松下昇~〈 〉闘争資料

2011-08-20

久しぶりに作業

「プロテスト」というひどく短い文を、UPした。

http://666999.info/matu/data0/gainen67.php

この間、出来事を忘れないうちにメモしておかないといけなのだが。

・・・

2011-07-03

直接・対等・公開の原則に基づいて討論

「大衆団交」に続いて、「自主講座」を掲載した。

http://666999.info/matu/data0/gainen32.php と gainen29.phpになる。

大衆団交について、松下は「量的な巨大さと質的な不確定性を〈今この瞬間に全ての問いに応じなければ、問いは無限に持続し、誰もこの場を離れえない〉という時間性に変換する」といった玄妙な修辞で捉えてる。

私は大衆団交を体験したことがない。大学の学長とただの学生といったどんな意味でも落差があって当然と思われる関係に、対等性が成立しさらにそのことにより、ここで討議されるべきいくつもの問題が次々に現れ、当局者と学生は立場の違いを越え協力せざるをえない、といった事態が存在したのであろう。それはただの混乱であったかのように後に処理されたが、ある巨大な可能性を孕んでいたと松下は言う。

少なくともその時、「全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行する」という巨大な大義が生きていたのだ。

先日東京で小さな事件があったようだ。反原発のデモにおいて、それに参加した右翼(日の丸を付けた人)がスピーチしようとするのを、「ヘイトスピーチに反対する会」の人たち(私も知っているはてな左翼の人が参加しているらしい)が妨害しこずきまわしたとかいう事件である。

参考 http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8236

私が真っ先に感じたのは、右翼に暴行しようとしてそれを実行してしまった彼らには、「全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行する」という大義は全く存在しなかったという事だ。そんな問題意識を見聞きすることもなく現在まで来たのだろう。

〈直接・対等・公開の原則に基づく討論〉というヴィジョンを実際に実現し続けてきたとは、私たちも言えない。

しかし、ネットでの討論は直接・対等・公開である。私が開設したグループ「従軍慰安婦問題を論じる」http://ianhu.g.hatena.ne.jp/ でも、複数のいわゆるネット右翼の人が活発な発言をし論争的に盛り上がったが、皆さんの協力を得てなんとかなかった派は沈黙するにいたった。

このような「直接・対等・公開」の場での討論というのは、大事であるし実際に力にもなると思う。次にネット右翼が出て来たときに、このケースを見よと案内すれば反復だけの不毛な議論は避けることができる。*1

「ヘイトスピーチに反対する会」の人たちは相手との対話(対話によって相手を変化させると期待すること)に絶望し、力で排除しようとした。力で解決しようとしてもスターリニズムに行き着くだけであることは言うまでもない。

「ヘイトスピーチに反対する会」について検討していないのだが、そうした思いがあったので「大衆団交」をUPしたのでした。

*1:実際は難しいが

2011-06-25

「生活手段(職業)」

一ヶ月ぶりに、概念集の一項目「生活手段(職業)」をUPした。

http://666999.info/matu/data0/gainen38.php


松下のような生き方を紹介した場合、しっかりした庶民の典型的な反応としては彼がどうやって食っているのか?に、興味を集中するということが良く起こる。日々の暮らしをどうやって立てるか、毎月の収入をなんとかして確保していくその最低限の維持が最大の関心であるのは当然だ。

一つの職場で筋を通し、結果として離職に追いやられる。自分の思想、感情からの行動と職場の空気が矛盾する場合、自己表現をある限界を越えてまで展開すればそういうことになる(可能性が強い)。しかしその後の生活をどうするのか。止めたら、より悪い職場環境に頭を下げて入れてもらうという選択肢しかないなら、止めるのは馬鹿がやることだとなる。それでもそうした「馬鹿」は少なくとも映画や小説では人気がある。現実にはできないからフィクションとして人気があるのだ。

さて、「現実にはできない」とは本当か、大学を止めた教師や学生は多い。できないわけではない。そして「不利になる」、それも疑わしい。人生の有利不利など生きてみなければ分からない。


いろいろ言っても結局、私たちはいつも、生計を立てるということが人生の最大事であるという意識から逃れることはできない。


松下がそれに対置するのは、〈仮装労働〉論というものだ。

これはインターネットという場面で考えれば、idとpasswordの共有である。現在非常に多くの職場で、idとpasswordなしには仕事を始められなくなっている。そしてアクセスするのはインターネット、イントラネット、社内LANにある共有ファイルである。

仕事というのは元々一人の個人がこれだけの分量成し遂げたと言いうる場合は少なく、数人の人の共同作業である。かってならある個人Aが40行の書類作成すればそれは彼の百%の仕事と評価できた。しかし同じ仕事をワープロでやると去年Bさんが作成した書類を10%訂正しただけ、となる。この場合、仕事量(労働時間)が減ったとも考えられるが、仕事をBさんと共有したと考えることができる。むしろここで受け取る賃金を減らさないためには、Aが作った書類作成料のかなりの割合をBさんに渡すということが考えられてよい。


「ジャンルや制度の根拠に対するの問いを深めるために、数人のグループで任意の仕事を引き受ける」 仕事とは何か、サラリーマンが机についていれば給料をもらえるがそれでよいのか。現在、正社員と非正規社員の格差が大きな社会問題になっている。まあはっきり言えば非正規社員は正規社員と同等の質の労働をしているのだから、正規社員の賃金は非正規社員と同等に引き下げるべきである。その上で非正規社員全員の賃金を大幅に引き上げるべきである。

そのそも従来の労働といったものは従来ほど長時間必要ではなくなっている。時間あたり賃金を引き上げるしかないのである。これは絵空事ではなくヨーロッパの一部では実現していることだ。


「ジャンルや制度の根拠に対するの問いを深める」について松下の考えたのはそんな事ではない、と言われるだろう。

絵を書き、歌を歌う事で生活している人がいる。しかしおそらく絵を書くことはまず、彼/女の喜びであり生の拡充であり精密化である、報酬はその結果にすぎない。おそらくどのような仕事に対しても同じような価値の転換が可能であるはずだと松下は考えた(はずだ)。

例えば、公務員の仕事の一つは利害の調整である。一つの小さな共同体において利害が対立する、その調整をするのは興味深くやりがいがある仕事である。


土地や金銭を所有するという制度も本来人が生きるための手段にすぎない。しかし現実は自己~世界の構造自体がそれらの制度によって致命的に歪められている。そうであることに気づきそれを転倒していくことが集団的に行われることはありうるし、それをこそ行っていかなければならない。

「この段階の共有と、そこからの解放の試み自体を生活手段として生きること、この試みを許容しない力や制度と持続的にたたかうこと、このたたかいに参加する人やテーマを拡大していくこと、」という表現は抽象的だが、そういう風に受け取っていくことができるだろう。

公務員と偽証

〈公務員〉という職業について、私の体験をこめてのべると、最も〈偽証〉を強いられる職種である。

公務員は「全体の奉仕者」として本来は規定されている。しかし実際には組織や上司の命令に従わないといけないという副次的ルール、に縛られている。

普通は組織(会社)の命令であっても裁判所などから見れば間違っている事は当然にありうるのに対し、国、地方公共団体の命令は一旦は正しいとみなされる。国、地方公共団体の命令が間違っている場合、だれがどのようにそれを明らかにしていくのか。日本の裁判所はその機能を果たしていない。民衆もそうした問題意識を持たず、不正を感じても愚痴を言うだけだ。そのような構造をどうしていけばよいのか?

2011-06-04

松下の文章を検索する

目次*1 に掲げた数十の文章が読めるようにはなっている。

今度、それらの文章から検索してどこで使っているか分かるようにした。

とりあえず、概念集1を対象にしたもの。

http://666999.info/test/moji_search.php

上のページの資格に単語などを入れると、どこで使っているか一発で出てくる。

ぜひ試してみてください。


なお私はPHP及びMYSQLの知識がほとんどないため、ネットで検索してどこかにあったサンプルプログラムを少しだけ変えてそのまま使わせていただいていることがほとんどだ。上の場合は下記をパクったもの。記して感謝します。

PHP勉強#7 文字列検索

http://blog.info-square.jp/scriptmaster/archives/60


表現過程自体を表現する

松下は「落書き」を表現過程自体を表現する行為、と定義した。確かに落書きは「ある時ここ」にいた証として書かれることが多い。お前はなぜそこにいるのか、と切り離して抽象的なアカデミックとされる空間で思考することを松下は嫌悪した。その対極にある表現としての〈落書き〉に近づこうとした。

 これらの、権力的には〈落書き〉と呼ばれる表現こそ、〈私〉が最も愛着を抱き、その接線方向へ、どこまでも固執する表現過程であり、概念集の試みも、その応用である。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/19690808/p1

「物理的解除によっては解除され得ないバリケード総体」の生存それ自体の表現、とも言われようところの〈落書き〉。概念集の試みがその応用である、とはどういうことであろうか。一見短い哲学的エッセイをまとめたようなものに見える概念集であるが、松下においては、強い〈現場性〉との関わりにおいて切迫した時間性において手元の材料を使って書かれたものという意味で、ある種の〈落書き〉であったのだろう。


書かれた文章をもっぱらその意味に還元して論じ合う、そのことの限界を越えていくために松下が注目した方法が、その文章が生み出されるまでの彼の(言葉を始めて覚えて以来の長い)過程を含み、そしてそれ以上にある〈弯曲〉を切り裂く〈叫び〉としてのベクトルを見逃さない〈表現過程〉への注目であった。

ある単語の出現のあり方を探る「検索」という方法は(アカデミックな方法でもあるが)、文章とそこにある思想を等値する思想とは違い、広大な〈表現過程〉を探索するなんらかのヒントを与えてくれる。


一つの小さなパンフを作成するにも印刷屋に依頼するとそこで働く印刷工や校正者、アルバイトなど多様な人々の人生にまで考えを及ぼしうるという発想が、〈表現過程〉には含まれていた。

現在ほとんどの事がパソコンで自分一人で出きるようになった、と言われている。本当にそうか。パソコンはオープンソースの思想と出会うことによって現在のような繁栄にたどり着いた。OS作成からプログラミングから印刷などまですべての過程を、議論の素材にしそのことによって質を高めることができるというのが、オープンソースの思想である。別の物ではあるが、松下の思想と共闘できるものだと思う。ただ誰にでも開かれているといってもそして知識はインターネットで無料で手に入れることができるといっても、実際には素人が何かやるのはそれなりに難しい。

ただ、ある事柄を明確にイメージし成し遂げようとしたなら、数年かかればそれはできる、と言うことができる。数年でコンピュータの機能が飛躍的に進歩し使いやすくもなることを含めて。


概念集をインターネットで再発行するに当たって、むしろそれを一文一文にまでバラしてから再構成する、例えばそれくらいの「新しいヴィジョン」がなければ、「再刊」に意味はない、そのような発想もあった。


今回プログラミング言語*2を少しいじってみた。それがどういう意味を持ちうるのかまだ分からない。模索をすることは、所与を当たり前として受け入れる事よりも大事だ、と言えるのだろう。


あらゆる問題が押し寄せてくる位置に

小人閑居して不善をなす。ということわざは面白い。小人は貧しく生きるために必死で働いていたであろう。それが暇になる。暇をどう扱ったらよいか彼は知らない。仕方ないので彼は思いついたことをやる。するとそれは「不善」とされる。小人は小人だから仕事以外の事をする権利などないのだ。彼が友人を作って騒いだりすれば即ち不穏活動になる。まあそういう意味の言葉だろう。

でこの言葉は、人間は常に彼の根源的自由に向かって開かれている、事を教えているように読める。もちろん小人は根源的自由の扱い方が分からないから「不善」に甘んじるしかないのだが。

〈スト〉に入る契機自体よりも、一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性がうまれていることの方が、はるかに重大なのだ。*3


支配者とその周辺のエリートたちの「真の姿が見えはじめ」と言えば、今回の原発騒動はその最大のものであろう。私と、私の存在基盤を変革する可能性はうまれている。

どのように?

自己の外に目的を設定しそのために人生を捧げるといった生き方は倒錯であろう。そうではなく次のような在り方を松下は提示した。

「あらゆる問題が押し寄せてくる位置に、どこかで〈死者〉たちの視線を内在させようとしつつ存在し続ける時、法を含む何かの調和線を越えてしまうがそれでいい、それしかないと何かが肯定する状態*4」に思わず立っている自分を発見する、といった在り方。


ふと気をそらすと見えなくなるようなあえかなベクトルを言葉にすることが、松下はできた。いまここの不可避性を媒介せずにそれを引用することは禁じられている。

(中断)

2011-05-31

ごぶさた

長い間ここに書き込めなかった。

最近は松下関連の作業もいくつかした。

http://666999.info/matu/mokuji18.php (今読める)概念集など目次 を見ると、78個文章がある。

このうちいくつかは、(いま確認すると7個)新しい方法で最近、5/5以降にUPしたもの。

(UPするというのは、アップロード。アップロードとは - ネットワークを介して、クライアントからサーバへデータを転送すること、と書いてあるがそうなのだろう。手元にあるファイルをインターネットに「上げて」皆が読めるようにする。ブログやtwitterでは書き込むボタンを押すだけでできる。私は自分でhtmlファイルとかを作って借りたサーバーに転送している。アップロードソフト(FTPソフト)を使って。

7つである。

順に、バリケード(概念集12の)、バリケード(概念集1の)、年周視差、メニュー(概念集2の)、法廷、メニュー(概念集12の)、Let it be の 7つだ。

バリケード、法廷、監獄の三つの項目を、「ワード・マップ 現代建築」の企画主体から依頼されて書いたことが、そもそもこの「概念集」という長大なシリーズの端緒になったのだ。それからこの三つについては私が松下から依頼されて私のパソコンでテキスト化しプリントアウトしたものがパンフの原稿になったものだ。20年ほど前の事だ。その意味では真っ先にここに載せるべきものであったのに、なぜか、載せるのが遅れていた。

「バリケード」という言葉を思い出したきっかけを書こう。twitterで呟いたのですぐ検索できる。2011.02.19日です。

http://htn.to/TM3o4y #egyjp #jan25 2、3人の人が電話ボックスのようなものを転がしてバリケードを作ろうとしている動画が感動的。日本人が撮ったもの。普通の市民がアクティヴィストに変わる瞬間!

posted at 21:31:27

http://www.youtube.com/watch?v=eoDUPsrh0OQ&feature=player_embedded

チュニジア、エジプトのジャスミン革命は、internetやアルジャジーラで事態を注視している全世界の人々に大きな励ましと問いかけを与えた。同時に、そのことを報じられない(必ずしも悪意のためではない)日本の新聞・TVに大きな不信感が生じた。

続いて起こった原発騒動ではこの不信感が大々的に再確認される事になる。

2011年はチュニジア、エジプトの人々だけでなく、私たちにとっても、始まりの年であるだろう。私たちが何かを逃さないかぎり。

書きかけ。