松下昇~〈 〉闘争資料

2008-09-11

出題という松下の恣意的形式に制約された上で

「更に、一切の表現は出題における私の主観的な形式、内容の制約された上でおこなわれ、評価されている。」

普通、日本語は1字くらい誤植があっても推測で脳内訂正しそれで支障ない場合が多い。だが上記に関わる誤植だけは致命的だったであろう。

というかこの文章にはまだ誤植があるのではないかという不安が消えないほど読みにくい文章だ。

松下ドイツ語教師として出題する。ドイツ語教師は生徒に任意の思想を述べさせることが簡単にできるわけで翻訳を命じさえすれば良い。そのように、(学生にとっては)教師の恣意的な形式、内容に従わざるを得ないのがテストなどの形式である。このような「表現過程」において学生の答案およびそれからの過剰としての「落書き」が書かれる。それを間違った教師としての松下が覗き込んで喜んでいる。いやらしい・・・といった感じでしょうか。 とにかくこの文章は本来少し違った形をしているべきと感じる。