松下昇~〈 〉闘争資料

2008-11-16

置き換えが可能な部分を発見することの効果!

六甲」の写経が、第3章のp77まできました。

任意の部分に〈 〉をつけてみると、置き換えが可能だし、そのことによって花びら全体が、さまざまに揺れ動く。そして、イメージあるいは言葉が、個体→群→全体

個体←群→全体 個体←群←全体というようなことばでしか、いまはいえないが、そのような異なった時間=空間の律動の境界を往還するのが予感できるのだ。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p4

花とは、萼−花びら−雄しべ−雌しべといった一つまたはn個の要素を構造化したものである。〈 〉を付けるとはそれを強調しそこに意識を集中すること。微小な差異を示している無数の花があったとき、萼−花びら−雄しべ−雌しべのどの項目に注目するかによって違った分類が出現する。私たちは常識的分類−リンネによる分類−現在の植物学による分類、がそれぞれ差異を持つことを否定しないが、後者は前者を洗練されたものという理解により基本的に同一化して受け取っている。*1しかし世界とはそうしたものであろうか。一つの花びらが、スズラン〈と呼ばれることを拒否しなければならない根拠〉が存在するとき、そうした世界は消滅する。萼−花びら−雄しべ−雌しべのどの項目に注目するかによって、異なった時間=空間の律動の境界を往還することができる。


構造主義/ポスト構造主義が流行するのは日本では1970年代に入ってからですから、この文はその影響を受けている訳ではありませんが、思想的方法的な親近性は大きいと言えます。どう読んだらいいのか。むりやり注釈をつけてみました。

*1:政治思想が自民党民社党共産党・・・という党派分類に還元できるとするもの、同一化平板化作用である。

2008-11-12

〈星をみた〉

 今朝は5時前に起きたので、散歩に出た。動かずに座っているとしばらくするとひどく寒くなるので。3分ほどで川があるのでそこまで。良く晴れて星が出ていた。オリオン座が南の空に。(他の星座名も学びたい。)常夜燈が多くじゃまだがそれでも見えないことはない。 星辰と言えばカントが道徳律とならべて至上のものとしたことでも知られる。今日ではそれがあったことすら忘れ去られているものの代名詞になっている。


その後、「六甲」写経作業を 3段落だけ行う。いま3章のまんなか辺。(2章後半が抜けている) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p4

テキストをUPすることにどのような意味があるのか。私にとって。提示できる宝を私は所有しているぞという顕示欲なら否定すべきである。

とりあえず今後は11/30の集会に向け、時の楔通信からの 一部抜粋をUPしていきたい。


六甲911ヴァージョン)

 内臓の底から吹き上げられた〈私〉たちが、風景への出口でぶつかったのは、〈崩壊したビル〉のかけらであった。私が失神しながら接吻しているので、黄色くなったコンクリートは血にまみれており、そこには、いままで〈私〉たちが一度も感じたことのない、可憐な勇敢さともいうべき力が潜んでいる。

 〈私〉たちにとって、はじめての外部の風景でありながら同時に出口をふさぐこの〈崩壊したビル〉のかけらを前にして、〈私〉たちは次のように討論する。

2008-11-08

六甲2章 前半部分

六甲2章 前半部分を少し書き写してみた。(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p3

 宙吊りにされて、飢えている「私」がいる。この「私」は 〈私〉たち と表記され、単数の〈私〉たち であるとされる。*1

 わたしたちとは何か。首都の戦いに破れつかれ果てて帰ってきた男。神話的物語ではなくリアリズムとして。わたしたちという規定は60年安保闘争で刻印され持続する。

首都という戦いの時間から 六甲というまどろみの空間へ・・・


 わたしの意識はむしろ戦いとその後の分裂の過程で歪み傷つき変色しているのだが、眼前にある山系が美しくわたしの無意識に浸透してくるときふと、山系という交響曲がわたしたちの矛盾の総体と呼応しているのに気付く。これが〈六甲〉 〈私〉たち の発生だ。

 山というものを数学的に抽象化すればピラミッド三角錐、四角錐)になる。自己と世界の不整合を、外部的ピラミッドと内部的ピラミッドのズレとしてとらえること。ズレは4次元空間において適切な変換をすればかんたんなものに還元できる。

 絶望〜自己解体からくる外界の自己への雪崩込みを、松下はイメージ形成力と数学的空間への転移により以上のように捉え直す可能性を見出した。

*1:どこにいようと時間を失った〈私〉たちは、沈黙してまどろんでいるうちにずり落ちてしまい、見知らぬ空間へはなればなれになった〈私〉たちをみつめ合う。それゆえにこそ、これを書いているのは単数の〈私〉たちである。

2008-11-01

〈第n論文〉をめぐる諸註

松下は若きドイツ文学者として、次のようにブレヒトハイネについての論文を交互に書いていった。

ブレヒトの方法」 (一九六三年 B1論文

ハイネ北海』における詩と散文の相関性」 (一九六三年 H1論文

ブレヒト『処置』の問題」 (一九六四年 B2論文

ハイネの序文に関する序論」 (一九六五年 H2論文

その延長線上で、論文という枠をもはやはみ出してしまおうとする試行が、

 〈第n論文〉をめぐる諸註 1967年3月 http://666999.info/matu/data/nnron.html と

 不確定な論文への予断 1969年3月 の二つである。

後者への、註〜感想作成作業がだいたい終わったので、前者のテキスト化、UP作業を行った。上のurlである。

2008-10-30

不確定な予断からの波紋 v.1.1

冒頭部分、ノヴァーリスの紹介のところ、をかなり訂正。

http://666999.info/noha/hamon.html