「週末研 – 沖縄花見」感想

kurameさんという方が書かれたのだろう「週末研 – 沖縄花見」という文章、読んでみた。
http://kurame.egloos.com/m/5362697

パク·ユハ教授とイ·ヨンフン教授にシンパシーを持っている人みたいだが、それはともかくとしてあまり感心できなかった。

このエッセイは、はじまりの部分と
1.国家の暴力と国民の暴力
2.<国民の暴力>に対する記憶と関連モニュメントの不在
3.魂はどう英霊となるのか –沖縄平和記念公園
4つの部分からなる。

この文章は、週末研というグループがあって、それで沖縄花見という小旅行をした感想である。
この方の基本的な出発点は、「軍事政権によって犯された様々な国家的暴力、日本軍によって犯された様々な暴力とそれを利用した民族主義の鼓吹ロジック」という韓国の左派のいつもの論理たちに対する、「ものすごい疲労感」である。この「左派の論理」と同質のものを、沖縄における反戦など言説にもこの方は感じた、ということなのだろう。

ただし、韓国と沖縄/日本ではロジックの構成に大きな差がある。というのは、
韓国では、国家暴力批判は<国民の暴力>への肯定に結びつく。
しかし、「琉球の人々は、日本人からは排除としての暴力を受け、同時に国家による暴力の対象となってきた。 」つまり、国家暴力批判は<国民の暴力>批判にもなる。ということで、韓国と沖縄は対極的である。
とこの方は云うのだが、「日本人にとって(日本国民の無意識において)忘れられた存在が琉球人」なのであれば、日本国家暴力批判は<沖縄県民の(暴)力>への肯定と結びつくという回路は存在するはずだ。現に、米軍基地の有刺鉄線を切ったという罪に問われた山城博治氏は日本国家の進める辺野古新基地反対闘争のリーダーであり県民から広い支持を獲得している。

韓国の国家暴力批判をしているのは韓国の左派であり、<国民の暴力>肯定しているのも韓国の左派である。
しかし日本国家暴力批判しているのは沖縄人(と左派日本人)であり、<日本国民の暴力>批判しているのも沖縄人である。
韓国の左派は現在政権を取り、したがってある程度ネーションと重ねることも許されるが、沖縄人はマイノリティでしかなく独立派すら形成しておらず、ネーションと重なることはありえない。作者はこのリアリティがよく分かっていないので、文章の論旨が通っていないことになった。

「沖縄が日本人に一種の国民的な超自我を呼び起こす対象である理由は、当時の日本人が<国民戦争>をしたからだと思う。」とまで、作者は言っている。日本人がそうした超自我を持っているなら、辺野古新基地建設などとっくに止まっているはずで、残念ながらそうしたものは形成されていないのだ。

「沖縄について考えるとき、日本人の反省は国家的暴力に対する反省と同時に、国民的暴力に対する反省でもあり、すなわち、国民-国家に対する反省であり、二つはきちんと分離しない。」
「日本人にとって(日本国民の無意識において)忘れられた存在が琉球人であり」と書いている方が正しいのであり、日本人は沖縄における国家的暴力すら反省していない。
<日本国民の暴力>については左派日本人すら批判しているとは、私は思わない。

「韓国ではまともな国民-国家が形成されたことがない」なんかずいぶん乱暴な議論だな。
朴正煕(パク·ジョンヒ)が<近代人として韓国人>を作った。
「く韓国人が持っていた日本に対する考え(=近代国家に対する考え)を、ひいては韓国人の<理>をハッキングし、一種のトロイの木馬を注入して、前近代的な方向性を近代的な方向に操作しようとする。 (これについてもっと詳しく知りたいなら小倉紀蔵さんの本を参照)」ふーん。
しかし、左派は朴正熙を独裁者、親日派、さらに倫理的に正しくない存在として全否定する。

「ブラックリストのようなものがあれば彼らにとって最高だ。」朴正熙から光州事件まで、ブラックリストどころか死体がごろごろあるのだから、こうした物言いはいただけない。
光州事件は、「国家の暴力が韓国の<理>を抑圧している」と捉えることはできないんじゃないかな。<理>が明らかにあったのなら無残に敗北することもなかったはずだ。

現在、文在寅政権は「積弊の清算」として韓国社会を大きく変えようとしている。作者はそれに批判的なようだ。
「国家は、親日派から続いた軍部勢力やその追従者たちが操縦する怪物のようなものとして描かれる」、文一派は国家を平板化し道徳的な形で全否定すしてしまう。彼らの想像力の中における親日派と正義のわたしたちの対立図式だ、とする。

私は韓国政治のことを一切知らないのでこの方の批判の正否を判断できない。しかし、文在寅を支える勢力は、「積弊の清算」などだけを目的にしているわけでもないだろう。最低賃金を上げるなどの労働政策、交通政策、弱者のための「出かける福祉」、参与連帯などの行政監視運動などさまざまな分野の活動があると聞いている。単一の「反日」派などというものではないことは、民主労総と文在寅の対立を見ても明らかだろう。
左翼勢力の側から大挙metooの告発事例がでたというのも、滑稽かつ悲惨な例ではあるが、単一の「反日」派の非存在を証している。

文一派は観念的かつ統一的ないわば神学といったものに依拠していると、作者は考える。
文一派の神学の女神が「平和の少女像」であるなら、それを転倒すべき〈鍵〉は「韓国では忘れられており、絶対に認めたくない<自発的な>日本軍への参戦者と日本軍慰安婦たちの<肯定的な>記憶」(パク·ユハ教授とイ·ヨンフン教授が発掘した)だと作者は云う。
「韓国人が正しいと信じていた両極端的な善悪観に決定的な分裂をもたらすもの」なんだ、と作者は云うのだが、そうだろうか。

例えば、集団自決というのは日本軍が沖縄人を殺したのではなく、例えば「沖縄人の母親が我が子を手に掛けた」といった事例もあった。そうした事実は沖縄県内や日本の左翼においても別に隠蔽などされていない。直接的ではなくとも日本軍による加害という構図のなかでの出来事であったと理解される。
「韓国における<自発的な>日本軍への参戦者と日本軍慰安婦たちの<肯定的な>記憶」といったもののそれと同じ構図のものに過ぎないと思われるのだが、違うのだろうか。
日本軍慰安婦たちが日本軍との関係においては被害者だったと、パク·ユハ教授も認めているはずで、それ以外がそれほど大事なことなのだろうか。よくわからない。
日本軍への参戦者と日本軍慰安婦に自発性があったという認識が糾弾される韓国国内のあり方について私は知らないので論評できない。しかし私の理解するところでは挺対協はフェミニスト団体であり、元日本軍慰安婦に対する戦後韓国社会の抑圧を家父長制として糾弾しているはずだ。つまり挺対協は反日団体ではないはずだと思うのだが、私の認識は間違っているのだろうか?

国民的反省、国民的超自我を形成することを作者は求めているようだが、よくわからない。それは文一派は国民的主体を形成しつつ在ると自負していることと、論理的には何処が違うのか。

第三章の感想については省略する。

(ところで「韓国左派の方が、北朝鮮に対して人民たちが受ける苦痛と人権弾圧は完全に無視して、金氏一家に好意を抱くのは有名な話」とするならば、それは致命的な過ちであり糾弾するしかない。)

韓国の方がたまたま、日本語で書かれたブログを読ませていただいた。本来それほど広い範囲の読者を想定している文章ではないのかもしれない。
ただ、パク・ユハ氏の『帝国の慰安婦』にしても、私はその本自体よりも日本におけるそのフォロワーたち(有名な作家、学者など)の存在に非常に腹を立ててている。パク・ユハ氏も『反日種族主義』も日本に持ってくると、間違ってベストセラーになってしまう、パク・ユハ氏も眉をひそめるようなネトウヨまがいが大量に存在しているためである。


今回の文章は、非常に興味があるテーマを扱っているので、感想を書かせていただいた。