どうして誰も最も虐げられた者、従軍慰安婦の立場に立とうとしないのか?それが言説にとって最も安易な立場であるのではなかったか。わたしたちはこの十年以上そう聞かされてきたのに。
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彼らの「声」はある
N・B 『 私も精神的余裕はないのでブログなどを作ってません、ですからややずるいかなと思っています。こんな操作までしてくださってありがとうございます。
私としては別に、おおやさんの弁護をしているわけではありません。あくまで、彼らの「声」はあるということがいいたいのです。
少し話をずらしますと、星野智幸さんの10月31日の日記で『永遠のハバナ』という映画を紹介しています、私は映画そのもが3月公開なのでなんともいえないところがありますが、やはりあの映画をああいう風に紹介することは特にロシアについて書いた後では(実際キューバに行っていることからみても)、現在のキューバに一定のコミットメントをしてしまっていると思います(マイアミ・ヘラルドも誉めてるようだけど)。ここでそれが重要なのは、彼がレイナルド・アレナスという既に亡くなった「亡命キューバ作家」を愛読し、ユリイカの「アレナス」特集などに参加していることです。アレナスの観点からは、この映画へのあのような賛辞自体が「カストロの回し者」の証拠にみえるでしょう、グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。私はユリイカで独裁反対に安易にもたれかかって、アレナス全面賛美(また適当に書いてるんだ)を「芸術的に」書かれた仏文屋の方々にくらべて、アレナスを読みながらキューバに行き、自分のコミットメントを示される星野さんははっきりと違う
$H$$$$$?$$$N$G$9!#
もちろんキューバについては逆の立場(上に書いたことはあくまで私の判断ですし)もあるでしょう、私の論点は、たとえラテンアメリカ全体の状況の中で考えてもアレナスの声と他の声(日本のいい加減な仏文屋ですら)は原理的レベルでは区別できないと思います。また、優れた作家の声がそうであるがゆえに尊重されてはならないとも思います。
以上の話は、アレナスの「告発」が野原さんの意味でもより広い意味でも暴力的(たとえば当時のエルサルバドルの人に!)だと私が認識したことが前提です。従軍慰安婦とアレナスを並べるのは異論があるでしょうが、私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。
その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。
こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。
上に書いたような前提を無視できるのは、(最も近くの)権力に寄り添っていることを気にしない人に限ると思います(これは最初の書き込みと同じく、社民党からヒンデンブルグ、さらにナチスへと次々とパトロンを変えたカール・シュミットを念頭においています)。
というわけですが、星野さんのように徹底的にラ米にコミットした人と私みたいな半可通は違うわけです。そのあたりは2つ目の論点と重なってくると思います、さらにどうやって従軍慰安婦やアレナスと、私たち(現状認識の違う人を含む)は区別されるのかですがますます難しくなってきたので次回ですいません。
「差別語~正当化」というのはもちろん慎太郎を念頭においてました。ちょっと誤解を招いたようで。しかし差別語は使用のありかたの問題だという原則を知らない人はいまだうんざりするくらいいますね。
アレナスについては上記ユリイカや自伝「夜が来る前に」国書刊行会などを参照してください、星野さんのページなども。
なお、おおやさんの立場に野原さん的な視点から批判している人もいるので彼のブログのコメント欄などを見てください。答え方もひとつの答えですし。
少し答えがずれたみたいですいません。ただ、証言することで「主体のようなもの」となるというのは重要な視点だと思います、我々はみなかつてサバルタンであった「かもしれない」ということですから、それを突きつけられるのが怖い人もいるかも知れせん。』
すいません。今回の文章どうも分かりにくかったです。
1)アレナスはキューバ国家に抑圧された。
2)星野智幸さんは『永遠のハバナ』という映画を紹介している。これはキューバ国家の是認だ。
3)グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。
アレナスが抑圧されたのは事実だが、彼のキューバ国家攻撃は日本の軽薄なインテリなどによって増幅されている。アレナスの発言は結局“反キューバプロパガンダ”になっている。と、N・Bさんは認識する。
アレナスやラテンアメリカの情況に暗いのでこの理解も不正解かも。
従軍慰安婦とアレナスは、いずれも暴力的にある問題設定を成し遂げたひととして等値しうるのではないか、と。
私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。
その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。
こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。
でこの結論部分が何を言いたいのかがよく分かりません。
その前に、アレナスのキューバ攻撃というのは結局反共攻撃ではないの?それだったら新しい問題設定ではなく古いものですが。*1
「明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。」
あえて話を単純化して、前回書いた「差別発言はいけない」説に立ちます。すると「違ったモラルを持つ人がいる」としてもそれはより正しい立場によって啓蒙されるべき人と位置づけられてしまう。そうしたらいけない、という意見ですか?
(2/9追加)
*1:アレナス/キューバについて私はよく分からないので、反共だからいけないとか何も言いません、留保。
ナターシャさんへの手紙
ナターシャさんへの手紙
はじめて手紙を出します。ほんとうはタイの言葉でかきたいのですが、私は、ほとんどわからないので、日本語でかくことをゆるして下さい。しかし、タイのことばの本をすこしよんで、こんにちわ、ということばだけでもタイのことばでかいておきます。
わたしは神戸に住んでいるので、1月17日の地震や、それいごの、たくさんの不便さを味わっていますが、元気です。そして、ナターシャさんの裁判の判決が延期されたのを、よい方向へ応用するために、この手紙をかくことにしました。
わたしは、1年前からナターシャさんの裁判や集会に参加しているものです。木村さんや、青木さんや、牧野さんや、そのほかたくさんの人たちと何度も話をしてきていますが、この人たちのようにはボランティアの活動をしているとはいえません。少しちがったところから、関心をもってみているのです。というのは、私は、1969年いらい日本や世界のたくさんの大学を中心におきた闘争に参加し、そのために職をうしない、いくつかの行為について裁判をうけてきている被告人で、今は外に出ていますが、闘争は何年もつづき、いくつかの留置所や拘置所に出入りしました。1985年と1986年には、みじかい間
ですが、大阪拘置所に入っていたこともあります。そして、いろいろな人が、いろいろな事件で拘置所に入れられ、裁判をうけていることを、じっさいに知りました。
たくさんの事件の中で、私が、ナターシャさんの事件に大きい関心をもつのは、まとめてかくと、次のような理由からです。
①外国人が、日本の法律とことばで裁判をうけていること。
②タイ人女性が日本にきて、しごとをする時の苦しい面が、タイ人女性にだけ重くかかっており、日本の社会や男性に大きい責任があること。
③弱い立場にあるタイの女性どうしの対立の中で、いっそう弱い方のナターシャさんが、自分を守るためにもった包丁が、きづかないうちに相手を刺してしまったのに、殺人として起訴されたこと。
④二人の娘さんや父親の行方不明などのために日本国籍がとれず、判決のあとはタイへ送りかえされること。
⑤二人の娘さんと、拘置所の面会室ではなく、法廷で、だき上げながら話すようにしてほしい、と私たちが考えていること。
このほかにもいろいろありますが、このような点に大きい関心をもっています。
①、②、③については、弁護士のかたがたが、よくやって下さっていますが、④と⑤については、もんだいが、せまい法律やきそくを、はみ出してしまうため、なかなかむずかしいようです。 【G12-13】
④と⑤については、二人の娘さんが日本に残ること、法廷でちょくせつ話をすることのどちらも、じっさいにはできないだろうと思うと、私たちの力の弱さがざんねんです。ただ、ナターシャさんも、二人の娘さんがタイへもどることにさんせいしておられるようですし、しせつの保母さんや、牧野さんたちも、ついていかれるようですから、これが、せいいっぱいのところかもしれません。また、子どもをだき上げることについても、ナターシャさんが、11月25日の法廷で、「私は、いつの日か、子どもをだけるけど、リサさんは、だけない。」と語って、私たちのそうぞう以上の心の深さを見せて下さっていますから、法廷での出会いがじつげんしなくとも、ナターシャさんが、がっかりすることはない、と思います。ほんとうは、どんなにか、だきしめたいと思っているはずで、私たちは、むねが、しめつけられるような気がしますが…。
判決の前に、私から、ぜひ、のべておきたいことがあります。それは、ナターシャさんに対する判決が、どのようなものであっても、この事件によって、日本社会のまちがっている面が、はっきりとしめされ、これをかえていこうとしている人たちが出てきていること、ナターシャさんの立派なたいどに心をうたれている人たちがふえていることです。このような動きを、さらにひろげていくために私たちは、これからも努力していきます。
そして、ナターシャさんの方でも、自分のやってきたことに反省するところがあるとしても、けっして自分を、だめな、わるい人だとばかり思わないで、それいじょうに、日本の社会に大きい問題をなげかけ、日本の社会をよいものにしていくために役にたっているこという誇りをもっていほしいのです。また、そのことを、今すぐにでなくてもよいから、二人の娘さんに語ってほしいと思います。きっと娘さんたちは、わかってくれるでしょう。
私が、ナターシャさんの事件について書いた文章を二つ、いっしょに送ります。むずかしい字や、むずかしい考えでかいていあると思うかもしれません。それは私の力がたりないためで、もうしわけないことです。しかし、かいてある内容は、私の長い人生と、苦しいたたかいから生みだした*1もので、日本やタイのおおくの人たちによんでいただくだけのものはもっているはずです。まず、ナターシャさんに、そして成長された時の娘さんたちにもぜひ、よんでいただき、いっしょに問題のかいけつをめざしたいと考えています。
できれば、この手紙が、私の文章と共にとどいたかどうか、〈ナターシャ〉という名前をタイのことばでどうかくか、だけでも返事してくだされば、たいへんうれしいです。
1995年2月11日 神戸市灘区 松下昇
ナターシャ・サミッターマン さま 【G12-14】
ふりがな付き原本は、ここ。
p13-14 『概念集・12』~1995・3~
*1:原文「産みだして」だが誤植と判断した。
田中貴子『性愛の日本中世』
isbn:4480088849 ちくま学芸文庫 という本をやっと読み終わりました。
ちょっと雑然とした論文集ですが、非常に鋭い考察にあふれた好著です。最初の文章は「稚児」(ちご)と僧侶の恋愛を取り上げる。男色つまり同性愛である。しかし同性愛という現代のカテゴリーをそのまま中世に当てはめてはいけない、と著者は強調する。中世には中世特有の知と身体の配置があったのだ。そうして稚児の詠んだ和歌を調べ、「「夜離れ」を恨む「女歌」を多く詠んでますから、女のジェンダーになっていると考えてもよいと思うのです。」p22と言っている。そして稚児のセックスについても、それを単純に男性としていいのか?と問う。そしてジュディス・バトラーを引きつつ、「そのセックスもまた中間的なものへと変化したと思われます」とする。その当否については判断できないが、古くさいだけの古文書にも現代的問題が眠っていることを明らかにしており、スリリングである。
「愛は平等」という近代的な恋愛観に縛られていた人は「愛のかたち」がさまざまであること、しかしそれは決して常に対等なものではなく、時には搾取と被搾取者の関係になりうるということを、心の片隅に刻んでおいて頂きたいと思います。
ぶっちゃけて言えば関係は、大なり小なり常に「搾取と被搾取者の関係」である。しかしそう居直るのではなく、また搾取でしかないものを「稚児が神仏に等しい存在になる」などと仏教的観念で飾り立てることのグロテスクさをひたすら糾弾するのでもない。著者は実はひたすら幸せをめざす現代の性愛も、同じくらいグロテスクだと知っている(たぶん)。大なり小なり歪んだ関係のなかでせいいっぱい生きるものたちをせいいっぱい読みとろうと著者はしている。
このごろ「政治的」文章ばかりでしたが、本当は日本思想史とかのいろんな本を読んだりするのがメインのブログなのですよ!
邪悪な愛国心と正しい愛国心
# swan_slab 『hal44さんこんにちは
ちょっとよくわからないのですが、かりに愛国心が信仰心と同価に扱われ、それは魂の救済の問題だと捉えられたとします。しかしそうだとしても、ロックの制度制度の構想によれば、統治機構は世俗的事項にのみ関わると考えられていますから、たとえどんな形で愛国心を表現しようとも、それが社会公共の利益を害さないかぎりにおいて、寛容に扱わなければならないという理屈になると思います。
そして、もし仮に愛国心の涵養という問題が、公共的関心事項ではなく個人の良心の問題だとするならば、世俗的であるべき公教育(憲法20条)の場において、愛国心教育は忌避されるべきということになるでしょう。
しかし、愛国心とは、自発的結社によってさらに自己実現を目指すべき個人主義的な意味での信仰の問題と同視しうるかといえば、むしろ、共同体(アソシエーション)加入の契約(17世紀ニューイングランドにおいて観念されていたような契約)とパラレルなのではないかというふうに思います。
恐らく、日本においてロックの議論が当てはまりにくいのは、ロックが前提とした宗教的個人主義と宗教的多元社会を日本人が拒絶してきたからでしょう。極端な話、「一億総~」という形で、くに全体がロックが寛容の対象と見定めた結社(アソシエーション)と同視しうるからです。かりにロックの市民社会論が日本において流通、制度化されていたとしても、滅私奉公を是とした日本の社会では、戦前の天皇制はあのように機能した可能性はあると思います。
これを乗り越えるには、フランス的なドグマの革命で用いられた手法、すなわち既成の権威(カトリック)を、特定のイデオロギーの普遍性(自明の真理として事実性のなかに埋め込む、ある種のエッセンシャリズム)を強調することによって打ち砕く、大陸法的なやり方も適合的なんじゃないかという気がします。
しかしその場合、社会契約によってアイデンティファイされる個々人と国家との関係を常に再確認する教育システムが求められることになるでしょう。「我々は理念によって国家に集っているのだ」ということを再確認しなければ普遍的正義の自明性が崩れる恐れがあるからです。この功罪はフランスの近現代史をみればある程度、察することができると思います。
もうひとつは宗教的、文化的な多元的社会を目指すやり方。
日本はどの方向に舵をとるべきでしょうか。
hal44さんは>個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが>とアイロニーを表明します。
その「気づき」は、また別のアイロニーによって「虚妄」とみなされるかもしれない。自己の認識したアイロニーは、表現の自由市場において淘汰され社会に蓄積されない知恵かもしれない。しかし、「現時点ではこう思う」というアイロニーを人々が出しあっていかなければ、真理には到達しない。そのためには自己のアイロニーを主張し、他者の主張するアイロニーを正しくないという機会を十分にもたなくてはならない。それを目的論的に眺めれば、民主主義に資するからだということなるでしょうけれども、動機の面からとらえると、ウェーバーのプロテスタントの倫理じゃありませんが、個人の内的な自律性と自己実現の要求を不可欠の要素とすると思います。
例えば、クェーカーの教義は特定のドグマに毒されている、あの教派の洗礼の考え方はおかしい、あの集団のなかにいると不幸になると誰がが「気づいた」とします。しかしロックは、そんなのはある意味で自己責任だというわけです。ロックはそれ以上のことはいわない。しかし、この個人の尊重の考え方が前提になくては民主主義は成立しえなかった。私見ですが、ロックの寛容書簡の読み方としては、現代の民主主義と人権に関するエッセンシャリズムにどの程度の射程をもっているかという観点から読むようにしています。
>日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観>hal44さん
についてちょっと雑然と感じることですが、愛国心というのは、結局、共同体の自己保存に関する態度ということだと思うのです。フェチということではなく。そこで「正しい愛国心」と「不正な愛国心」という本質主義的なものがやっぱり観念されざるをえないのだろうか、そんなことを悩みます。刑法学でいう行為無価値的な発想ですが。
例えば、私たちが自ら、イデオロギーについて社会学的なアイロニーを認知しえた(気がついた)とします。例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。
その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。
ひとつのやり方は、戦後のドイツでみられたやり方で、事後的に、実質的正義の立場から、過去の”間違った観念や価値観”を徹底的に糾弾し尽くすという方法。例えば当時、ナチスドイツで、合法的だと思い、愛国心から夫の叛逆を密告した妻の行為を事後法によって断罪した。戦後ドイツにおいては、自然法の再生というスローガンのもとに積極的に罪刑法定主義(これも一種の自然法)が無視された経緯があります。この自然法への回帰は、日本国憲法にも色濃くみられ、国民主権は「人類普遍の原理」であり(前文)、人権は「侵すことのできない永久の権利」11条、97条とされ、憲法的価値観の相対化を拒絶します。
これは法実証主義への反省の意味をこめていると理解されることが多いのですが、しかし、ナチスの犯罪は、法実証主義的配慮から自動的に行われたというよりも、当時信じられていた実質的正義(あるいは科学)の観点から虐殺が正当化された側面があります。また日本を空爆せんとするアメリカの兵士たちが地上にいる無辜の人たちの姿を想像し、自らの不正な行動に「気がついた」としても、自らの不正と折り合いをつけることができたでしょうか。
実質的正義の見地から、「悪い行為」を断罪するというやり方の功罪についてもう少し考えていきたいと思っています。
邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか。この点について、野原さんやみなさんはどう思いますか。』(2005/03/21 16:16)
君が代斉唱は強制されない
http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/tisiki-kokkaitoubenn.htm
文科省が隠したがる「国旗国家法」国会審議での政府・文科省の答弁
不起立、不斉唱で子どもたちが不利益をこうむることがあってはならない
○「子どもは当然、通常の場合に、学校が定められた教育活動に主体的に参加していく、これは教育活動の本来持っております作用でありますし、教員はそういった教育活動の本来的な作用に従って児童生徒を指導していくと言うことでございますけれども、指導の結果、最終的に児童生徒が、例えば卒業式にどういう行動をとるか、あるいは国旗・国歌の意義をどのように受け止めるか、そういうところまで強制されるものではないという意味で、強制するものではないと申し上げているところでございます。」
(御手洗政府委員 1999年8月4日文教委員会)
「法律を楯に強制的に無味乾燥な議論に入ってはならない」
学校現場で、「日の丸・君が代」の歴史をしっかり教えること
○「これからもこの法律を盾にして強制的に無味乾燥な議論に入っていくのじゃなく、教育の中で正確に、日の丸の歴史とそして君が代が生み出されてきた歴史、また一時期これがゆがめられて使われた事実、そういうものをきちっと教えることによって学校現場の教育が生かされ、それが民族のアイデンティティとなって国際的な人間として我が国の国民が育っていくように私どもは努力していかねばならないし、またこの席で私は文部大臣にも要請をしておきたいわけです。」
(野中広務官房長官 1999年8月2日国旗及び国歌に関する特別委員会)
(同上 より)
本物はすごい
http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/115/image/005.jpg 005.jpg(JPEG 画像、1920×1284 ピクセル)
こんなところにも国生みが。
http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/ichiran.html
鈴鹿文庫一覧
「恐るべき古代史料の電子画像データベース。」
と、久遠の絆 さんが評されていますが目次だけみてもすごいですね。
本を買わなくてもいくらでも勉強できる!
http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/025/index.html
竹内式部奉公心得書 なんてマイナーな人の文章まである。げげ。
仕事に対する誇りとは
たとえ、会社が秒単位の遅延を問題にするからといって、制限速度超過をすることを許されるわけではない。会社が、それを要求したとしても、プロとして拒絶するくらいの倫理性がなければ、数百もの人生を預かることは許されないというべきであろう。
http://dainagon-end.at.webry.info/200504/article_8.html 尼崎の事故に思う nagoyan
この運転手は13日間の「日勤教育」を受けたという。その内容を公開すべきであろう。
わたしには、「日勤教育」が単なるペナルティーである以上の意味を有していたようには思えない。 とすれば、JR西日本の経営者は、職員を一個の人間とみることができなかったといわざるを得ない。
確かに使用者は、雇用関係に基づく懲戒権を有する。しかし、雇用契約は対等の市民同士の契約であって、奴隷契約ではない。懲戒権は、職場秩序の維持などの特定の目的のために、その目的に必要な範囲で、かつ、就業規則に基づき適正な手続きの下に違反行為と処分との均衡が維持されるようなものでなければならないはずだ。しかし、伝え聞くところの「日勤教育」は実質懲戒として行われているようでありながら、これらの要件を満たしているようには、到底思えない。
さらに、問題なのは、職員の資質向上を目的としていない処罰としての「教育」を科すだけであるから、職員の資質向上は図られない。
(同上)
「時間厳守」と「安全」はしばしば背反する。「絶対に両立させるぞ」とか叫ばせることは何の教育にもならないのはいうまでもないだろう。両立困難な二つ以上の課題が瞬間に押し寄せるときどう対応できるか。「中庸」といった東洋の智恵はそこに幾ばくかの示唆を与えるものかもしれない。「会社への帰属意識を高める」といったことは有害無益である、とそれは教えている*1。
*1:とも考えられる
萌え上がる物
次國椎如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神【此神名以音】
次天之常立神【訓常云登許訓立云多知】此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。
かの始めて成れる一つの物、浮き脂の如く、虚空(オホソラ)に漂蕩(ただよ)えるなり。さて其の物の中より、葦牙(あしかび)のごとく萌上がる物あり。これ天となるべき物也。かくてその天と成るべき物は萌上がり了(おわ)りて、其の跡に残れるが、堅まりて、地(つち)とは成る也。されど此の時は、いまだ海と国土と分かちなどもなく、ただ混(ひと)つにて、ふわふわとただよいてある也。(三大考)*1
第3図。宇宙のなかにただ一つ浮き脂みたいなものができて、葦の芽のようにぐいーんと萌え上がるものがあった。上の方向への巨大なベクトル。宣長によれば、あしかびは「葦のかつがつ生(お)初(そ)めたるを云う名なり」*2これを中庸は「その天と成るべき物」とみなすわけですが、まあそんなことは古事記には全然書いてないのですけどね。宣長には「さて此は天(あめ)の始めにて、如此萌え騰りて終(つい)に天とは成れるなり」*3とある。これによって天と地が分かれたと。
そもそも「三大」とは何か、というと、天、地、泉である。このうち二つがここで出来た。あと泉、とはいずみではなく黄泉(よみ)のこと。上に天が出来、下に垂れ下る物もあって黄泉になった(はずだ)と次の段で説明がある。
小学教科書への疑問
子どもはちょうど、小学6年の社会科教科書で日本史を勉強しているみたいだ。*1子どもに聞くと習ったはずの大化の改新も知らないで困ったものだ。ある頁を開けると、2頁見開き一杯に平城京碁盤の目状の都市の鳥瞰図がありむちゃくちゃ立派だ。人口が十万。ちょっと多すぎるような気がしてぐぐると、ある人(寺崎保広教授)の意見は、「5~6万ほど」「10万人説は居住可能な免責に隈無く人が住んでいたという前提での計算である点が問題で」とあった。http://www.nara-u.ac.jp/daigaku/koho/mini/terasaki.html奈良大学
わたしが気になったのは聖徳太子のところ。
ゆうたさんは、大和朝廷の役人に十七条の憲法を示した、聖徳太子を調べることにした。
として1頁全部を使って聖徳太子を紹介している。次の頁が大化改新であるが、「聖徳太子がつくろうとした天皇を中心とする政治のしくみが、ここでできたのだな。」とゴシックでまとめられている。
上の子の中学の教科書*2を見ると
17条憲法を定めて役人の心がまえを示したといわれています。
とちょっと遠慮がちである。
それもそのはず、
近代史学の対象となりうる太子関連の第一次資料は皆無に等しく第二次資料としての『日本書紀』の記述が残存しているだけであった。あとは「天寿国繍帳」の銘文ぐらいしかない。
p4佐藤正英『聖徳太子の仏法』isbn:4061497227
という情況だからである。
佐藤氏は「太子非実在論」はますます激しくなるだろうと、(彼にとって)悲観的な予想を述べている。ではなぜ、小学校の教科書だけがこんなに力をこめて聖徳太子を記述するのだろうか。それはたぶん学習指導要領が命じて居るためだ。
仏教伝来の後、聖徳太子が法隆寺を建て仏教を日本に定着させた、とだいたいそう教えられてきた。
しかしそれは6世紀終~7世紀初の思想状況に対する正確な理解ではない。
釈迦仏を祀るとは、ひとびとにとって、見知らない新たな<たま>神を祀ることにほかならなかった。(p42同上)
お握りにライスバーガーとラベルをはっただけみたいな漢字で、「仏(ほとけ)がみ」というラベルの神がやってきたにすぎない。
以上わたしの乏しい知識においても、小学校教科書は充分偏向しているように思われた。
参考:
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/shotoku/iesu.htm 以下(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』を批判する立場の文章)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/shoutokutaishi.htm 「聖徳太子」はいなかった