(7月22日)日本の立命館大学に対し孟子像が中国政府から贈呈された。「立命館」という校名が、孟子の「身を修(おさめ)め、以(も)って命(めい)を立つ」という言葉から取ったものである、事に因むもの。これは、中国政府が外国に贈呈する最初の孟子の彫像であるとのこと。
http://www.china.com.cn/japanese/185601.htm
国務院新聞弁公室の蔡名照副主任の挨拶より
孟子が生きた戦国時代は、動乱の不安定な時代で、年々戦乱が打ち続き、民衆は生活の手立てを失いました。孟子は「済世救民」を己に任じ、仁愛と平和を追求し、社会正義を探求し、「君(きみ)を軽(けい)とし、民(たみ)を貴(き)とする(すなわち君よりも民を第一に考える)」仁政学説を提起しました。そして彼は仁政の理想実現のために奔走し、呼びかけました。彼は20余年の長きにわたり各地を遊説し、貧困のためさすらい歩いても志を変えませんでした。そうすることによって、高尚な人としての節操と、高い精神的境地を表したのでした。
孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という名言があります。この言葉の核心は「和」にあります。中国の伝統文化は一貫して「和」の思想に貫かれています。孔孟以来の大多数の思想家たちもみな、「和をもって貴しとなす」を提唱しています。「和」の思想は、中華民族が普遍的にもっている価値観と追求すべき理想となっていて、今日でも、中国人民の生活、仕事から内政、外交など各方面にわたり、広く、深い影響を及ぼしています。中国人民はこれまでも一貫して、人と人との間の、また国と国との間の誠意ある相互信頼と平等な待遇、平和と友好、礼節ある往来を重んじてきました。
先哲のこうした教えから、私たちが次のような啓発を得ることができます。それは、平和は人と人との交際の最高の境地であり、国際的な往来の最高の境地でもあるということです。
中日両国は一衣帯水の関係にあり、中日の文化は、水と乳のようによく融け合っています。中日両国人民の友好往来は、地理的に優位性を持ち、歴史的にも深い淵源があります。両国が長期的に安定した友好関係を樹立することは、両国人民の共通の願いと根本的利益にかなうばかりではなく、アジアと世界の平和と発展にとって有利であります。
儒教の中でも「人民の為の」を最も強調するのが孟子です。だからといって、少し前までは中国政府が儒教を肯定することはなかったのに中国も変わったものだ。
「中日両国は一衣帯水」というフレーズはかって大東亜共栄圏建設時に日本側が高唱したスローガンだ。中日の間に存在する国境という高い障壁を低くしてしまえば、当時優勢だった日本の国力が(具体的には軍隊が)中国国内になだれ込むことができる、という情勢において唱えられ、そのプランどおり日本軍は大陸になだれ込んで行った。現在は全く情況が違う。安くて優秀な中国製品の日本へのなだれ込みはすでに起こっている。中日の間に高い障壁はすでに無い。しかし小泉首相を中心とした勢力はA級戦犯を祀った靖国神社に参拝し、軍国主義化への道を歩もうとしている。先日の反日デモにより一定の歯止めは掛けられた(ようだが)予断は許さない。そこで孟子を先頭に立てて「文化攻勢」に取り組んできているわけだ。
そう考えると上記の文章は興味深い。「和をもって貴しとなす」に攻撃のポイントを絞っている点が鋭い。というのは、儒教、仏教など日本のハイカルチャーはすべて中国からきたものだ。しかし、右翼ナルシストはそれを認めたくないので、聖徳太子を、日本の独自性の原点として押し立てる。その中心が「和をもって貴しとなす」である。皇国史観のとき高唱された楠正成等々の人物は戦後凋落してしまい、再アイドル化はすぐには難しそうである。その点聖徳太子は戦後も一貫して高い人気を誇っている。わたしを含めた従来の左翼は、「和をもって貴しとなす」に対し、普遍性への参照を欠いた平板な共同体至上主義として批判的に捉えていた。今回の中国政府の見解は、肯定的に捉え、なおかつそれを“日本的なものではなく儒教的なもの”とする点で、論壇に対する新しい介入であり得ている。
1945年8月の敗戦はある人によって革命と呼ばれた。靖国論争や沖縄戦をめぐる議論の根拠にも、815の断絶をどう捉えるかという問題がある。これはもちろん国民一人一人に問われているのだ。
革命は「万世一系」の対立語として使用すること。このような「革命」という言葉は勿論フランス革命やロシア革命と無関係だ。むしろ孟子の「革命」説として江戸時代を通じて論じられたものだ。
中国政府は数千年の文の国としての歴史を賭けて、文化攻勢に討って出来てきているようだ。扶桑社などひとたまりもない??