報道の自由の終わり

 番組改竄事件へのコメントとしては、研幾堂さんの下記が分かりやすく納得がいった。

http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20050116

 今回の報道で、改めて一面の記事になるほど、新たに加わった事実は、放送前に政治家が、その修正を指示要求していたという点が、上記二政治家へのインタビューによる確認も含めて、明らかになったというところにある。

(略)

ところが、この報道は、ほんの数日のうちに、逆襲を受けて、現在、朝日新聞の劣勢というところである。NHKが、例の如く、知らんぷりと頬冠りと蛙のしゃっつらで、何らの問題も無かった、と逃げているのに加えて、不思議なことに、先の二代議士が、手のひらを返したように、放送日前に面談したことも、意見を述べたこともなかった、と言い始めたことで、スクープがスクープでなく、そのまま虚報となってしまうかの様相を呈してしまった。

朝日新聞については、その曖昧で、どっち付かずの態度と、報道の職分を、持てる力と地位にまったくそぐわない仕方でしか、果たしていないことについて、随分と罵った文章を書いていたので、今から、次のようなことを書くと、皮肉に聞こえるかも知れないが、そんな意図は全く無しに、今回の帰趨では、朝日新聞記者達には、頑張ってもらいたいと思う。朝日新聞がここで負けるならば、恐らく、日本の大組織のジャーナリズムは、政治と社会の流れに飲み込まれた活動しか出来なくなるであろう。(同上)

日本軍管理下の従軍慰安婦は存在したか?

については、下記林博史氏の文章を読んでください。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper02.htm

一部引用する。

元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。

「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)

試みとしての女性国際戦犯法廷

 「東京裁判史観」という概念がある。*1

 女性国際戦犯法廷というものは揶揄にしか値しない存在だ、と信じて疑わない者たちは、と東京裁判史観というパラダイムを乗り越えようと全身で試みたことのない人たちだ。ということは確かだ。

 それだけでなく、それ無しでは生きることができない正義を求めざるをえない情況におかれ、国家が設置している法廷では自分の求める正義がとうてい得られそうもないことに絶望し抜いた経験も持たない、おめでたい人たち。

私ではない誰かが裁き、そこに自分が正義と感ずる物が実現されるべきだと考えているのかいないのか、とにかく「裁く」ということはわたしの仕事ではないことになんの疑問も持たない、そのことは、民主主義という言葉の意味を知らないといことになるのではないのか。

ある矛盾や苦痛の根源は世界規模の共通性を帯びており、従って世界規模の人々の対等な審理によって解決へ接近しうることはいうまでもない。そのような回路の設定はインターネットの転倒的応用によって既に技術的には可能なはずである。その設定を現在の技術パターンと国家群が阻止しているだけであり、(松下昇)

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

 このような問題意識に立ったとき、ひょっとしたらその実現された形には多くの問題点を指摘しうるのだとしても、「女性国際戦犯法廷」は未来を開く試みとして高く評価されるべきである。

 女性国際戦犯法廷の全記録は公開されている。したがってその判決に不服がある者は、しかるべき証拠を提示すれば、再審請求できるはずである。このような開かれた審理システムを予感させるのが、その可能性であろう。

*1:それは、第二次世界戦争に関して日本がおこなった行為に対する戦勝国家による裁判の権威と判決の正当性を認め、それによって戦争だけでなく戦後の全ての問題の評価軸とする歴史観である、とひとまず規定しておく。 松下昇http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

女性国際戦犯法廷への再審請求

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

上記では、

極東軍事裁判とニュルンベルグ裁判、旧ユーゴの内戦における戦争犯罪を裁く国際法廷を、比較して検討している。

・ 旧ユーゴの内戦における戦争犯罪を裁く国際法廷が活動しており、その裁判官は非当事者国から国際司法裁判所を通じて選出され、一審でなく二審制度を採用し、判決から死刑を除外している。

3点において進歩があったと評価している。

・ しかし、この国際法廷のささやかな進歩を突破口として、かつての国際軍事裁判が審理し得なかった問題(特に、戦勝国家や国民自身の戦争責任、性的加害についての女性の視点からの追求)や世界的問題(特に、核兵器製造と実験、科学技術の環境破壌など)を審理せよと要求していくことは可能であり、それを止揚していく真の審理の場を構想していくためにも必要である。

 性的加害についての女性の視点からの追求については、松下がこれを書いてから4年後、「女性国際戦犯法廷」という形で実現した。

 この法廷は、弁護人の不在*1、被告人が死亡している、という問題点は存在しているものの、すでにある国家や国際組織による法廷を利用したのではなく、民衆が自前で実力で審理の場を形成したという点で大きく評価できるものです。

民衆法廷については、Jonah_2さんが次のように書いている。

http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050116

民衆法廷は過大評価も過小評価もしない方がいいと思う。例えば、民衆法廷は権力による正当性がないので、被告の身柄拘束ができず、もしやれば誘拐罪になってしまう。起訴状や法廷証言が名誉毀損にあたる可能性もある。民衆法廷はそのような“弱い”法廷である。しかし、それでも民衆法廷を開く意義があるとすれば、それはどこにあるのだろうか。

それは、民衆法廷でなければ裁けないものがある、ということだ。たとえば、近代刑法では基本的に個人を犯罪の主体とする。しかし、たとえばラッセル法廷では総力戦という現代の戦争の特徴に着目して、(個人ではなく)アメリカ政府の戦争政策自体を「国家的犯罪」として問題にしている。もう一つ、問題にしなければならないのは、法廷に正当性をあたえる権力、つまり国家や国際社会そのものがしばしば国際法を破るという事実があるということである。権力により正当性が付与された法廷が裁けず、裁こうともしない「犯罪」を裁くことが民衆法廷の意義だ。これらは国際法の水準によって裁かれており、「魔女裁判」や「人民裁判」とは違う。

(略)

最後に僕の感想を言えば、被告が出廷することはちょっと考えられないのだが、勝手連的な被告弁護団が参加しても面白いんじゃなかろうか

これをうけてコメント欄に何人もの人が書き込みさらに話題が発展している。

 公開性について、「一般人が潜り込む手段としては「傍聴」くらいしかないようでしたし、その傍聴でも「妨害行動、ならびに出席者や傍聴者の権利を侵害する行為をしないこと」という内容の宣誓書に署名が条件とかで、」一般人の参加は制限されていたのではないかという意見があった。無条件に公開したら法廷自体つぶされてしまうという怖れがあったのなら、防衛するのはしかたないとして、できるかぎりの公開性が目指されるべきだろう。

 前回法廷は・国際的な参加者・公平な判断 という点で評価しうると思う。一方、・広範な市民の参加 ・いわゆる右より人士の参加 を欠いたという点を指摘しうるだろう。

 この裁判には、被害者女性の救済と東京裁判の再審という二つの面があったわけだが、前者に力点が置かれた。次回は後者に力点を置いたものにしてみてもよいのではないか。

 というのは、「天皇の戦争責任問題」は国民全体の責任問題とも強く結びついている。これは国民全体という主体あるいは客体をどうやって形成するのかという問いである。天皇を含む統治機構は戦前からのものを占領軍が許し継続させたという面がある。天皇を含む統治機構の一定の優秀さと偶然は戦後の経済成長を成し遂げた。しかしそれは、国民自らが主体形成し自分たちの社会の方向性を形成していくという面では弱かった。戦争責任問題における国論の2分という問題は、押しこめられたように見えても全然解決されておらず、中国、韓国の国力増大に伴い問題は(日本から見た場合)悪化しているともいえる。しかし自民党などの側は一貫してこれを力で押しこめて乗り切っていこうとした。いわゆる右傾化にともないそれは一応成功し、現在政界の半ばは憲法改正に進もうというところまできた。ところが、今回の問題で戦争責任問題の根本にはなんら解決がついていないことが、足下のNHKから明らかになってしまった。理屈で言えばこれを解決できなければ憲法改正どころではないのである。

 ところで海外に多くの被害者がいることは事実である。彼女たちが求めていることは必ずしも金銭に換算できる賠償ではない。謝罪、あるいは承認である。民衆法廷は国家からの謝罪を与えられなかったが、彼女たちが自らの憤懣、鬱屈を言葉にする機会を与えその主張を承認した。そのことによって彼女たちはカタルシスを得た。日本国に代わって国際法廷はある程度大きな物を被害者に与えたのである。プラグマチックに考えて、日本国はこのような無形のものを彼女たちに与えて一定の満足をしてもらう方法を真剣に検討すべきである。(前提としての誠意がなければいけないが・・・)

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html

『女性国際戦犯法廷の全記録II 第6巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0207-6.html

 裁判というのはどんな場合でも記録が膨大になり気後れするが、考えてみれば記録が存在しないよりずっとましなのである。*2記録があればどこからでも好きなところから反論できる。

 安倍晋三が「公平性がない」と文句を言ったというのも、再審請求とみなしうる。天皇有罪を言った以上、国民の多くから再審請求が出てもまあ当然ではある。再審請求を堂々と受けて立ったら良いだろう。

 例えば、双方数名の代表者を選び、インターネットで延々と討論会をやるといった形であれば、費用も掛からず、公開性も保てる。*3

 どのような形であれぜひ実現してほしいものだ。

*1:1, 「被告と被告側の弁護人がいない」⇒ 女性国際戦犯法廷は, 「日本国家の責任」を問うため, 開催2ヶ月前に全裁判官の名前で, 当時首相であった森嘉朗氏に被告側弁護人(被告代理人)の出廷を要請した. しかし, 開催直前になっても何の応答もなかった. 従って裁判官は「アミカスキュリエ」(法廷助言人)という形で被告側の弁護を取り入れた.「法廷」では3名の弁護士がアミカスキュリエとして被告側主張を行い,「慰安婦」問題についての日本政府の立場や主張を明確に紹介し, 被告が防御できない法廷の問題点を法廷のなかで指摘した.

*2:226事件の巻き添えで死刑になった北一輝などあまり記録がないでしょう?

*3:国際性を保つため英語、中国語などへの翻訳を必須とすれば費用は掛かる。

「女性国際戦犯法廷」認定の概要

[VAWW-NET Japan による訳]

日本軍性奴隷制を裁く2000年「女性国際戦犯法廷」(検事団およびアジア太平洋地域の人々 対 天皇裕仁ほか、および日本政府)の認定の概要(2000年12月12日) [VAWW-NET Japan による訳]

は下記urlにあります。裕仁の刑事責任認定の部分、及び日韓条約等で解決済みとはならないことを示した部分を掲載します。

http://home.att.ne.jp/star/tribunal/ International Tribunal Internet Broadcasting

24.この「法廷」に提出された証拠の検討に基づき、裁判官は天皇裕仁を人道に対する罪について刑事責任があると認定する。そもそも天皇裕仁は陸海軍の大元帥であり、自身の配下にある者が国際法に従って性暴力をはたらくことをやめさせる責任と権力を持っていた。天皇裕仁は単なる傀儡ではなく、むしろ戦争の拡大に伴い、最終的に意思決定する権限を行使した。さらに裁判官の認定では、天皇裕仁は自分の軍隊が「南京大強かん」中に強かんなどの性暴力を含む残虐行為を犯していることを認識していた。この行為が、国際的悪評を招き、また征服された人々を鎮圧するという彼の目的を妨げるものとなっていたからである。強かんを防ぐため必要な、実質的な制裁、捜査や処罰などあらゆる手段をとるのではなく、むしろ「慰安所」制度の継続的拡大を通じて強かんと性奴隷制を永続的させ隠匿する膨大な努力を、故意に承認し、または少なくとも不注意に許可したのである。さらに我々の認定するところでは、天皇は、これほどの規模の制度は自然に生じるものではないと知っていた、または知るべきであったのである。

29.第二次大戦後、日本は多くの条約に署名してきた。これにはサンフランシスコ講和条約、日本・オランダ協定、日比賠償協定、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」などがある。この「法廷」は、これらの平和条約は「慰安婦」問題には適用されないと認定する。条約によってであっても、個々の国家が人道に対する罪についての他の国家の責任を免ずることはできないからである。

30. 「法廷」は、諸平和条約には本質的なジェンダー偏向が存在するという主席検察の主張は、納得できるものだ、と認定する。「法廷」は、個人としてであれ集団としてであれ、諸平和条約終結時の女性が男性と平等な発言権も地位 も持っていなかった点に留意する。まさにこのために、平和条約締結時、軍の性奴隷制と強かんの問題は何の対応もなく放置され、条約の交渉や最終的合意に何の役割もなかったのである。「法廷」は、国際的な平和交渉過程がこのようにジェンダー認識を欠いた まま行われることは、武力紛争下で女性に対して犯される犯罪が処罰されないという、いまも続く不処罰の文化を助長するものと認識する。(同上)

不運を不正として想像し直す

えーと、現代思想2001年5月号p216の岡野八代「遅れる正義/暴力のあとで」は、次のようにはじまる。

2000年12月東京で行われた「女性国際戦犯法廷」の初日8日と9日の二日間、わたしは<その場>にいた。彼女たちの声を聞くために、そこで何が起こるのかを見るために。

それがどうした、とも思います・・・女性国際戦犯法廷というものは、窮極の被害者という絶対的他者を立ててしまうこと、つまり複雑多様な現実を非常に平面的な分かり易すぎる図式に還元してしまうことだ、といったイメージがある。わたしの中にもある。(イメージがあるので細部まで読まないのでイメージが保存される。)だが岡野氏の体験したそれは決して分かりやすい体験ではなかった。それは良いのだが、彼女の文章は逆に分かりにくすぎるのだった。

法の外にあると考えられてきた従軍「慰安婦」問題を、再度「法」の内部の問題として解決しようとした試み、と岡野は今回の問題を捉える。

  1. 法の限界
  2. 法外にあったものが法内に取り込まれる時の力関係
  3. 法と正義の関係

といった問題が露わになった経験として。

法システムによって排除されてきた者が、法システムに向かって異議を唱えるときには、法システムの言語・文法によって語らなければならない、そうでなければ、法は聞く耳を持たない、という困難に陥る。(同上p217)

例えば全共闘運動の後、「裁判闘争」というものの訳のわからなさに出会ったことのある者なら、はあはあと、(半身を引きながらも)耳を傾けることができる。ただまあ学生運動のような言葉から生まれた活動と、辺境のサバルタンたちはもちろん違う。

サバルタンは<聞く耳>と出会う事により語りはじめる(こともある)。*1

暴力があった、その後に沈黙を強いられてきたであろう女性たちが、今回東京にやって来るまでの文字通りの長い道のりのなかで、聞く耳を持つ人に出会った。そのことによって、彼女たちは苦痛に苛まれながらも、暴力がふるわれる以前に自分たちが作り上げてきた文脈を破壊した--その意味で、彼女たちにとっては脈絡のない--出来事を伝えようとし、切断された記憶を取り戻すようにして少しずつ、いったん破壊されてしまった文脈からなる世界をやっとの思いでもう一度構築しなおしてきたのだということは、想像に難くない。(同上 p218)

さて、そのように裁判は始まろうとする。一つの非人称の声から。

あなたは真実を語ることを誓いますか

これは証人いや原告・・・いやこれは刑事裁判に類似ものであるから彼女たちではなく検事が原告であり、彼女たちは当事者性を疎外され証人であるにすぎない。これは証人調べを始めるときの決まり文句に過ぎない。だが、それを聞いて岡野は驚く。上に書いたように、自身の力でやっと沈黙から抜け出しここまでやってきた彼女たちに対し、「何を語るべきであり、さらにその言葉がいかに聞き取られるべきかを予め決定してしまうような発言に接して、わたしは驚いてしまったのだ。」

 被害女性の一人、エスメラルダ・ボエ(東チモール)さんは叫ぶように言う。

なぜ私がわざわざ日本にまで来て嘘をつきますか!

裁判官の耳に届く言葉を発するための「儀礼」は暴力ではないか、と岡野は言う。彼女たちのことばを彼女たちの現在において聞くのではなく、「裁判官にとっての「現在」、遅れてやってきた裁判官にとっての既存の一つの文脈(適正法手続)へと埋め込もうとしているのだから。」

法はいつでもそうしたもの(すべてを法の普遍性の下に包摂しようとする)にすぎない、としたり顔の奴らは言うだろう。だがそれは少し違う。法は正義に訴えることを認める。その限りで法もまた試されるのだ。

以下、彼女の文章を歪めた形で断片的に引用しておく。

・・・

「不運を不正として想像し直すこと」を迫られる正義はつねにすでに遅すぎる。

遅れてくるがゆえに、つねに正義には責任が問われている。

・・・

彼女たちは責任を求める。これまでとは違う形での-未来における-<わたし>の応答可能性を。

・・・

不運/不正を区分しているのは、正義ではない。それは法の存在*2によるのだ。

・・・

「正義」「責任」「真実」といった言葉は男性中心的権威にともなう言葉だ。彼女たちに強制されてきた「彼ら」の言葉が、彼女たちの身体を通してもう一度発せられたとき、そうした言葉を「わたし」の言葉として紡ぎだすことで、自らの力で文脈からなる世界を創造しつつある女性たちを、わたしは見ていた。(同上 cf.p225-227)

*1:「何に対してわたしが無知であるのかは、そのことに無知でなくなったときにしか分からない、という認識上の限界」岡野・現代思想200112月号p183

*2:条文のありかたのことかな

fairとは?

http://d.hatena.ne.jp/liddy/20050120

北村肇さん(「週刊金曜日」編集長)

朝日が本質的な問題を提起したにも拘らず、問題がすりかえられ矮小化されている。問題は三つ。

o NHKが政治的に番組を変えていたこと。過去にも、島ゲジ時代にもあった。

o 番組について自民党の議員を回って釈明していること。

o 政治家本人は圧力ではないといっているが、「公平にやってくれ」と言ったと認めている。これは圧力以外の何ものでもないし、「その何が悪い」と開きなおっていること。

(北村さんおよびliddyさん、引用させていただいてありがとう。)

従軍慰安婦とデリダ

(1)

 id:noharra:20050119#p4では、裁判過程に登場する「慰安婦」の声が文脈を構成することの困難としてあるのに、裁判官の側はそれを、自動的に自分の文脈においてだけ評価し残りは切り捨て、それが当然だと思っている。という趣旨の岡野氏の文章を引用した。すなわち、デリダのいう<亡霊>としてわたしたちの前に彼女たちは現れた。

また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。

(略)あるいは、ナチの強制収容所というおよそ証言不可能な場所から生き残った人が、長くまもっていた沈黙を破って語り出す言葉のことを考えてもよいだろう。だがこうした言葉は客観的な出来事の証言であるばかりではなく、さまざまに矛盾し、時間的に混乱したものとしても現れてくる。彼らの経験した出来事が、およそ単純に現前するようなものではなかったからである。デリダに言わせれば、こうした発言を受け止めることが亡霊の声に応えることである。亡霊の命令や約束は、つねに自己分裂・自己矛盾しながら容赦なくつきつけられる命令や約束なのである。(廣瀬)

p119『デリダ』林好雄・廣瀬浩司 講談社選書メチエ isbn:4062582597

(2)正義を求める

正義に対して正当な態度をとる必要がある。

最初の正義とは、正義の言い分を聞くこと、正義がどこからやって来て、われわれに何を要求するのかを理解しようとすること。 

このとき、正義がやって来て要求をなすのは、特異なもろもろの固有言語を通じてであることを心得ていなければならない。

(cf.p47 『法の力』デリダ isbn:4588006517

正義は、他者の特異性へ自分を送り届ける。

われわれの特異性、すなわちわれわれの基礎が検証されなければならない。

正義を取り巻くわれわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界についての問いかけを絶えず喚起しつづける、ことが必要だ。

(cf.p47 同上)

“われわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界”とは天皇にほかならない。したがって天皇有罪という四文字は、それに賛成するにせよ反対するにせよわたしたちの思考の原点におかれる。誰もが知っている(のかも知れない)天皇有罪を決して口にしないという黙契のうちにわたしたちの社会は存在していた。「天皇有罪を口にすること」は有罪か?わたしたちの社会はその問いにどう答えるのだろうか?

・・・・・・・・・・

・・・天皇有罪・・・

・・・・・・・・・・

天皇有罪、をある人のある主張として理解するのではなく*1、わたしたちの起源、基礎、および限界として解剖していかなければならない。

「天皇有罪を口にすることが許されないこと」は、正義すなわち「ある公理への信奉者が脱構築によって宙吊りにされる瞬間*2」という体験から隔てられていることを意味する。

*1:天皇が有罪かどうかは、正義の言説ではなく、法の言説内部でしか決定できない。

*2:p48同上

最も安易な立場

どうして誰も最も虐げられた者、従軍慰安婦の立場に立とうとしないのか?それが言説にとって最も安易な立場であるのではなかったか。わたしたちはこの十年以上そう聞かされてきたのに。