「私」(主体)の余白に

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 への応答)

 strictkさん 応答が遅れてすみません。

ぜひとも、応答しなけりゃいけないとの思いもありました。ですがなかなかうまく書けませんでした。『NANA』を題材にあげてのテーマがあまりに直接的身体的であり、そのような強度を全く見落としたままでこの問題を論じていたわたしがあさましく思えた、そのような気持ちもあったということです。 そのような気持ちをかかえたまま、すこし逃げていました。

『NANA』の8巻から11巻まで読みました。面白かったです。ただわたしは8巻から突然読みはじめたので、ハチ(奈々)が「新婚生活」に入るに当たって捨てた世界というのを読んでいないので、ハチが持っている二面性が分かっているとは言えませんが。

「ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。」野原10/7にも触れましたが、ここでちょっと考えさせられました。つまりナナはもし子供ができたらという問いにあらかじめ答えを出していたはずです。だからめんどうでもピルを飲み続けていたのでしょう。であればなぜ、母性本能なんて言葉につまずくのか。そんなは必要はないのじゃないか。自動的にそう思ってしまう野原には、あらかじめ決めた(浅はかな)図式に合わせて現実を整形してしまう傲慢な男の浅はかさがある!と糾弾されるでしょうか。

もう一人の主人公奈々ですらこう言っている。「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…」産婦人科で見せられるエコー写真はそれこそ不定型な黒い固まりが写っているだけだ。堕ろす可能性があればそれは見てもしかたないものだろう。見ても何も写っていない。そこで実感など抱く必要はないのだ。フェミニストの一部がそう断言する気持ちも分かる。不鮮明なエコー写真に<到来する他者>を見てしまうかどうか、それはその人自身にとっても年齢や情況によっても答えが変わってくる問題だろう。そこに他人が善意の倫理観や宗教的確信を持ち込むべきではないだろう。産まないと決めているのに、なおこの<到来する他者>という問題に出会い衝撃を受けてしまうナナに感動した。

さて、一番の論点は

☆ 子育て共同体に育てられた子供の一人であるわたしは、今度は別の子育て共同体に参加しなくていいのか?という問いかけです。

この問題をstrictkさんは丁寧に展開し、イエスと答えられました。ただし、

あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。 という意味においてです。

これこそまさにわたしの言いたかったことです。より明瞭に表現してくださってとても嬉しくおもっています。

 子供を持つか持たないかは個人の自由だ、という文章は、個人の責任だ、とも言い換えられます。これは言いかえれば、責任がとれないなら産むなということですね。命令としては、産んだ以上生まれてきた者に対し、愛とか仁とかいうものを持続すべきだろう(そう言い切ることに問題はないように思える)。それはそれでいい。だが、1年中続く乳幼児の世話や長期に渡る多額の費用負担などというものは、現在ではやはり「結婚して家族をつくる」という方法以外では、不可能に近い。

「性愛=出産=核家族」という三位一体の近代家族は美しいイデオロギーにも飾られ、優れた制度であったわけですが、現在限界にきているようです。したがって、それに代わる緩やかな制度をわたしたちは用意していかなければいけないと考えられる。それなのにフェミニズムなどの側が、家族からの自由を主張するばかりで足りると思っているとすれば、そこには理論的にみて盲点があるじゃないか、というのがわたしの主張でした。それぞれの個人に、出産あるいは子育てに関わらなければならない倫理的義務がある、などという主張はしていませんので念のために書いておきます。(もっともそのための税金は取ってもいいと思っている。ちなみに、ニーチェもそういう意見だったようだ、*1関係なかったか。)

倫理的義務という問題に近いけれども微妙に違うのが、次の問題。

 望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。

性愛の行為は出産の可能性を(避妊していても、多少は)持つ。商行為としての売買春においてだ。しかし売買春においては、それは業者側の責任で初めからなかったものとされている。わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。しかし家族制度は生きのびているわけで、婚姻外の性行為に関わって孕んだ者は裸のまま放り出されるルールになっている(ようだ)。この場合、自己責任という言葉は孕んだものの側にだけ適用される、つまり男性の責任は問われない。それが不当なことであるのは言うまでもない。この点、『NANA』の男性たちは立派である。結婚しようとするロックスターはもちろん、も一人の少年も避妊していたにもかかわらず自分の関与の可能性を否認しない。しかしよく考えればすぐ分かるように、strictkさんが上記で語っている問題はもっと深い。

(突然ですが)性行為というのは<死>の交換かもしれない。NANA(11)のまんなかへんには、ナナがレンに性交中、首を絞められるシーンが描かれている。だが次の頁ではその後、ナナの「顔色よくなった」ことが報告される。ありふれたSMプレイとして受け止めることができたからではないだろう。華やかで現代的な『NANA』という漫画は、主人公たちが皆不幸な生育歴を持つという点で古い(ロマン主義的?)ステロタイプを踏んでいる。彼らの華やかな生活のうらにはいつも絶対的孤独と<死>が待ち受けている。

望んでいない子供の可能性という危険と、ここでいう<死>は近接関係にあるかもしれない。不幸な生育歴を持つものたちの方が早く子供を欲しがるというのは良く言われることだ。

 性愛を快感と欲望のタームでだけ語るのは一面的だろう。<死>とだけ関連付けるのもファシズム的だろう。出産と快感と自由の喜びを語る文化(古事記以前の時代にはあったようにも思われるが)が、今後、切り開かれていくべきだろう。

*1:一定の年齢以降の独身男性の税金の負担増(たとえば遺産相続のさいの)p525『生成の無垢』ちくま学芸文庫

NANA論

下記の二人の方の興味深い『NANA』論を読ませていただきました。感謝。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20031114#p1

9巻対象。「ナナは自立を目指しているのだが、実はさほどレンへの想いは強くない。」などの指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040129#p1

「そもそも少女マンガの発展は、大島弓子に代表されるように、社会的・文化的な男女の非対称性のなかで、いかにして自らの「主体の首尾一貫性」を諦めるかという過程を描き続けてきたものだといえる。」という、大島弓子ファンである私には興味深い指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20031214

「NANA」嫌い派。ナナはパンクじゃなくファッションとしてのパンクでしかないと論じる。24年組の異端性をストレートに継承しようとしている志に惹かれる。24年組のラディカリズムは当然ぴったり同世代の全共闘のそれに通じるものであり、わたしもそれを継承しているのだといつかは書きたいものだ。

性行為の自由

「わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。」と野原は下に書きましたが、主語の性別がどちらであっても自由があるという認識は、とんでもないんじゃないか!、という反問は当然ありうる。

http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041012(おとなり日記)によれば、

(女性は)

だからセックスする時、こころならずも、という役割を演じなければならず(或いはそう思い込まねばならず)、それが性的幻想の核になっているんだ日本では。(略)

男が行動する、それになんでも応じた性感を、女が受動態で享受する、しかもその受動ぶり、主導権を剥奪され続けていることの不当ぶりに自覚しないように文化が設定されているわけさ。

ということだそうです。なるほど。

南京大虐殺なかった派の言説

1. 所謂『南京大虐殺』は、当時の体験者や、研究者、学者により、諸説が分かれているところであり、ないという強力な証拠があるものの、あるという確証がない状態で、松井石根氏、岸信介氏等実名を使用し、これをあたかも戦争の真実として漫画化している。 

 『大虐殺』はないという強力な証拠がある、と主張する。一方、諸説が分かれていることは認める。実名を使用して歴史小説を書く自由自体を否定する。

2. 中国の真偽定かでない写真を用い、百人斬りを事実として記載し、意図的 に歴史を歪曲している。

3. 歴史的認識が確立されていない青少年に多大なる影響を与える貴誌に、史実ではない残虐なシーンが登載された事は、次代を担う青少年の心を傷つけ、遺憾である。

日本軍の行った「残虐なシーン」が歴史上に存在しなかったと主張しているのかどうか、主張がはっきりしない。

4. 事の重要性を認識せず、問題の事実関係についての調査研究を怠り、大東亜戦争従軍の将兵、遺族さらには日本国及び国民の誇りに傷をつけ、辱めさせた行為は厳に慎むべき行為であり、フィクションと記載された「漫画」であっても許されない。(以上)「集英社問題を考える地方議員の会」代 表 犬伏秀一大田区議   

「事の重要性」とは何か、全く主観的フレーズで意味不明。虐殺や残虐なシーンが存在しなかったとは信じがたい、というのが99.9%の研究者の意見だ。歴史を歪曲し、日本の国益を損なっているのは君たちだ。それにしても悪文ですね。(笑い)

 http://blog.goo.ne.jp/inuhide/e/cc0e9fe06f5b7b23bf3c86b623877114

いぬぶし秀一の激辛活動日誌:本宮ひろし先輩、史実を曲げちゃダメ!@ヤングジャンプ

ちなみに、区会議員いぬぶし秀一さんはネットではかなりマイナー!「集英社問題を考える地方議員の会」グーグルすると検索結果 約 33 件。

うち、1.只今勉強中 3.blog::TIAO 4.Negative Stories -北国tv 5.はてなダイアリー – 月よお前が悪いから と明確に「反いぬぶし」派の主張のサイトが並び、自身の「激辛活動日誌」は7位にしか入っていない。

追記:「大東亜戦争」は世界に向かってアジア解放の大義を打ち出したものでした。大義それ自体が「恥ずかしい」ものだったとはわたしは思わない。それより現在の小泉氏の路線は死んでいった兵たちを辱めるものだと思う。それはともあれ、一人でも10人でもレイプすれば、日中友好、大アジアの大義に反する出来事なわけですから、「日本国及び国民の誇りに傷をつけ」る行為になるのです。ところが実際にはそれは行われた。占領地区での露骨な中国人差別も同じです。それらの行為が「日本国及び国民の誇りに傷をつけ」た行為である。事実があったのに、自己の認識枠組みに反するからとそれを認めないというのは、自己に誇りをもっているひと(たとえば中江藤樹主義者*1)にはありえないことです。自己に誇りを持たず、「日本国の誇り」が守れるはずもなかろう。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041013 2004-10-13+  駝  鳥  + さんが丁寧な事情紹介と批判をされています。

追記:<<<ないという強力な証拠があるものの、あるという確証がない状態で>>>というフレーズはそこらじゅうで笑いものになっている。

http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20041014 はてなダイアリー – 当代江北日記」 から引用すると

「これだけではなく、色々な場でこの抗議文の論理上のまずさが指摘されているので、際立って日本語の下手な人々が拙速に作り上げたものだと考えられる。」

追記(10/16~10/21):hatenaにも、次のように書く人がいる。

として、ある人の日記から1行引用しましたが、削除します。

理由はその方と一定対話したのでここに掲げておく必要がなくなったから。

*1:「過を飾り非を遂げて改むることを知らず、人皆其の人品を知り其の心の邪を知れども、己れ独り克く隠して知られずと思へり、(中江藤樹)」『日本陽明学派之哲学』井上哲次郎p111から孫引き。冨山房、明治33年

天君・天理と日本的精神

論語は聖賢の言行を記したる所に、今日に合わざることありとの玉ひて諸子に書きぬかせて、その必要の所をのみ講し玉ひき。

藤樹は先哲の「和魂漢才」と喝破せるが如く、日本的精神を以て漢学を講究し、漢学の為に併呑せられず、我邦人の取るべき立脚点を取り、厳として樹立する所ありき、之を要するに彼れは彼此の差別あることを弁識せり、(井上哲次郎)*1

中江藤樹が、中国と日本の間に差別が当然にも存在すると考えていた、というのは嘘である。井上は自分の問題意識をむりやり藤樹に投影しているに過ぎない。

藤樹にとっては「(愛敬の)徳は天地同根万物一体なり」である。「藤樹によれば 孝 は先天的に世界に実在し人類の行為により発達し来たれる倫理的秩序なり」*2である。藤樹はつねに天地万物という普遍を見すえてものを言っているのだ。「我心は即ち太虚なり、天地四海も我心中にあり」という唯心論ではあるが、心の中には宇宙があるのだ。「和魂漢才」とか「日本的精神」とかいう、「邦人」にのみ適用され他国人は意識の外といった普遍から外れた立脚点に立ったことは、一度もない。

主著『翁問答』巻一には、次のようにある。

天地を万民の大父母となして見れば、我も人も人間の形ある程の者は、皆兄弟、然る故に聖人は四海を一家、中国を一人と思し召すとなり、吾れと人との隔てを立ててけわしくうとみ侮りぬるは迷へる凡夫の心なり*3

 <良知><理><真吾><明徳><孝><天君><道>などなど、という形でひたすら普遍的に展開してきたこの本は、p155に至って突然「日本的精神」がでてくる。つまり藤樹が生涯をかけて展開した普遍主義的哲学の富を継承すべきものとして「日本的精神」が登場してきたとも言えるのだ。しかしながらそれが「日本的」と限定されたものである限り普遍であることはできない。しかしながら、儒教仏教神道などの宗教の差を乗り越えた普遍的なものとして構想された教育勅語などによる「日本的精神」主義は発展を続け、ついには、世界の日本化を目指す大東亜戦争を引き起こすに至る。これを藤樹の<普遍>を井上が「日本的精神」という言葉において引き受けた結果だ、と考えることも(すこしぐらい)できる。

*1:p155『日本陽明学派之哲学』

*2:p114『日本陽明学派之哲学』

*3:p57『日本陽明学派之哲学』より孫引き

日本的精神とレイプ

10/13の犬伏氏の言う「日本国及び国民の誇り」というものは、明治三〇年頃井上が確立しようとした「日本的精神」の出涸らしの出涸らしではないか。

幾多の日本人がレイプしたという事実はあった。しかしながらそれが「日本的精神」に関わるものであれば、日本的精神とは唯一の普遍であるのだから、それがレイプすることはありえない。日本的精神が支配する言説空間においては、事実が事実として認められることがない。

ジェンダーフリー

今日の朝日新聞の書評欄に次のような文章が載っていた。

『人間の本性を考える』スティーブン・ピンカーに対する山形浩生氏の書評。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

反論しなければならない。わたしがしなければならないこともなかろう?

次のようにコメントもらったが、リンクがつながるようこちらにコピペ。

山形浩生の自作自演ウザ過ぎ!!その2 『http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1094319459/203-

(2)平等という前提(10/20追記)

次の通りコメントが来た。

# hiyori13 『ほほう。そんな低級な議論で納得するわけね。で、おたずねしますが、その「フィクション」とやらはみんながフィクションであることを納得しているのでしょうか? もしそうなら、それがまちがっていることを指摘してもだれも文句はないはずですね。そしてもし多くの人がそれがフィクションだと知らずに本気で信じているのであれば、それは要するに、あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。そういう欺瞞はかまわないとするわけですか。』

 hirori13さんの問題設定にそって答えられないがちょっと考えてみた。

「女の政治家や重役が少ない等」ということが「性別役割イデオロギーのせいであり」それが「不合理である」から是正されるべきだ、と言っているのです。政治家は市民の代表であり、男女が異質なものであるなら、代表を半分ずつ出すことにしても別に不合理ではない。政治家に必要な資質というものと特定の遺伝子の組み合わせが強い相関関係があるなどという主張をビンカーさんはしているのでしょうか?

さて、「フィクション」というのはわたしの言葉ではないので説明しにくいのですが、要は私たちの社会は「一人ひとりが平等であり平等な生きる権利を持つ」という前提を社会的に受け入れている、ということでしょう。いわゆる知能の差異は(たぶん)あるでしょう。だが知能の差異を量る公的手段があるわけでもなく、学問的に公正な方法があるわけでもありません。先天的な差異を強調することにより結論として何を得たいのか。その論理にはたぶんごまかしがある。

「一人ひとりの能力に差がある」から「平等」というフィクションを守るために無駄なコストを費やすのは馬鹿げているとお考えでしょうか。私としてはそれぞれの人が「平等な生きる権利を持つ」という結論は譲れない、と考えています。この点については、立岩真也氏が丁寧な議論を展開していますね。

(3)

# hiyori13 『「政治家に必要な資質というものと特定の遺伝子の組み合わせが強い相関関係があるなどという主張をビンカーさんはしているのでしょうか?」 なに、読まずにケチをつけてるわけですか?』

# noharra 『>>なに、読まずにケチをつけてるわけですか?<<野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。ビンカーの本を読むつもりはありません。hirori13さんは読まれたのですか?』

(4)前提(10/21追記)(10/22朝、一部訂正)

α.わたしたちの社会・国家は、私たち自身各自の生きること(幸せ)の総体にその権威の基礎を置いている。

β.したがって、わたしたち各自は決定に参加する平等な権利を持つ。

γ.それぞれの人は平等な「生きる権利」を持つ。

平等という前提についてもう一度考えてみました。(上記は野原の表現)

これは前提として認められていると言える。この前提の背後に、人権主義=ヒューマニズムという確固とした思想が存在する、その思想は普遍的なものだ、とするのが日本ではいわゆる護憲派だろうか。わたしはそういう思想は取らない。*1この前提をフィクションと呼ぶのは、この前提以前に遡り思想実体を求めることをしないという立場表明である。

わたしたちの近代は、平等という前提に基づいて政治、経済制度を成立させてきた。こういう意味での前提を否定するのなら、他にどういう前提が用意されるのかをまず、聞かせてもらわないといけない。

「「人は最初は白紙」というのは思い込みでなくて現代社会を形作る為のフィクションなんだよ。」で最初の論点は、白紙か遺伝か?なわけですが、わたしは興味がない。

ある性によってものの感じ方や得意な仕事がかなりな程度決定されるという思想は間違っている。「性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想」はまちがっておらず、間違っているのは山形浩生だ。

上記2行は10/21に書いたが、山形さんからの指摘もあり、とりあえず保留します。今から考えて書き直します。

*1:人権派=啓蒙派は、学校秀才的人間をモデルとして全員がそれに近づくことが善であるという発想に成っていくような気がする。批判に成っていないので突っ込んでいただけば考えていきます。