松下昇~〈 〉闘争資料

2011-06-04

松下の文章を検索する

目次*1 に掲げた数十の文章が読めるようにはなっている。

今度、それらの文章から検索してどこで使っているか分かるようにした。

とりあえず、概念集1を対象にしたもの。

http://666999.info/test/moji_search.php

上のページの資格に単語などを入れると、どこで使っているか一発で出てくる。

ぜひ試してみてください。


なお私はPHP及びMYSQLの知識がほとんどないため、ネットで検索してどこかにあったサンプルプログラムを少しだけ変えてそのまま使わせていただいていることがほとんどだ。上の場合は下記をパクったもの。記して感謝します。

PHP勉強#7 文字列検索

http://blog.info-square.jp/scriptmaster/archives/60


表現過程自体を表現する

松下は「落書き」を表現過程自体を表現する行為、と定義した。確かに落書きは「ある時ここ」にいた証として書かれることが多い。お前はなぜそこにいるのか、と切り離して抽象的なアカデミックとされる空間で思考することを松下は嫌悪した。その対極にある表現としての〈落書き〉に近づこうとした。

 これらの、権力的には〈落書き〉と呼ばれる表現こそ、〈私〉が最も愛着を抱き、その接線方向へ、どこまでも固執する表現過程であり、概念集の試みも、その応用である。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/19690808/p1

「物理的解除によっては解除され得ないバリケード総体」の生存それ自体の表現、とも言われようところの〈落書き〉。概念集の試みがその応用である、とはどういうことであろうか。一見短い哲学的エッセイをまとめたようなものに見える概念集であるが、松下においては、強い〈現場性〉との関わりにおいて切迫した時間性において手元の材料を使って書かれたものという意味で、ある種の〈落書き〉であったのだろう。


書かれた文章をもっぱらその意味に還元して論じ合う、そのことの限界を越えていくために松下が注目した方法が、その文章が生み出されるまでの彼の(言葉を始めて覚えて以来の長い)過程を含み、そしてそれ以上にある〈弯曲〉を切り裂く〈叫び〉としてのベクトルを見逃さない〈表現過程〉への注目であった。

ある単語の出現のあり方を探る「検索」という方法は(アカデミックな方法でもあるが)、文章とそこにある思想を等値する思想とは違い、広大な〈表現過程〉を探索するなんらかのヒントを与えてくれる。


一つの小さなパンフを作成するにも印刷屋に依頼するとそこで働く印刷工や校正者、アルバイトなど多様な人々の人生にまで考えを及ぼしうるという発想が、〈表現過程〉には含まれていた。

現在ほとんどの事がパソコンで自分一人で出きるようになった、と言われている。本当にそうか。パソコンはオープンソースの思想と出会うことによって現在のような繁栄にたどり着いた。OS作成からプログラミングから印刷などまですべての過程を、議論の素材にしそのことによって質を高めることができるというのが、オープンソースの思想である。別の物ではあるが、松下の思想と共闘できるものだと思う。ただ誰にでも開かれているといってもそして知識はインターネットで無料で手に入れることができるといっても、実際には素人が何かやるのはそれなりに難しい。

ただ、ある事柄を明確にイメージし成し遂げようとしたなら、数年かかればそれはできる、と言うことができる。数年でコンピュータの機能が飛躍的に進歩し使いやすくもなることを含めて。


概念集をインターネットで再発行するに当たって、むしろそれを一文一文にまでバラしてから再構成する、例えばそれくらいの「新しいヴィジョン」がなければ、「再刊」に意味はない、そのような発想もあった。


今回プログラミング言語*2を少しいじってみた。それがどういう意味を持ちうるのかまだ分からない。模索をすることは、所与を当たり前として受け入れる事よりも大事だ、と言えるのだろう。


あらゆる問題が押し寄せてくる位置に

小人閑居して不善をなす。ということわざは面白い。小人は貧しく生きるために必死で働いていたであろう。それが暇になる。暇をどう扱ったらよいか彼は知らない。仕方ないので彼は思いついたことをやる。するとそれは「不善」とされる。小人は小人だから仕事以外の事をする権利などないのだ。彼が友人を作って騒いだりすれば即ち不穏活動になる。まあそういう意味の言葉だろう。

でこの言葉は、人間は常に彼の根源的自由に向かって開かれている、事を教えているように読める。もちろん小人は根源的自由の扱い方が分からないから「不善」に甘んじるしかないのだが。

〈スト〉に入る契機自体よりも、一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性がうまれていることの方が、はるかに重大なのだ。*3


支配者とその周辺のエリートたちの「真の姿が見えはじめ」と言えば、今回の原発騒動はその最大のものであろう。私と、私の存在基盤を変革する可能性はうまれている。

どのように?

自己の外に目的を設定しそのために人生を捧げるといった生き方は倒錯であろう。そうではなく次のような在り方を松下は提示した。

「あらゆる問題が押し寄せてくる位置に、どこかで〈死者〉たちの視線を内在させようとしつつ存在し続ける時、法を含む何かの調和線を越えてしまうがそれでいい、それしかないと何かが肯定する状態*4」に思わず立っている自分を発見する、といった在り方。


ふと気をそらすと見えなくなるようなあえかなベクトルを言葉にすることが、松下はできた。いまここの不可避性を媒介せずにそれを引用することは禁じられている。

(中断)