たすけがくるまで待っていた

 ヴァジニア・ハミルトンの『マイ ゴースト アンクル』島式子訳原生林 という本を読んだ。(原題は「Sweet whispers,Brother Rush」)大傑作だ。障害を持った弟と二人で暮らしている貧しい黒人の少女が幽霊を見る話。(お母さんは1、2週間に1度くらいしか帰ってこない)ヤングアダルトものだがジャンルを越えた力を持っている。幽霊はブラザー叔父さん。叔父さんのあまりのかっこよさに主人公(ツリー)の少女は引きつけられる。彼女が幽霊を見るのはもちろん、彼女が生きている現実が苛酷すぎて、別の現実(彼女がかろうじて知っているのは彼女の幼児時代とそのとき格好良かった叔父さんだけだ、彼女は父のことを知らず、遠慮して母にそのことを聞くことさえできない)をどうしても必要としたからだ。すべてのファンタジーはそうした世界を裏返さずにはおかない呪詛を隠しているはずだが、この小説のようにそのベクトルを露わにしつつなお小説としてみごとに成功しているものは希だろう。「黒人特有の致死の遺伝病・ポーフィリア」なんて聞いたらそりゃいくらなんでも露骨すぎる道具立て!と思うかもしれにないが、そんなことないんだな。

 赤木さんもこういっています。「物語としても文学としても、第一級の逸品です。(赤木かん子)」http://www.hico.jp/sakuhinn/7ma/my02.htm

ボストングローブ・ホーンブック賞1983年など。

ただ現在入手不可かな。わたしは古本屋で百円でゲット。

釜ヶ崎、稲垣さん不当逮捕事件

先日、AJさんから釜ヶ崎炊き出しの会の機関紙「絆通信・号外」の写しを送ってもらった。

その会の代表の稲垣さんという方が、12月20日不当逮捕されたという。

不当な事後逮捕という点では、id:noharra:20040228#p5で触れた「立川市の自衛隊官舎ビラ入れに対する逮捕」に似ている。だがネットではそれに比べると、ほとんど言及されていないと言える。そこでここに(も)ちょっと紹介してみよう。

紹介がないと言ったが全くないわけではなく、下記のアート系掲示板では紹介されている。そこで一部そこからお借りしつつ要約してみる。

1.11月25日西成警察署で二人の労働者が暴行を受けた。

http://www.009net.com/tlo/bbs/apeboard.cgi TLO BBS

まず11/25夜に、西成市民館の前でKさんとその場で知り合ったAさんとのあいだにちょっとした金銭トラブルが起こり、通りがかりのIさんが間に入り解決しようとしたが、らちが明かないため、「それなら警察へ行って話をつけよう」ということになり3人で目の前にある西成警察署の一階受け付けにいきました。

出て来た私服警官がKさんを階段、Iさんをエレベーターでそれぞれ上にあげ、別々の取り調べ室に入れました。そしてKさんは、目にいきなりスプレーを吹き掛けられました。痛くて目が開かない状態のなかで、踏まれ、蹴られ、靴等で頭をたたかれ、逆エビ固めをされ、全身打撲を負い、本人の記憶にないままに調書をとられ、指印を押したということです。

一方、Iさんもやはり取り調べ室に入れられたとたんに倒され、踏んだり蹴ったりされました。私服警官が同乗の救急車で杏林病院に運ばれ治療を受けました。全身打撲、左の眉毛の上と額を合わせて6針も縫う怪我でした。右の頬には私服警官に踏まれた靴のあとが残っていました。

2.この件で相談を受けた稲垣さんを中心に、西成署への抗議行動が行われた。

 西成署への抗議行動は、12月2日から5日まで連続4日間行われました。「暴行をはたらいた警察官は本人に謝罪せよ」というものです。初日から多くの釜ヶ崎の労働者が西成署前に集まり、事実経過をマイクで話す稲垣さんの説明に聞き入りました。時間と共に抗議に参加する労働者は増え、一時騒然となりました。稲垣さんはマイクを握って「手を出したらあかんよ、殴ったり蹴ったりしたら西成署の暴力と一緒になる」と声を張り上げ、混乱の収拾に努めていましたが、その混乱の中で一人の労働者がケガをしたのです。このケガについて、西成署は「稲垣が教唆した傷害事件」だと言うのです。

「絆通信・号外」より

3.

12/20に「稲垣浩が暴行を扇動した」として稲垣さんを逮捕しました。

労働者Aさんも、その労働者にケガをさせた一人だとして逮捕された。

4.

12/28に大阪地方裁判所で稲垣氏の勾留理由開示公判があった。

裁判所は警察の言い分をそのまま採用した。

5.

「2人に対するまったく不当な逮捕ですが、大阪府警と西成署は「メンツ」にかけて起訴に持ち込むものと予想されます。」

「家宅捜査で押収されたものが、西成署で暴行を受けた労働者の診断書やその時聞き取ったメモ類だった」ということからも、この逮捕の第一の目的は「1」に書いた【警察が市民を暴行した】という犯罪をないものにしようとすることだと思われる。

わたしたちが注目しなければ、彼らが敗北するのは間違いない。だいたい彼らはボランティアであり彼らを抑圧することは私たちにとってメリットはなくデメリットだと思われます。

法と正義

id:noharra:20050123 に N・Bさんからコメントいただいた。

1/23は長くなり過ぎなので、こちらに再掲しお返事します。

# N・B

「はじめまして」

『 どうも、ちょっと「法と正義」の問題について思ったのですが、「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?梶さんの議論は梶さん自身の関心においては彼の「正義」を示していると思います(私はある程度それを認めますし正当だとも感じます)。お二人の言説は「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現すということの現われとしても指摘としてもきちんと検討すべきではないかと思います。

 現在の状況は私は最も近くの権力への服従という結果がもたらされるとい

う意味で、政治的ロマン主義(それにシュミット自身)の帰結が参考になるのではと思います。ただ前提として、かつてドイツでそうっだったように自覚的思想のレベルではともかく、梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがあるのではないでしょうか?それが歴史からの反省ではないでしょうか。お二人の言説は政治的立場はある程度違っても「現実主義」という流行の罵倒語でくくれると思います、お二人が「専門家」として語ることはその現われと思います。しかし「現実主義」が勝利してしまう理由のきちんとした解明とそれに対抗する手段を私たち(失礼!)が持たないのも確かだと思います。先に出した北田さんの「責任と正義」はそういう状況に対する打開の試みと思います。ライブラリ相関社会科学の最新号(すいません未見です)などにかかれている思想史家の議論もそういう意味で参考になるのではと思います。どうも釈迦に説法のようですが、すいません。失礼します。』

日露戦争

 丁度百年前の日露戦争がどのような色合いで回顧されているのか知らないのだが、体験者の櫻井忠温の回顧などよりずっと口当たりのよい物語ばかりが反復されているのではないかな。

 JMM最新号に山本芳幸氏の「 ■ 戦争と人道支援 番外編「Fallujah 3」」にも、日露戦争の話が載っている。日露戦争は「有色人種が初めて白人と戦って勝った」話として、世界中の非白人の間に有名だ。有名なのは事実だし、日本人としてはそのことに誇りを抱いてしまう。

 でも本当にそうなのか。それが事実であるならそれと同じくらい下記も事実なのではないのか。日本人は英国の遠大な外交政策の道具の一つとして使われただけだ。

 日本は国家の生死をかけてロシアと戦った。ちょうど、オスマン・トルコの圧制から脱して自分達の国を作るために懸命に戦ったアラブ人のように。しかし、アラビアのロレンスは本気でアラブ人の解放を信じて戦ったかもしれないが、ロレンスもアラブ人もイギリスの道具に過ぎなかったのだ。ロシアと戦う日本がイギリスの道具に過ぎなかったように。

 ロレンス、アラブ、日本は、ロシアの南下政策を阻む強固な防衛線を築くための金太郎飴政策の道具であったということ、かつそれが主観的には国家の独立のための戦いであったという点で、20世紀前半における歴史の運命を共有していたと言えるだろう。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html

 日本はアメリカと戦争して負けた。60年経って日本人はアジア人アイデンティティを喪失し疑似白人意識のまま、イラク占領に加担している。それでいて東京裁判史観粉砕とかまじめに唱えているつもりの馬鹿もいるから可笑しい。

山本氏のサイトとブログ。

http://www.i-nexus.org/yoshi/indexJ.html

http://yoshilog.exblog.jp/

こころのなか

swan_slab 『>「大切な人」同行

もしいなければ、弘法大師でも十字架でもなんでもいいから”偶像”を崇拝しなさい、悪いことはしないとあなたの神に誓いなさい、みたいな話と結局は地続きになっているわけですよ。自分のこころのなかは基本的に自分自身で区画整理するものですよね。ここまではいいだろう、といった判断が恣意的に公権力によってなされること自体がおかしい。

なのに、

「現場からは「犯人を追いつめる危険な任務の時にはちゅうちょしてしまう恐れがある」といった声も出ている」という、ある意味、問題の本質に無自覚な問題提起の仕方に私には不気味な傾向に感じるのです。

憲法問題を中心にブログをかきはじめたのは、この記事がきっかけでした。』

日本の自立/レイコフ

# N・B 『 なんかまた迷惑をかけてすいません今回は他の人まで巻き込んでしまって。

とりあえず、野原さんが最も違和感を覚えたと述べたところの釈明を、これは指摘されて気づいたんですが、私自身が確かに無意識に日本とアメリカと自分と身の回りの社会の関係を結び付けてました。どうも、自分の隠された動機を述べてしまったようです。

 ただ、日本の「自立」に関しては、メキシコのように国境のフェンス(農業労働などを行うために「不法」入国しようとして、今も数百万人が「不法」移民として働いてるそうです)が両国の歴史の反復であるかのように毎年多くの人の命を奪っている国では人々は嫌が上でも関係を意識せざるを得ません。やはり、日本では戦後の経済発展で受けた恩恵があまりに大きいので(もちろん、犠牲は別のところでら出たわけですが)忘れることが可能であったと思います。藤原帰一さんが「戦争を記憶する」でフィリピィンなどに比べた日本の鈍感さを指摘していたと思います。しかし、日本の経済や政治システムがどれほどアメリカから自立しているのかはまだ私にはよくわかりません(ヨーロッパに比べるとあからさまに行動は従属的ですが)。実は問題のエントリーについて書き込もうと最初はしたんですが。

 野原さんの「三者三様の矛盾」での推進派の矛盾が却って彼らの力になるという状況はある程度その辺りに理由があると思うのですが。もうひとつはスワンさんの指摘した「公共の福祉」に関する問題ですね(このあたりの皆さんの議論は大分参考になりました)。

>お互いにヘンな奴だと言い合うのは健全

 確かに何も見ようとしないよりは進歩だと思います。

>スワンさん

 ここに書き込むのがいいのか微妙ですが、とりあえずこのブログの文脈なので。えーと普通の意味での「モラル」にたいして、レイコフの「モラル」という概念は言語学者としての彼の人間の言葉の意味(メタファー)の理論に基づいて、私たちが政治的道徳的な思考や発言をするときに、大きくわけて二つの相容れないモラルのメタファーのシステムを持っている、それらは同じモラルを使うが優先順位の差によって違ったものになります、保守とリベラルであるというものです。そして、このシステム(モラル言語)に基づいて色々な同じ出来事や人物、議論に対する判断の違いが説明出来るというものです。レイコフは、90年代の保守の伸張などの論点に対する既存の(アメリカの)政治哲学や議論の無力と混乱を身にしみて問題の本を書いたそうです。レイコフの最近の情勢への分析は現代思想臨時増刊2001/10、「これは戦争か」で読めます。ただ、もちろん万能の理論でないことは前提ですが。

http://homepage2.nifty.com/nishitaya/intro4c12.htm

 第2節に、レイコフ理論の説明があります。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E320095057/

 レイコフの考え方の革新性について私なんかよりずっとよく説明しています。

 スワンさんへの返事としては、法を成立させる過程、それを解釈する法廷、その運用の場面などで、レイコフのモラルは働いているのではないでしょうか、「実質的正義」とはまさにこれらの具体的場面で意見が分かれるとき「モラル」の違いが露出することではないかと思います。もうひとつ二つの愛国心については、どうも、二つの「モラル」の違いと対応しているのではないでしょうか。

 なるべく短くするつもりだったのですが、わかりにくい長文申し訳ありません。』 (2005/03/24 10:21)

身勝手なこと喚き散らして(4/4追加)

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050312

きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる – 梅の花もほころび。

azamikoさんのコメント欄が大変なことに!

fantomeye 『親とか教師の人からしてみれば自分たちはいいことしている、間違っていないと考えているのかもしれませんが、私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている以外のなにものでもないんです。国とかのやり方に文句があるなら役所でやってください。(略)

(野原)

fantomeyaさん はじめまして

「私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている」のは、横山教育長の側か?、それとも処分された教師の側か?

「子供たちが主役の舞台」を勝手に変更して「日の丸を正面に据える」よう変更を命じたのは東京都にすぎません。

もし自分の子どもがあなたと同じような考え方だったらと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうです!

女性国際戦犯法廷について(2)

上の続き。

コメントしたら返事をいただいた。

# noharra 『開催前から「天皇(裕仁)無罪」帰結を裏取引していた東京裁判よりは公正に近いと評価できる。』

# hizzz 『上記したように、自分好みを他者に押付ける=ポリティクスの発動(「やられたらやりかえせ」的視点)という点においては、「女性国際戦犯法廷」も「東京裁判」も同列でしかない。以前カキコしたように「道義的責任」を問うこの問題は「法」では決して解決しない。なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまったということにおいて「公平」を掲げるポリティクスとしても、結果は致命的ですらありましょう。』

(野原)

「なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまった」というのは、「天皇有罪」に対して(日本人の誇りを傷つけられたとして)憤激し慰安婦に対するセカンドレイプにはしったりする反応を引き起こしたことを言っているのでしょうか。 

 レイプという具体的な犯罪があった場合、それを裁こうとすることは、正義をもたらすことにより暴力(の連鎖)から世界を救うことになると思いますが。

右翼も左翼も、自分たち以外(制度外の第三者)という存在を喪失している。そして喪失しつづけてるが故に、なんとかしようとして居丈高になり、更なるお手付きを重ねて、パンピー(=イデオロギー的正義思想を持たない者=ウヨサヨ制度外の第三者)の支持を減らす。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050213#p3

(野原)

 これは少し当たっているような気もする。だがレイプの問題は本来イエオロギーの問題ではない。彼女たちは白人(オランダ人)でなかった、まともな国家を持たないアジア人女性にすぎなかったがために東京裁判の時点で裁判化されなかった。そこでアジア人と女性に対する差別が弱くなった50年後ようやく事実を事実として語りうるようになった。それをイエオロギー的言説であるかのように演出してしまっているのは、ナルシズムに汚染された日本の言説空間である。

貧乏人の連休の過ごし方

子ども二人家族4人、ふだんは多いとも感じませんが家族旅行にでも行こうものなら4万円単位でお金は飛ぶように出ていくので行けるものではありません。まして連休は混んでるし。だからといってべったり家にいても普段と同じではあまりにも単調です。どこかに日常性を離脱する契機が欲しいもの。“うちのおかあさん”はおとといからさっさと一人で友人宅に泊まりに行ってしまいました。家事労働全般を子どもと3人でやらなければいけません。ゴミ出し、洗濯物干し、食器洗い、ほんの少しでも普段はうちの子はやらない。今回も嫌がるので「やらないとおかあさんに(子どもの自立を助けるため)帰ってくるなと言うぞ」と脅して無理矢理やらした。