ファルージャの内側を考える

 4/13日に「世界とは、世界とアウシュヴィッツの内側から成る。アウシュヴィッツの内側をわれわれは覗けない。そこがあると語る者は詐欺師だけだ。それがないと言う者たちを信じてはいけない。」と書いた。タイトルにあるように「ファルージャの内側」を念頭に置いて書いたものです。

 ファルージャに関して、4/15日の「ファルージャの目撃者より:どうか、読んで下さい」でワイルディングさんの文章(邦訳)のurlを示し、一部を引用しました。では「そこがあると語るものは詐欺師だけだ。」とはどういう意味でしょうか? イラクのこととかあるいは南京のことかについてその真実をわたしが知ることができるのか、という問いがあります。この問いに端的に答えることは難しい。ですが報じられてはいるにもかかわらず、ちょっとしたニュアンスを操作することによって、米軍の側だけから見たイメージに近い報道がされていることが多いのが現状です。去年のパレスチナのジェニン、ラファの惨状に対し、世界はもっと目を向けるべきだった。当然為されるべきそうした注目がなかったことが、ファルージャの惨状をもたらしたという因果関係も幾分かは存する(かもしれない)。例えば、アフリカの小さな国のある地域で暴虐があったからといってそれを知らなかったことは、その無知は責められるべきか、といえば必ずしもそんなことはなかったと思う。同様にガザの街角でかわいい女の子が殺されたからといってその事実に対する無知は責められるべきではない。しかしレイチェル・コリー轢殺は、アメリカ国内でもっと大きな反響を起こすに足る事件だったのにそうはなっていない。インターネットでは自分が好む傾向をもった情報を沢山受け取ることができる。それをもって、マスコミを偏向と批判しても批判している側が偏向しているだけだ、ということもいえるかもしれない。だが、現在のところ「ファルージャの目撃者より:どうか、読んで下さい」が事実を伝えている、少なくともそれに近づく最も有力な資料であることは確かだ。日本であれ欧米であれ有名新聞記者とかが現地レポートすれば信頼度が高いかも知れないが、現地にジャーナリストを入れないようにしているのは米軍である。(一部「テロリスト」グループにも責任はあるだろうが)一部の日本人はジャーナリストを日本から出すこと自体に反対している、日本の犯罪でもないのにそんなに真実が怖いのか。

 つまり、「本当の真実」なんてものがあるかどうかは別の問題として、ファルージャの現状の一片を見聞していこうとする努力が支持されるべきだ、と思います。それに対し「そこがあると語るものは詐欺師だけだ」なんて野原は何故書いたのか。ワイルディングさんの誠意を信じる立場にわたしはまず立つ。この場合確認できることは、彼がファルージャに入りそして脱出してきたことによりわたしたちに文章を送付することができたということだ。文中で彼が書いている「産気づいたので助けにいこうとしたがそこまで辿り着くことができなかった一人の産婦」については、わたしたちは何も知り得ない。現場に行くことは、何かを見ることである。だがしかしそれは、見ることができず手をさしのべることができない膨大な人々が存在することを身近に感じることでもあるのだ。マスコミは確かに現場に行く。だが映されたものだけが事実であるかのような分かりやすい物語を伝えてしまうことが多い。自分が何かを目撃していないと語るものだけが、目撃者の名に値する。

からごころ

「がくもんをして道をしらむとならば、まず漢意(からごころ)をきよくのぞきさるべし」*1 「道」には註釈がついていて「人々が人智のさかしらを立てず素直に神の御はからいをを信頼するため、偽善的教えがなくとも自然に天下が治まるという日本古来の道」とある。

 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し……国の交戦権はこれを認めない。」とする憲法9条のやけっぱちともみえるラディカリズムの底には、自己権力自己責任から秩序を構築していく思想(からごころ)を嫌悪し、からごころの極致である軍隊を潔く捨て去ろうとする宣長風のラディカリズムがあった。ということも言えないわけではない。

*1:p25本居宣長『日本思想体系40』

荒川区男女共同参画社会基本条例

http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040616 北田氏のブログで、荒川区の男女共同参画社会基本条例案というものがトンチンカンである旨批判していた。全く賛成である。

第一八条「男女共同参画社会の形成に当たっては、男女の区別を差別と見誤って否定の対象とすることなく、男女の人権を尊重しつつ、その特性を踏まえた正しい理解の下に、この条例の趣旨から逸脱することのないよう努めるものとする」。

女性の特性の正しい理解とは何か?男がやっている仕事で女ができないものはほとんどない。特性というものが仮にあったとしてもその事実は曲げられない。問題は家庭、子育てだ。共稼ぎであれば、母親に負担が集中しないよう、父親と社会がより大きな関与をしてくべきである。国家が少子化対策に熱中すべきかどうかという議論はあるが、父親と社会の関与という方向性は正しいと思う。荒川区の場合は、現在の矛盾に対して過去には男女間の適切な役割分担があったとして過去を理想化しノスタルジックに成っているだけだろう。

北田氏は次のように言っているが、そのとおりだと思う。

「あえて」言おう。子ども増やしたいんなら、即刻この条例案を撤回せよ!

丁玲による農村革命報告(1)

(1)

  “这次该斗谁呢?说老实话,咱们也凭不了自个儿的恩仇去说话,咱们只能找庄户主大伙儿乐意的。他们不恨的人,你要斗也斗不起来,他们恨的人,咱们要包庇也包庇不来。”他把眼睛去睃了一下张正典。

  “对,咱们是替老百姓办事么。”赵得禄也说了,

http://gd.cnread.net/cnread1/mjfc/d/dingling/tyzz/013.htm

(2)

対比するために、PinConv というフリーソフトで日本語漢字に変換したものも次に示します。

http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/edu/se315015.html 

  “這次該斗誰[ロ尼]?説老実話,[ロ自]們也凭不了自个儿的恩讐去説話,[ロ自]們只能找庄戸主大火儿楽意的。他們不恨的人,[イ尓]要斗也斗不起来,他們恨的人,[ロ自]們要包庇也包庇不来。”他把眼睛去[目俊-イ]了一下張正典。

  “対,[ロ自]們是替老百姓辧事麼。”趙得禄也説了,

 丁玲(1904~1986)というのは中国で最も有名な女性作家の一人で、日本でも岩波文庫に翻訳がむかしあった。*1いま日本で知る人は少ないだろう。

わたしは今『太陽は桑乾河を照らす』(坂井徳三訳)という長編小説を読んでいる。この小説は上記urlの周辺で原文は全文がオンライン化されている。すごい! と思った。

 簡体字フォントをインストールすれば、うちの98パソコンでも表示できる。(ネスケでも)すごい!

でここに貼ってもちゃんとでるかどうかまずやってみよう。

(3)上記では全く何のことか分からないので、とりあえず坂井徳三氏の訳を掲げておく。

「今回、誰と斗争するだか?これについて、本当のところ、おらたち、自分自分の恩や仇で言っちゃ、なんねえだ。おらたち、百姓衆みんなの納得を求めるだ。百姓衆が恨んでもねえ人間と斗争しようたって、斗争にやなんねえ。百姓衆が恨んでいる人間だったら、誰がかばおうたってかばえるもんでもねえ。」張裕民は眼を丸くして張正典を見た。

「そうだ。おらたち、何でも百姓衆の為にやるんだ。」と、趙得禄も言った。*2

(4)

今回は、正しい翻訳があるから必要ないが、PinConv2というソフトには、「Excite翻訳」というコマンドがありExciteを利用して翻訳してくれる。どんなものかやってみた。

  “今度は誰を闘うべきです?古い本当の話を言って、私達も自分1人の恩讐に任せられないで話をしにいって、私達が村の戸主のみんなを探すことしかできないのが喜んでいた。彼らの恨まなかった人、あなたはも闘って起きないことを闘って、彼らの恨みの人、私達はもかばって来ないことをかばう。”彼は目を張正典に横目で見にいった。

  “正しい、私達は民衆のために事を処理するのだ。”趙得禄も言って、

(0)

今回ダウンロードさせていただいたソフト、PinConv2 の作者ははてな市民のようだ。中国、台湾、日本のそれぞれ形が変わってしまった漢字を一瞬にして変換できるという夢のようなソフトだ!記して感謝したい。 http://chinese.g.hatena.ne.jp/Ctrans/

*1:『霞村にいた時』岡崎俊夫訳

*2:p83『太陽は桑乾河を照らす』上 ハト書房1951年発行

性行為の自由

「わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。」と野原は下に書きましたが、主語の性別がどちらであっても自由があるという認識は、とんでもないんじゃないか!、という反問は当然ありうる。

http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041012(おとなり日記)によれば、

(女性は)

だからセックスする時、こころならずも、という役割を演じなければならず(或いはそう思い込まねばならず)、それが性的幻想の核になっているんだ日本では。(略)

男が行動する、それになんでも応じた性感を、女が受動態で享受する、しかもその受動ぶり、主導権を剥奪され続けていることの不当ぶりに自覚しないように文化が設定されているわけさ。

ということだそうです。なるほど。

命の問題だとは私は思っていない

http://d.hatena.ne.jp/jinjinjin5/20041030 はてなダイアリー – フラグ、大地に起つ!

上記の日記では[雑記]人質事件 ~撤退派の主張に対する違和感~ が述べられている。

それはテロリストの要求によって国策を変更するということの意味を理解している人がどれくらいいるのかということだ。

「テロリストの要求によって」ではない。「テロリストの要求を契機にして」もう一度国策を考え直せ!と言っているのだ。

一部が形骸化する傾向にあるとはいえ仮にも国民の総意であり、それは民主主義国家にとって最も護るべき理念であることに変わりはない。

「イラク派兵は国民の総意に基づく」

という建前を大事にすべきだ、というのは正論ですね。であれば、小泉氏は「憲法9条、大東亜戦戦争*1の総括の問題からくるイラク戦への疑問」の問題、「大量破壊兵器がなかった」問題、「駐留地が非戦闘地域でなくなったら直ちに軍を返すという覚悟」の問題などをきちんと国民に説明する義務があるがそれは果たされていない。

 香田証生氏の死を見過ごしても次には、自衛隊員の死が待っているだけだ。したがってここは民主主義の大義に目覚め、国民投票(首相へのメール)直接行動(街頭宣伝)などで、「基づかなければならない国民の総意」の再審をしようと呼び掛けているのだ。

『大国への点数稼ぎの為に哀れな若者が見捨てられた』という扱いに終始しており、現在の自分たちを支える民主主義という理念に対する言及は一言も無い。『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という彼らの主張の傲慢さに私は怒りを覚えざるをえない。

後半の部分は重要であり当たっている部分がある。*2

ただ、野原は香田証生氏=「哀れな若者」の命が大事とは言っていない。命自体についてはイラク人やパレスチナ人の命も大事だろう。問題は命への回路である。

「フラグ、大地に起つ!」さんにもお聞きしたいが、あなたは、自衛隊イラク派遣の現在に正義があると思うのですか? 

*1:「大東亜の大義」(反帝国主義)にはいくぶんかの理があったと考えるべきではないか、であればブッシュ主義とは絶対相容れないはずだ。

*2:上記に書いたとうり戦後60年間の政権の傲慢がむしろ原因だと思う。だが思想はそんな言い訳をせずに答えるべきであろう。

性を、一旦破棄して考える

この日記ではなぜか、西尾幹二、山形浩生との激突というエピソードがあったわけですが、最近「ジェンダーフリー」ないしその使用法について広範な議論が巻き起こっているようです。ジェンダーという言葉がフリーという言葉と結びついて、正確な概念から離れつつ流行語になったこと。その背後には、女/男という概念はすでに〈拘束〉でありそこからの離脱を求める漠然とした気持ちが(フェミニストの想定を越えた広範さで)あった、ということは事実でしょう。上の松下の文章はそうした諸テーマを、早い時期にフェミニズムとは無縁の場所で表現したもの、と言えます。

 上記の松下昇の1991年のテキストを読んでみる。

江戸や明治に出された本に比べると遙かに読みやすい。人間が読みやすいだけでなくスキャナーでOCRにかける時も昔の本などはふりがなや返り点などが多すぎてまず駄目だし、漢字も異字体や正字が多く上手くいかないことが多い。*1松下氏の文章は、〈 〉や~が多いとして形式面でも難解とされたが、字体などという点では私たちの時代の標準に近い。ワープロで打ったものだから当然だが*2

 難解でとっつきにくいという感じを持ってしまった。タイトルにある「非対象」という概念が分かりにくい。とにかく読んでみよう。

 最初、言語における性(ドイツ語やフランス語など)が出てくる。性をジェンダーと言ったときにまず出てくるのがこの「性」であるのは承知の通り。*3「なんで女が中性なんだ!」といった理不尽を呪ったことは誰しもあるだろう。*4わたしたちはすでに言葉ができあがった世界に住んでいて言葉でしか考えられないのだから問えない。だがこの〈理不尽〉の向こう側に、物と言葉が初めて出会った情景の影があると想定してもよいだろう。言葉とは抽象であるわけだが、わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

言葉というものは、人類の(あるいは全自然の)悠久の歴史をその背後に隠し持っている、わたしたちはそれを直接知ることは出来ないが直感によって感じとることは出来なくはない、そういった思想がある。*5松下の文章の背景にもそのような思想があるようだ。

a「言語の発生から血族社会内部での流通過程において、人々があらゆる対象を直接ふれたり評価したりできる〈もの〉として記号化し、かつ〈性〉的に区分する世界観(共同幻想)の中で相当長い期間を過ごした」という長い時間が想定される。しかしそうした時期は原初のユートピアではない。〈もの〉としての直接性であるかのように言葉が意識されていた、ということだ。

b「あらゆる対象を〈性〉に区分して認識する段階を越えても、慣性的な逆作用により、あらゆる対象を区分~交接可能な概念としての〈性〉質に区分~体系化しようとするヨーロッパ系言語の基底にある」志向は残った。社会的諸関係の拡大によりaという段階は終わるが、そのときの〈幻想的拘束〉は〈残像〉を残す。それが名詞における〈性〉である。

cさらに貨幣制度が導入され、社会的関係の拡大により〈もの〉に直接ふれうる度合はどんどん減少し、言語における〈性〉は消える。これは英語の場合にだけ観察しうるが、方向性としてa→b→cというベクトルを想定することは可能だろう、と言っているようだ。このベクトルに対し松下はそれを進歩とも堕落とも価値付けない。(11/20 7時追加)

*1:というか漢字というのはもともと多様性に富んだものだったのを日本の戦後の政策でむりやり簡略化したものである。だから現在の基準に合わせて昔の字を異字体だと評価するのはその評価自体が不当である。

*2:手書きのものは1行がよく2行に分かれて流れていく

*3:この15年間で誰もが知るようになった言葉がこのジェンダーだが、その経過は「失敗」だったとも言う。これについてはまた書こう。例:http://tummygirl.exblog.jp/857963/

*4:私はフランス語教室に何年も通ったが勉強しなかったので知らないが。

*5:吉本隆明『言葉からの触手』ISBN:4309407064 など。

日本軍管理下の従軍慰安婦は存在したか?

については、下記林博史氏の文章を読んでください。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper02.htm

一部引用する。

元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。

「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)

被害者意識はみっともない(訂正後)

  foursueの日記 の1月29日から

引用(コピペ)してたのですが、

foursueさんからの意見もあり、引用の表記方をすこし変えます。

あとタイトルも変えました。

http://d.hatena.ne.jp/foursue/20050129#p1 の一部

日本が戦争を起こしたのは日本人を狭い日本の国土が養いきれなくなったからであり、

(略)

そしてそれは黄色人種の勝利に終わったことは歴史上間違いない。

日本は負けたが黄色人種は勝った。

(訂正が遅れてすみませんでした。)