(2)ある市民運動を、過激派として排除しようとする某氏

(1)
前稿「ある市民運動を、過激派として排除しようとする某氏」で、
ある市民活動家HTさんに対して、「(あたかも中核派であるかに印象操作した後)極左」とよび、排除を呼びかけだ菅野氏の発言はありえないものだ、と批判した。

そのような排除の呼びかけ、暴言は、私が思っていたより長く、何度も大声で繰り返されたようだ。困ったものである。

(2)
そもそも、市民運動とは異質な思想をもった他者が共同行動することである。例えば、スローガン一つとっても強い思いを込めた表現行為であり、他人のそれとは食い違う。紛糾つきものであり、妥協なしには共同行為なしえない。そのような「紛糾と妥協」がない組織の方が、もちろん一定の目的を整然と行うためにはふさわしいだろう。千人を超える聴衆を集めた講演会を整然と行うためには、統制のとれた命令系統をもったきちんとした組織が必要である。そのように彼ら(「正常会」https://hyogo-seijoukai.jp/)は2.24集会を成功させた。
それは反斎藤派運動を市民に広く認知させる大きな成果だったと評価しうる。
ただし、それは市民運動の本質ではない、と私は考える。
市民運動であっても統制のとれた命令系統をもったきちんとした組織によってやりたい、という思想はあって良い。正常会が一定の成果を上げたことは認める。
ただそうじゃない運動を悪しざまにいう権利はない。市民運動の本質は、社会正義を求めるとか抗議という公共に関わる意志と、ただの市民の自由(表現意識)との緊張関係にある。ごろごろしていてもいいのになぜあえてデモに行くのか。そこに社会のなかでどう生きるのかというその人の考え方が問われる。政党活動はこうした根底的自由とのふれあいがないので、あまり面白くないというのが私の感覚。まして、命令と統制が好きな人の組織はあまり好きにならない。
ドンマッツ氏は「スパイ入れて乗っ取る」と言った発言を平気でしてしまう思想の持ち主であり、自分たちのグループ以外のものを排除してしまう。
(3)
しかしAという党派に属している人が一人居るからと言って、Bというグループの全部を「過激派」として排除すべきだとするのはオカシイ。つまり自分の感覚に合わないものはすべてダメだと決めているわけであり、それでは他者と連帯できない。運動などできない。最初から市民運動のなかで議論をする前提を欠いた思想だということになる。

「極左暴力集団である中核派関西派に最大限の侮蔑であたって何が悪いんだろう。
君ら、なんか勘違いしてない?その黄色のおっさん、極左やで?」という菅野氏のtwitter発言に対して、
「ヒューマンチェーン第4派の主催者および参加者は、
「極左暴力集団である中核派関西派」ではありません。
個人的な偏見に基づき、神戸の最大の市民運動の一つに敵対し妨害することは、影響力のあるアクティビストとして恥ずべきことです。」と言い返しておいた。
(参照 https://666999.info/noharra/2025/09/19/1992/ )

(3)
諍いはとにかく避けるべきだ、という考えがある。
そういう思想には賛成できない。
「中核派を含む極左暴力集団です」と何度も叫びあげるという一方的中傷を彼らが公然と行ったのは、彼らが市民デモhyogoを斎藤知事反対派内部とは見なしていないということになる。
彼らは自らのグループ(正常会)の内部でも、彼らに疑問を呈する人を吊し上げ排除するということを繰り返してきた。自分たちの狭い常識の範囲を超える人々をすべて敵視し、攻撃する傾向がある。しかも、自分たちの思想の範囲を墨守するというより、ファッションやセンス、どんくささ、高齢であること、トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)など、自分の感覚に反するものを害悪であるかのように排除しようとする。

動画16分02秒には、「小田実のベ平連は統制をしないことをモットーとしている市民運動である。」と西信夫さんが述べたことろがある。

市民運動・政治運動とは自分の思想を基に勢力を拡大しようとするものであり、他のグループとはいさかいが生まれがち。対立をどう処理・対応するか?において、その運動の値打ちが決まっていく。多くの運動はリーダー層(2,3人)の思想・常識を参加者が共有することで成り立っており、思想的には一致点があるがなんらかの点で異質な他者というものを排除してしまいがちである。しかし、グループ内部における異論の許容は絶対に必要なことだ。(ただ訳わからない議論というものはありそれはなんとかすべきだらろう:ただ、野原〜松下がそれに該当しない保証もうないが)
まして、理論的に大差ない他グループに対して、それが他であるというだけの理由で排外的に振る舞い、ケチつけポイントを見つけ出し、最後には大衆の門前で暴言を吐くなど見下げはてた行為である。セクトである極左である、とはレッテル貼りに過ぎない。

市民デモhyogoは多くの団体のゆるやかな結合という形を取り、多くの市民の結集軸たり得ていた。グループ内民主主義や生産的な議論というというものは時間ばかりかかり大変である。しかし大事だと思う。

(4)
このドンマッツ氏のyoutube、これは1時間19分以上あるので、見ようと思われた方もたいてい途中で中断したのではと思う。

4.10兵庫県庁弾圧救援会に関わる部分が(42分00秒ごろ)から約3分ほど。
https://www.youtube.com/watch?v=TUQW6-A5YSQ&t=2525s (頭出し)
確認のための抜書をしておく:
大学生の庁舎内に入ってトラメガを使ったという事件。
「あんなもんね、建物の中に入ってトラメガ使う方がアホなんじゃ。
捕まって当たり前じゃ、ボケ」とのこと。
「・・・(そんな)キチガイどこにおんねん」

動画の最後の方で私にからんできた女が、(Hさん)最後弁護士みたいな奴に泣きついとんですよ。その弁護士がその学生の裁判を扱っている弁護士です。

「仲間でもなんでもない、gotohellだ。」
Aさんは、その弁護士が手を差し伸べただけで「gotohell」と言われてしまう。敵の友達はみんな敵、というなんかすごい関係妄想の世界である。

「ほっておけ。」「会長として言いますけど、傍聴には行くな、」ですって。

以上、長くなってすみません。
野原燐

ある市民運動を、過激派として排除しようとする某氏

自分のこと賢いと言っている菅野氏の発言ぶりを聞いてそれに同意する人も少なかろうが、そんなことはどうでもよい。「その黄色いおっさん」(HTさん)を極左であると決めつけていることが問題。

しかも、「極左暴力集団である中核派関西派に最大限の侮蔑であたる」ことは当然だと言い放った直後なので、HT≒中核派であるかのように位置づけた上で侮蔑したということである。仮にHT氏が中核派構成員であろうが、それだけで侮蔑すべきではない。しかもそれは個人的言動ではない。反斎藤のデモの最中に、ある市民を、極左と呼び排除しようとする。その菅野氏の政治思想が問われるべきである。

https://twitter.com/noiehoie/status/1968649203346735204

菅野氏は、ヒューマンチェーン第4派の主催者および参加者全体を「中核派関西派」と言っているようだ。
少なくとも、上記ツイートによれば、ヒューマンチェーン第4派の参加者全体を、現場で「極左暴力集団」であると決めつけていることになる。

その根拠というのは、このツイートにある「M氏が中核派関西の一員であり、市民デモHYOGOの中で幹部組織である「世話人」の役についている。」というだけである。

市民デモHYOGOは、約40の市民活動団体のゆるやかなつながりにすぎない。ML(メーリングリスト)の他に、月何度かのビラ撒き、集会企画などをするだけの団体である。
来るものは拒まない方針のため、元または現新左翼組織の構成員が会合に参加することもあるだろう。「中核派」というものにアレルギーを持つ人は多く、それには理由がある。しかし、M氏を拒絶しなかったことによって、市民デモHYOGOおよびその企画に参加した市民を「中核派」「極左」と呼び、排除すべきと呼びかけることは明らかに間違っている。

市民デモHYOGOは、あくまで連合体に過ぎず、組織方針を決める幹部組織などというものは存在しない。組織としてありえない、と菅野とドンマッツからは見えたようだが、緩やかすぎる組織だからこそ持続しえた(とも言える)。資本主義社会で通用する組織の常識を絶対視する彼らの方がオカシイのだ。

「長く運動してきたからと言って
市民デモHYOGOのやり方には一切賛同しない。

一時は敬意を持って接したが、蹂躙に蹂躙を重ねられ、今の状態になっている。」とドンマッツ氏は言っているが、「蹂躙に蹂躙を重ねられ」などという事実はなかろう。
去年の集会で、ドンマッツ氏に失礼な行為があったようだが、謝罪はなされている。
なんで「一切賛同しない」と力む必要があるのか?(もちろん賛同してないのだからそのままで良いが、激しい嫌悪のエネルギーを持続する根拠がよくわからない。)

おはようございます。

「新たな、本当に民主的な、県民による兵庫県の民主主義を下支えする運動が必要やから、こないだの県民集会みたいなロートルクソリベラルのやってる自己満足の運動やったからあかんから、みんなで集まってみんなで活動してるんでしょ?」(11577行) 正常会のログから菅野氏発言。

これについて共感できる点もある。 こないだの県民集会の主催者はきちんとした組織ではないので不明確。市民デモ兵庫というMLの中心的活動家がその集会のために集まったもの。

「ロートルクソリベラル」というよりとりあえず「ロートル左翼」と呼んでおく。 1.「ロートル左翼」の欠点。ある目的を達成するために時間がかかる。 また、議論で決めるといいながら、時としてその経過があいまいであり、公開されていないこともあり、あいまいorパワハラ的なこともある。中心メンバーの感覚でものごとが決まっていく。

2.「ロートル左翼」の長所。メンバーの発言や行動について最大限の自由が認められる。意見がちがう人々も活動にさえ同意すれば、一緒に行動することができる。例えば、ある集会をする時、その目的、趣旨などを厳密に定めず、(今回の場合なら、反斎藤の運動を作る、といった)大雑把な目的のために一緒に行動できる。

集会にしろチラシにしろ、お客さんに楽しんでもらえるようなプロの水準というものは想定可能です。正常会ではそうした水準のものを作らなければならないという意識が強いようです。

市民運動(など)において、一番大事なことは、誰に頼まれたわけでもない自分自身の意志で、ある行為を行うことだと思います。twitterで2.3行の文章を書くときも、まじめに考えればけっこう考える時間が必要です。また友人と話あってもいろいろ話をしていくうちに、いろいろなところで驚くほど考え方が違うことに気づくはずです。 そのような悩みにいちいち付き合いながら、行動、発言を深めていくことが、市民活動としての「成熟」ではないでしょうか。 ここでいう「成熟」がないと、例えば各政党などの影響力に振り回され、不満ばかり貯まることになります。

☆「裏側での個人間LINEのやり取り」の禁止など、メンバー同士の二人または数人の直接の意見交換を禁止したいという、思想をはやくからこのグループは持っていたようです。日本共産党的にいう「分派活動の危険性」を警戒してのものでしょう。 とにかく、指導部あるいは討議による結論が先にあり、目標のために異論を唱えず効率的に行動する組織、普通の会社のような組織、をこの会は目的としているようです。 これは私の考える、民主主義的社会運動とは違います。100人居れば100人の考え方があり、相違と議論はいつまでも残るはずです。不和や矛盾をかかえながら、目標において一致すれば良いだけでしょう。

以上、おおむね以前に書いたことの繰り返しになりましたが、私が言いたいことを書かしていただきました。

それと、私が行っている県庁前スタンディングのように、一人でもできる行為をみなさんひとりひとりもっと行われたらよいのにと思います。

いま、どんどん人が抜けてますね。 組織に対して無条件の忠誠を持たない人は黙ってやめてほしい、とメッセージされているような感じだ。 やめるなら、今の気持ちを聞かせてくれ、斎藤を辞めさせたいという当初の気持ちは一緒だったのに、どこで食い違ったのか私たちも考えたいから、という柔軟さを、この組織は持たないようだ。 除名に関するルールと○○委員会をまずきちんと整備すべきでしたね。 野原燐 (正常会 https://hyogo-seijoukai.jp/ を止めるときに書いた文章)

5月に(正常会 https://hyogo-seijoukai.jp/ を止めるときに書いた文章)が出てきたので、参考までに、掲載しておく。
正常会というグループは、異論あるひとを排除するという不健全なグループだったので、もっと早くめんどうでもきちんと批判し、辞めるべきだったね。
だいたい、菅野氏が最初、トキシック・マスキュリニティを口にした時点で、ひっくり返って、戻るべきだった。

近況

 みなさん 暑かった夏もようやく終わろうとしています。ごぶさたしています。野原燐です。

 2023.10.7からのイスラエルのガザ侵攻はジェノサイドの域に達し、ガザ全市を更地にするばかりの破壊、飢餓が進行中です。兵庫県をはじめ、大きな組織の空気はよどみ、歪み、中のひとは苦しんでいるのかもしれません。

 去年3月退職を数日後に控えた兵庫県西播磨県民局長に対する処分が発表されました。斎藤元彦知事のパワハラ・おねだり体質、また、2023年阪神・オリックス優勝パレードについて、県費を支出しないなら、民間で実行させればよいのに、実際は「信用金庫への県補助金を増額し、それを募金としてキックバックさせることで」寄付金を補ったのではないかなど、多くの疑惑を告発した元局局長に対して逆に処分したもの。これは公益通報に該当するものと、後に認められた(主管官庁消費者庁によって)。

公益通報の場合、告発者探しをしてはいけない。しかし斎藤氏はそれに反し告発者を探し(公平校正とはいえない)処分をした。

 その後、二つの委員会報告によって文書の公益通報性は明らかになった。にもかかわらず、斎藤氏はそれを認めず、自己の認識の無びゅう性を主張し続けている。知事発言はトンチンカンなのだが、それを指摘しても知事は論理的能力がないふりをして、応答しない。民主主義の基盤は議論であり、議論の能力を欠いたものが知事である場合はマスコミなど万人に叩かれ辞任すべきだが、そうなっていない。

 このような状況の中で4月10日に、3人の男性(うち二人は二十歳の学生)が知事室を訪問し、辞任を求めた。知事室への入室は拒まれ、2人は知事室前で2分ほど抗議したが、その後そのまま退去した。しかしその後約1時間後元町駅付近で現行犯逮捕された。結局、3人とも逮捕され、二人は22日間の勾留で略式起訴、Aさんは起訴され72日後にやっと保釈されました。

  そもそも刑法に問うべき大きな違法性はまったく存在しておらず、不当な起訴です。そして、起訴さえすればいくらでも長期勾留できるという日本の制度のオカシサは糾弾されるべきです。現在、刑事裁判が神戸地裁で継続中なので、是非関心を持ってください。

(詳細は →4.10兵庫県庁弾圧救援会)

(関連記事 →3月の告発者はまだ死なない)