新しいものを認識する

私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れるはたらき(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである。(ニーチェ)*1

 「抑(そもそ)も意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相(あい)称(かな)える物にして、上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、

後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代、

漢国は意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も漢国なる」*2

私たちは私たちが予め持っている範型(パースペクティブ)によって、考え言葉を使っている。そこで宣長がいうように、古代とか外国のような他の文化、あるいはニーチェが言う<新しいもの>はわたしたちの持っている何かに直ちに翻訳されてしかわたしたちのもとにやってこない。アポリアですね。

*1:p40『権力への意志・下』ちくま学芸文庫 原佑 訳

*2:本居宣長 『古事記伝』一之巻・総論p26岩波文庫

私は喜んで乞食淫売で結構である。

というわけで、わたしが最近すごい!と思っている言葉たちは彼女のものだ。

何が納得いかないのだといって、言葉に納得がいかないのだ。

本当に子供だった時私は家も家族も服も靴も鞄も男も友達も何も要らないただ自分の身体を忠実に翻訳する言葉だけが欲しいと思って生きていた。

http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041019

はてなダイアリー – chimadcのサミズダット

こんなことをするのは日本人ではない

# F 『先日はありがとうございました。

新潟を中心に起きた今回の地震後、最近「火事場泥棒」的行為が頻発しているとのニュースが報道されていますが、先日夕方のニュースを見ていたら、どこぞのアナウンサーが、「(ATMを荒らしたり、家屋に盗みに入ったり)こんなことをするのは日本人ではない、と思いたいですね」と発言したことに愕然としました。「こんな悪いことをするのは(たとえ「日本人」であっても)善良なる日本人の範疇には入らない」ということなのか、単純に悪意から「これは外国人(三国人)のやったことである」といいたいのか、とにかく、石原などを好き勝手言わせている状況が、この様な発言をしても許されると思っている輩を生み出しているのでしょうね。

 折りしも、同じ職場の人々が同じような話題をしながら「阪神大震災の時の長田区の火事は、誰かが放火したのだ」と話しいるのに接して、こういう連中が関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を撒いた」というデマに惑わされて虐殺をしたのだろうと思い、ぞっとしました。

 李良枝は小説の中で、「日本人」に殺されるかも知れないという脅迫観念から自傷自罰を繰り返す人物を描いていて痛ましかったのですが、「善良なる日本人」にいつか殺されるかもしれないという恐怖は日々増してきていると思います。』

# 思わずカキコミ 『こんにちは。いつも更新を楽しみにしています。ところで「先日の夕方のニュース」私も見ました。「日本人ではない、と思いたいですね」の後に《日本人ではないと思いますが。》と付け加えたことも。抗議のMAILを送ったわよ。この件についてあまり触れているブログ等がないので、思わず書き込んでしまいました。』

へーえ、そんなことを言う日本人が、(アナウンサーが)、いるのですか。困ったものですね。

まあわたしなども日頃つい無意識で「日本人」という言葉を使ってしまうことはあるのですが、これはひどすぎますね。

人はひとりで生きているのではないのにそれを忘れている、というのは正しいと思います。ですがそれを「きみは日本という伝統と共同体、国土に包まれた存在なのだ」というのはマチガイ。世界で最大の間違いです。日本人はつい60年前にひどい目にあった(自分自身も)のにまだこりないのか。ばかちゃうか!、と思ってしまいますね。

(Fさん、“思わずカキコミ”さん コメントありがとう。読んでくれて嬉しいです。今後ともよろしく。)

(Fさん 金時鐘をめぐる討論会行きませんか?上に案内書きました。)

性を、一旦破棄して考える(続き)

えーと。(11/27訂正版UP)

「男性/女性/中性など、生理の規範としての性を、一旦すべて破棄して考える こと」について考えてきたのでした。

松下の文章は4頁(4部分)からなる。要約すると以下の通り。

1.わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

2.「性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何かの呪縛から私たちは脱していない」

「男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度である」

3.胎児の段階でヒトは男女に分化するが、性というものを自意識において捉え返すことは、幼児~思春期までなされない。

「性別の存在と性別の意識は不均衡~非対称である。」

4.性行為を複素数空間において考察すること。

(2)

 反対概念というのは奇妙なもので、<明るい/暗い><高い/低い>など、反対概念の和は全体であるかのようにイメージされてしまう。目の見えない人は<明るい部屋/暗い部屋>の差異が理解できない。明るさを直接把握することはできないのだ。しかしながらすべての文章のうちから<明るい又は暗い>が付くフレーズを集めれば、それがどんな時につかわれる言葉なのか、どういう雰囲気をもった言葉かが分かるだろう。それと同時に、<明かるさ>をあらかじめ知っている人たち(わたしたち)には普通理解できないあることにも気付くのだ。つまり(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)がどこにあるのかが分かる。

 「それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、」というセリフはとても滑稽な印象を与える。大学に対し反大学というものしか頭のなかに描くことができず、つまり広い意味での大学(知的世界)だけが世界であると思っている自分を知らず知らずに白状してしまっているからだ。

 さて、「大学はすでに本質的に解体している」とはどういうことだろうか。知の体系が存在するためには、〈(考察し研究する)主体-対象〉という構図が必要である。〈大衆団交〉が実現可能だったことは、その構図が崩れたことを意味する。〈死者の声は聞き取ることができる〉〈サバルタンは語ることができる〉というアプリオリから出発するのが、松下のスタイルである。サバルタンの声を想定することはサバルタンでないものがサバルタン性を表象代行する事であり犯罪的である、という批判の可能性がある。しかしその批判が成立するかどうかは、わたしがどこに立っているかによる。大学の中のインテリとして発言することと、それと対極的な場で発想することは違うのだ。〈現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでid:noharra:20040721〉語る場合とは。

(3)

 たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。

松下は何を言っているのだろう。ポルノ写真の性器とわたしの器官が出会う回路とは?毎日送られてくるスパムメールには美女の写真付きの物もたぶんあり、その場合その女性に出会うべき回路も指示(または暗示)されているのだろうが、そういう場合を除けば、ポルノは出会えない可能性においてポルノであると思われるのに松下は違うという。その写真をどのような眼差しで見るのか、スケベオヤジの視線でか、商品としての視線でか、少年の無垢な好奇心か、失われた横田めぐみさんを見るようにか、そのような視線のあり方を言ってるだけだろう。読者の性器写真への眼差し(回路)の在りようは多様であり、それを一概に「猥褻」「オヤジの眼差し」と決めつける根拠は裁判所にはない、と松下は主張する。

ところで女性にとってなぜポルノか?<具体的に股開いて金稼いでない人は、自分の変わりに誰かが股開いて生きている、という一瞬(へ?)というしかないような構造で世界が成り立っているということを肝に銘じておこう*1>といった発想がおそらく山本氏にはあったのだろう。ポルノ写真を一枚一枚見ながら松下はその裏側に<世界を転倒せずには生きられないが、同時にそうした文に決してたどり着くことのない>性器たちの静かな叫びを聞き続けたのだろう。

ただ、そのような理解ではまだ不足だろう。叫んでいない性器たちから無音の叫びを聞くとは、性器を〈サバルタン〉と位置づけていることだ。あるひとがサバルタンであるとはその人との回路が非対称的である、つまりわたしが主体でありサバルタンは客体であるという関係がどのようにしても動かしえないことを意味する。しかしながら松下は断言する。非対称性は欲望も刺激しないし、性的本質と敵対すると。*2

「多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも、性的本質とは無関係であり、敵対している。この視点を疎外する位置にある場合には。*3

ポルノを見てオナニーしたりあるいは娼婦を抱くといった行為は本物にたどりつけない人のための不完全な偽物だと一般に思われているが、いわゆる本物の性行為に対し松下は、性的本質に敵対するものだ、と断言する。それでは性的本質とは何なのだ?

(4)

成熱した男と女の自然な行為として〈性〉行為を考えることを松下は批判する。「むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因~止揚条件から考察を始めるべきではないのか。」というのが松下の主張である。正常な器官の結合を基準とする直線的価値観を廃棄し、未成熟~はみ出した身体同士の接触の多様性平面を想定しそれにさらに幻想過程という次元が追加されたn次元において、ズレだけでなく一致も存在しうることの驚きを展開していく、といったイメージだろうか。

「〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展関する作業」こそが求められている。

ダンテはベアトリーチェを誉めたたえることにより性愛の幻想が「社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうること」を描いた(予感した)。*4性愛の器官的実践を含む多様な幻想的~器官的実践と考察が、あくまで現代文明(既成概念)の対象化~転倒の試みを基軸として試みられなければならない。と書いたが「……しなければならない」とは松下は書いていない。そうではなくて現代文明につきまとう当為というモードこそ、解体されなければならないものに含まれる。←この文章もまたパラドックスになった。「これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提」として、目標に向かって進む(目標が実践的なものであれ否定神学的なものであれ)というモードがあった。とも言って良い。松下の思想が、現在の文法では語り得ない目標に向かっていることを、彼の文体の分かりにくさが示している。何重にも留保し、結論を繰り延べ、かと思うと急に過剰に断言するといったスタイル。

*1http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041111のコメント欄 のchimadc発言

*2:〈男〉はいつもサバルタンを抱いてきた。        非対称性とは何か?「股開いて金稼いでない人」とは?それはつまり典型的には、USAならWASP、日本では有名大学卒業有名企業就職男子という存在様式を持ちながら、なまじインテリで左翼で善意を持ち、セックスワーカーなんかに手をさしのべる存在。と彼らの知の対象であるサバルタン存在。(詩人たちはいつでもサバルタンを必要とした。学問がこのレベルに到達したのがポスト構造主義ないしポスコロの時代だったと考えることができる。)インテリ/サバルタンという構造を、ブルジョア/プロレタリアにならって社会全体に押しひろげることができる。と稚拙に描かれた構図がふつうに具体化している現実があったとき、ひとは「一瞬(へ?)というしかない」! (だが、「一瞬(へ?)というしかない」その一瞬に「へ?」と言えるのはサバルタンの側であろう。反サバルタンは鈍感であることによって定義される。) 即ち、善意の左翼インテリである野原燐(男性)は、「鈍感である」という自覚において辛うじて左翼たりうる。ここには越えられない溝があり、その深さに無自覚であれば“一生幸せに生きていく(他者を殺しながら)”ことしかできない。

*3:野原が文章を少し縮めています

*4:ダンテのことは分かりません。

わたしは否応なしにアジア人だ。

日本人は東洋人であるということは歴史が否応なしに日本人に教えてくれたんだ、とこの水村の文章は述べている。

【「もう遅すぎますか?」--初めての韓国旅行 水村美苗】、をもう一度読んでみよう。

引用した部分の骨格は次のようだ。

韓国人と日本人は似ている。であるのに日本人は欧米人と日本人の類似性にばかり目を向け、韓国人と日本人の類似性に気付かない。

しかし、それにすぐ続けて水村は言うのである。「今となってはなんと旧い世界観かと人は言うであろう。すべてはここ十五年ほどで音を立てて変わってしまった。ことに、中国という国が世界市場の中央舞台に躍り出たのが決定的であった。」ソウルの高級ホテルのラウンジの隅に座って、三人の若い女の人たちが演奏するグローバル・ミュージックを聞きながら、水村は言う。

「人口十三億以上と言われる中国が世界市場に参加し、その破格な規模での経済成長がこの先いかに人類の運命を左右するかが見えてきてから」日本人の脱亜意識も変わった。21世紀の半ば、日本は巨大な「環中国圏」の一部でしかなくなるだろう(溝口雄三氏の意見)。わたしたちはこの圧倒的な「中国の衝撃」を間近にしている。このとき

南北統一という途方もない課題を抱えているといえども、この日本にどこまでも似た韓国こそ、日本が受けねばならない『中国の衝撃』を最も深く共有できる国なのである。日本という国が、空々しくも図々しくも、今となって急にそんな兄弟がいたことを懐かしく思うようになったとしても不思議はない。兄弟が出世してくれ、りゅうとした格好をしているのだからなおさらである。日本のテレビの画面には、韓国の寒村の花嫁の代わりに、韓国のまばゆいばかりの美男が次々とめまぐるしく登場するようになった。日本は片思いする女のように、派手に、甘ったるく、押しつけがましく、韓国に身を擦り寄せるようになった。大国、中国・アメリカと今後どうつきあうかは相手の出方やその時の世界情勢によるであろう。だが、歴史の荒波をくぐり抜けるのに、これだけ近い韓国とは肩を寄り添わせていかねばならぬという気持ちは日本の方にはある。

 なんともげんきんな日本だと韓国は言うかもしれない。(同上p341)

わたしたちはある高揚感に頬を染めながら息せき切ってアジア人になり、ヨンさまのもとに駆け寄る。客観的に見ればそれは「もう遅すぎる」ところの五十女の勘違いと言われてしまう可能性が高い。だが、相手には理解できないだろう問題設定を身勝手にも相手も理解しうることが当然と勘違いしうる恋と呼ばれる特権が、他人との境界を越えうることもまた事実だ。

「ここ数年「不定愁訴」に悩まされ続けている私は、ともすればかんたんに世の中に絶望した(同上)」。簡単な絶望、あるいはそこからくる他者への裁断が全く不毛な物であることは言うまでもない。

 日本から抱えてきた問いは、宙ぶらりのままである。

 夜は更け、三人の若い女の演奏家はすでに楽器をしまってどこかへ消えてしまった。

 三十年前の私は、自分が若いことを知らなかったが、今、若い人に、あなたは自分が若いのを知らないと、そんなことを教えても無駄である。三十年前の私は自分が東洋人であるとも知らずにパリを歩いていたが、今、それは、歴史が否応なしに日本人に教えてくれるようになった。残るは、その歴史が教えてくれたことを、いかにこの身に引き受けるかであり、それは、いかにこの先歴史にかかわっていくかということである。(p347)

この水村の14頁の文章は繊細なガラス細工のように巧妙に作成されている。若いがゆえの無知(自分が若いことをしらない)と「自分が東洋人である」ことを知らない(歴史的に形成された)無知。認識の裏側にあるエロス性を丁寧に滲ませることで、二つの無知をみごとにシンクロさせていく。(まあ考えてみれば最初から事実なんだからと言ってしまえば身も蓋もないのだが)そのような狡知をたどり読者はやっと「自分が東洋人である」ことを否応なしに納得する。

試みとしての女性国際戦犯法廷

 「東京裁判史観」という概念がある。*1

 女性国際戦犯法廷というものは揶揄にしか値しない存在だ、と信じて疑わない者たちは、と東京裁判史観というパラダイムを乗り越えようと全身で試みたことのない人たちだ。ということは確かだ。

 それだけでなく、それ無しでは生きることができない正義を求めざるをえない情況におかれ、国家が設置している法廷では自分の求める正義がとうてい得られそうもないことに絶望し抜いた経験も持たない、おめでたい人たち。

私ではない誰かが裁き、そこに自分が正義と感ずる物が実現されるべきだと考えているのかいないのか、とにかく「裁く」ということはわたしの仕事ではないことになんの疑問も持たない、そのことは、民主主義という言葉の意味を知らないといことになるのではないのか。

ある矛盾や苦痛の根源は世界規模の共通性を帯びており、従って世界規模の人々の対等な審理によって解決へ接近しうることはいうまでもない。そのような回路の設定はインターネットの転倒的応用によって既に技術的には可能なはずである。その設定を現在の技術パターンと国家群が阻止しているだけであり、(松下昇)

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

 このような問題意識に立ったとき、ひょっとしたらその実現された形には多くの問題点を指摘しうるのだとしても、「女性国際戦犯法廷」は未来を開く試みとして高く評価されるべきである。

 女性国際戦犯法廷の全記録は公開されている。したがってその判決に不服がある者は、しかるべき証拠を提示すれば、再審請求できるはずである。このような開かれた審理システムを予感させるのが、その可能性であろう。

*1:それは、第二次世界戦争に関して日本がおこなった行為に対する戦勝国家による裁判の権威と判決の正当性を認め、それによって戦争だけでなく戦後の全ての問題の評価軸とする歴史観である、とひとまず規定しておく。 松下昇http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

自分のした事実を認めること

 慰安婦問題を考える枠組みとしては、下記の星野智幸さんの意見が正しいと思います。引用させてもらいます。

  でも私が一番おぞましく感じるのは、漠然とちまたに漂うリベラル嫌悪である。今回の問題も、従軍慰安婦をめぐる考え方が根っこには横たわっているのに、従軍慰安婦自体を問題化させまいというような風潮を感じる。今年は戦後60年を迎える。10年前、戦後50年のときには、従軍慰安婦の存在を疑う人は圧倒的な少数だった。過去におこなったことはおこなったこととして認め、しかるべき反省と和解をし、次のステップに進もうという、冷戦崩壊後にふさわしい空気が主流だった。

  それから10年たって、従軍慰安婦の問題を考えること自体を「偏向」と見なす人が急増している。戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。あいつらの言い分を呑んでたまるか、みたいな気分から、戦後に実証されてきた事実を葬ろうとする。言い分を呑まないことと、自分のした事実を認めることはまったく別の話だ。これではまるで、横田めぐみさんの骨がニセモノだったという鑑定結果を、「捏造」と切って捨てる北朝鮮の態度と変わらないではないか。かさにかかって「なかった」と言えば、本当になかったことにできるとでもいうのか?

http://www.hoshinot.jp/diary.html

星野智幸の日記 1月26日

 リベラル嫌悪の奥には、女性への侮蔑、朝鮮半島や中国大陸の人間への軽蔑がある。持てる既得権益を手放し分配する以外に行き詰まりを打開することはできないこの日本社会で、その現実を受け入れられない層が逆ギレしている。いくら家庭内で暴れまくっても現実は変わらないのに暴れている、子どもじみた反応。それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、朝日新聞を始めとする旧リベラルのメディアたち。(同上)

 もう一つ結論部分も引いておく。非常に明快。ただそこまで言い切ってよいかどうかは疑問も残る。新自由主義イデオロギーが勝利しており、それが出自からすると異質な悪質なナショナリズムなどと癒着している(せざるをえない)というところかと私は思う。それと朝日新聞などが、「それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、」という指摘も重要。

(2/6朝7時訂正)

答え

福沢諭吉 p243『文明論之概略』岩波文庫 でした。(「の」の字が違っていた。)

全然面白くなかった? 

と書いたのと同時に11時20分、newmemoさんから正解をいただきました。

さて、諭吉とは我が国最大の啓蒙家とかいわれているので、偏見を持ち読んでませんでしたが、読んでみると文章は分かりやすく迫力があり面白い。例えば、彼は西欧の歴史を概観し、宗教改革に言及する。ルター(ルーザ氏となっているが)と羅馬法王との争いは結局「唯人心の自由を許すと許さざるとを争うものなり」。結論的には「文明進歩の徴候」と評価できる。だがその争いとは「欧州各国これがために人を殺したこと殆どその数を知らず。」であり、「殺人の禍を計れば此の新教の値は廉なりと云う可らず。」という点もちゃんと注目した。p177 西洋と東洋どころか、鼠と人においても同じ基準で論じうるととするある種唯物論的な思想の強さは、やはり感心すべきものがある。

またビラ撒き逮捕

前回の野津田高校で逮捕された2名は6日に釈放されたのですが、

3/8、農産高校卒業式でビラ撒きをしていた人が1名逮捕され

ました。

野津田高校事件に関し、地裁八王子支部が、検察の勾留請求のための準抗告を棄却決定した文章の一部。

 しかしながら、一件記録によれば、被疑者らが立ち入った上記高等学校の敷地部分は、同高等学校の門塀等物的囲障設備の外側に存在する土地であり、これを建造物侵入罪の客体である『建造物の囲繞地』と評価することは困難である。

刑法の精神を明白に逸脱した逮捕だったことが分かります。

日本は変だと思う

 N・Bさんの下記の発言には驚きました。場違いだなあと思いながらも「日帝自立論」を引用しておいてよかったなと思った。わたしたちのころは高校か大学で新左翼的なものに近づくとまずそうした論理(政治的ジャーゴン、セクト間の差異の主張)を教えられたものです。

私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。

自分というものがコンビニエント*1な環境から離脱できないことと、日本の対米従属の問題を無意識のうちにくっつけて考えている人が多すぎるのではないか。理屈で言えば、仮にもジャパンアズNo1と言われた国力があるのだから、例えばカナダやメキシコよりはずっと自立の幅は大きいはずと思えますけどね。

 というか、中国や韓国に何か言われるとすぐ内政干渉だというくせに、日本の主権がアメリカによって犯される(ている)危険についてのリアルな観察や批判というのは非常に少ないと思う。そのような情況において、「古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、」といわれても、どうかなあ~としか感じません。

spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。(略)

ネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。

申し訳ないが、上の二人のような方に対しては、悪い冗談であるかのようにしか思えないのです。日本/大日本/日本という歴史を思えば、そんな安易な論理を振り回す気にはならないはずだと思ってしまう。ブログとか読んでみるとそれなりにまじめに考えておられる方のようなのですが。(すみません。)*2

 幕末から1945年までの人にとって、思想の如何を問わず、日本及び日本人が危機という状況にあるということは自明の前提でした。*3日本人がアジア人であるということも、もちろんです。戦後の日本はこの「日本人がアジア人である」という事実を隠蔽、忘却していると言いうるのであって、非常に変だと思う。

*1:convenient 綴りが分からなかった

*2:同一性の論理を高唱する限り、わたしにとってかのおおやさんという方も同類項にしか思えず、ただ体力知力が抜群の方みたいだったので、絶対に近づきたくないと思ったのでした。

*3:大正期などの安定期には薄らいでいたでしょうが。