反スターリニズムとは何か?

さて、吉本隆明『重層的な非決定へ』という1985年の本を手に取ってみた。

「貴方は世界にさきがけて、戦争の責任とまったく同等の重さと規模でレーニン-スターリン主義責任というものがありうること、そしてその責任を問う場所がありうることを身をもって示したのでした」、と吉本は埴谷を評する。p24 そこから20ページほど、吉本のレーニン批判が展開される。マルクス・レーニン主義というものが存在することを前提にしてその周辺でそれを批判しているにすぎないと、埴谷も批判される。

いわゆる新左翼は1960年ごろ以降、反スターリン主義を標榜していたが、それを思想的にきちんと展開できていたか、よく分からない。全共闘運動が反スターリン主義的な情動、思想とともにあったことは確かだろうが。

91年ソ連は崩壊し、マルクス主義自体が検討に値しないものみたいな風潮のなかで、このような問題も忘れられていったのだろうか。
北朝鮮と中国は存在し続け、それらの国家の自由の欠如、人権弾圧(あるいは飢餓など)という問題、そうした権力を支えるスターリン主義としての中国共産党や金日成主義をどう考えるか、という問題は大きな問題として残り続けた。しかし市民の連帯運動としても、思想的にも、それとまともに格闘しようとした動きは少なかった。

東欧・ソ連の崩壊の数年前、ソルジェニーツィンの告発やポルポトの惨劇がありまたポーランドの連帯の運動が盛り上がっていた。一連の現在の社会主義「国」が抱懐する理念と現実の挙動の根柢的な欠陥、を真正面から受け止めて「苦しげな理念批判と自己批判」を展開したのは酒巻さんという無名人だけだったと、吉本は言う。p25

埴谷は「クロンシュタットの労働者や兵士のソヴィエトと、国家権力を掌握したレーニンの党派とのあいだの対立と、レーニンの党派が加えた無態な弾圧の経緯について、詳しく述べ」ている(と吉本は言っている)。p26
それは大事な問題だ。ロシア革命は、レーニンが指導するボルシェヴィキだけが成し遂げたものではなく、「クロンシュタットにおける労働者・兵士ソヴィエトの、権力はあくまでもコンミューンにあるべきだとする非中央集権的な理念」と行動が成し遂げた部分がかなり大きいことは、事実であるし大きな示唆をあたえてくれる。(これについては、『忘れられた革命 ーー1917年』という本を参照して欲しい。)

しかし吉本は、それはちょっと違った問題だと把握すべきだと言う。
クロンシュタットの問題は「一地域的な政治体験での、中央集権派と非中央集権派の抗争」の問題と考えられる。
しかしそれとは違い、スターリニズムは、過渡期における資本制的な過剰国家管理体制の一変態、国家社会主義のヴァリエーションとして理解すべきだ、というのです。p27

「レーニンらの党派の中央集権的な理念と、クロンシュタットの労働者・兵士のソヴィエト・コンミューンの非中央集権的な理念との対立・抗争。弾圧」この対立がロシア革命最大の問題であることを誰も疑わない。しかし、吉本は「対立にすぎない」と軽く扱う。人類の社会制度史が革命されて「広範な物言わぬ大衆と市民の貌」がせりあがってきた、と言いうるために、欠けているものがある、と判断する。

どういうことか。
消費としての賃労働者(階級)の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念を超えていくか、という課題に革命の問題があるのだ、と吉本は言うのだ。生産者としての存在様式の団結により階級形成、理念形成、革命闘争をおこなっていくプロレタリア革命の理論とはまったく違うものを、作りださないといけないと吉本は言うのだが、暗示的な形でしか表現できていない。

「国家と革命」の国家観について吉本は全否定はしない。「精いっぱいの理想主義」と評価できるところもあるとする。しかし、大事なことは下記だろう。この文章は1985年つまりソ連崩壊前のもの。つまり左翼の間ではレーニンの権威がまだ残ってた時代だ。この頃、レーニンのテキストに遡り、否定すべきところは否定するという作業を果たそうとした人が世界中にいたはずだ。しかし、今ではただ読まなれなくなった。それではただの流行にしたがっているだけになる。

「監獄その他を自由にすることができる武装した人間の特殊な部隊」を国家とよぶという部分もたしかにエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』の文中にあることはある。しかしそれは極小のものに過ぎず、現実の「国家」や「権力」の精緻な動きの記述には耐えられないものだ。p34
「すべての市民が、武装した労働者である国家にやとわれる勤務員に転化する。」とかいうのは、レーニンによって短絡と狭窄を受けた「権力」の規定がうみだした歪んだ国家像だ。それは「どうかんがえても強制収容所群島にゆきつくほかないものです」と、吉本は断言する。p37

「「国家」とか「権力」とか「法」とかいう共同の幻想が、どんな実体と具体的な現実機関と、表裏となって存在するのか」といった問題を把握していかなければならないのだ。現時点で言えば、プーチンの大ロシア主義や愛国主義というものが復活してくる危険性を吉本は予見したわけではない。ただ、「共同の幻想」が大事だという点では当たっていたとも言える。

さらに吉本は、レーニン『哲学ノート』を読み、ヘーゲルに言及する
「ヘーゲルの論理学の美点は、(力運動)・移行・分極・対立・同一性・差異などの概念を論理学に登場させて、動く世界の内在的な必然的な連関を導いているところにありましょう。だがその論理学の欠陥は、世界を閉じられた枠組(輪郭)をもったまま規定可能だとみた点にあると思います。」
この吉本の批判は見事なものだと思う。そしてそれは、直接レーニン批判につながるものだ。
ヘーゲルの概念のうち「絶対者、神、天、純粋理念」などをレーニンは否定する。だが吉本は「人間が自然を喪失してしまった後の、自然と等身大の真理概念で、すべての概念の「終焉」として意義深いものだ」と書く。
西欧近代哲学とは「神」概念の解体の歴史だったのだから、21世紀近くなって吉本が「神」を捨てるなと説くのは奇妙に思える。
「世界を閉じられた枠組(輪郭)をもったまま規定可能だとみる」こと、それは世界を一つのシステムとしてみることに近いと思うが、それをなんといっても避けなければならないと、吉本は考えたわけだ。
これは、現在価値を見出すべき思想だと思う。

ゴーダ綱領批判を読んでみた

マルクスのゴーダ綱領批判は、ちょっと意外な文章から始まる。
「労働はすべての富の源泉ではない。」価値は労働力から生まれると資本論には書いてあるのではないのか。(ちょっとよく分からない)
自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である。とマルクスは言う。なるほど。
「そして、労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない。」
労働がそれに必要な対象と手段をもって行われる、とするならば「労働は富の源泉だ」は正しい。土地とクワがないときに耕す労働をする人はいないので、たいていの場合それは正しいことになる。
しかし「土地とクワがないとき」どうしたらよいか、つまり失業したらという困惑とすれすれのところに労働者は生きているのであり、その言葉を意味あるものとする条件を、当たり前のこととして語らないブルジョア的言い方を許してはいけない。

人間が自然に対して、それに働きかける権利を有する者として、それに働きかけるとき、富が生まれる。使用価値(価値)が生まれる。p15
労働者は「労働に必要な対象と手段(対象的労働条件)」を普通持っていない。だから、それを持っているブルジョアの奴隷にならないといけない。
「労働はすべての富の源泉だ」とポジティブに言い切ってしまうと、労働者の従属関係とともにしか労働は成立しえない、という事情が見えなくなってしまう。と、なるほどと思う。
「労働はすべての富の源泉だ。労働者がこの社会を作り上げている」というのは元気が出るスローガンだし、まったく間違っているわけでもないが、厳密に考え発言していく方がよいのだ。

「有益な労働は、ただ社会のなかで、また社会をつうじてはじめて可能である」
マルクスが「労働に必要な対象と手段とをもって行われる場合」と明確に語っている」ところを、「社会のなかで、また社会をつうじて」とあいまいに表現している。

でそれによって、「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全員に帰属する。」
現在の社会では格差が問題になっている。社長が労働者の100倍の報酬を貰ったりしている。それに対して、例えば「Twitterの全収益は、平等な権利にしたがって、Twitterの全員に帰属する。」と考えてみることは、思考実験としては行うべきことのように思われる。

全収益を分けるとすれば、まず「社会を維持するために必要なもの」を控除しなければならない。
ただし「社会を維持するために必要なもの」はマスクスによれば、直ちにかぎりなく拡張解釈されてしまうものだ。政府とその付属物の要求、およびブルジョアたちの私有物が円滑に働くことができるための要求、として。
空虚な文句は、口当たり良く見えるけれども、どんなふうにもこじつけられる。つまり支配者(ブルジョア)の解釈がまず適用されるとかんがえておかなければいけない。

「労働はただ社会的労働としてはじめて、富と文化の源泉となる。」この命題は正しいとマルクスは言う。しかし、
「労働が社会的に発展し、またそのことによって富と文化の源泉となるにつれて、働く側の貧困と見捨てられた状態、働かない者の側の富と文化が発展する。」こちらの正しさも忘れてはいけない。
そして、現在の労働者に、このような災禍を打破せざるをえないような物質的その他の諸条件を現在の資本主義社会はつくりだした、論じきるべきだった。

「公正な分配」をゴーダ綱領は求める。
しかし「公正な分配」とはなにか?現在の生産様式の基礎の上では今行われている分配が公正なものだと主張されるだろう。

労働の全収益を社会の全員に配分する!と語ると、皆の人気をえることができるかもしれない。しかし実際に分配できるのは、各種控除すべきものを控除した後の額である。また「社会の全員の平等な権利」をことばのあや以上のものとして確定するのはひどく難しいだろう。

以上のように、マルクスは、ポピュリズム的語り口が労働運動のスローガンに入ってくることを厳しく排除しようとした。資本主義がその冷徹な法則を貫徹させ、合理的であるがゆえに、労働者を苦しめるのだ、ということが、マルクスが資本論で発見したことだった。

以上が、「ゴーダ綱領批判」の(わかり易く歪めた)概要である。

労働というものが、それに必要な手段をもって自然(あるいは人工的な自然)に働きかけすべての富を作っていくのだ、という基本思想は貫かれている。21世紀の現在、労働という言葉はかって持っていた力強い価値を失っているように感じられる。インターネットで伝達される情報や巧みに組み合わされ人を惑わすイメージの乱舞といったものが、大きな価値を生んでいるかに見える。
ただ、現在も一日8時間労働のサラリーマンといった雇用形態は大きな比重を失っていない。むしろそうでない雇用形態が限りない搾取に陥り易いことが問題になっている。
労働というテーマを私たちが処理できていない限り、マルクス・エンゲルス全集の一部を読んで見るということも、意味のあることである。