両性平等規定の見直し

平成16年6月10日付けで、自由民主党政務調査会の 憲法調査会 憲法改正プロジェクトチームの出した「論点整理(案)」というものに、次のような文言がある。

「 ○婚姻・家族における両性平等の規定(現憲法24条)は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。」

ふむふむ。憲法第24条は2文からなる。

「 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

「2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」

どこを変えるだろう?「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」ということろが気に入らないのかな。家族の価値を重視するということは、離婚をしにくくするということだろうか。「 婚姻・家族における両性平等の規定」が気に入らないからと言って、不平等をうたうことなどできなかろう。家族重視というのが、生まれてきた子供重視という意味ならむしろ、育児手当を女性に支給するとか、婚外子の保護とかになるはずだがそうではない。

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」が気に入らないのなら、戦前の家制度への回帰を目指すのか。賛成する女性はいそうにもないが。

「選挙直前にこんな案を公表するとは、女性有権者をナメきっているとしか思えません。」ということになるでしょうね。

資料としてアピール文を掲載します。

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【男女平等を憲法から消すな!憲法24条の改悪を許さない共同アピール】

自民党は6月10日に発表された「憲法改正プロジェクトチームの論点整理(案)」(http://www.kenpoukaigi.gr.jp/seitoutou/20040610jiminkaikenPTronten2.htm)において、「家族や共同体の価値を重視する観点から」、両性の平等を定めた憲法24条の修正を提言しました。男女平等へと確実に動いてきた国際社会の流れを正面から否定する時代錯誤の改憲案が、ほかならぬ政権党から示されたことに、私たちはたいへん驚き、つよい危機感を抱いています。

「子どもを生まない女性は年金を受け取る資格がない」「(生殖能力を失った)ババァは有害な存在」といった政治家の発言が強い批判を浴びたことを少しも反省せず、むしろ女性差別の現実に合わせて憲法のほうを改悪しようというのでしょうか。

女性は、男性と同じように、ひとりの人間として、平等に尊重されなければなりません。私たちは、家族や共同体の価値を口実にして、個人の人権と男女平等を否定する、この非常識で時代錯誤の改憲案につよく抗議し、女性の人権を否定するいかなる動きに対して妥協せずに闘うことを宣言します。

賛同される団体・個人は、お名前と肩書き(あれば)を下記までお知らせください。

STOP!憲法24条改悪キャンペーン

メール:savearticle24@yahoo.co.jp

FAX:03-3463-9752

ジェンダーフリー

今日の朝日新聞の書評欄に次のような文章が載っていた。

『人間の本性を考える』スティーブン・ピンカーに対する山形浩生氏の書評。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

反論しなければならない。わたしがしなければならないこともなかろう?

次のようにコメントもらったが、リンクがつながるようこちらにコピペ。

山形浩生の自作自演ウザ過ぎ!!その2 『http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1094319459/203-

わたしたちとイラク戦争問題との関わり

(6-2)

わたしたちとイラク戦争問題との関わりといえば、もちろん自衛隊派兵である。自衛隊駐留期限は目前に迫っており、駐留延期は決まっていない。派兵は「イラク復興のため」に行われた。ところがアメリカと日本のもくろみに反し、1年間でイラク国内は無茶苦茶になった。

第一条 この法律は、イラク特別事態(国際連合安全保障理事会決議第六百七十八号、第六百八十七号及び第千四百四十一号並びにこれらに関連する同理事会決議に基づき国際連合加盟国によりイラクに対して行われた武力行使並びにこれに引き続く事態をいう。以下同じ。)を受けて、国家の速やかな再建を図るためにイラクにおいて行われている国民生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等に向けたイラクの国民による自主的な努力を支援し、及び促進しようとする国際社会の取組に関し、我が国がこれに主体的かつ積極的に寄与するため、国際連合安全保障理事会決議第千四百八十三号を踏まえ、人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行うこととし、もってイラクの国家の再建を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする。

http://www.kantei.go.jp/jp/houan/2003/iraq/030613iraq.html

イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法

<イラク国民の生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等>という二つの目的のために、自衛隊はそこにいる。そのために自衛隊はどうしたらいいのか。id:noharra:20041031#p1 で引いたイラク人ライードさんの判断によれば、答えは簡単だ。撤退がベストだという。

事態の解決は,ブッシュ政権(あるいはケリー政権)とイラク人に任せてください。これは彼らの為すべきことなのです。ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与えないでください。イラクにあなたがたの国の武装集団(your military groups)がいることは,ただ単に,政治的なものなのです。米国政権の誤った対外政策を支持するためだけなのです。人種差別的な「アメリカ帝国のための戦争」を支持することは,あなたがた平和的な国民のしたいことではないでしょう。

小泉は少なくとも自衛隊員が何人か死ぬまで自衛隊を撤退させる気はない。だが(おそらく近い将来に大きな確率で予測できる)彼らは一体何の為に死ぬのか?イラク人に感謝されないのであれば。

わたしたちは民主主義国家に住んでいる。わたしたちが民主主義国家を形成しているのだ。*1イラクに現在自衛隊員が滞在しているのは「わたしたちの意志」である。国民の一人ひとりは、自衛隊員が命の危険を掛けてそこにいる以上、自分の意志を今再確認し公表すべきであると思う。

つまり、「自衛隊のイラク駐留」と<わたし>の間には二重の関係があります。民主主義の国家意志を形成した(する)国民としての関係と、「無意味かも知れない」死に(わたしたちの依頼により)追いやる(可能性)という情緒的関係。二重の関係において今、自分の意志を確認し表示することは<わたし>(あなた)の権利であり、義務である。

 これはすでに、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041030#p1 である方にお聞きした設問に近い。そのときの答えは「平和主義は非現実的且つ国際的孤立の道に他ならない」だったが、答えは、わたしの問題設定にとっては第一義的にはどうでも良いのである。国民の51%が「そうしろ」という断固たる意志を持っているのなら自衛隊員の死は(国内的論理では)やむを得なかろう。

 (わたしは悼まない。*2高額の年金などを払う事にも反対だ。)

*1:この「わたしたち」には「在日」も入るのか?在日も国家形成に参加している。だが国家意思形成には参加していない。・・・

*2:非国民と呼ばれて叩かれまわってもよい。そのためのハンドルネームですから。

不可能性の上に存在する

 12/20以降引っ掛かっている水村美苗ですが、このテキストはまず次のことを教えてくれた。

 1.自前の身体でしか思考できない。わたしは。

であるにもかかわらずこのテクストは次のことも暗示している。

 2.<外国>でしか思考できない。

このテクストは、「ソウルの高級ホテルのラウンジで」、

「(住んでいた米国から離れた)パリの安ホテルで幸せだった過去」を回想しながら、思考している。日本について。

すでに自己身体に浸透しきっているイデオロギー~常識を思考するためには、きっかけがなければ不可能。(自分が作ったのではない)なんらかの他者が必要。というのは理屈に合っている。他者ではなく<外国>であればもっと良い、ということになります。

 わたしのように平凡で国内的な生をおくっているひと*1は、せめて、戦争や江戸時代の本を読んでみる方が精神衛生上良いだろう。といえる。ただそれは一般論であり、現在の野原にとっては、江戸時代の本をあえて持ち出すことは、「いつもの安易なやり口」に堕している可能性もある。

・・・

リベラリズムとは「この私」にとってのかけがえのない価値を(数ある選択肢の内の一つとして)相対化せよ、というきわめて残酷な命法を普遍化する残酷な思想だ。その残酷さに耐え切れないということが-カント(自律)的に言ってもヘーゲル(否定)的に言っても-「人間的である」ことのいわば文法的定義であろう。

http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20041222 はてなダイアリー – 試行空間

上記北田暁大氏によれば、ヒューマニズムは他者を受けきれないというわけだ。まあそれは他者の定義そのものだった、のかな。

他者については思考できないはずなのに、わたしたちは他者についてだけ語り続ける。

他者のようでもあるが(本当は他者ではないかもしれない)もの、について語り続けているのだ。厳密な思考は出来ないが、それで充分ではないか。

*1:この表現はおそらく傲慢で許されない物だろう・・・

「女性国際戦犯法廷」認定の概要

[VAWW-NET Japan による訳]

日本軍性奴隷制を裁く2000年「女性国際戦犯法廷」(検事団およびアジア太平洋地域の人々 対 天皇裕仁ほか、および日本政府)の認定の概要(2000年12月12日) [VAWW-NET Japan による訳]

は下記urlにあります。裕仁の刑事責任認定の部分、及び日韓条約等で解決済みとはならないことを示した部分を掲載します。

http://home.att.ne.jp/star/tribunal/ International Tribunal Internet Broadcasting

24.この「法廷」に提出された証拠の検討に基づき、裁判官は天皇裕仁を人道に対する罪について刑事責任があると認定する。そもそも天皇裕仁は陸海軍の大元帥であり、自身の配下にある者が国際法に従って性暴力をはたらくことをやめさせる責任と権力を持っていた。天皇裕仁は単なる傀儡ではなく、むしろ戦争の拡大に伴い、最終的に意思決定する権限を行使した。さらに裁判官の認定では、天皇裕仁は自分の軍隊が「南京大強かん」中に強かんなどの性暴力を含む残虐行為を犯していることを認識していた。この行為が、国際的悪評を招き、また征服された人々を鎮圧するという彼の目的を妨げるものとなっていたからである。強かんを防ぐため必要な、実質的な制裁、捜査や処罰などあらゆる手段をとるのではなく、むしろ「慰安所」制度の継続的拡大を通じて強かんと性奴隷制を永続的させ隠匿する膨大な努力を、故意に承認し、または少なくとも不注意に許可したのである。さらに我々の認定するところでは、天皇は、これほどの規模の制度は自然に生じるものではないと知っていた、または知るべきであったのである。

29.第二次大戦後、日本は多くの条約に署名してきた。これにはサンフランシスコ講和条約、日本・オランダ協定、日比賠償協定、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」などがある。この「法廷」は、これらの平和条約は「慰安婦」問題には適用されないと認定する。条約によってであっても、個々の国家が人道に対する罪についての他の国家の責任を免ずることはできないからである。

30. 「法廷」は、諸平和条約には本質的なジェンダー偏向が存在するという主席検察の主張は、納得できるものだ、と認定する。「法廷」は、個人としてであれ集団としてであれ、諸平和条約終結時の女性が男性と平等な発言権も地位 も持っていなかった点に留意する。まさにこのために、平和条約締結時、軍の性奴隷制と強かんの問題は何の対応もなく放置され、条約の交渉や最終的合意に何の役割もなかったのである。「法廷」は、国際的な平和交渉過程がこのようにジェンダー認識を欠いた まま行われることは、武力紛争下で女性に対して犯される犯罪が処罰されないという、いまも続く不処罰の文化を助長するものと認識する。(同上)

帝国主義秩序

遅くなりましたがとりあえず2点。

(1)国際社会とは?

まず、あなたが言う国際社会はようするに白人主体の社会でしたね?

「国際社会」とわざわざ「」をつけた言葉は、当時の列強を中心にした国際秩序を意味しています。ここでは文脈上日本が入っていないだけで、日本も列強の一員ではあると思う。左翼的用語法では、当時の帝国主義秩序ですね。

で、あなたの「その突然の世界からの宣告はまさに不条理だ。」の「世界」も同義だと読めます。41.12.8をもって「戦争が始まった」という史観ですか? それまでの「支那事変」は今で言う「テロリスト」相手の鎮圧作戦にすぎなかったと主張しますか。そのような主張は、「白人に対する黄色人種の戦い」という大義とは矛盾します。

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」

「大東亜の大義」を掲げて戦った戦争なのに、その大義を基準にしてそれに合格した戦争なのかどうか、という問いは回避するのですね。それでは戦死者は浮かばれないのでは。

「日本も帝国主義だったが結果が良かった」論か。アジア諸国家の独立は彼ら自身の功績でしょう。

 ついでにお聞きしますが、ブッシュのイラク占領への日本の加担はアジアの大義に真っ向から反することは認めますね?

(2)

そこに一般市民を放置している中国軍にむしろ私は怒りを感じます。

やれやれ。「軍都であったヒロシマに一般市民を放置している日本軍にむしろ私は怒りを感じます。」

山の女たちの「聖戦」

わたしが初めて読んだ慰安婦関係の本は、『台湾先住民・山の女たちの「聖戦」』という本でした。これに触れた4年前に書いた文章が出てきたので自己引用します。ISBN:4768467709

00379/00379 VYN03317 野原燐 RE:加害の再現( 1) 00/12/12 07:51

えっと、一昨日見た映画は「パンと植木鉢」、監督はモフセン・マフマルバフ。パラダイスシネマにて、彼の他の3作品とともに12月15日まで上映中。

1996/イラン+仏/1時間18分/出演 ミハルディ・タイエビ

<AがBを刺す>の再現前についての映画だったはずが、第三項が導入され、この映画の最後の構図は<少女C>が中心になる。

客体であったはずのBはCに植木鉢を差し出す。Bの反対側画面の右にいるAはBを刺そうとパン(の下に隠されたナイフ)を突き出す。ナイフのベクトルと丁度同じだけのスピードで植木鉢が差し出される構図である。(パンと言ってもイランのそれはお盆の様に平たい)

ここで愛とも呼ばれるであろう植木鉢とは何か、問うべきだろうか。ナイフは単にナイフであることが出来ず貧しい人たちを救うためという大義を掲げてパンを仮装する。監督が再度大義を肯定した理由は明らかだろう。そこに大義などなかった100パーセント過ちだったと認めることは決着を意味するそれでは再現前を目指す必要はない。同様に被害者も100パーセントの被害者で在ることはできず必ず主体(ベクトルを持つ者)でなければならない。何故か。何故表現は必要とされるのか?

沈黙は加害者の勝利の平成を意味するからだ。

がらっと話は変わるが、台湾というのは日本ではとてもマイナーな主題だが、図書館で検索すればまあ数十冊は出てくる。その中の一冊を偶然借りてみた。おどろいたことにそこにも<50年後の再現前>のテーマがあった。

<AがBを刺す>のかわりにあるのは<AがBを犯す>だ。そう

この『台湾先住民・山の女たちの「聖戦」』というもって回ったようなタイトルの本はあきらかに一つの仮装を隠している、パンがナイフを隠したように。「聖戦」に付けられたの「」の意味は聖戦=性戦、である。そう、誰もが知っているが誰も近寄らない<従軍慰安婦>の再現前の困難という問題に取り組んでいるのだ。

性や慰安婦という言葉を避けたのは、作者柳本通彦氏が男性であることと関係がある。従軍慰安婦テーマでも多くの本が出ているが作者はだいたい女性である。<AがBを犯す>を逆転させて、<BがAを告発する>という構図になる。ところが、柳本氏は、男性日本人しかも当時のAと同じぐらいの歳格好(40前後)である。どうしてもAと自己同一化せざるをえない。

(つづく)

00380/00380 VYN03317 野原燐 RE:加害の再現( 1) 00/12/15 07:34 00379へのコメント

『台湾先住民・山の女たちの「聖戦」』という本についての(続き)。柳本通彦著、現代書館、2000年1月刊行。

この本は4章とあとがきから成る。1章は、タイヤルの女たち、

アキコ、キミコ、ケイコ、サチコ。2章は、タロコの女たちⅠ、ナツコ、ヒデコ、フミコ。3章はタロコの女たちⅡ、サワコ、カズコ、ミチコ。4章は、ブヌンの女、マサコ。となっている。

台湾には現在も人口の2パーセント弱の少数民族がいる。9つ以上のいわゆる山岳民族がいる。北部山地を支配していたのがタイヤル、南部及び東部の山地で大きな勢力を持っていたのがブヌンの人たち、タロコはタイヤル(セイダッカ)系の一部族だそうである。戦後支配者になった国民党外省人に親しむ素地を持たなかった彼らは、今でも日本人及び日本語に大きなシンパシーを持ち続けている。わたしは残念ながら行けなかったのだが、たった半日強のオプショナルツアーでもタイヤルの村を訪ねるというのが用意されており、観光化されきったその村を訪ねた私の友人は、コースから外れた場所を歩いているとある婦人に出会い、きれいな日本語をしゃべるその婦人(50台)に自宅に招待してもらい、ケーキとお茶をご馳走になったということだ。「これだけ日本に親しみを感じてくれる異民族というのは、世界中を見回してもこの人びと以外にないだろう」と柳本氏も書いている。

さて、最初の「アキコ」という章を読んでみよう。お生まれは、と聞かれて昭和3年ですと答えている(わたしの母とほぼ同じだ)。生まれた村はと問われて、日本時代はチンムイ社、いまはウメゾノ村、と答えている。戦後かえって日本風の名前になっているのが不思議だ。「昭和3年」というのも日本語で彼女自身が言っている言葉だ、つまり外国の山奥で少数民族の老婆に出会いながらかの女は日本人でもある、のだ。教育所(小学校)を出てから彼女は結婚するはずだったが、相手は第三回高砂義勇隊員として南方の戦地に向かった、昭和17年秋。昭和19年12月頃、「警察の部長が来て、戦争が激しいから、女も男でも、総動員法で準備しなければいけないといって、わたしたちを呼んで、あんたらの許嫁とか主人が兵隊に行っているから、いい仕事与えてあげますからと。それをきいて、これだったら行きますからと、わたしたち返答してやった。」最初は、兵隊たちの着物を洗濯したり破れた着物を縫ったりお茶をいれたりしていた。が一ヶ月もしないうちに<夜の仕事>を与えられる。宿舎の外れに小さな竹の家があった。夜そこに連れて行かれ、兵隊が毎晩三、四人来て・・・ 「まだ十六歳、子供でしょう。(略)まあ、いいから我慢して、わたしたちは死ぬなら死んでもいい。運命が悪かったら死んでもいいというくらいの気持ちをもって、もうそのまま、言われるままにじっとしました。昼間は布を縫って、洗濯して、これだけの仕事は楽だけど、夜は死んだ、死んでるんです、死んでる気なんです。」p18

そういう生活が昭和21年3月頃まで続く、兵隊がみんな日本へ帰るまで。

それから50年間の沈黙が続く。

「今年(1996)の9月頃、台湾全部の義勇隊の会議があって、わたしたち夫婦で行ったんです。そしたら、慰安婦の者は政府から援助があるから申請しなさいと言われて、話したんです。主人に。主人に許してくださいと言ったら、そうか、おまえもそういうことがあったか。それはしようがない。戦争だからそれはしようがない、と言ってくれたから、わたしも頭を下げた。」

この話でもっとも強い印象を受けるのは、このアキコさんが50年間、夫にも他の家族にもこのことを一切言わず沈黙を持続し続けたことだ。

「わたしは昔、悪いことをしましたから」と彼女は述べた。なぜ被害者である彼女が<悪い>と自己を規定し続けなければならないのだろうか。

「良いと悪いのニーチェ的逆転」のそのまた逆転をここに発見すべきではないのか。それこそがパトリアーキー(家父長制)なんだ、という断言は間違っていないとしても、それで分かってしまうことはできない。先住民社会も日本や漢民族に劣らずパトリアーキーが存在していた、と確認しておくことは必要としても。

50年間の日本統治は多くの少数民族の文化(たましい)の核心を破壊し、そこにテンノウヘイカ、ニッポンセイシン、ソードーインをつぎ込んだ。敗戦と同時に日本人はそのことを一切忘れ、逆に彼らは新しい支配者国民党への反発からいつまでも日本へのシンパシーを失わなかった。これはわたしがはじめて知った民族の崩壊に関わる分厚い分厚い物語の最初のかけらであり、とても何も知らないわたしが何も書けはしません。

ただ、わたしは<被害/加害という倫理の軸>からは不真面目と思われるだろうところの表現(再現前)に関わる逆説を、確認しておきたいと思う。

この本は2000年1月出版された。1996年3月29日に最初の女性に出会ってから3年以上が経過している。この<遅れ>の意味を考えなければいけない。

「わたしは本を出すために、彼女らを訪ね歩いたのではない。たまたま知り合い、親交を重ねるうちに、他人とは思えないような関係が育ち、それだけに簡単には出版に踏み切れなかった。すでに最初の女性との出会いから3年の月日がたった。この間に、二人の女性が亡くなった。」p236

「わたしはこの3年間、彼女たちの家を幾度も訪ね歩いた。泊めていただくこともしばしばだった。孫たちが来ていて部屋がないと、老婆と同じベッドに眠ったこともある。平気ですぐにゴワーっといびきをかく人もいれば、緊張して眠れませんでしたよ、と恥ずかしそうに笑ううぶな人もいる。」p204

                   野原燐 00381/00381 VYN03317 野原燐 RE:加害の再現( 1) 00/12/30 08:59 00380へのコメント

(続き)———–たまたま同じベッドに休ませて貰っただけと言っても、この本の主題から言って十分に刺激的である。その点には自覚的に著者もあえて書きつけたのだろう。フェミニズム風に意地悪くみれば、夫の属領下から自己の属領下への移動を(無意識のうちに)宣言しているということだろうか。夫は彼女に沈黙を強いることに荷担したが、柳本は沈黙を開くことに荷担した。だからといって、それが解放と正義に通じているという単純なオプティミズムの立場に著者が立っているわけではない。

「婚約者や亭主がニューギニアでトカゲ一匹でなんとか命をつないでいたとき、女たちは近隣に駐屯した台湾守備隊の餌食になっていた。そうした夫婦は一緒に「サヨンの鐘」(戦争中の国策映画)を唱っている風景というのは、日本人ならいたたまれない気持ちになるだろう。

それに唱和しているわたしなどは世間の非難を免れないだろうが、そうした現実を咀嚼しない限りはこの台湾先住民の悲哀も日本が犯した罪も本当に理解することはできない。」p204

幾重にも倒錯した現実を丁寧にときほぐしていこうとしても<わたし>自身生身の男であり、加害性があらかじめ無いという主観的前提によっては、現実と接触しえない。正義を自認する者は現実を平板化する。(それによって現実をかえって混乱させることもある。元従軍慰安婦に対する台湾政府の対応は朦朧としてると批判されている。)<わたし>を非難したければすればよいと、著者は逆に世間の方にリトマス試験紙を渡した。

                   野原燐