松下昇~〈 〉闘争資料

2011-06-04

あらゆる問題が押し寄せてくる位置に

小人閑居して不善をなす。ということわざは面白い。小人は貧しく生きるために必死で働いていたであろう。それが暇になる。暇をどう扱ったらよいか彼は知らない。仕方ないので彼は思いついたことをやる。するとそれは「不善」とされる。小人は小人だから仕事以外の事をする権利などないのだ。彼が友人を作って騒いだりすれば即ち不穏活動になる。まあそういう意味の言葉だろう。

でこの言葉は、人間は常に彼の根源的自由に向かって開かれている、事を教えているように読める。もちろん小人は根源的自由の扱い方が分からないから「不善」に甘んじるしかないのだが。

〈スト〉に入る契機自体よりも、一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性がうまれていることの方が、はるかに重大なのだ。*1


支配者とその周辺のエリートたちの「真の姿が見えはじめ」と言えば、今回の原発騒動はその最大のものであろう。私と、私の存在基盤を変革する可能性はうまれている。

どのように?

自己の外に目的を設定しそのために人生を捧げるといった生き方は倒錯であろう。そうではなく次のような在り方を松下は提示した。

「あらゆる問題が押し寄せてくる位置に、どこかで〈死者〉たちの視線を内在させようとしつつ存在し続ける時、法を含む何かの調和線を越えてしまうがそれでいい、それしかないと何かが肯定する状態*2」に思わず立っている自分を発見する、といった在り方。


ふと気をそらすと見えなくなるようなあえかなベクトルを言葉にすることが、松下はできた。いまここの不可避性を媒介せずにそれを引用することは禁じられている。

(中断)