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フィクション

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フィクション

   フィクション

 概念自体の意味は、仮構されたストーリー、現実にはないことを前提とする構成というように一般的に理解されているとして、本当にそれでよいのだろうか。

 ある主体が、直面し、巻きこまれ、その中でもがいている事態を何とかして切り抜けようとして対処する仕方のうち、言語によって自らの考えを展開する仕方のみをとり上げると、その中にも、さまざまなジャンルや手段がある。最も一般的には、批評的散文の公開があるだろう。(註1) ところが、テーマをただちに公開しえないか、核心的部分が各当事者の闇の中に沈んでいて、批評的散文を公開することが対権力的にも困難であったり、各当事者に突きつけても応答が返ってこないような場合にはどうすればよいか。

 この時、はじめて、権力や存在の暗部を一たんとびこえて、自らを抑圧(否定的ヴィジョンとしてのみならず、<魅惑>というようなヴィジョンと変換してもよいし、必要である。)して止まない事態の総体と対等な何かを、言語によって、ある対象的な<情況>として出現させる作業の契機が生じるであろう。この時の作業の射程および表現水位の呼吸を<フィクション>の原基であるとのべておこう。(註2) 重要なことは、このような作業が言語的に仮装する形態が、例えば<小説>とよばれるとして、逆に、<小説>によってフィクションの原基が、つねに展開条件をもつとはいえないことである。

 むしろ、前述の切迫にうながされて、何かの言語的手段で事態に対処する主体の表現過程を含めて考えると、自覚的かつ不可避的に強いられる方法が、例えば<小説>であるようにみえる表現史的かつ自己史的根拠こそが私たちの考察の対象になるべきであろう。

かりに、任意の時代と主体の切迫を想定した場合、多岐にわたる言語の構成形態が<ジャンル>帯に横断的な分布をするだろうが、そのいずれにおいても<フィクション>の原基が息づいている点にこそ注目したい。<ジャンル>としての系統的歴史の中で、その作品が、どのような位置をもつかは、交差しつつも別の座標系で測定されねばならない。吉本隆明氏の詩~劇的仮構線についての仮説は大きい示唆を与える。

さらには、具体的な抑圧とか対処というヴィジョンからは離れるとしても、自然科学上の仮説や社会科学上の主張も広い意味の<フィクション>として統一的な視点(註3)で再把握していくこと、また、そのように把握する主体自身の<フィクション>性についても追求していくことが不可避的な課題になるであろう。fiction論とfunction(函数)論の関連においても。 

この項目をかく契機になったのは、<甲山>事件と格闘してきた高尾和宜氏の作品「石の枕」を、その作成~開示過程をふくめて<読了>する過程で生じてくる手ごたえである。また、筒井康隆氏が<超虚構>という概念を提出する背後には、意識しているかどうかは別として、公認されたジャンルとしてのSF(科学的フィクション)への自足を越えて、SFを必要とする現代の情況へ切り込んでいくためには、自らの発想や存在様式を一たんは全て<SF>であるとみなす解体をくぐりつつ表現すべき必然があるのではないか、という直感からである。もちろん、<時の楔通信>発行の仮装的宙吊り~委託以降の私たちの< >性が最大の契機である。


註1 言語を用いる作品や散文批評以外の表現ジャンルにおけるフィクション性についての考察も必要であるが、ここでは、表現主体の意識の運動過程のさまざまな様式を、過渡的に言語に投影しうるものと仮定し、投影位相における考察で代表させることにする。この仮定の背反領域(言語とくに書き言葉や、文明的水準の概念をもたない存在、死者の表現等)の追求も対等に必要であり、今後、展開予定。


註2 現実過程の{不}可能性の向こうへの<跳躍>は、喩ないし奇跡の構造としても把握しうるが、その場合、現実過程と言語的情況の比重の一瞬の逆転関係を創出しうるかどうかがキー・ポイントになるであろう。


註3 < >も一種のフィクションである、という場合の< >の中に何を包括しうるか、その範囲と運動性を、全ての使用例を媒介して総体的に把握するとき、私たちの文明のある偏差と突破方向が、かすかに視えてくるのではないか。

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