弟が兄を伐ってもよい

允恭「登か」*1するや、皇太子淫虐にして、衆の棄つる所たり。安康、弟を以て兄を伐ち、過乱を■定す。衆の推す所、天命これに帰す。

日本思想体系48『近世史論集』というのが古本屋で1700円だったので買ってみた。このごろ大日本史とかに少しだけ興味があるが、これは大日本史自体ではないが、前期水戸学派の学者の史論二つが中心の本。p22には例えば上記のような文章がある。万世一系という原理があくまで正しいとした場合、次の天皇が淫虐にしてどうしようもない奴だった場合はどうする、という疑問が発生する。戦前だったらこのような問いはタブーであり、日本にはそんな天皇~皇太子はいないと強弁されたのではないか。現在の(何の根拠もない)愛国主義者もたぶんおなじだろう。実際には記紀によっても上記のようなことがあった。どうしようもない奴は大衆の意志において棄てられる、それが天の意志でもあるのだ、と元禄のころの儒者、安積澹泊は考えた。

*1:天にのぼる、帝の崩御について言う。

おもろさうし

中辺綾の天

君ぎや やぐめさす

みとろ金 みおせや

雲辺綾の天

主が やぐめさす

あふ雲の鎧は

積み上げて みおせや

精の精富に

積み直ちへ みおせや*1

美しい中空を歌った歌。

*1:日本思想体系・おもろさうしp196

西尾幹二はルサンチマンか?

 上記を書いてから思いついたのは、これって「大虐殺なかった派」に似ているということだ。なかった派は

1)「大大虐殺があった」とAさんは主張している。

という命題をまず立てる。そしていくつものトリビアを用意して、

2)「大大虐殺があった」という命題は成立しえない。という結論を導き出す。西尾氏も

1)「「個」が(あるいは人権が)絶対的な価値である」と落合氏は主張する(そう信じている)。

という命題をまず立てる。それに対し

2)「「個」(あるいは人権)は絶対的な価値たりえない」ことを立証する。という手順を辿る。なぜ自己を主張するのに他者(それも平板化された他者)を必要とするのか。ジェンダーフリー派の攻撃による危機なんていうありもしない状況認識が必要なのか。

「美は自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余だ、*1」とニーチェは言っている。もちろん書くことという行為もそうでなければならない。2)という主張をするために1)という前提が必要であると考え、そして1)が“わたしたちを脅かしている”という認識のもとに、やっと2)という自己主張に辿り着く。このような発想法は典型的にルサンチマンの徒のものである。“それがわたしたちを脅かしている”と警告する時点ですでに失格である。

『NANA』8巻で主人公はなんと“母性本能”という言葉にぶつかってしまう。母性本能なんて丁度ニーチェの時代に流行った言葉でもうとうにお蔵入りかと思われていた。そんなカビの生えた言葉であってもひとはそれにぶつかり血を流す。「自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余」として生きる以上そういうことも当然あるのだ。

“それがわたしたちを脅かしている”と警告するものたちは、わたしたちの生に敵対するものだ、というのがニーチェの主張である。西尾にそれが分からないはずはないのに。

*1:p105『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫

己を愛するは善からぬことの第一なり。

南洲西郷隆盛の遺訓からちょっと引用する。

道は天地自然の物にして人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我れも同一に愛し給うゆえ、われを愛する心を持って人を愛するなり、

         +

己を愛するは善からぬことの第一なり。修行の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐り、驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり。

         +

過を改むるに自ら過ちたとさえ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をば棄てて顧みず、直に一歩踏み出だすべし。過ちを悔やしく思ひ、取り繕はんとて心配するは譬(たと)へば、茶碗を割り、其の缺け(かけ)を集め合せ見るも同じ、以て詮もなきことなり。

さて なかった派の諸君! 西郷さんは中国人も愛せと教えているぞ。天というものを忘れここにある己だけを愛すと、自分の体面を守ろうと嘘をついてしまったり、自分(自分たち)に過ちがあったのにそれを誤魔化そうとしてますますドツボにはまったりする。過ちを取り繕おうとする作為を止めなければならない。南京における虐殺がたとえあなたがたの主張どうり規模が小さかったとして、それは「あやまち」でなくなるのだろうか。自分たちの主張が天に恥じないものと本気で思っているのか。

 明白な証拠がないと言い続けるのは、汚職がバレそうになっている役人や政治家みたいだ。そこには既得権擁護という動機しかない。西郷には理解できない心の動きだ。天地の前に裸で立つ、心意気を学ぶべきだ。

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20041026 国立でむぱ研究室櫻分室 という所からリンクされた。南京大虐殺/国が燃える問題のリンク集をつくられており有益だった。でそこから、http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20041013 【ねこまたぎ通信】で話題の漫画の88話を読むことができました。この漫画のコピー公開賛成!! ありがとう。「でんぱ」さんというのは「なかった派」系なのかなと思い、プチウヨ宛ての文章を書いてみました。

(10/27朝一部追加訂正)

囚人の帽子(論理パズル)

問題です。(その1)

3人の賢人がいます。赤の帽子が3つ、白の帽子が二つあります。3人に帽子をかぶせましたが、自分の帽子の色は分かりません。さて、自分の帽子の色が分かれば手を挙げます。手は挙がりません。(この時点で自分以外の帽子の色だけでなく、手をあげなかったことも各自に分かる。)

Aに聞くと「分からない」。Cに聞くと「分からない」。ところが次にBに聞くと「分かった」と言いました。3人の帽子の色はそれぞれ何色でしょう?

囚人と言いながら、わざわざ賢人と言い直しているところがヒントです。

問題です。(その2)

3人の賢人がいます。赤の帽子が3つ、白の帽子が二つあります。3人に帽子をかぶせました。それぞれは、最初の帽子の色と数を知っており、自分以外の帽子の色が分かります。

「自分の帽子の色が分かったか」と、Aに聞くと「分からない」。Cに聞くと「分からない」。ところが次にBに聞くと「分かった」と言いました。3人の帽子の色はそれぞれ何色でしょう?

囚人と言いながら、わざわざ賢人と言い直しているところがヒントです。

後者の問題については、

 http://d.hatena.ne.jp/dempax/20041123 国立でむぱ研究室櫻分室 で非常に丁寧に問題を解いてもらいました。答えは一つに決まらない!?

前者の問題も、どーなのかな?、びみょ~~

頭の悪い人が問題を出すとこういうことになることもある。(11/25訂正)

資料の位置

松下昇氏の『概念集・5』~1991・7~ から、「資料の位置」という2頁の文章を引用する。

資料の位置

 二十年にわたって集積した資料を、炎に変換する直前の視線で一瞬に読み直し、何か魅きつけるものがあれぱ、保存用の場所におくが、大多数は足許のダンボール箱に落とす。古書店で売れそうなものは殆どないし、チリ紙交換に出すよりは、パリケードの掃除の後でよくしたように焚き火の材料にする方がふさわしい気がする。この作業に交差する微かな後ろめたさの底の方に、一種の安心感があり、ああ、これが死者を忘却する感覚にも繋がるのだ、と気付く。それと共に、最後に総体を把握しようとする過程で初めてに近い衝撃で再会ないし発見する資料もある。

 この作業を何年おきかで繰り返してきた契機ないし目的を、現在の位置から考えると、

①そのままコピーして、新しいパンフレットの構成的な素材にする。

②現在の関係性の中で切迫している討論に媒介的に応用する。

③いま気付いていないテーマの感触を排反的に模索する。

というような項目に、とりあえず具体化しうる。

 とはいえ、この具体性は、作業の条件(とくに時間)を自分の意思で自由に設定しうる場合のものであり、この場合を

αとして対象化してみると、

βとして、移転の直前の荷物の整理や、自分の〈死〉後の資料の破棄を想定する場合

γとして、火災で燃え残ったり、家宅捜索で散らかった資料を拾い集める場合

を私は潜ってきており、これらの総体の中で現在の例えばαの手触りが存在している。

 いや、手触りさえ存在しない資料も存在している。何度かの刑事事件で押収されたものや、いくつかの占拠空間への強制執行の際に留置されたもの…。そして、まだ私が出会っていないものや、まだ表現していないもの…。

 このように列挙してくると、後であげたものほど非・具体性を帯びているが、その度合だけ気が楽になるのはどうしたことか。もともと私は、人間が持つことができるものは文字通り自分の手に持つことができるものだけであり、必要なものは必要な時に手にしうるものだ、と心のどこかで思い定めているためであろう。そのためか、初めて入る拘束施設で点検を受けた物品(概念集4でふれた五点セットや国家から貸与されたフトン・毛布が中心)をかかえて、看守に護衛?されつつ指定の独房へ長い何重にも施錠された廊下をよろめきながら歩く時などの感覚は嫌いではない。ある夜ひそかにUFOにn年間の旅に招待されて乗り込む時にはどんな(思考を含む生活過程に役立つ)資料を持っていこうかと今から楽しく想像している。何も持たないかも知れないが…。

 このような気分の中で扱ってきた資料群の変換~応用過程が批評集などの刊行であるといえる。また、このような資料の扱い方はだれにでも可能であり、この作業を自由におこない、それにより幻想的かつ物質的な生存を持続していけるような条件を共同体の水準で準備しうること、それが、まだ実現の遙かな困難の向こうにある共同体が(もちろん質と量の双方において国家を越えて)成立する基本条件の一つである、といいたい。

  1. …宇宙空間の生存に必要な条件-固定した重力場、空気、水、食料などの供給方法を含む-を(1)とし、監獄での対応条件を(2)とし、この落差~振幅を止揚しうる資料が資料の原像であり、その資料を作成する手段の欠如のままに無意識に同位相の資料を生きているのが〈大衆の原像〉(むしろ〈存在の原像〉)の条件であろう。
  2. …早朝の家宅捜索の際に、登校前の幼い娘のランドセルの中に重要な資料を投げ込み警察官の間から悠々と送り出したことがあった。娘に意味を伝える余裕がなかったので、学校で捨てたりしないかと段々と不安になったけれども、タ方ぶじに娘と資料がもどってきた。その資料は数年後の娘の誕生日のプレゼントに応用されている。
  3. …私(たち)が刊行してきたものを例外的に届けている人(相手も自分が本を出すと必ず贈ってくれる例外的な人である。)から、「いつも資料を送っていただき…」という礼状が来た時に、ああ、私(たち)の刊行してきたものは、本でも機関誌でもない、名付け難い資料なのだ、とあらためて感じ、カが湧いてきた。
  4. …前項では資料と表現されたことに異議があったわけではない。私自身も菅谷規矩雄追悼集に関して「60年安保闘争で詩的出発をした菅谷が、その後の大学闘争や三里塚闘争をくぐりつつ、いかにして表現の根拠を追求し続け、苦痛と発見の日々をへたかを、既成文壇・詩壇による形式的追悼を粉砕しつつ明らかにする資料。」と〈百字アピール〉している。(模索舎通信90年11月号、納品者による広告欄参照)また、78年に刊行した〈時の楔〉の副題も、〈 〉語に関する資料集であった。
  5. …菅谷に限らず、ある表現(者)を批評した人が批評の誤りないし不十分さを指摘されて資料が公開されていなかったからだと言い訳するのは誤りないし不十分である。なぜなら、資料が公開されようとされまいと潜在していた誤りないし不十分さが問題なのであり、また、資料は先験的ないし制度的に全ての批評者に等距離に公開されているのではなく、公開への模索の根拠の共有度が問題だからである。
  6. …獄中では房内に持ち込むことを許可される資料の数は制限されるから、制限以上の資料を読みたい場合には、ずでに手許にある資料を領置用の倉庫に戻す願い(!)を出さなけれぱならない。(不要な資料を廃棄する場合にも)         一方、私たちの日常における資料廃棄の衝動の一つは居住ないし活動空間の狭さであり、前記との関連でいえば、無意識のうちに〈獄〉での〈願い〉を出していることになる。本質的に考えれば、〈闘争〉に関する資料の整理~開示~応用は〈闘争〉に関する全空間~関係性の占拠を経てのみ可能であろう。このことへの原初的な言及として、批評集α篇1ぺージ参照。
  7. …しかし、最終的には、資料は、それを媒介して存在の次元を変換し深める場合にこそ意味をもつのであるから、この意味を越えて保存される必要はない。むしろ、二度と目に触れなくなる瞬間の直前に読み返す場合の印象のみが資料の本質を開示するのであり、この瞬間の資科と世界の関係こそが応用に値いするのではないか。

 いま資料を媒介してのべていることは、勿論なににおきかえて受け取ってもよい。その位置があなたと世界の関係を資料として開示するであろう。

p18-19 松下昇 『概念集・5』~1991・7~

あなたのなかの「善」を信じる

山下京子さん、被害者の母が、「酒鬼薔薇」が本退院することへの現在の気持ちを語っている。

 今年の8月、私どもは彼からの手紙を2通受け取りました。

 あれほど、「まずは手紙で、謝罪の思いを本人から伝えてほしい」と切望していたにもかかわらず、私はすぐには読む気になれませんでした。

 手紙を読んで事件の真相を知りたい、彩花の親として真実を知らなければならないと思う一方で、もしも、今よりもさらに辛(つら)く苦しくなって、自分がどうにかなってしまったらどうしよう、という怖さがこみあげてきたからです。

 そんな葛藤(かっとう)を繰り返しながら、10日が過ぎ、ある程度動揺がおさまった私は、ひとりで手紙を読みました。

 あくまでも私信なので、内容を社会に公表するつもりはありませんが、少なくとも劇的に私の気持ちを揺るがすものではありませんでした。そして事件の核心に触れるものでもありませんでした。

 しかし、2通目の手紙は人から強制されて書いたものではなく、彼の本心を吐露したという感があり、出会ったこともない彼の声を聴いているようで、読み進めていくうちに涙を流している私がいました。

 その涙の意味は自分でも理解できないのですが、憎悪や恨みという種類のものではなく、もっと静かな、ただただ哀(かな)しい、というのが一番近い感情でしょうか。

 そのときに思ったのは、仮退院時のコメントと重複しますが、彼が「社会でもう一度生きてみたい」と決心した以上、どんなに過酷な人生でも、人間を放棄しないでほしい。彩花の死を無駄にしないためにも、生きて絶望的な場所から蘇生(そせい)してほしいということでした。

 だからといって、けっして彼の罪を許したわけではありません。

 それでも、彼の「悪」に怯(おび)えるよりも、わずかでも残る「善」を信じたいと思うのです。

http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/shakai/20041214/20041214i515-yol.html

児童殺傷事件・加害男性の退院前に遺族がコメント (読売新聞) – goo ニュース

mojimoji発言の先見性

mojimojiさん、コメントありがとうございます。

ご挨拶がとても遅れてすみません。

id:mojimoji:20050113#p2 で言うべきことはきちんと言われていることに今さらながら気づきました。

安倍晋三の「工作員」発言、慰安婦問題を隠蔽しようとする安倍氏たちの工作を、大衆が無言で受け入れて(同意して)、これを否定できずに情況はいままで動いているわけです。

さらに女性国際戦犯法廷に関して、「北朝鮮の工作員を検事、日本と天皇を裁く側においた法廷」と言っていた。

id:mojimoji:20050113#p2

それ以後、おおや氏ほかに対して一歩も引かず丁寧に反論されるmojimojiさんの文章、頭が下がります。わたしなどは読むと頭に血が上りそうで怖くて読んでいません・・・

 性の商品化などについても興味を持っていますのでこれからもよろしくお願いします。

革命的法創造の営為

田島正樹氏のもう一つの論点は、法創造的営為の必要性である。

3)今般問題となってゐるのは、権力自体の機能不全・戦後処理をめぐっての問題解決能力の欠如・ならびにそれに伴ふ権力の権威の崩壊に、いかに対抗し、補填するのかといふことである。

 それは、権力の空白を放置すれば、そこを必ず恣意的なマフィア的暴力が横領してきて、自然状態の荒廃を回帰させてしまふからである。この空白(法の203高地)をめぐってマフィア的暴力と革命的(法創造的)左翼が、常に陣地争ひをしてゐるのだといふことを自覚せねばならない。

http://alicia.zive.net/MT/mt-comments.cgi?entry_id=152

おおやにき: Comment on 法廷と手続的正義・続々々

既存の中立的制度を形式的に守っていこうとする、常識的に正しい態度は、「すでに右翼的なのである。」

むしろわれわれは「当面の政治状況が左右の敵対性に引き裂かれていることをすすんで承認」しなければならない。

「むしろこの視座からは、既存の制度の中に広がる空洞化・無政府状況に抗して、公共性を奪取し更新することによってのみ、それを保守し救済する事ができると考へられるのである。」

 正義のために法を創造して行くべきであるという発想には力づけられる。

1/29の日記では、国境を越え民衆が自前で実力で審理の場を形成したという点を大きく評価した。どのような主体性、公開性、デュープロセスにおいて公開審理の場を作っていくべきなのか、わたしたちは本気で考える。考えられることはいろいろあるだろう。