スキャンダラスな女たち

 イスラエル女性たちがヨルダン川西岸地区を勇敢にも行進し、命を落としたパレスティナの男性や女性たちのために黙祷を捧げるとき、ニューヨークのイスラエル女性たちのグループが痛ましくプラカードを掲げて、過去五年間で殺されたパレスティナ人の六ニパーセントが二一歳以下の子供たちであることをわたしたちに思い知らせ、彼女たち/かれらと母親たちのために嘆き悲しむとき、彼女たちは、裏切り者、売女、レズビアンと蔑称される。なぜなら、彼女たちは、人間である彼女たち/かれらのために哀悼することを通じて、敵とされる者たちを想像し得る限りの最悪の野獣として扱うことを拒んでいるからである。

「フェミニストの想像力」ドゥルシラ・コーネルp138現代思想200301月号

 イスラエル国家がパレスチナ民衆を抑圧し殺害しているのであってその逆ではないことについては過去何度も書いたつもりだ。アメリカのユダヤ人にもイスラエル国家の過剰な暴行に心を痛める多くの人たちがいる、それを知ることも大事だ。ただ言いたいことは、「敵とされる人たち」というのとはだいぶ違うが、かって「日本人でも白人でもない」「女性」であるという理由で沈黙に押しこめられていた人々が語り始めたとき、わたしたちは何かの理由を付けてそれを聞こうとしなかった。そこにはやはり(歪んだ?)ナショナリズムが造った境界線があろう。

 今、従軍慰安婦を主題にした「裁判」をめぐる事件が大きな話題になっているが、誰も従軍慰安婦を直視しようとはしていない。非国民と名指されるのを怖れているからであろうか。それとも最も安易な言説を行使する者という汚名を怖れているからであろうか。

「合衆国市民であるラディカルなフェミニストたちはあえて政治的に汚名を被るべきである。*1

 わたしたちは天皇の有罪を求めているのではない。わたしたちは「慰安婦」たちの意を迎えようと思っているわけではない。ただ過去の事実*2にできるだけ素直に接近しようとし、慰安婦たちの主張を聞きその上で、判断しようとしているだけだ。下に掲げるような時効を理由にした門前払いはわたしたちに何も教えてくれない。わたしたちは他者からの申し出に対し対等な者として対応する。裁判官が不当な判決を出せば再審請求するだろう。

 従軍慰安婦を直視しようとしないひとたちに対し、いくらソフィストケイトされた理由を口にしようと、スキャンダルの臨界を越えないという無意識に従っているのではないか、という疑いを野原は持ってしまう。

*1:コーネル、同上p139

*2:日本軍の犯罪的行為の膨大さ

より高次の正義の存在

民衆法廷の主催者の立場と「東史郎裁判」についての孫歌の立場には、前者が「法的な手続きにのっとっていない(非正統的な」パフォーマンスを弁護し、後者が「法的な手続きにのっとっている」はずの判決を批判する、という違いはあるものの、「法」の外部にある「正義」の基準に照らして現行の(日本の)法体系を批判している、という姿勢では共通しているように思われるのだ。これはなにもこの両者に限ったことではなく、ポストコロニアリズムの立場から現行の(先進国の)民主・法治・自由の欺瞞性を批判する議論は、どうしてもこういったより高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢から免れていないのではないか、という気がする。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050123 梶ピエールの備忘録。

民衆法廷が「「法」の外部にある「正義」の基準に照らして」ものごとを裁いたというのは当たっていないでしょう。単に日本の裁判所で適用されるべき法より若干広めの「法」を基準にして裁いた、というだけのことでしょう。*1 とにかく「正義を模索すること*2」を、すぐに「より高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢」と言いかえるのはやめていただきたい。

*1:判決を読んでいないので詳細には論じられないが

*2id:noharra:20050122参照

恣意的な「法の不在」

女性国際戦犯法廷を真正面から擁護する論者がいない、と書きましたが、

id:mojimojiさんは、「シンパシーを感じる」と明言し、いろいろ文章をかいておられます。わたしは彼の主張に同意するものですので、簡単に紹介させてもらいます。

一般傍聴を認めていない件

 全面的な一般傍聴を認めるのがベストなんだろうけど、当時、従軍慰安婦の論点で政府を批判する集会は暴力的な右翼シンパが出没してた頃で、

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050121#p2

一般傍聴がないことの弊害がどのように避けうるかといえば、それは裁判の内容を事細かに公開することによって、かなりの程度なしうるだろう。これについては、(略)『女性国際戦犯法廷の全記録』、『女性国際戦犯法廷の全記録〈2〉』を見ればいい。

弁護側代理人がいない

 これについては、「呼んだけど来なかった」に尽きる。

従軍慰安婦問題については、オランダ人に対する事例を除き、法的責任を一切問われておらず、その調査さえ日本政府はしない(それどころか、妨害さえしていると取られても仕方のない状況さえある)。問題にされているのは、恣意的な「法の不在」なのであり、そのような行為がまかり通っている以上、法を僭称しているのはむしろ政府の側であるという理屈は十分説得力を持っている。

それに対する反論、おおや氏の。

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000148.html

(しかし私は「正義は(主に法的な)手続きを通じて構築される・示されるものである」として独立した正義の存在を認めない立場であるから、そもそも前提を共有していない)方の意見。

「正義も各個人の同意に基いて構成されるしかないし、」日本国家が同意しなければ正義は一切成立しないと。

控訴棄却

http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/isaiban_ichiran.html 「慰安婦」裁判一覧 を見ると多くの裁判があって、負けてきたことがわかります。

■(東京高等裁判所判決 2000.11.30)平成一一年(ネ)第5333号 謝罪等請求提訴事件

【判決要旨】 控訴人  宋神道  被控訴人 国

の一部分だけ引用します。

一 国際法又は条約に基づく直接の請求権について 及び

三 国家賠償法に基づく請求について、については全く抜かしました。

二 民法に基づく請求について

1 従軍慰安婦の設置運営は、戦地での旧日本軍兵士管理の一環として行われたものであって、慰安所における慰安行為ないし売春行為に旧日本軍の公権的監督が日常的に及んでいたとまでは認められず、旧日本軍と慰安所経営者との間には慰安所を軍が専属的かつ継続的に利用する専属的営業利用契約に相当するいわゆる下請的継続的契約関係があったと推測される。

 控訴人らは、その意思に反して慰安所経営者との従軍慰安婦の雇用契約を締結することを強いられ、隷属的雇用関係の下で、慰安所経営者と旧日本軍の管理の下で、日常的に長期にわたり旧日本軍人に対する強制的売春を強いられていたものであると認められるから、当時の公娼制度を前提として考慮しても、慰安所経営者と旧日本軍人の個々の行為の中には、控訴人らの従軍慰安行為の強制につき不法行為を構成する場合もなくはなかったと推認される。そのような事例については、被控訴人に慰安所の営業に対する支配的な契約関係を有した者あるいは民間業者との共同事業者的立場に立つ者として民法七一五条二項の監督者責任に準ずる不法行為責任が生ずる場合もあり得たことは否定できない。

(略)

3 控訴人ら大韓民国の国民の日本における財産、権利及び利益については、昭和四〇年の日韓基本条約、協定の成立までは、その処理、権利等の実行の帰趨が確定していない状態にあったと認められるから、このような特別の事情があることにかんがみると、控訴人が遅くとも昭和二〇年八月十五日迄に取得した可能性がある被控訴人に対する損害賠償請求権については、その除斥期間の起算日は、…昭和四〇年一二月十八日であると解すべきである。そうすると、控訴人の被控訴人に対する損害賠償請求権等は、昭和六〇年一二月十八日の経過により、除斥期間の満了によって消滅したものと認められる。

http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/zainichi_hanketsu_kou.html 在日「慰安婦」裁判高裁判決

日本と中国の間に人権・人道意識の差はあるのか!

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3562 電脳補完録  拉致問題解決まで

資料 : 日本と中国の間に人権・人道意識の差はあるのか!

投稿者 trycomp(野口孝行) 投稿日時 2005-1-21 21:32:14 (273 ヒット)

「日本の裁判所で難民ではないという認定が出たので、国内法にのっとって送還せざるを得ない」

「調査の結果、難民としての身分は確認できない。人道主義を掲げるなら当該国の国内法に則り合法的な方法と手段で実施すべきである」

驚くほどの酷似である。冒頭の二つの文を見比べた瞬間、私は言葉を失い自分の目を疑った。最初の声明は、昨日20日、UNHCRよりマンデート難民として認定されていたクルド人の強制送還に抗議を申し入れた福島社民党党首に対する南野法相のものだ(1月20日毎日新聞)。二番目は、昨年中国国内で北朝鮮難民を救援中に拘束された後、中国国内で裁判にかけられた私自身に下された判決の中の一部だ。この二つの見解は、日中両国の難民に対する姿勢を如実に表している。そして何よりも恐ろしいのは、日本が難民問題という普遍的人権の問題で、あの中国とぴったりと寄り添っているということだ。いつから日本は中国のような非人道国家に成り下がってしまったのか。それとも、日本が人権・人道に重きをおく国であるというのはまったくの幻想だったのか。

法と正義

id:noharra:20050123 に N・Bさんからコメントいただいた。

1/23は長くなり過ぎなので、こちらに再掲しお返事します。

# N・B

「はじめまして」

『 どうも、ちょっと「法と正義」の問題について思ったのですが、「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?梶さんの議論は梶さん自身の関心においては彼の「正義」を示していると思います(私はある程度それを認めますし正当だとも感じます)。お二人の言説は「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現すということの現われとしても指摘としてもきちんと検討すべきではないかと思います。

 現在の状況は私は最も近くの権力への服従という結果がもたらされるとい

う意味で、政治的ロマン主義(それにシュミット自身)の帰結が参考になるのではと思います。ただ前提として、かつてドイツでそうっだったように自覚的思想のレベルではともかく、梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがあるのではないでしょうか?それが歴史からの反省ではないでしょうか。お二人の言説は政治的立場はある程度違っても「現実主義」という流行の罵倒語でくくれると思います、お二人が「専門家」として語ることはその現われと思います。しかし「現実主義」が勝利してしまう理由のきちんとした解明とそれに対抗する手段を私たち(失礼!)が持たないのも確かだと思います。先に出した北田さんの「責任と正義」はそういう状況に対する打開の試みと思います。ライブラリ相関社会科学の最新号(すいません未見です)などにかかれている思想史家の議論もそういう意味で参考になるのではと思います。どうも釈迦に説法のようですが、すいません。失礼します。』

正義は遂行的に

N・Bさん

はじめまして。コメントありがとうございます。

「「正義」は論理的根拠としてではなく遂行的に現れるとすると、これは案外おおやさんの立場と近いのではないでしょうか?」

なるほどそうかもしれませんね。(従軍慰安婦問題とか言うと議論がすぐに感情的に過剰に対立的になる危険性があり注意しなければいけませんね。)

北田さんの「責任と正義」ですか。前から気になっていたのでこの際買ってみよう。わたしは勉強不足で、N・Bさんが前提にされているのであろう多くの本を全然読んでいません。(2,3冊読んだのは立岩氏くらい)

「「責任のインフレーション」(北田暁大)という事態が思わぬ反動的効果を現す」ということも分かったようで分からない。

梶さんやおおやさんと「共有してしまっている」何かがある、というのは、そうだと思います。ただ、「歴史からの反省」、というのがよく分からない。

孫歌と結託した溝口一派がいつまでものさばっているのが気にいらんというようなのはどこにでもある関係性なのかもしれないけど、学界外部にはほとんどないのでは?

わたしは全くの素人です*1。ただ、いまや戦争のことは誰も実体験としては知らないわけで、そこで声の大きい方が勝つ(大衆のイメージ操作に成功する)ということは事実起こってきていることだと思います。

緻密な議論は必要ですが、慰安婦あるいは兵士の声に耳をかたむけるという行為がまずは必要だということになるのではないでしょうか。傾けたからと言ってヒステリックな慰安婦主義者にはならないでしょう、だいたいそういう者がどこで実害を及ぼしているのかが、よく分からない。(わたしもあまりできていないが)

ぜひ、もう少し説明してください。

*1:デリダや岡野氏の文章の一部をむりやり引用して書いているだけで、それらの文章がふつうどう読まれているのか分かっていません。ですからコメントはとてもありがたいです。

N・B氏発言(2回目)

(1/25朝、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

# N・B 『 なんかわかりにくい書き込みすいません。一段落目と二段落目の関係が不明確ですね。不勉強なくせに自分の知識を前提としすぎでした。

 私の理解を元に強引にまとめると「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う「弱い責任理論」は、現実の世界で起こる膨大な加害・被害を免罪してしまう。それは近代社会の現実から来ている。しかし、免除された責任を問おうとする「強い責任理論」(自由主義・N・B)は、責任の範囲を確定できないため、慰安婦の「声」だけでなく、梶さんの「声」も8lこれはある程度政党です)、さらにはユダヤ陰謀論者の「声」まですべてをもとに責任を問えることになってしまう。端的にいえば、魔女狩りが起こってしまう(私が補足すれば、それは結果的に魔女狩り的「弱い責任理論」を野放しにする)。デリダとおおやさんの類似点は本人が書いていますね、デリダについての論難には賛成できないけど。』

# N・B 『 2段落目以降ですが、「歴史からの反省」とははきっりいえば、シュミット(その他多くの人々)のワイマールからナチスにいたる行動の帰結のことです、法治主義を守るよりマシな道(反共主義という前提があるとはいえ)を選んだ結果が、「総統は法を守った」(「長いナイフの夜」のときのシュミットの言葉)ですから。

 シュミットは思想としても、彼が住んでいたワイマールドイツの問題としても批判するだけではすまない問題を突きつけていると思います。まあ、ベンヤミンファンとしては人事ではないと(この二人は思想的にも関係がある)。

 梶さんが「どこにでもある関係性」を動機の一部にしていることは、文章を読む限り本人がアイロニカルに認めていると思います。

>声の大きいほうが勝つ

 これを積極的に受け入れるのが「現実主義」ですね、でも声が大きくなる理由とそれが受け入れられる理由、さらにそれへの具体的な対抗が必要だと思うのです。

「同意=正義」論も、「現実主義」という問題を抜いて考えるとやばいと思います。

 ところで、「責任と正義」の後半はこのあたりを主題にしていると思います。

>どこで実害を及ぼしているのか

 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。戦術上の問題もあります。ですから、彼らがなぜそう思うのかどうすべきかはをきちんと考える義務はあると思います。

>ヒステリックな慰安婦主義者

 気になるのですが、梶さんのブログに、モジモジさんがコメントしたときに、「ヒートアップしないで」と書いています、論拠なしで一方を敵に間違っている書き、その相手に単純にこう書くのはちょっと問題ではと思いました、今度の野原さんの文章を読んでも違和感を感じます、「ヒステリック」とか「ヒートアップ」のような言葉は(それが適応される相手がどういう存在かを暗黙の前提として)、それこそ魔女狩り的レッテルとして機能しているように思うのですがいかがでしょうか?

 ちなみに私も全くの素人です。でも、人文・社会科学は「専門」の境界設定がはっきりしないし、「専門家」でも意見が違うのは厄介です、どこまでが「定説」でどこからがそうでないのかわかりにくいので素人としては困ります(居直っちゃいけませんが)(笑)。

 前のコメントの3行目は、(これはある程度正当です)です。

 では、長々と失礼しました。 』