移民制限論の是非

https://wan.or.jp/article/show/7070 上野千鶴子
https://wan.or.jp/article/show/7074 清水晶子 
読みました。

「「移民一千万人時代」の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです」という問いに清水は答えない。
フェミたちや自民党がどう動こうが、移民は少し増え、しかし人口不足をおぎなえる程は増えないのではないか?
上野は「移民制限論」を唱える。その場合、国家はより強力な再分配政策を取る必要があることになるはずだ。
清水が「移民増加論」を取るかどうかを上野は問うている。その場合、社会のあらゆる領域における反レイシズム、移民統合化を成し遂げる必要があるが、フランス・ドイツの例から見てそれは無理だろう。
上野の議論は、国家として責任を取れるのか?、というレベルで問われている。

移民制限論/移民増加論、どちらかをとらねばならない。どちらを取るにしても、国家も市民も手を汚す覚悟は必要だ。
上野が言っているのはこのような図式だ。

それに対して、「共生の責任は誰にあるのか」という文を書いた清水は、何を語っているのか?

「「社会の女性嫌悪の悪化を避けるために女性の〈社会進出〉を制限する政策」を男性が主張し採用する」という例において、「男性」という主体はしばしば普遍を名乗るが普遍であってはならないものとして否定される。
清水が提出するのは、日本社会は誰のものかという問いだ。

それは日本社会に生きている、とりわけ日本社会で日本国籍を保持して生きている人々の問題です。 「わたしたちは移民や外国籍住人の権利を守れないし、その結果社会不安が起きたりしたら困るから、移民や外国籍住人が増えないように彼らの移住の権利を制限しましょう」と言うのは、「わたしたち」の問題を「彼ら」に転嫁することに他なりません。

日本人のマジョリティ(投票に行くような人)に対してマイノリティもいる。マジョリティの利害でマイノリティの利害を制限するのは許されないと。

どうだろうね。男性だけが国民を名乗ることはもはや誰も許さないだろう。しかし「国民」が国民の利害において行動すべきでないというのは、なかなか納得させるのに難しい理屈になる。

上野発言を弁護しようと思って

書いてみたが、弁護にならなかった。
この文章の趣旨は、
1,人口1億人の維持
2,出生率1.8の実現を 安倍氏は目的に掲げる
このことを、全力で否定するためにこの文章は書かれている。

1,人口を維持するためには、自然増と社会増。
自然増は見込めない(3)
移民の受け入れについて考える。
移民を受け入れると、社会的不公正に悩む国になる(4)
移民を受け入れず、人口の減少を受け入れて、衰退する(5)

4か5かを選ぶしかない。(5)を彼女は選ぶ。
安倍の掲げる1と2がいずれも空語であるのであるから、大量移民がなければ自動的に5を選ぶしかない。
「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。」(6)
問題はそんなことができるのか?である。現在生活保護をはじめとした福祉予算は増える一方、一方税収はどんどん減る。極端な再分配政策を取らなければ「みんな平等に、貧しくなる」ことなどできない。
(6)の文章は、みんなが貧しさを甘受する覚悟さえあれば可能であるかのようだ。しかしみんなが貧しさを甘受する覚悟があっても、ネオリベ思想を弾圧し極端な再分配政策を取る、ということがなければ、それは不可能だろう。
NPOなど、「協」セクターに期待するのはけっこうだが、再分配についての大きなデザインなしには、NPOにも何もできないだろう。

移民の流入が社会的不公正と抑圧と治安悪化をもたらすといった文言が批判されている。まあもっともだ。
ただ、移民を多少受け入れようとも「人口減少なら衰退」という常識を覆さない限りにおいて、「みんなが貧しくなる」といった結論は避けがたいのではないか。
人口の半分近くが餓死線上といった事態を避けたければ、再分配について正面から考える必要があるのではないか。

ただ、私も上野さんと同じでこの日本国家が極端な再分配政策を取る可能性はないだろうと考えている。であればどうするか?

追記:ツイッターから

「みんな等しく貧しくなる」というフレーズは面白いとも考えられますね。貧しい人は貧しいままで、大金持ち、金持ちが富を全部吐き出すという意味なら。
革命になります!

〈みんな〉〈平等に〉〈貧しくなる〉、を考えたい。上野とその異端の弟子ともいえるイダヒロユキはそれぞれ「ひとり」をタイトルにした本を出している。そのような「ひとり」を思想の根底から再検討することが必要。端的には自分がなぜ子供を持てなかったのか考える。
〈平等〉についてはものや関係を濃く共有していく、グレーバー(負債論)がいうコミュニズムが大事。〈貧しさ〉については、シェアルームのようにプライバシーを一部切り捨て別のものを獲得する方法が大事。〈みんな〉については国民国家のごく一部の人たち(貧者中心)が
連帯する仕組みを作りたい。
身体の脱資本主義化だがこれのためには途上国やイスラムに学ぶ必要がある。上野批判派が声高に叫ぶ「多文化共生」は観念的な理想論でしかなく敗北するしかない。そうではない自己身体の変容による〈多文化共生〉を、獲得するチャンスだ。(2/14)