プロテスト



 抗議ないし異議申立てを意味し、宗教史的にはキリスト教のプロテスタンティズムとの関連で論じるのが普通であるが、ここでは、〈不条理〉の項目に出てくるパンフの作成過程で出会ったテーマとして扱う。

 前記パンフの原稿を集めている時に、当然のことながら、救援組織を支えてきた人々の大学闘争の総括が、はっきりと示されてくる。開始後二〇年を経て、これだけまとめて総括が公表されるのは、それ自体が事件でもありうる。ただ、不遜ないい方であるが、殆ど全ての総括は私のこれまでの総括の中で批判ないし止揚されているという気がした。どうしても黙って通り過ぎては何かにすまないと感じたのは、次の要旨をもつ見解である。

 自分たちがやってきたことはプロテスト以外のなにものでもなかった。現在では、この概念は新鮮な響きを失い、かってプロテストした者たちは、要領の悪いハネ上がりとしてしか見られていないが、世界を動かしてきたのはプロテストだけであり、社会主義の理想が国際的に解体しても、矛盾や対立が解消するはずはなく、プロテストの意義は持続するだろう。

 この見解を提出したのは私より年長の良心的な支援者で、私はその人柄に敬意を払っていたから、これを読んだ時に大きい衝撃があった。というのは、私は自分のやってきていることがプロテストであるとは一度も考えていなかったからである。むしろ、私は迫ってくる問題群を楽しく再構成する素材として歓迎してきたし、敵対するように見える関係や人々があっても、それらの関係や人々が私の扱いに堪りかねて、もうやめてくれとプロテスト!するほどに、〈作品〉の対等の登場人物ないし作者として対処してきている。私は前記の筆者と比べて〈悪霊〉に満ちているのかと、〈当事者〉や〈余事記載〉の項目を記す手つきのまま内省せざるを得ない。しかし、この内省を自分の方法に繰り込んでいく限りにおいて、私の方法も持続するこの世界の矛盾や対立への、決して屈伏することのない〈プロテスト〉でありうるのではないか。たとえ世界から〈余事記載〉とみなされても……