教育長の言っていたことで気になったのは、
「内心の自由というのはいつでもあるのですから」という発言。
そりゃ「人を殺せと命じられてそれに従っても、内心には嫌だと思う自由がある」という事態はあるでしょう。
憲法19条「思想および良心の自由は、これを侵してはならない。」というのは、そういう「自由」を擁護しているのか?
教育長の言っていたことで気になったのは、
「内心の自由というのはいつでもあるのですから」という発言。
そりゃ「人を殺せと命じられてそれに従っても、内心には嫌だと思う自由がある」という事態はあるでしょう。
憲法19条「思想および良心の自由は、これを侵してはならない。」というのは、そういう「自由」を擁護しているのか?
日本という国は、島国でほぼ単一民族、無宗教と無個性が特色の国であるわけです。
全く間違ったことを偉そうに書かないでください。
中世までの日本は、おおざっぱにいって神仏混淆的な宗教風土に生きていました。日本史で大きく取り上げられる鎌倉新仏教は、西欧のプロテスタンティズムに近いとも評価できるほど個人として宗教的実存を深めていきました。
江戸時代にも仏教や神道は衰退したわけではありません。
明治後期、教育勅語体制によりさまざまな宗教を国家神道的なものに統合して行こうとする試みは、昭和の総力戦期に一旦成功したと言えます。
そのことが、保守が何年も政権を担当し続けたり、天皇家が1400年の歴史を持ってたりするのに繋がっているといえますね。つまりこれは、日本人が本来愛すべき日本の国民性で、この価値観を基準として考えることが重要だとおもいます。
天皇家の1400年の存在を、「単一民族、無宗教と無個性が特色の国」なんて元ネタは誰か知らないが全くの誤謬と結びつけて、連続性、同一性だけを強調しようとする理解は誤りです
君が代の強制は、メチルアルコールのような人工的な質の悪い宗教性の強制であり、無神論者である私には耐え難いものです。
アンチひのきみMLより。
立川二中の教員である根津公子さんが、今年3月の卒業式での「君が代」斉唱
時の着席で「減給6ヶ月処分」となり、今年の入学式での着席について「停職」
の可能性もあるとのことです。
今月12日に都教委による「事情聴取」がありました。28日の教育委員会の
定例会で「処分」と「量刑」が決められる可能性が強いようです。
(略)
◆抗議・要請先
東京都教育庁 人事部 職員課
FAX 03-5388-1731
Mail S9000013@section.metro.tokyo.jp
TEL 03-5320-6790(藤森 教悦 職員課長)
TEL 03-5320-6792(佐藤正吉 主任管理主事)
住所 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1
存在とは、being,Sein,etre,esse(アクサン省略)であり、「あること」である 。だがそれでは何のことか分からない。
「その本性が存在するとしか考えられないもの」からスピノザの『エチカ』は始まっている。「(あるものが)あるかないか」は単純な問題で、哲学の問題ではないとわたしは思ってしまうがそうではなく、それこそが哲学なのだ。どういうことなのか、分からない。
八木雄二『中世哲学への招待』isbn:4582850693という本は、西欧人は(日本人を含む)アジア人とはまったく違った感じ方考え方を根源的にしているのだ、ということを解説しており、とても興味深い本だった。
その本のp88-89に次のような部分がある。長いが引用する。
でも結局分からないのだが。
さてアンセルムスは、神の存在証明をつぎのように始める。すなわち、まず「それより大いなるものが考えられないもの」という概念を知性のうちに構成する。この概念が実在のうちに対応物をもつかどうかは、まずは考えの外である。そしてこの概念について考えてみる。アンセルムスによれば、神を信じない愚か者だろうと、この概念を考える知性はもっていると言う。そしてかれによれば、単なる概念としての存在は、知性のなかにしかないのだから、知性のなかに在ってなおかつ知性の外にも在るものの方が「より大いなるもの」であると言う。言い換えると、存在するという完全性の点で、知性のなかにしかないものより、知性のなかにも外にも(すなわち、両側で)存在するものの方が、優秀である、ということである。アンセルムスは、このことは客観的事実、言い換えれば学問的に認められる事実だと考えている。
「現実にも存在するものの方が、わたしたちが考えているだけのものより優れている」というこの観念は、たぶん日本人にはなじみがない。仏教的無の観念からすれば、優秀さの問題と存在の問題は無関係である。実際、在った方がいいものと同じく、無い方がいいものも世の中にはたくさんある。非存在より存在を有意義と見るヨーロッパ精神のもつ傾向は、やはり歴史的なものだと言うべきである。
プラトンの場合も、善(最高価値)は存在を超えるが、存在と近縁な関係にあることは間違いない。この関係は、かれより二世代から三世代ほど先に生きて、古代ギリシア哲学に論理の力を見せつけたパルメニデスから受け継いだ「存在と論理の一致」の思想と関係するし、キリスト教の場合「神が世界を創造したし、現在も創造し続けている」という観念と関係していて、何が理由とも言い切れない。しかし、存在にこそ意義があって、非存在には意義がない、という思想は、ヨーロッパの思想に一般的な原理である。この思想を真っ向から否定した思想家はヨーロッパにはいない、と言ってもいい。プラトンと対比されるアリストテレスも、アンセルムスの証明を否定したトマスも、この点では一致しているのである。
それゆえ、ヨーロッパの歴史に敬意を表することにしよう。つまりこの原理を認めて、単なる概念よりも実在もするものの方が「より大いなるもの」であるとするならば、一挙に、つぎの結論が出てくる。「それより大いなるものが考えられないもの」は、確かに、「実在する」。
なぜなら、もしもそれが実在しないと考えられるなら、実在する、と考えられたものの方が「より大いなるもの」だからである。そして「実在する」と考えられたもの、そのように理解されたものは、わたしたちが普段、周囲に在るものについて「実在する」と理解しているように、現実に実在する、と言うほかないものである。こうして、「より大いなるものが考えられ
ないもの」は、考えられるだけではなく、実際に存在する、と結論され、神の存在証明が終わる。
p88-89 八木雄二『中世哲学への招待』
この証明を概念から実在への「飛躍」と見るかどうかは、「存在と論理の一致」をどこまで認めるかにかかっている。「存在の有意義性」の方は、すでに述べてきたように西欧一般に認められた存在の価値観として西欧内部では問題にされない。だから知性のなかで考えたことがどこまで実在と一致するかは、もう一つの問題なのである。
p90 八木雄二『中世哲学への招待』
世捨人noharraのところに、 Musical Batonなるものがきた。id:amgunさんところから。世捨人ほどこういうものは喜ぶもの、である。
ただ音楽ってもう長い間あんまり聞いてない・・・
1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)
なし、といいたいところだがそうでもない。71メガ。鬣、など。
4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある 5 曲)
現在形でよく聞く曲はなし。
・日本のpops(というか)といえば何といっても、はっぴえんど。
ここでは、大滝詠一作詞作曲の「夢で逢えたら」を挙げる。
思ひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを(小野小町)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/komati.html
王朝美学の突然変異的復興、ともいえましょう。
・オーネット・コールマン「ロンリーウーマン」
倉橋由美子の小説に荒神橋のシャンクレールでこの曲を聴くシーンが出てくる。がそんなこととは関係なく、名曲である。
・元ちとせ「ワダツミの木」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005ULFS/250-1569126-3448225
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_plain?base=95&range=1(野原)
・ジミ・ヘンドリックス、この曲というのは思いつかない。長い間聞いていないから。下記で確認するとデビューLPは『アー・ユー・エクスペリエンスド(1967年)』だがいま探してみたが見つからず。
・水玉消防団『乙女の祈りはダッダッダッ!』
わたしは水玉消防団のファンクラブ員だった。消防団解散後だいぶ経ってカムラはロンドンへ行って、ホーキ・カズコの相方(フランクチキンズ)をやってると聞いたが、今は一緒じゃないらしい。最近カズコの『ロンドン快快』という講談社文庫を読んで(カムラのことは2,3行でてくるだけだが)、カズコたちに対して同窓会的懐かしさを感じてしまった。(もちろん一方的なものだが)
侵略=(にほんが他の多くの多くのアジア人たちを殺し苦しめたこと)を強調するのは大事だが、多くの日本人自体が被害者だったことも忘れてはならない。誰が多くの日本人を死に追いやったのか?「生きて虜囚の辱めを受けずという命令」がその責を負うべきことは間違いない。そしてヒロヒトにその責を負わせたくなければ「誰が」を特定し糾弾し続けなければならない。
牛島中将は立派な方だったそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20050724/1122165671
国家の味方をする者は、民衆に敵対する。
でもそれってわたしのようなアナキストの国家観なんですけどねえ~。
神戸家庭裁判所というのはひどいところだな。
抗議先
〒652-0032 兵庫県神戸市 兵庫区荒田町3-46-1
電話番号等 Tel:078-521-5221 Fax: 078-521-8011
神戸家庭裁判所 永井 ユタカ 所長
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韓国籍理由、弁護士の調停委員選任を拒否…神戸家裁
神戸家裁が、韓国籍を理由に調停委員の候補として兵庫県弁護士会から推薦された弁護士の選任を拒否していたことが30日、わかった。推薦を受けた弁護士が選任されないのは極めて異例。同家裁は「調停委員は『公権力』を行使する国家公務員で、外国人は選任できない」としているが、同弁護士会は「話し合いの仲介が『公権力』と言えるのか」と反発。問題を重視した近畿弁護士会連合会(近弁連)も、近くシンポジウムを開いて市民と意見交換する。外国人の司法参加のあり方について今後、議論が高まりそうだ。
調停には、隣人同士のトラブルなどの民事調停と、離婚や相続などの家事調停があり、事案ごとに裁判官1人と調停委員2人以上で作る「調停委員会」のもとで話し合いが行われる。
調停委員は、「豊富な知識、経験を有する」人らを家裁などが最高裁に上申し、2年の任期で任命される。弁護士は委員の資格があり、最高裁規則は、欠格事由として、弁護士として3年以内に懲戒処分を受けた者など7点を挙げるが、国籍条項はない。
兵庫県弁護士会によると、神戸家裁の依頼で、2003年10月、韓国籍の梁英子弁護士(47)を推薦したが、同家裁から「最高裁に上申しない」と通告された。
最高裁によると、調停委員らが作成に関与する「調停調書」は確定判決と同じ効力を持つほか、関係者を呼び出したり、行政罰を科したりする権限を持ち、国家公務員扱いとされる。
最高裁は「公権力を行使する公務員は日本国籍が必要」とする内閣法制局の見解に基づき、「調停委員に外国籍の人は任命できない」としている。
これに対し、近弁連側は「調停委員は話し合いがまとまるように取り仕切る立場にすぎず、調停調書も当事者の合意がなければ結べない」と疑問を投げかけ、梁弁護士も「家事調停に関心があり、調停委員として、さらに理解を深めることができると思っていたのに残念です」と話している。
最高裁は1977年、司法修習生の採用要項にあった国籍条項について、「相当と認めた者を除く」とのただし書きを設け、実質的に司法試験合格の在日外国人を修習生として採用。現在、全国で約50人の在日外国人弁
護士がいる。
近弁連のシンポ実行委員会委員長の吉井正明弁護士は「在日外国人のトラブルも調停に持ち込まれ、今後さらに増加するのは必至。外国人の調停委員も必要になるはずだ。最高裁が扱いを変えるよう働きかけていきたい」
と話している。
シンポジウム「外国人の司法参画」は、9月10日午後1時から大阪市北区の大阪弁護士会館(電話06・6364・0251)で開かれる。
(2005年07月30日 読売新聞 関西本社版)より
内田樹が靖国問題について書いた新聞記事を、友人がコピーしてくれたので読んでみた。*1
彼は「死者は言葉を持たない」と強調する。それを強調するのは正しい。
共同体をめぐるほとんどの対立は「死者のために/死者に代わって」何をなすべきかを「私は知っている」と主張する人々の間で交わされている。
しかし、靖国問題とは、死者の正しい服喪はどうあるべきか?という問題だったのだろうか。個々の戦死者たちはすでに親族によってそれぞれの墓に祀られている。死後の霊はその墓の近くにいると考えても良い、と篤胤も言っている。東京大空襲の死者たちはどんな国家的祭祀も受けていないけれども、“戻ってきて災いをなす”ことなどできていない。
靖国問題には二つの歴史的位相があり、新しい位相はA級戦犯合祀で画される。がやおきのりの路線にも反する後者は、戦前の軍国主義一切を免罪しようとする極右勢力によって為された。“国のために死ぬことは名誉だ”として押し進められた戦争への動員(による死)は、英霊として讃えられるべきだという思想。「先の戦争」は間違っていたのかどうか、という問いに答えられず、間違っていたと答えない方向にしか向うことができない哀れな日本は、彼らの極右思想が作り上げた現在である。
このように靖国とは死者を過剰に国家が取り込む装置である。しかし、内田はそのようには見ない。靖国で行われているのは極めて特殊な形での「服喪」であるのにそれを、服喪一般に拡散させて論じているからだ。
*1:2005.8.30朝日新聞夕刊「生者は儀礼決められぬ--言葉を持たない死者に権利」
(p15)
なぜ、あるはずのないそんな灯を見るのか、それは当人が助かりたいと思っているから。
普遍的私の普遍的運命、それは結局自分だけでもうまい事して助かりたいという、個別の自我を核とした普遍的希望により選び取られるのだった。そしてそういう発生故にまたこの普遍的私は、いわゆるひとつの「ひとごとではない大層なお大事な私」に、つまりは他者から見たら「けっ」でしかない私になり果ててもいるのでした。
この断片も引用しておく必要がある。ただし、この断片は上記3つとは少し違う。登場する文字列が「けっ」一つだけである。けっには「」が付いている。それだけでなくこの小説では異例の哲学的文章(普遍的が4つもある)による解説的文章である。
追加されるサンプル
8.けっ