松下昇~〈 〉闘争資料

2008-10-28

■不確定な予断からの波紋

松下昇「不確定な論文への予断」への注釈的感想を、まとめました。

http://666999.info/noha/hamon.html 不確定な予断からの波紋 です。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080606 以降、断続的に野原ブログに掲載したものです。

2008-10-12

再開始について/restartについて

本件に関わる〜本件を媒介する中心的テーマの一つは、ある行為を含む何物かを中断〜宙吊りにし得る根拠、そして〈再開〉し得る根拠は何か。なしくずし的回帰としてではなく情況的生命を真に復活〜深化〜応用し得る〈再〜〉の根拠の対象化、にあるといえる。  p3 通信<10>号

上の文章は、「〜」がいっぱいあって読みにくいので全部取ってしまうと次のようになる。これでも意味はほとんど変わらないと思う。*1

「本件に関わる中心的テーマは、ある行為を含む何物かを中断し得る根拠、そして再開しうる根拠は何か。なしくずし的回帰としてではなく情況的生命を真に復活し得る〈再開始〉の根拠の対象化、にあるといえる。」

ある行為とは、やはり占拠〜バリケード化 といった行為が想定されていよう。しかし、そういった行為でなくてもよいのだ。行為の主体が個人ではないこと、それから行為を色づける情況性の存在、自己変革〜超越性という未知の次元への感受性といったものが、あらかじめあるのだ。松下はそれを言葉で説明したりすることなくとも暗示することによりそれを強化し影響力を行使しえた。冷静過ぎる説明だがそうも言えよう。「情況を作っていく」ベクトルを自己に受肉することが当為になる。

橋を、広場を、部屋を、かんたんに通りすぎるな。権力にも、寄生虫的な参加者にも視えない空間が存在するのだ。汝はなぜここにいるのか。もはや、ここから脱出することはできない。

間違ってはならない。(自己とは区別されたものとしての)情況を自己に受肉するのではないのだ。自己つまり仕事や金に囚われているところの自己はわたしにとって疎遠なものにすぎない。であるから、わたしにとってすでに世界は1/3くらい変わってしまっているのであり後は〈再開始〉を愉悦として/苦悩として、行っていけば良いのだ。

*1:上は第一次的には人事院〜国に対する表現なのですがその点を野原は無視している。

2008-10-10

普遍言語

普遍言語について想像をめぐらせてみようという、ここに生まれた奇妙な思念に、あなたにも付き従ってほしいなどとは、とても申し上げられません。

フランチェスコ・ソアーヴェ 1774年

『完全言語の探求』エーコ p16 isbn:4582476317 C0380 P4200E


 この「完全言語の探求」という本の考察対象としてエーコは4つのものを挙げるがその4つ目は以下の通り。

 再発見されたものであれ、新しく構築されたものであれ、多少とも魔術的な性格をおびた言語。これらの言語は神秘的な言表可能性や奥義伝授される秘密の点での完全性をめざしている。(p22)

 少し遠くから見ると、時の楔通信のディスクールは「魔術的」に見えるかもしれない。それを否定するのではなくむしろ魔術の普遍性を確認しておくべきだろう。

野原のブログに大学の名/大学解体という文を書いた

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081010#p1

「この世界を自分なりに思考したいという素朴な欲求や、学識を通じて何かを実践したいという若やかな渇望」が現在の大学においてはもはや個人の信仰告白といった領域でしか許されなくなっている、かのような情況を憂いている人たちの記事の引用。

2008-10-07

どのように対処するかに応じて複素数性のプラン

約1月ぶりになります。*1

開廷直後、裁判官が、どのように対処するかに応じて複素数性のプランが用意されていた。法的に準備する次の武器としては、忌避が却下または棄却になることを想定して、あらかじめ次の抗告表現が必要であるが、これまでの経験からは(そして数人の弁護士に質問しても)、高裁における忌避に対する決定の後で可能な方法が、異議(刑事訴訟法428条では 即時抗告はできない。)なのか、特別抗告なのか判らず、また、それぞれの文書を用意するとして提出先が、決定を下した法定か、法定を通じて他の裁判官か、一般的な訴訟受付か不確定であった。従って、被告人としては2n通りの文書を作成し、文書提出先が法廷でない場合には、被告人非在の時間をつくらせないため傍聴席の共闘者が提出してくれるようすでに11.4の神戸大学で<共謀>しておいた。

1983.11.8<大阪>高裁より  時の楔通信第<9>号 p6下

 時の楔通信を読み始めようと思いながらできなかったので今日から読み始めることになりました。ふつう<0>号から読み始めるべきところ、<9号>から読み始めることにしました。8/9に書いたように、<85.2.1>〜<86.3.24>の期間が 私(たち)にとって特権的な時期であった*2ことのを私は最近再発見したのでそれを中心に読むという問題意識からです。

 さて上はそのような絡まりあった歴史から離れて、ちょっと印象的であったので引用してみました。p6上には「主尋問の途中で提起すること。」といっフレーズもあります。これを要するに、現実にベタベタ密着した手練手管を模索しているということです。相手から拒否された時、それでも諦めきれなければどうするか?次のアプローチをするしかないわけですが、同じレベルのそれをしても駄目だとすると?メタレベルのアプローチが必要になります。それも駄目だとすると?二種類めのメタレベルのアプローチが必要になります。それも駄目だとすると?メタメタレベルのアプローチが必要になります。それも駄目だとすると?・・・といったふうに進んでいきます。

 裁判と出会うことさえなく抑圧されている人々の声にならない声、所詮裁判と言い捨てるしかなかった膨大な人々、むしろそれらの人々と身体感覚を同じにしながら、ふとしたきっかけで裁判所に迷いこんでしまった松下たちは、戸惑うことなく、自らの〈惑い〉を武器に裁判所の作った2nの迷路をむしろ楽しんでさまよい始める。

 数学が難解で私たちの常識をはねつける物であるように法学裁判所もそのようにイメージされる。数学には触れることなく生きていけるとしても、わたしたちはふと〈起訴〉されてしまえば裁判に囚われて数年を過ごすことになります。拘束性は、難解で私たちが何を訴えても拒否してくるといったイメージにつながる。しかし実は私たちが何を訴えても拒否してくるわけではない。裁判所はわたしたちの身体(性)を拒否してはいない、拒否するという文書を出すことしかできない。・・・

 まあそんなふうに裁判とはどういうものかという自己のイメージをまず変える必要があるのだが、それは、難攻不落の美女や難攻不落の上司を落とすテクニックにも応用が効くだろう、ということがこの文章を引用した意図である。つまり現実は常に多次元的であり時間がないと言われても常に駆け込める隙は発見可能である*3ということ。

 わたしたちは時の楔通信を美少女ゲームのように読み、美少女ゲームを実践してみることから逆に時の楔通信の<読み>を深めることができるだろう。

*1国語学原論という本を読んでいました

*2:罪深いかもしれない修辞だが

*3:時間の微分可能性

2008-09-11

誤植が3つも

この間、「不確定な論文への予断」を読んできたが、このごろ中断してしまっている。「とくに労働の場において、いや応なしに接触する不確定な表現を揺括することである。」という文(フレーズ)を引用しようとして気づいた。揺括するなんて言葉はない。総括するかなと思って(あんかるわ版を)見るとそうなっている。それだけでなくその直後にさらに二つの誤植を発見。

ここから何を開始するかは不確定であるにしても、その不確定さの発生する場所から尖端に至る過程で交差する問題は、極めて多岐にわたる。それは〈……〉のむこうの全てだといってもよい位である。その儀域に突入するのは、やりたいことであり、やらねばならないことでもある。そして、この二つが一致するのは、白星のように暗い季節には大変めずらしい現象である。

http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

その儀域に突入、白星のように暗い季節

その領域に突入、白昼のように暗い季節 の間違いである。

わたしの編集〜刊行過程は、誤植を増殖させる過程であるとは、時の楔通信を電子化する過程で気づいたことだ。(ありふれた誤植は面白いとはいうものの) 許されない。この短い文でもさらに誤植は発見できるのではないかと思う。


そのつど直していきたい。


さらに3つ 訂正した

誤:一切の表現は出題における私の主観的形式、内容の制約された上でおこなわれ、

正:一切の表現は出題における私の主観的な形式、内容の制約された上でおこなわれ、


誤:表現論、組織論、情念諭その他

正:表現論、組織論、情念論その他


誤:さまぎまの領域

正:さまざまの領域

UPしてある全松下〜刊行委員会表現について、読者のみなさんもご注意をよろしくお願いします!!


出題という松下の恣意的形式に制約された上で

「更に、一切の表現は出題における私の主観的な形式、内容の制約された上でおこなわれ、評価されている。」

普通、日本語は1字くらい誤植があっても推測で脳内訂正しそれで支障ない場合が多い。だが上記に関わる誤植だけは致命的だったであろう。

というかこの文章にはまだ誤植があるのではないかという不安が消えないほど読みにくい文章だ。

松下ドイツ語教師として出題する。ドイツ語教師は生徒に任意の思想を述べさせることが簡単にできるわけで翻訳を命じさえすれば良い。そのように、(学生にとっては)教師の恣意的な形式、内容に従わざるを得ないのがテストなどの形式である。このような「表現過程」において学生の答案およびそれからの過剰としての「落書き」が書かれる。それを間違った教師としての松下が覗き込んで喜んでいる。いやらしい・・・といった感じでしょうか。 とにかくこの文章は本来少し違った形をしているべきと感じる。