「切断操作」

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041114#p5 でスワンさんとのこの間のやりとりを整理したところ、すぐにコメントをいただいた。日記の欄がずれるがこちらに再掲し考えて見よう。

# swan_slab 『6の沈黙に関連するんですが、香田さん殺害事件に典型的な【切断操作】がみられたと思いますがどうでしょう。【「わざわざ殺されにいくような愚かさ」は我々とは一切無縁のものだ。ゆえに同情もわかない】という切り離しです。もしかすると、人生の他の場面では、自分だって七転八倒して愚かな行動にでて危険もわからず飛び込んでいることがあるかもしれないということを一切考えない糾弾です。ただもしかすると本当に立派な人なのかもしれずなんともいえないのですが、直感的には、人間はみな多かれ少なかれ自らのエラーから学ぶ愚かな生き物だと思います。id:swan_slab:20041110#1100344497 で他人に厳しく自分に甘い自己責任論者の例を批判的に書きましたが、重要なことはみんな自己に厳しくあれ!ということでは全然なくて、自分を棚にあげてひとをこき下ろすのは【切りはなし操作】だろうということです。

瞬時に察知したから沈黙する(ないし切りはなす)という分析はそのとおりかもしれません。沈黙(あるいは切りはなす)した瞬間から察知したことも忘れ、すべてなかったことにしてしまうという意味で。こうして理不尽に切りはなされる傾向があったからこそ、それに対して、コミュニケーションを取り戻そうとして香田さんに同感しようとする傾向が他方で生じてきたという気がしないでもありません。

事件直後から「同情できないのか」「え?無理っす」といったやり取りがしばしばみられたのはそういうことかなと思っています』

ところで、「切断操作」って社会学の概念だったんだ。はてなキーワードで教えてもらった。「共同体に特有な問題処理の作法。」とある。なるほど

他者の不在

追悼が要求しているように、自分に負債があることを表明せざるをえないと感じるときが、来るのである。自分が友に負っているものを語るのは義務だと感じるときが。(デリダ)『現代思想 2004・12』p81より

 追悼という主題に興味はない。id:noharra:20041030に、香田証生さんの人質事件に関して、二人の方のはてな日記を引用し、まあちょっとケンカ売り気味に批判した。どちらの方からも応答あり対話があった。結果的にはとてもわずかなあいだだったが。生産的な対話でもなく思い出すこともなかったのだが今日、ちょっと思い出してみた。すると「ご指定のページが見つかりません」エラーがでるではないか。二人ともなのでちょっとおどろいた。

彼らは今不在であり、その限りにおいてわたしは「自分に負債がある」と思っている。負債という言葉を心理的に解釈してはいけない。そうではなく償いえない負債だけが考えられている、デリダにおいては。二人の他者にわたしは何も負っていないがそれでも、不在であるだけで何かへの通路であるのかもしれない。

津波孤児は売買される

 スマトラで大きな被害を受けたインドネシア・アチェ州などで、孤児となった子どもたちが「保護」名目で連れ出され、行方不明になっている。ユニセフ(国連児童基金)の調べでは、その数は四百人に上るという。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050107/mng_____tokuho__000.shtml

 ユニセフは四日、こうした子どもたちの早急な保護を求める声明を発表した。日本ユニセフ協会広報担当者は「ジャカルタに運ばれた約四百人の行方が分からないが、地元紙によると、アチェ州からメダンに避難した孤児五十人が空港で行方不明になったという。アチェ州で推定三万五千人とみられる孤児が人身売買の危険にさらされている。さらに、スリランカ北部でも三千人以上の孤児が出ており、うち九十人が何者か沖地震津波に連れ去られたという情報がある」と警戒する。(同上)

 インドネシア国内の組織については、「売買の規模から、インターネットの普及で広がった国際的なシンジケートだということは分かるが、実態は分からない」(ユニセフ協会担当者)。上智大学の村井吉敬教授(東南アジア経済)も「人権団体の活動が活発なタイでは、人身売買の実態がかなり解明されているが、インドネシアは不明な点が多い」とした上で、「国内には、多数の人身売買ブローカーがいるが、ブローカーと密接な関係を持ち、被害増の元凶になっているのが国軍だ」と指摘する。

 

 佐伯事務局長が解説する。「インドネシアの予算では、国軍経費の三割しかまかないきれず、大部分は闇ビジネスで稼ぐしかない。大麻や違法伐採した木材の密輸、賭博場の用心棒代、勝手に設定した道路の通行税などと並び、人身売買が稼ぎ口になっている」(同上)

次のような話も、

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050107i113.htm

 「今月3日、2人組の男が来たわ。2人とも30代初めぐらい。キャンプを回って小さな子どもを見つけては、親はいるのかと聞き歩いてた」。バンダアチェの避難民キャンプで、主婦のアーティカさん(37)

http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20050109#p2経由

遅くなった割には

(1)

えーとまず、話が戻りますが、

>どこで実害を及ぼしているのか

 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。

Aさんを不快にさせる、というのがいけないことなのでしょうか?これが分かりません。

国家法廷でないものが法廷と名のるのがけしからん、て別に詐欺を意図しているわけでもなし、何でそう言うことを言うのか、理解できません。

だいたい不快だと思えば見なければよいだけのことです。わざわざそれに関心を持ち文句を言う、というのはどうなんでしょうねえ。もちろんある種の愛国主義者なら分かるのですが。「わざわざ文句を言う」のは「それ」がAさんの十分には意識化されていない何かを刺激するからか、と深読みをするべきなのか?

(2)

天皇の責任は曲がりなりにも近代社会に生きていた以上先にそのレベルで問われるべきではと思います。ただ、民衆法廷の側の意図はそうではないかもしれません、

できれば、民衆法廷の側の主張をまとめたいと思っていますが・・・

(3)

私は「天皇」の罪を問わないことは、むしろ合衆国が決めたことだと思っています。そこでの合衆国の決定が、戦後・高度成長以降の日本人の行動の前提ではないでしょうか。日本人の「ねじれ」は主体性は確立したいけど、高度成長の成果は手放したくない、それを不当に手に入れたのではないかという不安を消し去りたいという衝動があるといったところではないかと思います。バブル崩壊以降に表面化したのもそのせいだと思います。

「天皇」の罪を問わないことは、むしろ合衆国が決めたことだ、というのはそのとおりですね。右翼の側は、東京裁判賛成=左翼という自分たちが勝手に決めた図式を今でも信じているので、東京裁判を左から覆す勢力が登場したときの対応が支離滅裂のような気もします。

「そこでの合衆国の決定が、戦後・高度成長以降の日本人の行動の前提ではないでしょうか。」えーそうですかねえ。タブーが存在しているという事実に対しその説明をしているだけだと思います。

わたしにとって民主主義とは、憲法1条を私が否認するという意志表示を公にする(ことができる)という事実に掛かっています。*1

「高度成長の成果は手放したくない、それを不当に手に入れたのではないかという不安を消し去りたい」。

経済の利益だけ考えて、東アジア重視は駄目でアメリカ追随の方がずっと有利という判断をしているのならそれはそれで良いと思うのです。そこになんか「不安」とかなんとか心理的要因が何故入ってくるのか?主体性を確立したいとは本心では思っていないのではないか。ただのマザコンなのではないか。心理学用語を使うのは良くないと思いつつそうぼやきたくもなりますね。

(4)

 ところでデリダと法学は「批判法学」と一括される学派で結びついています。でも、この学派の入門書など全くないようです。私は主に「20世紀の法思想」中山竜一に頼っています。

「20世紀の法思想」という本も前に誰かが薦めていたなあ。

ドゥルシラ・コーネル『自由のハートで』という本は持っているんだが*2、法学(法哲学)の本なのだろうか。ただのフェミニズムの本かと思っていた。

*1:ですからわたしの主張が通れば次はまた別のことを考えなければいけない。まあそんな心配は50年ほどは不要だが。

*2:読んでない

自己を裏切りながらそのままであり続ける

 捕虜あるいは対敵協力者としてのあるいは名づけえない宙吊りの数年を経て、横田氏は故郷に帰ってくる。しかしながら、日本はすでに彼の国ではなかった。たった一度の裏切り、日本はそれを決して許そうとしなかった。おそらく彼は罪人とされ罪人として死んでいった。だが日本とは何か?大東亜の大義を掲げて世界に宣戦布告したものが日本であったなら、敗れた国は日本では無いはずだ。大東亜の大義を掲げて世界に宣戦布告したものが天皇であったなら、敗れた天皇は日本では無いはずだ。

 戦争に負けることは誰のせいで負けたのかという責任者を捜して叩くことにつながる。ところが日本では東条以下十数名は、天皇を中心にした支配層がアメリカに差し出した犠牲であり、最初から憎悪の対象ではなくしばらくしたら許されるべき存在だったと思われる。日本という同一性はいささかも傷を負わずに敗戦を生きのびてしまった。日本を裏切った横田氏だけが孤立してしまった所以である。

 だが日本という同一性とは何なのか?世界に向かって戦争を始めそれで負けたのに何も転覆しない国家とは何だ。横田さんだけが味方を裏切り敵に降伏したのに帰ってきたら日本はもとのままでそしてアメリカの支配を受け入れている。いったいおかしいのはどちらなのか?

 「私は一つしか言語を持っておらず、それは私のものではない」とデリダは言ったが「私は一つしか国家を持っておらず、それは私のものではない」と横田氏は言うだろう。というかそれは誰のものなのか、天皇のものではなく、アメリカのものでもなく・・・(3/1追記)

「卒業式におもう。」

# azamiko 『トラックバック送っていただきありがとうございました。

ずっと、議論されてこられたのをちらと拝見(^-^;

こういう議論は参加していないと読むのは辛いものがありますが、議論が成立しているところが羨ましく思えました。当たり前といえば当たり前なのですが。

雅子さま報道について書かれていたことも印象に残りました。

これから、ロムさせていただきますのでよろしくお願いいたします。』 (2005/03/30 10:41)

(野原)

azamikoさん。丁寧な御あいさつありがとうございます。

雅子さま懐妊報道についての文も読んでいただいたそうでありがたいです。

ここでの(君が代関係)議論はレベルは低くないと思うのですが、論点が拡散してしまったきらいがあります。ちょっと(というかだいぶ)読みにくいですね。・・・

id:azamiko:20050312「卒業式に思う」を読ませてもらってとても感動しました。

できれば感想を書きたいです。今後ともよろしく。

コメントスクラムの被害者を励ます

http://blog.livedoor.jp/akyoko3/archives/18605869.html K’s Room:日の丸と憲法9条

がコメントスクラムの被害を受けている。

前日のコメント欄に下記の通り書き込みました。

http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html 多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ

からきました。野原燐といいます。はじめまして。

前日に書き込みしてすみません。

コメントスクラムはうっとおしいですね。

日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は、日本人にも莫大な被害を与えた「大東亜戦争」を、肯定的にズラして総括しようとする勢力(自民党+プチウヨ)に対する反感があるからだと思います。

コメントスクラムにどう対応するかは難しいですが、ほんのちょっと休憩し、その後淡々と自分に興味のあることを書き続けて行く、くらいの対応でも大丈夫かも。自分の幸せを追求し表現していけば、亡霊たちは消え去ります。(ほんとかな?)

消耗せず、お元気で!

        野原燐

この発言に対するコメントは下記にどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050414

小泉首相のバンドン発言

 50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、我が国は、平和国家として、国家発展に努める決意を表明しましたが、現在も、この50年前の志にいささかの揺るぎもありません。

 我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。

ここまで言うなら当然「靖国参拝止めます」となるはずだ。諸外国もそう思っただろう。

 第二に、平和の構築が重要と考えます。平和と安定こそが経済発展の不可欠な基盤です。我が国は、これまで大量破壊兵器等の拡散やテロの防止に力を注ぐとともに、カンボジアや東チモール、アフガニスタン等において平和の構築のために努力してまいりました。今後、中東和平推進のためのパレスチナ支援や、平和に向けてダイナミックな動きを示しているアフリカに積極的な支援を行ってまいります。無秩序な兵器の取引の防止、法の支配や自由、民主主義といった普遍的価値の普及は我々すべてが積極的役割を果たすべき課題です。

アフガニスタン、イラクにおける「努力」は評価できない。「中東和平推進のためのパレスチナ支援」は現にパレスチナを抑圧しているイスラエルとを抑える努力抜きに行っても意味はない。またネオコンとヨーロッパとかの間で「自由、民主主義といった普遍的価値の普及」という言葉の意味について大きな差異があるので、どちらを選択するのかが問われる。以上のような問題点はあるがまあ優等生的な発言だ。