Let it be

Let it be



 六〇年代から現在まで響いているビートルズの曲の一つであるが、〈be〉動詞を媒介する〈 〉闘争の動詞概念へ迫ろうとする時に、より強く聞こえてくる。

 ある作業を、できれば一緒にやっていただきたい。自分の関心のある任意の行為や、その持続が何らかの評価を受ける場合、どのような動詞として規定されているかを調べてみることである。私は、自分に対する処分理由や起訴理由などについてやってみる。


 処分理由…「成績表を提出せず、試験の実施を拒否し、0点をつけ、開講せず、教授会に出席せず、はり紙をなし、ビラを作成し、立ち入り禁止の学舎内に残留して退去せず、教室を占拠して無断使用し、明け渡しの通告を無視して不法占拠を持続し、教壇を占拠し退去説得にも応ぜず、授業実施を中止するのやむなきに至らしめ(1)、
教室の入口付近に座りこんで実験の授業を中止するのやむなきに至らしめ、バリケードを築いて学舎の一部を封鎖し、授業の多くを中止するのやむなきに至らしめ、試験開始前に侵入して試験を中止するのやむなきに至らしめ、受験生の前で受験拒否を使嗾する文書を板書し、教授会の会場に入り込み中止するのやむなきに至らしめ(2)、
通路に座りこんで教授会開催を困難ならしめ(3)、
壁にしばしばマジック・インキで落書きをし、教室の黒板の全面に白ペンキで落書きを大書して授業に支障を与え(4)、
汚損箇所の修復後も落書きを止めず…
(まとめとして)職務を放棄し、決定ないし命令に違背し、機能を妨げ、国有財産を損傷した。これらの行為は、国家公務員法〜条の規定に違反する。」


 起訴理由…について同じように要約しはじめて明らかになるのは、まず同じ行為(前記1〜4)についての記述が詳細になり、動詞が権力的になっていくことである。(1)について示すと「教官席を占拠し、退去要求を無視し、討論をよびかけ、室内を混乱に陥しいれ、授業を断念するのやむなきに至らしめ、もって多衆の威力を示して業務を妨害し」となり、文章全体では数倍になる。次に、処分理由一二項目のうち、四項目のみが起訴されているのは、処分段階の政治的かつ重点的な告訴などの影響があるためで、四項目以外も場合によっては起訴理由とされうるが、その場合にも起訴理由にしえない領域がある。
(例えば、職務内容に関連するものや、一般的に了解しうる表現作成〜配布行為など) さらに起訴理由の審理は身体を拘束しておこなわれるが、処分理由の審理は非拘束であり審理の放棄も認められる(むしろ歓迎される)ことを考えると、あらゆる点でハードとソフトの対比を示すように見えるが、決してそうとは限らない。そもそも四項目の起訴理由の三倍の一二項目も処分理由を存在させうる根拠に基いて対比しないと無意味である。

 起訴理由よりも処分理由の方が広いということは、前者が一瞬の身体的行為ないし効果に力点をしぼりつつ(そのために〈動詞〉の記述が詳細かつ権力的になる)刑法と交差させて判断するのに対して、後者は職務を合む生活過程における持続的行為ないし効果が共同体の幻想性の水準を脅かす度合に応じて判断するところからきている。また、私の場合に典型的であるが、起訴理由は処分理由を必要とする処分者によって告訴〜供述がなされることにより初めて具体化している。審理条件の〈ゆるやかさ〉と見えるものも、私の行為として切り取った〈動詞〉の根拠の審理を拒否して、一方的な判断を社会的〜生活水準で固定化する作用をもつ。

 では、私の行為の〈動詞〉の根拠は何か。極限において〈be〉であるといっておく。六○年代に出現した全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ、という声ないし歌の中に私は存在してきた。バリケードの内外で流れたメロディーのうち、歌詞と殆ど関係なしに、しかし、にもかかわらず最も心を打つのがLet it beであるとすれば、ビートルズも、どこかで、大学闘争とよばれる世界史的波動を共有しているのだろう。

 〈be〉は、どこからきて、どこへ行くのか。また、全ての〈動詞〉との関連においてどのように位置し、動いているか…この問いの中にも私は存在してきているので、かいま見える断片を書きとめておこう。

 あらゆる問題が押し寄せてくる位置に、どこかで〈死者〉たちの視線を内在させようとしつつ存在し続ける時、法を含む何かの調和線を越えてしまうがそれでいい、それしかないと何かが肯定する状態が〈be〉ではないか。(幼児や老人や病者でさえも、不退去の〈罪〉に交差しうることの意味は大きい。かれらは最も〈死者〉に近く、それゆえ最も生きている。私の処分〜起訴理由の開始点も不退去であった。) 国家や社会が〈罪〉とする行為のリストの中で自分にあてはまるものを(公開されていようといまいと)確認し、その範囲のリスト総体からの偏差を測定するならば、その偏差度は自分の表現の根拠の偏差度に正確に対応しているであろう。この対応への耐えがたさが革命概念の解体の後にも持続すべき〈革命〉の根拠ではないか。

 国家や社会が今のところ〈罪〉としていないが〈死者〉(人間とは限らない)たちの視線からは〈罪〉であるかも知れない行為を自分がなしつつあると感じ、それらのリストが前記のリスト総体から偏差している時の旋律に一瞬でも立ち止まり、音符を記して偏差の隙間に存在させようとすることが、私たちの辿り着く表現の根拠ではないか。