自分にとって最も必然的な

 (上項の続き)

 今では信じられないことだろうが、1969年当時は「革命」という発想が一般的だった。自己の意思=党の意思=(革命後の)国家意思。ということが目指されたのだとすると、なにより自己を整序することが第一の課題だったであろう。松下の発想は正反対である。いまあるわたしというものが自分には測りしれない力(磁場のようなもの)によって彎曲させられるという事態。自身によってはうまく意識化できないそのような関係(自己の彎曲)から松下は出発する。野原がよくわからないままにこのダイアリーの惹き句にしている「ある圧倒的な力に」云々を見よ。“わたしたちはいつも自己が認識した限りでの世界にしか生きていない。したがって、私が自己や世界の彎曲を認識することはありえない。”この命題に反論するのは難しい。しかし「わたしたちはある体制の中に生きているのだからそれを否定することはできない。」という文章に変換すればこの間違いは分かる。わたしたちは革命後の世界に生きている。革命がなければわたしたちはまだ身分制社会に生きているはずだ。ここで革命とはブルジョア革命やプロレタリア革命ではない。体制の転覆という意味では明治維新も革命である。「今の政府の顕官も十年以前西郷と共に日本国の政府たる旧幕府を転覆したる者なれば*1」と言われるとおりである。ある感覚的に分節不可能な不快感が「問題提起の正しさが彎曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚」を告げることはありうる。それはいつでも即座に忘れ去られていくが、そうしないようにすればそこに、底無しの異貌の問いがあるようだ。

<情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出す>ということは不可能なことであるように思える。しかし本当にそうだろうか。今回のイラク誘拐事件において、最初、多くの人々が彼らの身を(わがことのように)案じた。それは不自然なことだったかもしれないが、人間とは意外にもそうしたものなのだ。ただその<一瞬の共感>を論理化しようとすると色々やっかいな問題が起こってくる。<情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出す>ということは考えようによっては、最も適切で容易な目標であるとも思える。

*1:福沢諭吉「丁丑公論」1877、1901発表

えびす三郎

今日の引用。

「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえびす三郎に似ている。そういう俗悪な精神になるのは止し給(たま)え。(「海 断片」梶井基次郎) http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/2384_13826.html

源平盛衰記に、成経、康頼、俊寛の鬼界が嶋に流されてある事をいえる段に、かの嶋に「ラン」岳という山有りて、その山に、夷(えびす)三郎殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくといへり、神祇官年中行事にも、戎三郎殿とあり、この神のこと、いといふかし、神に殿と申すも、めずらしき称なり。*1

 小さな島の小さな岩殿。そこが夷三郎殿と名付けられたこと(の無意味に近い意味)に注目した宣長はやはりすぐれた感受性をもっていた、といえるだろう。(えらそうに言うな) 菅田正昭氏の古神道論の先駆者として、みたいな意味で。(菅田氏のurlはここ http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/index.html

(前半はまったく関係ない。でも印象的な断片でしょう?)

*1:「玉勝間」日本思想体系40 p151

西表における<石炭の発見>

三木健編著『西表炭坑写真集』(新装版)*1という本を買った。イリオモテと言えば、西表山猫、日本の南東の端にある秘境(沖縄県八重山群島の最大の島)。珊瑚礁で戯れるきれいな魚たちを身近に体験できる場所としても知られています。ですがそうしたイメージから遠い事実もあります。この島には1885年から60年以上の間、炭坑がありました。

 石炭が発見されたのは、1872年大浜加那氏によってである。だが、「発見」とは何か?島人は石炭の存在をしらなかったのかというとそうではない。燃える黒い石のことはずっと昔から村人には知られていた。ところで八重山群島は1500年のオヤケアカハチの乱、の平定後首里王国に従属していた。琉球王国も1609年以降薩摩藩に従属していた。即ち、西表<沖縄<薩摩藩<幕府という従属関係があり、その関係は年号が明治に変わってもすぐには変わらなかった。(いうまでもないが、近代化とは中間的な藩などを飛ばして人民が国家に直接従属することだ。)話がそれたが、燃える石のことは村人の間の秘密だったのかというとそうではない。琉球王府も知っていた。1953年以降5回、琉球寄港を繰り返したペルリの艦隊は専門家による地質調査も実施した。彼らは石炭に強い関心を持っていた。一方琉球王府はそれを警戒した。「1854(安政元)年、八重山の在藩(王府の出先機関)や地元の頭職に対し、「石炭のあるところは樹木を植付けて隠すよう」指示している。また石炭の有無やその始末方についても報告するよう指示している。」*2それで結局、ペルリ艦隊のR・G・ジョーンズが石炭を発見したのか否かについては両説有り確定できないようだ。明治になり次の事件が起こる。

 ところが、この国禁*3を破る事件が起きた。石垣島の平民、大浜加那は一八七二(明治五)年、鹿児島の汽船・開運丸の支配人であった林太助に石炭の調査を頼まれ、西表石炭の存在を教えたのである。薩摩藩では林太助の通報に驚き、ただちに伊知地小十郎を派遣してこれの確認にあたらせた。さらに驚いたのは琉球王府のほうであった。王府はこれはきっと御規模帳を改め、税制改革をするための調査に違いないと早合点し、西表の村々には畳を裏返させ、士族の婦女子の下裳(かかん)を袴に着替えさせ、いかにも貧村であるかに装わしめたという。

 しかし、伊知地の派遣は実際のところ石炭の調査が目的であった。幕末の開明的な藩主として知られる薩摩藩の島津斉彬は、西洋の文物を積極的にとり入れ、藩内の工業化を図っていたが、蒸汽船や機械力の原動力となる石炭を領内に確保すべく、その探索を命じていた。そうした藩内の事情がかつての属領・琉球の石炭への関心となったのである。

大浜加那の通報は、こうして琉球外へ石炭の存在を知らせる契機となった。加那は王府の禁令を破った罪により、波照間島に十年の流罪となった。特に明治六年八月、これが後に「石炭加那事件」と呼ばれる事件である。十年の流罪となった大浜加那は、従容自若として刑に服したが、配所の月を眺めること六年にして、明治十二年の廃藩置県の特赦により、帰郷を命じられた。

 大正、昭和の二度にわたり、石炭加那の記念碑建立の話があったが、実現には至らなかった。*4

 開明派島津斉彬のお先走りとして(ともえいるのか)、明治時代の用語で言えば「黒いダイヤ」たる石炭を発見した大浜加那の名誉は顕彰されるべきである。しかしながら大浜加那に限っては記念碑建立は二度に渉って実現できなかった。近代化=善という立場に立てば、考えられないことである。筑豊など北九州の炭坑が膨大な悲惨を孕みつつも九州だけでなく日本全体の近代化の原動力になったと公認されているのに対し、西表でのそれは六〇年続いたわりには、ある臨界を越えることなく、わたしたちに全く知られていない。この臨界を資本論用語で「本源的蓄積」と呼んでみたい。「「継続的本源的蓄積」は直接的な暴力や限度を超えた搾取にもとづいており、その蓄積の主要な源泉は、自然、女性、植民地である。」*5

 三井の採掘は、当初、県内の囚人をもって始められた。明治政府は、一八八二(明治十五)年、太政大臣の布達によって、沖縄県に限り徒刑流刑者を八重山へ送るようになっていたが、明治政府はその囚人を石炭採堀のために使役することを考えたのである。明治政府の重鎮である内務大臣・山県有朋は、一八八六(明治十九)年に九州から奄美、沖掩、官古、八重山と各地を巡視しているが、このときわざわざ西表島まで足をのばし、三井の西表炭坑を視察している。このときの視察は三井物産会社の社長・益田孝の案内によるものであった。沖縄巡視から帰任した山県有朋は、復命書を明治政府に出しているが、そのなかで八重山に集治監を設け、囚人を西表石炭の採堀に当たらせるよう建言している。

八重山(西表)への資本主義の導入が囚人労働によって為されたということは重要である。大物山県のバックアップを受けてつまり国家的事業として開始された三井の採炭業は1889年突然中止される。最大の理由はマラリアの猖獗によるとされる。先進資本三井が引き上げた後も、採炭業は中小の業者によって少しづつ遂行される。(マラリア対策をしたら利潤が得られない事業もしなければ得られるということだろうか。)

 戦後、米軍直営事業が三年で中止され、結局1960年ごろ民間の採炭事業も採算がとれず、最後の火を消す。近代の西表において最大の産業だっただろうにもかかわらず、採炭業は地域住民から強い支持を受けることもなく思い出からも消えて行こうとしている。西表は現在観光業においてすら近代化されていない。それが魅力だという人も多い。私もそう思う。*6「近代とは何か?」という問いは、西表にとっても私にとっても開かれたままだ。

*1:三木健編著 ニライ社 isbn:4931314589 西表島上原カンピラ荘前のスーパーで購入。

*2:同書p13

*3:同書p13「異国人に対して石炭のありかを教えてはならぬ」

*4:同書p15

*5:p113崎山政毅『資本』よりミース、ヴェルーホフの本の紹介部分より

*6:たった一泊の宿泊では発言権がないが。

もっと不幸な子供

「うちのバンドには、ナナといい、シンといい、人様の愛情にめぐまれずに育ったやつらもいますしね*1」漫画『NANA・9』(isbn:4088565606)のこのセリフを読んで、

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/  9/9の西尾幹二の下記の文章はやっぱり問題じゃあないかな、と改めて思った。

「落合さんのお母さんは彼女を強く愛した。彼女は恵まれている。その意味ではもっと不幸な子供たちに対して優越者である。落合さんはそのことに気がついていない。

 もっと不幸な子供たちからみれば彼女は「普通」の価値観の中に安住することが許されている側にいる。彼女は見方によれば特権者の側にいる。

「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。基準も機軸もない。」

 「もっと不幸な子供がいる。」と西尾は事実を記す。しかし西尾は彼らについて何を知っているのか。この文章の上で彼らとどういう関係を結んでいるのか。「彼女は見方によれば特権者の側にいる。」というのは正しい、ただしそれは「もっと不幸な子供の立場に立てば」の話だ。不幸な子供が生きのびること、それは「「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」ということが(仮に理屈の上で分かることがあったとしても)絶対に分からない生を生きるということだろう。西尾は「もっと不幸な子供」の実像について何も興味を持っていないし知る必要があるとも考えていない。西欧中世の偉い坊さんが最も貧しい者について熱心に語りながら、その実像を知らなかったのと同じだ。(ニーチェ系のマルクス主義批判とはこうしたものなのだが。)

「お母さんの愛に支えられて生きた子供だ。けっして「個」ではない。」

「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」

「もっと不幸な子供」はそうした生い立ちを持ったというだけで、真の「個」には辿り着かないだろう、ほとんどそう言っている。そういうつもりはなかった、と西尾はいうだろう。だが、こういうものの言い方をすれば、「もっと不幸な子供」にはそう受け止められる。こういうものの言い方をしてしまうのは、「もっと不幸な子供」のことが眼中にないからだ。眼中にないなら引き合いにだすな!

*1:「人様」と婉曲表現しているが、親に愛されずに、の意だろう。

中国人が日本人を見る

http://homepage3.nifty.com/gentree/tayori/tayori228.html 黄土高原だよりNo.228

 その長老が、私の顔を、

 まっ正面から、のぞきこんでくるんですよ。

 だんだん、顔を近づけてくる。

 そして、ポツリ。

 「変わった。

 たしかに、変わった。

 昔の日本人じゃない」。

http://homepage3.nifty.com/gentree/

「緑の地球ネットワーク」という、中国山西省大同市の黄土高原で緑化協力をつづけているNGOのサイトからほんの少しだけ引用する。

このあたりの農村の中国人にとって日本人(リーベンレンかな)とはかって見た日本軍のことである。かっての日本軍(たいてい貧しい農村の出身)と現在の我々とでは、食べている物も違うし生活意識も全く違う。したがって顔つきだって違ってくるだろう。それなのに「日本」というたった二字に頭を犯されて、現実の中国人(あるいは過去の中国人)とまっすぐに向きあう気のない人々(なかった派など)は、彼らの好きな「国益」に照らしても有害であろう。

不平等社会日本

 人々は、堅気の男と悪党とのあいだの道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は、教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている。

ニーチェ(p439『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫)

それともわたしたちはそれが正義から遠い、何人かの殺人を含んだものであることを十分承知の上で、そちらの方が儲かる可能性が10%ほど高いというだけの理由でイラク戦争を支持している。

碁を打つ女・2

 シャン・サは1972年北京生まれの中国人女性。1990年、渡仏。画家バルテュスのもとで2年間働く。バルテュス夫人節子が序文を書いている。これはフランス語で書いた3冊目の小説。「高校生が選ぶゴンクール賞」受賞。

 この本について、hatenaで言及したのは私で6人目。

一つだけ引用させてもらう。

http://d.hatena.ne.jp/Tomorou/20041009#p1 私的循環信号 – 強大台風襲来

それと、日中戦争の頃の悲恋を描いているだけれど、日本兵が現地の人を殺す際の描写が、なんというか、絶妙。非難するでもなく、かといって単なる事実列挙でもない。きちんと日本兵の感情まで描いていて、そこに多大の不快感を催させないというのは、うーん、すごい力量の持ち主なのかもしれない。

あと。

http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pickup/20041208bk65.htm

10月の店主は米長邦雄さんです : コラム : 本よみうり堂 : Yomiuri On-Line (読売新聞)

「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」の米長邦雄さんが推薦しています。日本兵の残虐行為の描写もけっこうあるのに。意外?

N・B氏発言(2回目)

(1/25朝、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

# N・B 『 なんかわかりにくい書き込みすいません。一段落目と二段落目の関係が不明確ですね。不勉強なくせに自分の知識を前提としすぎでした。

 私の理解を元に強引にまとめると「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う「弱い責任理論」は、現実の世界で起こる膨大な加害・被害を免罪してしまう。それは近代社会の現実から来ている。しかし、免除された責任を問おうとする「強い責任理論」(自由主義・N・B)は、責任の範囲を確定できないため、慰安婦の「声」だけでなく、梶さんの「声」も8lこれはある程度政党です)、さらにはユダヤ陰謀論者の「声」まですべてをもとに責任を問えることになってしまう。端的にいえば、魔女狩りが起こってしまう(私が補足すれば、それは結果的に魔女狩り的「弱い責任理論」を野放しにする)。デリダとおおやさんの類似点は本人が書いていますね、デリダについての論難には賛成できないけど。』

# N・B 『 2段落目以降ですが、「歴史からの反省」とははきっりいえば、シュミット(その他多くの人々)のワイマールからナチスにいたる行動の帰結のことです、法治主義を守るよりマシな道(反共主義という前提があるとはいえ)を選んだ結果が、「総統は法を守った」(「長いナイフの夜」のときのシュミットの言葉)ですから。

 シュミットは思想としても、彼が住んでいたワイマールドイツの問題としても批判するだけではすまない問題を突きつけていると思います。まあ、ベンヤミンファンとしては人事ではないと(この二人は思想的にも関係がある)。

 梶さんが「どこにでもある関係性」を動機の一部にしていることは、文章を読む限り本人がアイロニカルに認めていると思います。

>声の大きいほうが勝つ

 これを積極的に受け入れるのが「現実主義」ですね、でも声が大きくなる理由とそれが受け入れられる理由、さらにそれへの具体的な対抗が必要だと思うのです。

「同意=正義」論も、「現実主義」という問題を抜いて考えるとやばいと思います。

 ところで、「責任と正義」の後半はこのあたりを主題にしていると思います。

>どこで実害を及ぼしているのか

 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。戦術上の問題もあります。ですから、彼らがなぜそう思うのかどうすべきかはをきちんと考える義務はあると思います。

>ヒステリックな慰安婦主義者

 気になるのですが、梶さんのブログに、モジモジさんがコメントしたときに、「ヒートアップしないで」と書いています、論拠なしで一方を敵に間違っている書き、その相手に単純にこう書くのはちょっと問題ではと思いました、今度の野原さんの文章を読んでも違和感を感じます、「ヒステリック」とか「ヒートアップ」のような言葉は(それが適応される相手がどういう存在かを暗黙の前提として)、それこそ魔女狩り的レッテルとして機能しているように思うのですがいかがでしょうか?

 ちなみに私も全くの素人です。でも、人文・社会科学は「専門」の境界設定がはっきりしないし、「専門家」でも意見が違うのは厄介です、どこまでが「定説」でどこからがそうでないのかわかりにくいので素人としては困ります(居直っちゃいけませんが)(笑)。

 前のコメントの3行目は、(これはある程度正当です)です。

 では、長々と失礼しました。 』

リベラル/日本の

2/6、一市民さんから次のような質問があった。*1

# 一市民 『日本のリベラルってどういうものなんですか?

左翼とリベラルの違いってなんですか?』

わたしのような無知、無手勝なものにそんな質問をしても・・・

 ちょっと面白いと思ったので書いてみよう。

リベラル、リベラリスト、リベラリズムには、日本では、時代によって異なった多様な意味がある。

3つだけ書くと。

1)戦前、全体主義(天皇制ファシズム)に抗して自分なりの思想を(辛うじて)維持したもの。

2)戦後、マルクス主義など左翼思想全盛のなかでその抑圧性を指摘した保守派のリベラル。

3)最近、その辺のプチウヨなどに影響を与えている新自由主義。

それとややこしいのは、

4)若手学者が知の基盤としているロールズ以降の?(アメリカの)いろいろな知的動向。

1)は反体制で気骨があり、ポジションとしては左翼。

2)は保守派だが体制迎合的ではない。

それに対して、“プチウヨ”とは「フロムによれば、人々は前近代的な諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると人々は、かえって権威者への服従を求めるようになり、実際、ファシズムのような政治体制が生まれることにもなった。(同下)」という大昔の教科書通りの有害分子。

 最近分かりにくいのは4)が増えてきて、今までの常識とどうつながるかが見えなくなっているから。

4)のイメージは次のようなものか。

 本節ではリベラリズムの再確認を、井上(1986)よりスタートする。井上(1986)によればリベラリズムとは、「善」から区別された社会構成原理としての「正義」に関する探求の歴史と、未来におけるその可能性の総体である。

http://homepage2.nifty.com/hirokisu/contents2-b.html

みんなにある正しい生き方を強制する福祉社会(管理社会)への反発が根拠にあるのか? で「正義」とか「尊厳」とかいう古いようにも感じる言葉が復権する。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Recomended%20Books%20on%20Liberalism.htm

 リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの本流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。

 おおやさん、id:mojimojiさん論争も(たぶん)4)の土俵の上で為されている。mojimojiさんの(例えば2/6以降の)考察はその土俵の上での「左翼はいかに可能か?」への真摯な考察になっている。

*1:コメントは、識別しやすい固定ハンドルでお願いします。