六甲 第四章

かって六甲山上には、いまの神戸大学付近と摩耶山天

上寺付近に砦があり、南北朝時代前夜の戦乱にまきこ

まれたが、六百年以上も前、東の砦へ押し寄せた六千

の六波羅軍を、摩耶山の西の砦へ逃げるとみせかけて

曲りくねった谷間へ誘いこみ、一気に襲いかかって全

滅させた。

* 第四章にむかってにじみでる〈 〉の運動をメモしていこう。

あるいは同じことだが、〈 〉の運動を展開しようと考えるときにじみ出るイメージの変移を促進しよう。この促進が通過する道の標識には、次のような言葉が書いてある。

 

変移の徹底化。主体や文体の不定化。可逆関係の拡大。発想の枠が交換可能になって、走りまわるようにせよ。循環、往還、ジグザグ状、ラセン状という風な運動方式の軸そのものが揺れるようにせよ。

 

飛び去るメモの例……

 

かすかにきしむ音を立てる霧につつまれはじめた油コブシ。海賊船の船先。

 

子宮の重量と共に増えている諸関係。何ものかのへの届出用紙。

 

日付の順序を狂わせても解読できる文書。非合法活動の他領域での応用。

 

行為の同時性だけでなく、論理の同時性を示している 接続詞indem……その誤訳。

 

大量の紫外線の照射をうけて、他の菌の染色体をつかんだまま亡命するヴィルス。

 

快活な対話者の内部で、無関係に機能している腸管たち。

 

海と山にはさまれた細長い都市を並行に走る鉄道の同じ名前の駅。著明な丘の反対側に位置する同じ名前のレストラン。

 

自分では知らないまま、暗い湾をとりまく光の帯を形成している都市下層住民の灯。

 

非人称の風に、ひびの入った頭蓋のようなバスからはみでた不安をさらしている到着者と土着者。

 

孤立しているために突入し、埋没する儀式。

 

街が、そのかかとで軽く踏まれるために作られた夕焼け色の靴。

 

統一行動に関する二派の乱闘を、それぞれの党派についても、それらと自分との対比においても、トッカータとフーガのように聞くこともできる二種類の構成メモ。

 

このようなイメージを、自在に、また制約されて変移させていくとき、それらが、別の時間=空間のリズムをもつ境界を訪れていると仮定してみる。異質の領域をα、β、γと名付けておくと、いまでは無意識におこなわれていたα、β、γの相互の対話や劇を意識的につくれるようになるかもしれない。

 

情熱の形式が変移し、所属組織が分裂し、生活基盤が複雑化するとき、たとえば

α1→←α2 β1→←β2 γ1→←γ2 と対比でき、

α1→←β0→←α2 γ1→←β3→←γ2 という風に中間項を媒介することもできる。

ぜひとも、いつか、γをあえて無視してαとβを公差させねばならなかった状況と存在をかきたい。γから切断することで、ある意味ではαとβがより深く衝撃し合い、それによってγの瞬間的位相をぐらつかせたが、γの持続性に復讐されることになった。しかし、その問題をはじめて提起しえたのは、αとβのみに賭けたからであるという逆関係の苦しみを忘れてはならない。

* ある時間=空間の重力偏差をもってα、β、γという系をつくってきたとして、それを普遍的なα、β、γの系に変移させることが必要ではないか。

また、それらの項を区分する根拠をあいまいにして放置しておく態度は、たとえば、関係としての被告団を内包する、と語っただけで放置しておく態度と同じである。おそらく、そのことが、被告になる意味であり、この非合法性をとらえかえし変移させなければならない。

そうでない限り、6・15被告団とは最も異質な六甲空間へこの発想を投げこむ意味は大きいとはいえ、発想だけで自己満足してしまい、αをβで、βをγで、γをαで批判することによって、逆に全ての欠陥を内包してしまう。

〈 〉変移のとどかない部分に光を当てよ。岬の灯台に打ち寄せる鉛色の波へ。

まず、〈 〉変移につきまとう、自己増殖的な幻想性の根を断ち切れ。その幻想性を生んだ関節をバラバラにとき放てば、その関節と同じ時間にいたものたち……

虐殺されたもの

イデオロギー的批判で組織的に切り抜けたもの

その関節を無視したもの

知らずに生活し、病み、死んだもの

なしくずしに利用しはじめたもの

叙情的に旋回しつつあったもの

などの時間的変移をさぐることによって、別の主体の運動に入りこんで行ける。

次に、この〈 〉変移の幻想性を、ここで、いま、とりかこんでいるものたち……

事実性にしがみつき判断するもの

恐れや反撥をアルコールで緩和するもの

かかわりのない領域だと無視するもの

組織活動に免罪符を求めるもの

などの空間的変移をさぐることによって、別の主体の構造へ入りこんで行ける。

そして、この操作を、ちがった関節、ちがった幻想性についてもおこない、いわばβ領域からα、γへも変移させる。

* 油コブシに〈 〉をつけはじめている……と書くとき、それは序章から第三章までに〈 〉をつけていくことと、第四章以後に〈 〉をつけていくことの二重性を含んでしまう。この二重性を、どのように越えればよいのか、まだ分からない。

〈 〉をつける箇所や、〈 〉をつけてから変移させていく方法が、さまざまに変移していくことへの不安。ある箇所、ある方法へ決断した場合、他の場所、他の方法の疎外の上に立って決断したのだという重さ。

二重性を含んだまま、〈 〉の変移を可能な限り展開していくことが第一段階。

必ず、これに対する粘着的な抵抗が生まれてくるはずだが、その抵抗力のかたちを分類し、そのまま〈 〉の変移の新しいかたちとして組み入れていくのが第二段階。

このような操作の外部から加わってくる圧力も同じようにして組み入れていくのが第三段階。

おそらく、待ちかまえている抵抗力は、序章から第三章までの空間的な表現へ〈 〉をつけるときに現われ、待ちかまえている圧力は、第四章以後を表現する時間的な契機へ〈 〉をつけるときに現われるだろう。

この予想は、いま不意に襲ってきたのであるが、〈六甲〉の表現が内部から裁かれていく過程を逆転したい。

何ものかの挑発に乗ってしまうかもしれないけれども、序章から第三章までの表現からひびいてくる時間のリズムと、第四章以後の表現から立ち昇る空間の匂いに〈 〉をつけて交差させてみよう。これが、新しい罪を、打ち寄せる波のように引き寄せるであろうことを予感しながら。

ところで、いま、虹がかかっているよ、といって通り過ぎるのは何ものか。〈 〉からはみだしていくものたちか?

* 何ということだ! 表現についやす以外の全ての力を注いでいた試み……失われた時間=空間の意味を、油コブシの見える闇の中でとりだそうとしてきた試みが、他者から舞いこんだメモによって中断されている。他者が、メモの裏側へ自己を引き離そうとして、祈りに近い決意を示したために。

完了形の胎児と未完了形の胎児が同じ運命に陥ることを怖れているのだ。

第四章へのメモをかいていく気力がない。物象が反乱する。情念が錯乱すると、物象がそのすきにつけこんでくる。

完了形と未完了形にはさまれて、いままでのメモを支える場が不安定になっている。〈 〉を用いて表現しようと試みたとき、思いもかけない方向からやってきた〈 〉が、表現しようとする意識をつつみこんでしまった。

もはや、第四章をかくのを放棄してもよいと覚悟して、他者からのメモから、完了形と未完了形にはさまれたまま、しぼりだされてくる触感や声をかきとめておこう。

最も美しいときに開かれるメモ、あるいは眼。

血族の住む洞窟へ予定より早く帰ったとき、日没までの空が、じっとりと汗ばんで、青いまま変移しない。

港内遊覧船の上で、工場廃液のしぶきを浴びながら、あえて山肌に触れない感覚を皮膚の裏側へ蓄積する。六甲は反対側へ変移しても、太陽や星はついてきてくれる。

静か過ぎる風景に吊るされたために、塔の風鐸が微かに独語する。この都市のマークは六甲の弯曲と防波堤の弯曲を交差させてつくってある、と。

傷ついたようにけいれんし、上から抑えるのでかえって異質な触感を固定してしまう手。

たぎりたち、消え去り、しかも世界の体温を未完了のまま交換してしまう舌。

中絶の時間=空間が挿入されたのは、再起と深化のためにはよいことなのかもしれない。しかし、これは地下水道からの放棄の中絶と無関係ではないはずだ。

* いままで走り書きしてきたすべてのメモにまつわりつくすべての〈 〉を払いのけたい凶暴な衝動にとりつかれている。しかも、もがけばもがくほど〈 〉が何重にもからみついてくる。

 ちぎれて散らばったメモ……無人の高山植物園でも、こんな風に、まるで、ばらまいたようにタンポポが咲いていた……を拾い集めて、〈 〉を抜けだす意図を捨てたようなふりをしながら、さまざまな〈 〉の根拠をさぐってみよう。

 

〈 〉が生まれてくる契機は、ほぼ次の三種類に分けられる。

α、〈 〉の変移を徹底化しようとするとき。

β、αの運動に対する表現内からの不安を放置するとき。

γ、αやβの運動に対する表現外からの不安を放置するとき。

ここで用いるα、β、γの記号は、前のメモで用いた記号と同じではないが、意識的に錯乱をひきおこすつもりで同じものを用いる。

α、β、γのいずれも、何ものかが〈 〉から疎外されようとしているときの回復の衝動から発生している点では同位である。けれども、〈 〉の運動は、それなりの必死の必然性をもっているのも事実なのだ。

 

いま、疎外されようとしているときの回復の衝動と書いてしまったが、比喩的に次の文をかいておきたい。

α、β、γが、たとえば政治の領域において、相互に、時間的脱落感、空間的脱落感、組織的脱落感をもっているとして、これらの脱落感は同位であり、どれか一つに拠ることも、循環することも虚しい。

 

このような関係が、政治の領域だけにとどまらず、全ての存在をひたしはじめていることこそ〈 〉の発生の根拠であろう。

 

α、β、γは、どんな危機にあるのか想像してみる。

 

それぞれの間に、変移しない一種の双極性があるのではないか。たとえば、ある一つの事件の因子だけでは倒錯した現代史に触れられない場合のように。

 

双極性は、求心力と遠心力に似た、一方だけでは運動を論じられない因子をもっているらしい。

 

それらが統一されないことが危機なのであるが、この危機は、徹底的な模索と状況の転換が一致した場合にのみとらえられてきた。

 

しかし、その場合、危機がとらえられたのは、ある一つの事件によってではあっても、その危機への問いかけは、歴史的な形でなく、本質的な形をとってくる。

 

α、β、γが、この危機の部分をとらえていながらも、全てを自己の責任として引きうけられないまま放置することが、〈 〉の根拠であるし、このメモを超える表現が不可能になるかもしれない理由である。

 

遅れからの復帰は、遅れそのものの中にある時間的=空間的な責任の力学をつつみこんでくるとき、はじめて許されるだろう。逆に、そのときはじめて、復帰すべき対象が実現されるのだ。

*このままでは、生きた形象は、生まれてきそうにない。メモをかきはじめた段階と同じように、表現したい意識と、したくない意識の間隙に、あるいは、かいてきた表現とかいてこなかった表現の間隙にはさまれたままである。

第四章を書こうとする試み自体が〈 〉に入ってしまう時間がやってきた。あるいは〈 〉からこぼれ落ちる時間からはさまれている。

けれども、むしろ、その時間に突入しなければならない。そのことによって時間をひきよせるのだ。ちょうど〈六甲〉をひきよせてきたように。

第四章を展開しようとするときのメモ、この項をも含めて全てのメモに〈 〉をつけていこう。そして、六項のメモたちよ、汝らのメモ相互の間隙に生成し崩壊するドラマをかいま見よ。時間=空間の責任の力学を追求するために、自らをメモとメモをつなぐ間隙とは直角の方向へ参加させながら。

(2009.09.06UP)

六甲 第五章

 視線が地図の上を、表六甲から裏六甲へつき抜けて

いくと、奇妙な地名が山系の両側に、ひっそりと息づ

いている。カミカ、ハクサリ、ザグガ原、ボシ、マン

パイ、シル谷、カリマタ池、キスラシ山、シブレ山……

地図なしにそこを歩いたら、ここが、そんな地名をもつ

ことを予測しえないだろう、と考えるときの怖しさ。

 地図の上に舞い込んできたホコリを吹き払おうとして、よくみるとタンポポの綿毛だ。微かな筒状のかたちに含まれている〈生命〉を、異なった空間へ変移させるために、更に微かな白い毛が放射線状についている。十数本まではかぞえられるが、それ以上正確には綿毛と綿毛との間隙を区分できない。しかし、この放射線状の毛がいまもっている方向へどんどんのびていけば、六甲よりも巨大な空間を含んでしまうだろう。

 第四章の六項のメモたちが、相互の間隙へ直角に入り込み、みずから介入しつつとらえているヴィジョンは、次のようなものでもありうると想像してよい。

       〈       〉

 かならず、すべてのものは、感覚に、とらえる前に弯曲してしまうのだと思いこんで、やっと動き出すことが可能になり、動き始めて以来、いつでも、どこでも、強調しようとした感覚が、逆にかすんでしまうのを知ったと、波が揺れながら語る。街の東端で用もないのに途中下車し、つくりたての高速道路と、見すてられた住宅群を横断して、魚のとれないこの砂浜へやってきてたたずむ幻影よ。あなたの、うちよせては帰っていく運動の仕方は私のと同じだ。そして、ここからは見えないけれども、子午線の下あたりで、流れがいつものように方向を変えはじめていることも、あなたは知っていますね。

 そうだ知っている。雨あがりの川にかかっている橋である私は次のことも。六甲から性急に走り下る水勢を緩和するために、河床は数十メートル毎に段状につくり変えられている。吸いかけたタバコのフィルターの色をした泥水は滝を垂直に降下する度に速度を分断されている。泡立つ水の前線は、前線であることが分るほどほど孤立し、コンクリートに石をはめこんが河底が、歯をむきだして笑う。いくつにもとぎれた水の軍勢が左右不対称の前線を、たえずジグザグに変異されながら私の下をくぐっていく。ふりむくと河口のむこう、暗い巨船の上に暗い海が浮いている。

 時間が自律的に流れるにまかせ。圧力の少い空間へ自分が流れるにまかせている海が。海が……?

 ここは見なれた風景ではない、と思いこむとき、ひざにくいこむ坂の傾斜、背中を流れる冷たさだけを支持しよう。海が、そのままの重量でショーウィンドウのガラスを飾り、氷山が六甲の耳たぶをかむ冬をつくりだすために。

 〈かれら〉の恥ずかしさや、数字への不信や、肉親への哀れみを、デモ指揮者の唇をかむ恥かしさや、患者があたためる数字への不信や、娘たちが自分のリボンに触れるしぐさとつないでみよう。そのとき氷山に似たピラミッドの何本の稜線を越えていくことになるか。

 いく切れかの雪、いやタンポポの綿毛が降りはじめている。

 市電がそこで途絶える街の西端の街路樹の下で、だれも知らないだれかの墓をさがし疲れて休んでいる老人を語らせる声……埋葬や追悼は手にふれた途端にうそになる。それをたしかめにやってきたのが死者への思いやりというものだろう。

 ただ一つ残った海水浴場で貸ヨットを見ている失業者を語らせる声……わざと組合運動ができないようにとやっていったら、一ばんどんずまりのところで、案外できるようになってしまうかもしれないな。

 そのような声が、山系のこちら側と、海峡のこちら側をタンポポの綿毛を流す風のように流れるならば、次のような組織論が語られていても不思議ではない。

 さっきの声を聞いて、遠心=求心を一致させようとする時間と、それを泥の中に埋める時間とが対話している、という風なことを一瞬でも考えたものはここに集まってくれ。かんたんにいうと、この空間に〈ない〉全ての組織構成員に、めいめいが仮装するのだ。きみたちのめいめいはこの空間にも、所属する組織にも、〈 〉をつけていく。そして……

 仮装するとき。

 所属組織の論理で一切の対象を扱うとき。

 仮装者同志で会議・討論するとき。

 最大限一致と最低限一致のふくらみをもつ方針を一切の状況に投げつけ行動するとき。

 この投げつけや行動が、敵対者や無関心者から反射してくるとき。その反射が、仮装者をとおりぬけるのに、更に仮装し続けようとするとき。

 これらのすべてのときに生じる不安を階級関係と対応させて新しい組織をつくりだしていく。そのとき、同時にきみたちの仮装そのものをはぎとりながら。

 仮装組織論……とよんでもいいが、この組織論がひらめくめくのは、六甲が、これらすべての異和感と、最も無縁な組織空間にあるからだ。それを逆用して、ここに存在しない組織からの派遣者に仮装し、自己の所属する組織をも〈 〉へ入れていく。

 ここに存在しない組織といっても分派闘争系列図を調べればいいわけではない。そのような図は、もっと深い位相での分派闘争を一枚の紙で切りとってきたものにすぎないのだから。

 条件……一人でもやれるか? 舞台へではなく、場外へ出られるか? 政治組織以外のα・β・γ系を、自在に昇降できるか? 仮装が不要になったとき仮装の罪で処刑されてもよいか?

 遠くからの訪問者があれば胸の谷間と首すじにある目印しをたどって山上の平原へ行こう。しかし、霧につつまれて夕方に最終バスがなくなると、タンポポをさがすひまもなく空腹がやってくる。

 同じ頃、いつか、ひらめきが訪れたらいくつか論文がかけるだろう、と自足して研究会を開いているものたち、と絶縁しているものの前にタンポポの切手をつけた〈第n論文〉をめぐる諸註が送られてくる。……

 第n論文に〈 〉をつけたのは、それを強調するためでもなく、いつか未来にかく予定だという意味でもない。第n論文が、永遠に仮構の位相にあることを示すのである。

 またnというのは、いままでかいてきた論文の順序であるが、第n論文では、他者の作品の分析をするのではない。たとえ結果としてそうなっても、主眼は、この仮構の論文をかかせる何ものかの力を追求することである。諸註とは、このことを示している。

 いま、ここで第(n-1)論文までの文章を構想すると共に、第(n+1)論文以後の文章に註をつけていくとすればどうなるか。

 この仮定をするとき、第n論文以外のすぺての論文が〈 〉に入ってしまう。逆にいえば、こののことは、第n論文が意識的に、また必然的に〈 〉に入り、論文系列の位相から逸脱した結果として可能になっている。

 〈 〉をめぐる諸註が、既成の研究論文の枠内に、どんな影をおとすか。枠をこえて発散するか、枠の中で収束するか、枠をつくっていくのか、よく見るがいい。ただし、きみたちの頭蓋が影の実体に触れたとき破裂しても、それはこの論文の知ったことではない。

       〈       〉

 私が知らない間に、映画をつくっている映像たち。この街で一ばん見はらしのいいといわれる大学への階段をのぼっていくものの比重は風景に対して稀薄になり、まだ一人の観客も登場してていない試写会には、フィルムの回転音だけが白昼の闇に対抗している。

 映像たちよ。撮影される前の自分に会いにでかけても無駄だ。六甲はいつも、そこにあると思われているところにあるとは限らない。いちばん必要なときと、いちばん必要でないとき、不意に現われてきただけなのだ。タンポポの綿毛を流すほどの風があれば、六甲は揺れる。そして、だれかが疲れて手を放せば、いつでも背景や小道具はくずれ落ちる。

 複数の焦点と、隆起するフィルムのために生じた断層、そこには、撮影意図からの変移を示すための映像の他に……。

 六甲は美しくて住みよいという満足感も、やがて未来はこのようになるだろうという計算も、腕時計の肌ざわりから手錠を感じとらない心も、反革命を革命と判断するのに、いつも遅れてくる発想法も、すべて映しだす映像がうごいていなければならない。

       〈       〉

 ペン先を入れた小さなケースをとりだそうとすると、ペン先が語る。

 楽にかいてみたら? 軽くとんでみたら? そのとき、かえって重い字のおとす影が、何百ものロマンの影であることが、はっきりしてくるでしょう。

 ペンを持つ手が答える。その誘惑はだれよりも自分がよく惑じている。同時に、はじめから楽にかこうとしても解決はしない。かきおわったときに、やはり、このかきかたが一ばん楽だったのだと、世界が一瞬でも感じるように……と祈るだけなのだ。

 どこらも風信のとどかなくなったこの季節を逆回転するように、無人の丘でさかさまに倒れると、憂愁の重力が〈 〉のまぶたにかかり、黄色い花びらをはさみこむ。

 臨時工であることを示す黄札が、作業服の上で立ちすくんでいる。……海底から水面を見上げると、のこぎり状の葉が浮く。……崖下を走る電車をみつめているときにも視界に侵入してくる斜面にはりついたタンポポの根。牢獄でのわずかな散歩時間中に、くつ下をずり上げるふりをして、たった一本の黄色い花を、すばやくむしりとる囚人。

 油コブシが見ている坂道で花びらを押しひろげ、花芯から放たれる香りをさぐろうとすれば、遠くの路上で遊ぶ幼児が、ふと手をとめるだろう。それでも、花芯のむこうの綿毛がとりだされ、その綿毛のむこうの花びらがとりだされ……とりだされた何ものかは決意する。あの幼児の運命を、こんどは自分がになうことになる。になうときにせまってくる力をすべて花開かせよう。

 まどろみの間に、どこかで着地していることば……

 飛び上ろうとするとき、いままで殆んど意識しなかった条件から、いちばん強く規制される。

 

 風に乗って舞うのは、関係のあるすべてのものに許しを乞うため。

 岩の肌や、茨のふところに落ちたときは、いま創りつつあるのだと思いこまなければ、とても忍耐できない。

 まどろみが、〈 〉のまぶたから、はみ出し、その直前、小さなケースの中のペン先は、綿毛に変移している。

       〈       〉

 首都へ、群衆がビルディングに吸いこまれる時間に到着するため、深夜に六甲を通りすぎていくものたちよ。ここは、ネオンの棲息する海、テレビ・アンテナの群生する荒野ではない。いま、プラットフォームで鳴るベルを、発車の合図だと思っている限り、きみたちはどこへも行けはしない。

 この列車をレールから逸脱させて六甲を横断して走らせるには、どれだけの労力が必要か計算しよう。風のような非人称の苦しみを〈 〉のかたちをした貨車に積みこめ。ゼネストの前夜すわりこむときに持っているものの他は出発に不要だ。

 そのようにささやきかけても、たじろがないものたち……足のくみかたや、字のかきかた、胸にとびこんでしまったタンポポの綿毛があれば、そっと微笑してつれて行け。

 いつ、どこへ出発しようとも、すべての風景と交換しつくしてしまっているという抒情からの出発を。今日、最後にあの大衆浴場で会ったきみも。

     〈 〉〈 〉〈 〉〈 〉〈 〉〈 〉

 六項のメモたちのとらえるヴィジョンは、このようなものでありうると想像してよいか。ここまで書いてきたとき、いわば表六甲を分水嶺にまで登りつめたとき、不意に裏六甲が姿をみせるように、不安としか表現のしようのないものがみえてくる。

 第四章の六項のメモたちの間へ降下する六項のメモの過程をいままでかいてきたのに……

 一つの過程をかいているとき他の過程を空間的に排除してしまう不安と、一つの過程をかいているとき他の過程が時間的に変移してしまう不安がみえてくる。

 これらの不安は〈六甲〉をかこうとする試みが、そのために見えない領域をつくりだしてしまうことから生れているのだろう。

 このようにかきつけるとき、すでに無意識のうちに〈六甲〉の道は、分水嶺をすぎて表六甲から裏六甲へ入りこんでいたのかもしれない。不安がみえてきたとき、山系の全体も、おぼろげにみえてくるのか。

 そういえば、序章から第二章をへて第三章までが表六甲の道であり、第四章以後が、すでに裏六甲へ通じていたのだろう。だから第五章は、第二章と同位相にあり、第五章の六項のメモたちは、第二章の〈私〉たちと対応している。

 ちがう点は、希望に似た不安がみえてきたことで、不安は、原告団のように告発する。

 ……

 その通りだ、と認めつつも、何ものかが私に語らせて、不安の告発の時間を短縮しようとするのである。

 おお、その告発を聞くために、ここまで書いてきたのだ!

 告発の時間を早くおわらせたい……がしかし、いままで〈六甲〉をかいてきた時間は、どんな流れかたをしてきたのだろうか。

 いままで、どの章をかいているときでも、できるだけ早くかきおわり、解放されようとねがってきた。けれども、分裂し、からみ合う構想を、できる限り時間の方へ投げつけてきたとき、いつもその極限で、全く意外な表現が可能になった。

 とくに第四章をかいている最終過程で、メモ相互の間隙へ直角に降下する方向全体を一つの表現として提出しうるのに気付いたとき、汚い文字、抹殺し、捨てることが、そこから与えられる最後で唯一の快楽になっていたメモ群が、突然、光を放ちはじめたのを忘れることができない。この光は、ほんとうは、徴かながらも序章からずっと〈六甲〉の道を照らしていたはずである。

 けれども、私は、この光を十分にとらえ切ってはいない。なぜなら、どの章をかきおわったときにも、とくに第四章をかきおわったとき、切迫した時間から、安らかなおののきの空間へ投げこまれてしまったから。

 そればかりではない。その安らかなおののき。その空間も、ゆっくりと、しかし確実に変移しはじめ、次の切迫した時間へ進んでいくから。そのことに、いま気付いたから。

 長距離コースを泳ぎ切ったものが、ゴールの後でもなおプールの端でターンするように、切迫した時間に触れて、安らかなおののきの空間へもどっていく。……もどっていく? 何ものかに投げかえされているのだ。

 この断絶、この苦しみは、何かに似ていないか。そうだ! 切迫した時間を付着させている首都から、まどろんでいる空間、六甲への漂着。時間に咲くタンポポとのすれちがいから、空間に咲くタンポポヘの陶酔。

 これらは罪の拡大再生産だろうか。……ここからは、もう、私だけのために語ろう。

 切迫した時間から、安らかなおののきの空間への無意識的な断絶……というかたちは、逆転させることができるのではないか。安らかなおののきの空間から、切迫した時間への意識的な飛躍。

 そのとき、時間との接しかたに関する罪の深さが逆の意味をもちはじめてくるだろう。

 いかにして逆転させるか。いまは一つの予感しかない。α・β・γの構造とその時間的な根拠をさぐること。

 〈六甲〉からはみだそうとする油コブシで、こんなことをかいた記憶がある……

 〈 〉が生まれてくる契機は、ほぼ次の三種類に分けられる。

 α、〈 〉の変移を徹底化しようとするとき。

 β、α の運動に対する表現内からの不安を放置するとき。

 γ、αやβの運動に対する表現外からの不安を放置するとき。

 α・β・γというのは、この湾曲した世界における何ものかを区分しようとする力(ピラミッドをつくっている力といってもよい)が、〈六甲〉におとしている影のような境界線ではないだろうか。

 もし、そうであるとすれば、いや、必ず、そうであるようにさせなければならないのだが……切迫した時間から、安らかなまどろみの空間へ、という変移は、激しければ激しいほどよいのだ。また、このかたちとa・β・γ系のかたちとの比較できる領域が、広ければ広いほどよいのだ。

 〈六甲〉から、すべての不安の占拠がはじまる。いまは、一点でのみ時間の構造と接しているにすぎない空間としての〈六甲〉から。

 不安をこの世界に深化拡大することによって告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう。

 はるかな時間=空間から、〈六甲〉へのささやきがやってくる。これから占拠される不安たちのささやきが。

 私はいま、序章に対応する位相にあると感じている。……すると私は、第五章を表現しようとしているうちに第六章=終章まで表現してしまったのであろうか。あるいは、序章から第五章までを表現することが第六章=終章を表現することになるのであろうか。

 断言できること……この瞬間から〈六甲〉をかき続ける主体は、私だけではなく、私たちである。

 関係としての原告団よ、〈六甲〉を吹き抜ける風にのって、当然の比喩だが、タンポポの綿毛のように、弯曲した世界へ突入していけ。

 私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。

刊行リスト

  1. 松下 昇(についての)批評集 α篇1(88年5月)
  2. 松下 昇(についての)批評集 α篇2(89年6月)
  3. 松下 昇(についての)批評集 α篇3(95年6月)
  4.  ~        …α系は国家による批評 
  5. 松下 昇(についての)批評集 β篇1(87年9月)
  6. 松下 昇(についての)批評集 β篇1更新版(94年9月)
  7. 松下 昇(についての)批評集 β篇2(88年9月)
  8. 松下 昇(についての)批評集 β篇2更新版(94年9月)
  9. 松下 昇(についての)批評集 β篇3(94年9月)
  10. 松下 昇(についての)批評集 β篇4(94年9月)
  11.  ~        …β系はマスコミによる批評 
  12. 松下 昇(についての)批評集 γ篇1(87年11月)
  13. 松下 昇(についての)批評集 γ篇2(87年11月)
  14. 松下 昇(についての)批評集 γ篇3(87年11月)
  15. 松下 昇(についての)批評集 γ篇4(88年3月)
  16. 松下 昇(についての)批評集 γ篇5(88年11月)
  17. 松下 昇(についての)批評集 γ篇6(93年9月)
  18. 松下 昇(についての)批評集 γ篇7(93年9月)
  19.  ~        …γ系は個人による批評 
  20. 表現集1(88年8月)(註1)
  21. 表現集2(88年12月)
  22. 表現集3(94年4月)
  23.  ~        
  24. 発言集1(88年9月)
  25. 発言集2(88年12月)
  26. 発言集3(94年5月)
  27.  ~        
  28. 神戸大学闘争史 -年表と写真集-(89年5月)
  29.        〃        (その後さらに更新中)
  30. 神戸大学闘争史 -別冊1(93年4月)
  31. 神戸大学闘争史 -別冊2(93年4月)
  32.  ~        
  33. {3・24}証言集 上(89年12月)
  34. {3・24}証言集 下(90年1月)
  35.  ~        
  36. 菅谷規矩雄追悼集(90年10月)
  37.  ~        
  38. 救援通信最終号(91年5月)
  39.  ~        
  40. <6・20討論の記録-不確定な断面からの出立->(91年10月)
  41.  ~        
  42. 正本<ドイツ語の本>(77年9月)
  43. 五月三日の会通信1~26(70年7月~81年12月)
  44. 訂正リスト(93年5月)
  45. 時の楔-< >語に関する資料集-(78年10月)
  46. 時の楔への/からの通信(87年9月)
  47. 時の楔通信<0>~<15>~号(78年10月~86年7月~)、
  48. 訂正リスト(93年5月)
  49. 概念集1 (89年1月)
  50. 概念集2 (89年9月)
  51. 概念集3 (90年5月)
  52. 概念集4 (91年1月)
  53. 概念集5 (91年7月)
  54. 概念集6 (92年1月)
  55. 概念集7 (92年3月)
  56. 概念集8(92年11月)
  57. 概念集9 (93年11月)
  58. 概念集10(94年3月)
  59. 概念集11(94年12月)
  60. 概念集12(95年3月)
  61. 概念集 別冊1-オウム情況論-(95年10月)
  62. 概念集 別冊2-ラセン情況論-(96年5月)
  63.  ~ 
  64. 概念集シリーズへの索引と註(96年1月)
  65. 概念集シリーズへの補充資料(96年1月)
  66. 序文とあとがきから見た既刊パンフのリスト
  67.        〃            2
  68.  ~ 

mixiというもの

誘ってくれる人がいたので入ってみた。

コミュニケーションに不安のある野原ですが大丈夫か?

<坂本守信・松下昇>という題のコミュニティを作ろうという人が誘ってくれた*1ので入ってみた。

そこで書いた文章を転写する。

*1:mixiに誘ってくれた方とは別人

松下昇についてどこから語ることができるか?

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2887146*1

松下昇についてどこから語ることができるか?

まず遺書を引用する。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000101

として遺書を引用しました。

ですがちょっと思い直して削除しました。

どうも文体がぶっきらぼうで、読者に語りかける方向性が

はっきりしないからです。

どうしたらいいかな?

坂本さんの文章も、自閉的な他人に開かれていない難解な文章と

一般的には評されるだろうと思いますが、

Uさんはそれほど異和感はなかったですか?

どうもこのMIXIという場の性格もよく分からない。

今まではインターネットに繋ぐことさえ出来れば見れるサイトやブログを作ってきました。

インターネットは世界に広がっている、誰でも対等とかオプティミスティックに言う人がいますが、実際にはそこに前提されている文化を共有しないと入れないわけで、少なくとも最低限の知力と資力がないものは排除されています。おそらくそのような排除された者たちを目の前にいる者たちより重視する(しようとする)のが松下の方法論だった、とも言えるように思います。

そこでネット一般よりさらに限定された場で展開することの意味は何か?と考えるとすぐには答えが見つかりません。

・・・

どうも消極的ですみません。

*1:入会希望者はメールください。

うーん 松下昇

というわけで、松下昇ですが。

まず彼を紹介しないといけないか。

生年は1936年であるとのこと。

1996年5月6日朝10時ごろ死亡。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matut11.htm

同時代生まれは誰か調べてみよう。

http://www.excite.co.jp/book/guide/chrono/?index=1 現代作家ガイド―年代別/生年月日検索

ところが、30年代生まれは

1934生 筒井康隆 ともう一人しか居ない。

流行作家としてもてはやされる年齢はとっくに終わって数十年後に再発見される(かもしれない)のを待つ年齢になっているということか。

1936生 寺山修司 1983死。

      横尾忠則 もかな。

(生年別に著名人をざっと並べたデータベースがありそうなものなのに、みつからなかった。)

とりあえず見つかった3人をみるとかなり個性派ですね。

破壊~ハチャメチャ~前衛 みたいなイメージがうかぶ。

松下もそのような、ポジティヴなハチャメチャ派だった。とここでは紹介してみよう。

本居宣長とは誰か

本居宣長とは誰か (平凡社新書)

本居宣長とは誰か (平凡社新書)

祭りになっている?この本をリンクしてみよう。

義理があるので!

とても分かりやすい宣長入門書ではあるのですが、それだけではない。

本書は11の問いからなるが、それをみつめていると読者は不安になるはずだ。

問いを読んでいる(自分が問われているのではない)はずなのに、自己の立脚点を問われているのを感じるからだ。子安氏のラディカリズムをうまく定着することができた本。

(と読んでもないくせに偉そうに)

なぜこんなに、すらすらと平気に

私は学校で、万葉の講義をしているが、時々、なぜこんなに、すらすらと平気に、講義をすることが出来るか、と不思議に思うことがある。先達諸家の恩に感謝する事は勿論であるが、此処に疑いがある。教えながら、釈きながら居る人の態度として、懐疑的であるというのは、困ったものであるが、事実、日本の古い言葉・文章の意味というものは、そう易々と釈けるものではなさそうだ。時代により、又場所によって、絶えず浮動し、漂流しているのである。然るに、昔からその言葉には、一定の伝統的な解釈がついていて、後世の人はそれに無条件に従うているのである。私は、これ程無意味な事はないと考える。

(p149-150折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』isbn:4122002761

切断と現前のマジック

 どんなことでも、我ながら「すらすらと平気に」どんどん出来てしまうのは幸せなことだし、そこに“ある真実”があることも疑えない。しかるに、上記折口の文章ではそのことに対し「不思議に思う」とされている。

 凡庸な解釈では、行為する自己/意識する自己 の対立において後者の優位を信じるのは愚か、ということになるのだが、ここでは置いて、折口に従う。

 「上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代」と宣長は言った。*1そうだとすると、わたしたちは現代人でしかありえず、古は理解しえないことになる。しかし宣長の主張はそうではなく、古事記は「いささかもさかしらを加えずて古より言い伝えたるままに記されたれば、その意も事も言も相かなって皆上代の実(まこと)なり。」わたしたちが求めている真実はすでにここ(古事記)に「古の語言(ことば)」として在る!「上つ代の言の文(あや)も、いと美麗しきものをや」!

 宣長は上つ代を後の代から切断しながら、古事記に感動する宣長という回路だけに於いては、古はいままさに現前すると考えた。単に理解できるだけはなく現前し感動を与えるのだ。*2

 宣長による切断と現前のマジックは、弟子たちにはもはや何のパラドクスとも感じられず、だたただ古言(伝統)が勉強され研究されつづける。その流れの中で、万葉が「すらすらと平気に」読めるようになってきたのだ。

「すらすらと平気に」のまっただ中で、ひとはそれに異和を感じることはできないはずだ。なぜ折口だけが「なぜこんなに、すらすらと平気に」という疑問符を提出することができたのだろうか。

*1http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040913#p1

*2:この<感動>が現在の靖国問題にまでつながってきた。

直ちに其の神に成る

えっと折口を読もうとしていたのに宣長まで出してきたので話が別の方向へ転回しわけがわからなくなってきたぞ。

我が国には古く、言霊の信仰があるが、(略)

それよりも前に、祝詞には、其の言語を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は直ちに其の神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。

だから、言霊という語の解釈も、比較的に新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と言わねばならぬ。

(p165 折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』)

 たかだか8世紀前半にまでしか遡れない古事記の言語をもって「古の(こころ)=事(こと)=言」がそこにある、とする宣長の方法論には明らかに無理がある。当然、「それよりも前」の時代の人々は違う論理で生きていたはずだからである。

 神がもっと身近にいた太古を折口は自身に近づける。「直ちに其の神に成るという信仰」云々と折口は言うのだが、それは畢竟彼の詩的直感による構成物ではないのか。であれば凡人にはなかなか近づけなくとも当然か、という感想が起こる。

 どうも話が全然まとまらないのですが、少し分かってきた。

<古(いにしえ)>を読む、再現前させる二つの方法があると。

一つは、昔からの一定の伝統的な解釈にそのまま乗っかって「すらすらと平気に」語る方法。

もう一つは、宣長、折口それぞれやり方は違うが、常人離れした努力の果てにどこかで神懸かり的に、いまここに直接<古(いにしえ)>が降りてくるというパフォーマンスを行うこと。

この二つの異質な物をむりやり同一化したものが「靖国」的な、日本=日本の同一律であり、それは最強であり最悪だ、と。