松下昇~〈 〉闘争資料

2011-07-03

直接・対等・公開の原則に基づいて討論

「大衆団交」に続いて、「自主講座」を掲載した。

http://666999.info/matu/data0/gainen32.php と gainen29.phpになる。

大衆団交について、松下は「量的な巨大さと質的な不確定性を〈今この瞬間に全ての問いに応じなければ、問いは無限に持続し、誰もこの場を離れえない〉という時間性に変換する」といった玄妙な修辞で捉えてる。

私は大衆団交を体験したことがない。大学の学長とただの学生といったどんな意味でも落差があって当然と思われる関係に、対等性が成立しさらにそのことにより、ここで討議されるべきいくつもの問題が次々に現れ、当局者と学生は立場の違いを越え協力せざるをえない、といった事態が存在したのであろう。それはただの混乱であったかのように後に処理されたが、ある巨大な可能性を孕んでいたと松下は言う。

少なくともその時、「全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行する」という巨大な大義が生きていたのだ。

先日東京で小さな事件があったようだ。反原発のデモにおいて、それに参加した右翼(日の丸を付けた人)がスピーチしようとするのを、「ヘイトスピーチに反対する会」の人たち(私も知っているはてな左翼の人が参加しているらしい)が妨害しこずきまわしたとかいう事件である。

参考 http://bund.jp/modules/wordpress/?p=8236

私が真っ先に感じたのは、右翼に暴行しようとしてそれを実行してしまった彼らには、「全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行する」という大義は全く存在しなかったという事だ。そんな問題意識を見聞きすることもなく現在まで来たのだろう。

〈直接・対等・公開の原則に基づく討論〉というヴィジョンを実際に実現し続けてきたとは、私たちも言えない。

しかし、ネットでの討論は直接・対等・公開である。私が開設したグループ「従軍慰安婦問題を論じる」http://ianhu.g.hatena.ne.jp/ でも、複数のいわゆるネット右翼の人が活発な発言をし論争的に盛り上がったが、皆さんの協力を得てなんとかなかった派は沈黙するにいたった。

このような「直接・対等・公開」の場での討論というのは、大事であるし実際に力にもなると思う。次にネット右翼が出て来たときに、このケースを見よと案内すれば反復だけの不毛な議論は避けることができる。*1

「ヘイトスピーチに反対する会」の人たちは相手との対話(対話によって相手を変化させると期待すること)に絶望し、力で排除しようとした。力で解決しようとしてもスターリニズムに行き着くだけであることは言うまでもない。

「ヘイトスピーチに反対する会」について検討していないのだが、そうした思いがあったので「大衆団交」をUPしたのでした。

*1:実際は難しいが