大衆団交



 60年代末の大学闘争において管理機構の責任者と学生集団の間で行われた交渉の形態であるが、立場による評価がこれほど分岐する概念は他にあまりない。

 学生側(特に全共闘派)は大学構成員に関する全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行することを目指し、自他の生き方の検証の場としても把握していた。一方、管理者側は、闘争の初期の段階においては、時代的な風潮にも押されて、形式的に応じることもあったが、大衆団交の本質が秘めている〈途方もない無限性〉に気付いてからは、自らが主導権を握る全学集会か自治会(全共闘派は理念的に拒否)の代表との形式的な交渉以外は拒否し、全共闘派の弾圧を国家の暴力装置に委ねた。

 大学闘争における大衆団交は、憲法や労働組合法で保証されている団交概念をはるかに越えて、戦後の民主主義概念の空洞化を明かにしつつ展開されたのであった。しかし、全共闘派も、前期の〈途方もない無限性〉に本当には気付かないまま、70年代以降の秩序に封じ込められているのではないか。

〈途方もない無限性〉に関連するヴィジョンをいくつか描いてみよう。

1.大衆団交の本質について、原像としていえば、量的な巨大さと質的な不確定性を〈今この瞬間に全ての問いに応じなければ、問いは無限に持続し、誰もこの場を離れえない〉という時間性に変換する装置である。この意味を本能的に圧殺したのは管理者側であるとして、この装置の怖しさは全参加者を同じ度合いで浸しているはずであり、これを対象化しうる場合には、団交の結果如何に関わらず恒常的なテーマを獲得しえた。

2.大衆団交は〈劇〉(喜劇が多い)として見ることもできるが、むしろ〈劇〉のなかの非〈劇〉性ともいうべき特徴が重要である。具体的な発言や行動なしには〈劇〉は進行しないとしても、それと対等に、不可視の発言や行動が同時進行しているのであり、この不可避の非〈劇〉性(大衆団交では決して解決しえないテーマの無限発生)を〈劇〉に殆ど応用しえないことが、これまでの大衆団交の悲劇であった。

3.大衆団交を(具体的ではなく関係として)参加している全構成員のかかえている問題と同じ数の未知数を持つ方程式の解を求める動きとして再把握するならば、現在の私たちが置かれている困難を突破する道の少なくとも一つを示唆しうる。任意の時と場所におけるテーマから開始してよいが、どの場合も、国家水準の決定権や情報、技術に対する〈等距離〉性を団交要求の基軸とすることが不可欠であろう。


註.前期の三項目に出てくる〈変換装置〉、〈劇〉、〈等距離〉性の問題を、様々な現実的~幻想的な領域について応用していくことが今後の課題である。そして、私たちの出会う極大のテーマも極小のテーマも、〈大衆団交〉位相の〈途方もない無限性〉の視点による検証を受けた後でのみ、情況的な(かつ他のテーマと対等に関連づけられた普遍的な)テーマとして成立しうる。