこに入っていった。(後略)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper57.htm

バカにするのもいい加減にしろ!!!!!!!!

まさか、南方で取り残され無残な死に方をしたという大伯父の生まれ変わりと言われていた俺が、

「自分の祖父や大伯父のごとき愚民を偉大な指導者である東条英機様に聖戦に出していただき、英霊として東条様と一緒に靖国に奉っていただいてまことにありがとうございます」

と思わなければならないような「歴史」認識が正しいと言うのか?

これこそ自虐じゃないのか!!

バカにするのもいい加減にしろ!!!!!!!!

http://ameblo.jp/dox/entry-10003164317.html 歴史が修正された国家「ジパング」を希求する群集心理|絵ロ具。

上記ブログでTBしていただいた。

 (何度も書いているが)現在の日本国境内だけを考えても、一つの国家の滅亡といって過言ではないほどの損害を国民国土に及ぼしながら、それが悪いことでなかったかのように言いつのる自慰史観派たち。彼らは「日本軍の蛮行などなかった!日本は戦時中もすばらしい国だったのだ!という歴史認識を広め、教科書でもそう記述されていなければならない」と主張する。国民に愛国の大義を取り戻そうということが正しいのなら、彼らのやっていることは間違っている。

つくる会(自由主義史観研究会)と日本会議の組織あげて

沖縄戦の名誉毀損裁判は、やたら大勢の弁護士がついて、つくる会(自由主義史観研究会)と日本会議の組織あげての取り組みのようです。

沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/1/

自由主義史観研究会が取り組む当面の三つのテーマ

 ★全国大会★沖縄集団自決★教科書採択

    代表 藤岡信勝

http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/index.html

自由主義史観研究会

歴史論争最前線

http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/index.html

西田税とは誰か?

 id:kitanoさんが、Wikipediaの「西田税」の項目を書かれたそうで、

id:kitano:20050915#p2に全文載っています。

西田税(にしだみつぎ、1901年10月3日-1937年8月19日)は思想家。国家社会主義者。鳥取県米子市博労町出身。

(略)

昭和十一年二月初旬、青年将校等の一部同志が決起の意思を固めたのを察知し、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀等と会い、彼らが青年将校を糾合して二・二六事件の実行計画を進めているのを知るや、当時の国内情勢においてはまだ革新断行の最後の決定時期に到達していないと判断し、その抑止説得に努めた。しかし西田税は、決起将校たちの決意がゆるがず、説得が不可能であることを知り、その希望を受けいれる以外に無いと判断。こうして西田税は、二・二六事件に参加し、指導することになった。

昭和十一年三月四日、西田税は反乱の主動者として陸軍刑法第二十五条第一号違反の容疑で逮捕。昭和十二年八月十四日、東京陸軍軍法会議の判決で死刑を宣告された。

まあわたしは西田のことなど何も知らないのですが。

さすらいてやまぬことばを追ひゆけば 七月まひる 炎天の黒き蝶

     斎藤史*1

*1:『全歌集』p656

「脱北者は全員難民」 国連の北朝鮮人権報告書

 北朝鮮の人権状況を改善するためには、北朝鮮当局が軍事費支出を減らして、その費用を経済的発展に使わなければならないと国連が指摘した。また、政治的迫害から逃れるため亡命した者にしろ、生活の困窮から逃れようと亡命した者にしろ、ひとまず脱北者は全て難民に分類することができるとみなし、北朝鮮の隣国に人道的措置を促した。

 国連人権委員会のビティット・ムンタルボン(Vitit Muntarbhorn)北朝鮮人権特別調査官は3日、このような内容の北朝鮮人権状況報告書をまとめ、国連総会第3分科委員会(人権・社会)に提出した。国連総会は今月下旬、討論を経て北朝鮮人権改善を促す決議文を採択するかどうか決定する。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/10/05/20051005000002.html

朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)

破壊の灰の中から立ち上がるフェニックスという逆説

若者の中にはマルクス主義者もいた。彼らは、物質主義と資本主義によって腐敗し切っているイギリス・アメリカばかりでなく、自らの国をも破壊するために自分たちの命を献げる覚悟だと、自分たちを納得させようとしていた。彼らは古い日本が崩壊したその灰の中から、新しい日本が鳳凰のようによみがえることを切望したのだった。

(p7同書)

マルクス主義者とまでいえるのは例えば、佐々木八郎氏である。彼は1923年生まれ、一高東大、1943年12月に学徒兵として徴兵され45年2月特攻隊員へ志願、同年4月14日特攻隊任務中戦死。彼はマルクス、エンゲルス、クロポトキン、レーニン、トロツキーを読んだ。戦後有名なマルクシストになった大内力の親友だった。

佐々木に宛てた手紙の中で大内は、断固として戦争に反対し、日本の敗戦を願っている。大内にとって戦争は、日本の帝国主義と権力者のためのものであり、民衆のためのものではなかった。彼は大内に対し、戦死することなど考えるべきではないと論じている。(略)

 佐々木の意見は大内とは異なっていた。彼にとっての米国・英国は、資本主義の悪を象徴する存在であり、したがって戦争は正当化されうるものであった。佐々木は、非合理な精神主義の危険性を鋭く察知しながらも、日本人の保持する武士道などの封建的要素が、日本を資本主義の毒牙から守りうると信じていた。(同書p303)

一応新しき時代のエトスに近いものが見られ、物的基礎も出来つつある今日、なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。一度や二度負けたって、日本人の生き残る限り、日本は滅びないのだ。はや我々は“俎上の鯉”であるらしい。悲観しているわけではないが、事実は認めなければならない。苦難の時代を超えて進まなければならぬ。(佐々木八郎)(同書p304から孫引き)

「破壊の灰の中から立ち上がるフェニックス」というのは、当時の若い知識人がしばしば用いた隠喩であり、佐々木も好んで用いたものである。彼にとってフェニックスとは、人類愛に溢れ、個人主義を利己主義に変えてしまった資本主義から解き放たれた、新しい日本のことであった。佐々木は戦死という行為を、若者が新たな世界の創造に参画する機会を与えるものであるという意味で、栄誉あることと考えていた。彼は、新生日本の創造にかかわるという己の義務と責任を果たし、死ぬことを望んでいた。(同書p304)

いよいよ12月1日入営と決まった。かくあることを予期して水泳、体操、銃剣術など充分に鍛えてあるから体力の心配はない。我々はいま第一線に立って一年でも長く敵を食いとめ、以て国家の悠久の生命を守る楯(たて)となることを求められているのだ。

(佐々木八郎)(同書p305から孫引き)

 わたしたち戦後の立場からは、一日でも早く降伏することがフェニックス(再生)につながる、一年でも長く敵を食いとめることに命を賭けることには何の意味もない、と断言される。

だが、私たちは「祖国への愛」から自己を切断し生きるべきなのか。「個人は歴史とその流れに逆らうことはできない。(林尹夫)」祖国が存亡の危機にあるとき戦いに動員されること、自己の生命を掛けようとすること、それは否定されるべきことなのか。彼らがその与えられた歪んだ磁場のなかで必死に生きようとした姿勢は感動的だ。ただそこで、「一年でも長く敵を食いとめ」ようとすることが「フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの」の生成につながるべきだとする祈り、それはその戦中の時点ですでに空疎な思想だった。と私は言いきりたい。戦争を遂行しているのは「われわれ」ではなく国家である。国家はわれわれの幻想を吸い取りそれを利用しそれと一体であるかに見せかけるが、それは嘘だ。国家は国家の基準に従ってゲームをしているのであり、学生や大衆の抱く祖国への夢といったものとは最初から位相が違うのだ。