2/2東アチェ県で妊婦が射殺された

インドネシア民主化支援ネットワーク <http://www.nindja.com> に一度だけカンパしたら毎日のようにメールが来る。

そのうちの一つ [nindja:0092] アチェの状況( 05/02/08 )、に衝撃的出来事が載っていたので、転載する。

タイトル部分。

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◆スマトラ島沖地震:アチェの被害者への緊急カンパのお願い

◇振替口座 00190-8-76398 アチェ人道支援キャンペーン

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o 本日の記事

●東アチェ県で人権侵害つづく

●自由アチェ運動(GAM)現場レポート

●国軍、いまだ人権を尊重せず

「妊婦を射殺」部分だけ抜き出す。

●東アチェ県で人権侵害つづく

*以下の特別リポートはアチェの地元人権団体ボランティアによる報告である。安全のために団体名は伏せる。

掃討作戦、所持品没収、誘拐、殴打、射殺(2005年2月2~3日)

事件発生地:東アチェ県東プルラック郡スヌボック村

攻撃者:国軍突撃隊クマラン2第312師団、機甲大隊3アダカ・サクティ

事件発生時刻:18時30分~19時45分

○妊婦を射殺

 18時15分、一組の夫婦がプルラック・ラヤ郡ババ・クルンのドルスン・スカ・マクムル・アルー・オンからラント・スラマット郡スンゴー・ラヤに向けて出発した。彼らは妊産婦検診のため23km離れたクリニックを訪れるつもりだった。ニラワティ・ビンティ・アッバスは妊娠3ヶ月の身だった。

 約15分走ったクデ・アルー・ニローで、この夫婦は地元の人から止められ、国軍がこの付近で大規模な検問をおこなっており、多くの人が殴られたり、所持品を没収されたりしているので、これ以上先に進まない方がよいと警告された。夫婦はこの警告に謝辞を述べたが、住民証明書を所持しており、ただクリニックに検診に行くだけなので大丈夫だろうということで、そのまま目的地を目指した。

 しかし、夫は心配になり、ニルワティの両親の家に立ち寄った。ニルワティの父親トゥンク・ムハンマド・アッバスは自分が娘をクリニックに連れて行くと言った。ニルワティの妹が熱を出していたので、薬を買いたいということもあった。こうして父と娘はオートバイに乗ってクリニックを目指した。

 アルー・ニロー通りスヌボック村の検問所に着くやいなや、 5人の突撃隊兵士から止められ、住民証明書と行き先をチェックされたのち、通過を許可された。しかし、最初の検問所から145mしか行かない地点で父と娘は機甲隊の兵士から止められ、威嚇発砲された。最初のチェックポイントで何も問題がなかったため、父アッバスはオートバイを止めず、ただスピードを落としただけだった。突然、機甲第3部隊駐屯地にいた兵士が一発放った。撃てという命令は基地司令官ルビ・イスワディ中尉(NKP: 11010026970679)が発した。

 ニルワテ(21歳)は瞬く間に地面に落下し、父親アッバスは咄嗟にオートバイを止めた。犠牲者ニルワティは耳の真上の頭部をぶち抜かれた。彼女の耳は銃弾によりふたつに引き裂かれ、頭蓋骨からぶら下がっていた。数人の兵士が父親を取り囲んで、罵声を浴びせた。「停止しようとしなかったからこういうことになったんだ。さあ、子どもの死体を持ち帰って、埋葬しなよ」(Tapol, 05/02/07)

 この事件は日本ではもちろんインドネシアでも報道されていない。現地のボランティアの一人が事件を調査しようとした。しかし村は立ち入り禁止で住民以外入ることができない。「ボランティアも威嚇されており、国軍はもしこの事件に取り組む、またはメディアや国際グループに知らせれば、彼らを誘拐するか殺すと警告している。」仮にそれが事実であったとしても、報道する価値がないものだ、という判断がなされるかもしれない。

 で、ここまでの文章でこの「事実」というものはこのブログでは一定の重量を獲得した。だけれどもそれはどういうことか。

 下にP-navi info から、パレスチナのガザで20歳のパレスチナ男性が殺された記事を引用した。この事件は日本の大新聞にも載ったので事実である。しかるべき文脈と共に出来事は「事実」になり、わたしたちに提供される。

 イスラエルに同情的にしろそれに反発するにしろ、その男性の死を解釈する枠組みをわたしたちは持っている。(そうでないひとも多いかも知れない。今一人のパレスチナ人が死んだことには誰も興味を持っていない、と言う方が正確だろうが。)その男性の死をわたしは驚かない。

 ところが上のニルワティについてはどうだろう。まず事実のレベルで、その死は日本の大新聞に載ることなど絶対ないので、不確定である。それになぜインドネシア国軍が自国民を殺さなければならないのか。ニンジャのHPにも的確な答えは見あたらない。ブックレットでも買えばいいのだろうがまだできていない。ニルワティが死んだのが確かであったとしても、それが私にとって持つ意味はない、ような気がする。お父さんと一緒にオートバイに乗っていて頭を打ち抜かれた、可哀相である。・・・

 <素顔との出会いは、単に人間学的事実だけではない。根本的に言えば、それは存在するものとの関係である。たぶん人間だけが実体なのであり、それゆえにこそ人間は素顔である。(レヴィナス)> ニルワティとわたしは出会わない。ただ一通のメールに書いてあっただけであり明日になれば忘れるだろう。他者はつねにその線のすぐ外側にいるが、その線を越えることができると思うべきではない。とわたしは言いたいのか。

・・・

ビラまきの自由を!

 ビラまきの自由もない国家は全体主義です。みなで抗議しましょう。

3月4日(金)朝、東京都町田市にある 都立野津田高校では、「敷地内に入ったとかで住居不法侵入罪」で ビラ撒きをしていた2人が逮捕された。

 逮捕された2人に接見してきた弁護士からの連絡では、 罪名は「住居侵入罪」。

参考 http://dugonghouse.fc2web.com/2005.3.2.html

 しかも論点は、「君が代斉唱の強制」の是非らしい。君が代は、ナルシスティックな愛国主義、非国民を作成するための試験紙になっているようです。

 60年前に国を滅ぼしたものは「ナルシスティックな愛国主義」に非常に近いものだったように思えますが、教育委員会に聞いて見よう。

君が代斉唱しない。

 上の子の学校の卒業式に行って来た。最初に国歌斉唱があった。生徒に対して「強制はしない」旨の注意は一応あったようであり、生徒はあまり歌っていなかったような印象。わたしは君が代の強制には反対なので、その時だけ着席した。見渡せないので分からないが、わたし以外はあまりいなかったようだ。

 教育委員会に聞いてみた。君が代を歌わせる根拠は、学習指導要領にある。ちなみに学校教育法がまずあり、その施行規則があり、それを受けて学習指導要領というものがあるということ。

3入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/012.htm

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第4章:特別活動

(3)国歌「君が代」は,いずれの学年においても指導すること。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/007.htm

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第2章:各教科-第6節:音楽

わたしが聞きたかったことは、「国歌の意義」である。

口頭での問答だから正確ではないが、「他国の国旗国家に敬意を表することは必要である。そのためには日本人として自国の他国の国旗国家に敬意を表することも知らなければいけない。」みたいな非常に腰の引けた意義の説明のようだった。日本国については、象徴天皇と平和主義であり、そのシンボルとしての君が代みたいな感じか。

2.郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。

(学校教育法 18条)http://www.houko.com/00/01/S22/026.HTM#s1

「国家の伝統」ですね。これが何か?を確認したいわけですが。*1

 で、その担当者が言っていたことは、「最高裁・伝習館高校判決」によって「学習指導要領の法的拘束力」が肯定されたということであった。

ふーんそうなんだ。伝習館とはなつかしい。

「高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)は法規としての性質を有するとした原審の判断は、正当として是認することができ、

http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 98-08-07(平塚養護学校)

と最高裁は断言しているみたいだ。困ったね。

ところで国旗国歌法って1999にできたのか。

国旗及び国歌に関する法律

平成11(1999)年8月13日 法律第127号

(国歌)

第二条 1  国歌は、君が代とする。

2   君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

(全部で2条しかありません)

しかし学習指導要領には1968年からあったみたいだ。

2 音楽の場合、「適切な指導をすることが望ましい」として初登場した「君が代」が六八年告示から「指導するものとする」、七七年告示から「国歌『君が代』」、 そして八九年告示から「指導すること」と極めて大きく変化してきたこと。

3 学校行事等又は特別活動においては、「君が代」が七七(七八)年告示から「国歌」と書かれるとともに、「国民の祝日などにおいて…望ましい。」との一文が が八九年告示から「入学式や卒業式などにおいて…指導するものとする。」と変化し、入学式及び卒業式での強制の方向が強まったこと。

http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 98-08-07平塚養護学校

31年間かけて国民に浸透させてようやく国歌法を成立させたわけだ。

教育委員会の職員の意見は「君が代」だからではなく「国歌」だから歌いなさいという理屈のようだ。「日の丸・君が代」を「 戦前・戦中に天皇主権下で軍国主義・超国家主義のために「活用」された」ものとして反発する勢力が先なのか、「軍国主義・超国家主義へのノスタルジーを持つ勢力」?が先なのか。学習指導要領については後者が1968年ころからヘゲモニーを取って着実に強制の方向へ進んでいるわけだ。37年前ですからゆっくりした動きとも言えますが、最近ではビラ撒き逮捕の件もあり、安心もしていられないでしょう。

 教育委員会への電話は、勉強不足で論点を絞りきれず中途半端なまま終わりました。

 あまり内容もないのですが報告まで。

*1:右翼~体制派は、教育勅語から敗戦までの国家主義的な社会~国家観をもって、「伝統」と言っているようだが。残念! 日本は1300年以上の伝統があるのだがそれを無視している。

内心の自由とは?

教育長の言っていたことで気になったのは、

「内心の自由というのはいつでもあるのですから」という発言。

そりゃ「人を殺せと命じられてそれに従っても、内心には嫌だと思う自由がある」という事態はあるでしょう。

憲法19条「思想および良心の自由は、これを侵してはならない。」というのは、そういう「自由」を擁護しているのか?

無宗教と無個性が特色の国

日本という国は、島国でほぼ単一民族、無宗教と無個性が特色の国であるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/tetekei/20050410/p1

全く間違ったことを偉そうに書かないでください。

中世までの日本は、おおざっぱにいって神仏混淆的な宗教風土に生きていました。日本史で大きく取り上げられる鎌倉新仏教は、西欧のプロテスタンティズムに近いとも評価できるほど個人として宗教的実存を深めていきました。

江戸時代にも仏教や神道は衰退したわけではありません。

 明治後期、教育勅語体制によりさまざまな宗教を国家神道的なものに統合して行こうとする試みは、昭和の総力戦期に一旦成功したと言えます。

そのことが、保守が何年も政権を担当し続けたり、天皇家が1400年の歴史を持ってたりするのに繋がっているといえますね。つまりこれは、日本人が本来愛すべき日本の国民性で、この価値観を基準として考えることが重要だとおもいます。

 天皇家の1400年の存在を、「単一民族、無宗教と無個性が特色の国」なんて元ネタは誰か知らないが全くの誤謬と結びつけて、連続性、同一性だけを強調しようとする理解は誤りです

君が代の強制は、メチルアルコールのような人工的な質の悪い宗教性の強制であり、無神論者である私には耐え難いものです。

思想信条の自由

アンチひのきみMLより。

 立川二中の教員である根津公子さんが、今年3月の卒業式での「君が代」斉唱

時の着席で「減給6ヶ月処分」となり、今年の入学式での着席について「停職」

の可能性もあるとのことです。

今月12日に都教委による「事情聴取」がありました。28日の教育委員会の

定例会で「処分」と「量刑」が決められる可能性が強いようです。

(略)

 ◆抗議・要請先 

 東京都教育庁 人事部 職員課

  FAX 03-5388-1731

  Mail S9000013@section.metro.tokyo.jp

  TEL 03-5320-6790(藤森 教悦 職員課長)

  TEL 03-5320-6792(佐藤正吉 主任管理主事)

  住所 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1

父母の交合の時に、滴る物は、微なれども

 二柱の神の、此の大八洲国を産み給えること、世の人、漢意を以て見る故、に、これを信じずして、種々なまさかしき説あれども、そはみな私ごとなれば、取るにたらず、ただ古えの伝えの随(まま)に心得べし。ただ人の児を産むが如く、御腹より産み賜えるもの也。(略)

 大八洲を産み賜えるも、其の如くにて、まず二柱の神の交合(ミトノマグハヒ)の滴(しただり)、女神の御腹内に、合い凝り成りて、さて御腹より産み出(いだ)し給うところは微小(ちいさ)き物なれども、其の物に、かの漂える物、寄り聚(あつまり)凝りて、国土とは成れる也。近くは人の身の成る始めにても知るべし。父母の交合(マグアヒ)の時に、滴(しただ)る物は、微(いささか)なれども、月を経て、児の形となるにあらずや。(略)其の中にも、殊に蛇などは、産まれたるほどは、尋常(よのつね)の小き虫なるが、年久しく経て、大蛇となるに至りては、ことの外に大きなる形ならずや。

(服部中庸「三大考」)*1

第五図の説明の一部。

精液の描写など博物学的で可視的な感じ。

*1:p260 日本思想体系50

実像さえわからない人物

amgun 『こちらにもコメントを書きます。聖徳太子ですが、その実像さえわからない人物なのは、日本史の分野では少しかじった人なら解る話なので、少ない頁でゴシップ風にまとめるのは、明らかに教科書の〈意図〉でしょう(古代国家は「天皇中心の国家」であるというイデオロギーを主張するための)。あと、聖徳太子については、「太子信仰」という形でイメージが形成された面があるので、そちらを調べるのが有効かと。すみません。乱文で。』

(2005/06/30 23:48)

ふーむ、やっぱりそれが学者の常識だよね!

責任追求をしなければならない

侵略=(にほんが他の多くの多くのアジア人たちを殺し苦しめたこと)を強調するのは大事だが、多くの日本人自体が被害者だったことも忘れてはならない。誰が多くの日本人を死に追いやったのか?「生きて虜囚の辱めを受けずという命令」がその責を負うべきことは間違いない。そしてヒロヒトにその責を負わせたくなければ「誰が」を特定し糾弾し続けなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050302#p5