2007-12-27
■ 村尾氏の事実誤認など
今日は、というか相変わらずなまけてばかりで、記憶が蒸発したころ書き込みがあるわけですが、2.24付け 野原−>村尾を下記に転記しました。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/18/6
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/18/4#p1
あなたが書店販売に異議を唱えなから『存在と言語』を直接村尾からてはなく、書店で購入したということに疑問が起こってきます。
とあるので村尾氏はわたしが『存在と言語・1』を書店で購入したと思っているようだが、それは事実誤認だ。
「1月の梅田の旭屋には確かにあり一緒にいた私の友人が購入したのだが。」と書いているように、購入したのは友人Tでありわたしは数分見せて貰っただけだ。
これはささいなようだがそうでもないかもしれない誤解なので、2.24付けで書いておくべきだっただろう。
さて、2.24付けは最初に仮想/仮装という誤記について触れている。
カントと仮想(デュナミス・ヴィルトゥス・ヴァーチャリティ)について何か書こうかと思ったが書けず。つまりそういうことはどうでも良いと。
松下/村尾本は2冊も出た。3冊目も用意されているのだろうか。村尾氏というものが思想的に破綻している以外のものでないとするなら3冊目というもの実行されているのではないか。自分=行為を物神化することしかできなくなっているとすれば。まあこれは不正確な思いであり削除する方がよいかもしれない。
職場における労働組合運動についての記述がある。野原は職場存在としての野原を忌避することによって成立している野原の半身である。野原にとって退職=退職金の受領は人生のたったひとつの目標である。仮装とは野原にとってそういう意味だ。おそらく人はなんらかの方向への上昇指向抜きには生きられない。17〜18歳(1969年頃)のわたしのあこがれは松下昇すなわち懲戒免職であった。−−−−−−−−
この断片はここで切断される。
野原の村尾に対する批判は「いうまでもなく(略)、我々は彼の文章の前に〈初めて〉立つつもりて臨みました。」という長い文章の「我々」という主語に集中する。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/18/2#p2
松下あるいは「松下さん〜の表現過程」に村尾がどう向き合うかという課題と、他のクラブ員の一人のそれとの間には決定的な違いが存在する。それをこの文章はごまかしているのだ。
(つづく)
追記:いま金本さんから「書簡集(2)〜2007・12〜」が送られてきた。感謝!!
2007-12-06
■ 「監獄」の項目を補充してみた。
概念集1の「監獄」は1989年1月までに書かれたものだ。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e7%9b%a3%e7%8d%84?kid=23#p1
その後2005年に「監獄法」はなくなって、「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」になっているらしい。そこで、「概念集」の補充を、初めての試みとして行った。
フーコーあるいは松下の「社会総体の監獄化」という規定をどう考えるか。わたしたちの社会がどういう社会なのかという規定をめぐる問も必要だろう。しかし微分的にどちらに傾いているかという問の方が答えやすい。
2005年に監獄法がやっと改正されたが、松下の強調した「代用監獄」がそのままのこされてしまったことや
「立川・反戦ビラ弾圧事件」高裁有罪判決
http://www011.upp.so-net.ne.jp/tachikawatent/index.htm とかを考えると答えは明らかだと思う。
また、人権問題にシニカルな発言をするタレント、弁護士などをもてはやす風潮もあり、自己奴隷化を自発的に受け入れようとする傾向が大衆の一部にひろがっているとさえ言える。
2007-11-25
11/25
村尾氏の文章 2頁分 テキスト化しUP。まだ途中。
村尾氏の行動を支えている情念は何だろう?
彼は何を呼びかけたいのだろうか?
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/18/2#p2
の村尾抗弁のポイントは下記だろう。
『存在と言語』所収の「なぜ、いま本書を刊行するのか」にも書いていますが、書店に置くことが松下さんの展開してきた表現過程と相容れないことは明白です。表現過程の発想からすれば、ありえないことは十分承知しています。
彼の文章には「表現過程」という言葉がキーワードとして頻出する。しかしその意味合いは文のたびごとにズレているように感じられる。で松下の「表現過程」は彼の〈死〉によって宙吊られている、つまりそこで後継者を得られないまま終わっているというのが彼の判断である。であれば、村尾は現在、松下にかかわる権利をどこから手に入れているのだろうか?
(中断)
2007-11-24
■ < >と解脱(げだつ)
11/24
村尾氏から送られてきたこの間の往復書簡を画像ファイルからOCRしたものを
読みかえそうとしている。
おそらく、わたしが考えるというときすでにパソコンという大きな機械やインターネットという高度精密なネットワークに<繋がって(pluged)>という状態を前提にしている、それに繋がっていること自体ではなく繋がっていることに無自覚であることをまず問題にしなければならない。そして非ネットであってもやはり同様の<繋がり>において書いていることを確認しておくべきだ。そしてそのような通常の<繋がり=空気>2種類に対し、非日常的な<繋がり=空気>も2種類存在することを確認しよう。その1は権力的なそれだ。
A)成績表を提出せず(1)、教室の入口付近に座りこんで実験の授業を中止するのやむなきに至らしめ(2)、通路に座りこんで教授会開催を困難ならしめ(3)、壁にしばしばマジック・インキで落書きをし(4)*1
B)(まとめとして)職務を放棄し、決定ないし命令に違背し、機能を妨げ、国有財産を損傷した。これらの行為は、国家公務員法~条の規定に違反する。*2
わたしたちの出発点が上記のようなものだったことを想起するときわたしたちは笑ってしまう。Aという行為のバカバカしさとBという規定の荘重さの落差に。しかしその落差こそが「権力」であろう。不自然な行為を自然であるとし異議申し立てがあってもBという規定の荘重さに照らしてそれを強行しなければならない絶対的当為こそが。 それに、激しく異議申し立てすること。「激しく」しかそれは行い得ない。「自然さ」に対抗できるのは「のりを越える」ことだけだから。そしてそれは一人ではできない。「一人でも戦いうる」がわたしたちの原則であったが、それはあくまで自分の行為が情況における正義に沿っているというリアリティにおいてである。つまり不可視の共闘者なしの異議申し立てはありえない。
ここでまとめると、次のようになる。
α−1 パソコンの前で書き始めること
α−2 紙とペンで書き始めること
β 権力として(仕事として)書き始めること
γ 反権力として 書き始めること
N氏は、「松下昇気付刊行委員会が不可視化した後の<10>年」という表現をしている。刊行委員会の連続性(それが松下の死によって切断されないこと)はわたしにとってアプリオリとなっていた。それは実はT氏などによっても共有されていないという情況に私は向き合っていなかった。
したがってそのアプリオリの外側から村尾本と言う形を取ったものが現れたとき、わたしは言葉を失った。じつはT年表やK書簡集も同じなのに。
−−−松下の表現過程自体がパンフ化や出版に関わる旧来の全発想を批判しており、その批判の本質を踏まえた展開主体~関係性が<永久>に未成立~不可能である−−−N氏
問題が<批判>であるのなら、すでに出現している村尾本その他に対し野原がそして村尾その他が野原に対し、批判を提出すればよい。松下はメタレベルの僭称以上のものであっただろうが、そのレベルにまず到達せずに書き始めることはあってよい。
であるとすれば、野原は、刊行委員会であるよりまずネット活動者(ブロガー)としての野原燐であることを肯定すべきではないか。その上でネット活動としての<>闘争〜松下テキストの紹介を押し進めその限界をリアルに確認する。それがわたしの第一歩であるべきだろう。
−−−M氏はどのような回路を通って、松下の<遺言>の真意と現在の<無言>を聞き取ったのであろう。−−− < >とは何か? β権力として(仕事として)過ごすことの自然さが、あなたと私の肉体の一部を損壊しているという直観は、仏陀のものでもあっただろう。
−−−名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものを完全に理解しないならば、彼らは死の支配束縛に陥る。しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現する主体が「有る」と考えないならば、その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾(かきん)となるもの(煩悩)は、もはやその人には存在しない。
p176石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』isbn:4062583356 より孫引き −−−
上記に示されたいわゆる「解脱」を< >を理解する最初のステップにしてよいと思います。・・・
*1:悪事のリストはもっともっと長いが最低限に切り詰めた。
2007-11-22
さて、
村尾−−松下にきちんと向き合わずに
他のことをして日々を過ごしていた。
(それも、仕事や遊びならともかく、和辻哲郎やデリダなど思想領域だ。)
さて、今日は、やっと夏に村尾氏から送ってきた
往復書簡写しを、tiffファイル化したものをORCしてみた。
これから訂正する。
さて、前から取り出していた、あんかるわ29号の白夜通信
(これは同じあんかるわの松下昇特集と並び、松下と直接出会わなかった1974年までのわたしが松下的な物に接近するただ二つの通路であったといってもよいもの)
を開いてちらちら目を通してみる。
〈 〉あるいは〈 〉闘争については断片的にしか語れない。・・・
わたしたちの発言や行動*1はその巨大な闘争を測量していくものとしてあるにすぎない・・・
現実過程としての〈 〉闘争で畏怖的なのは、〈 〉空間に包囲された現実過程への、仮想被告たちによる執拗なまでに徹底的な働きあけ*2である。
・・・機動隊、神大当局、裁判官等の権力側の人間も繰り込み、担い手を拡大していくことと対応して現実過程への切り込みが永続的に行われ、この切り込みを永続的に行わせる不断の幻想力、表現力の創出を強いられることに関してで・・・
この文章は、ここに盛られた幻想力、表現力をバネとして現実過程への切り込みとしての<準備ノート>の射程を獲得しようとするものである。・・・この根拠を変革しつづけていくために、、現実過程へ切り込むために・・・*3
(白夜通信第4号1971.6.19 あんかるわ29号 p23)
わたしたちは村尾さんたちの企画に反対しようと(あるいは「息の根を止めようと」)して力が及んでいない。しかし本当にそうか。もちろんこの表現はまずい。他者を巻き込むどのような磁場(サイクロン)を作りだしそのヘゲモニーを握るのか、そこにわたしたちの<不断の幻想力、表現力の創出の強いられ>方がある。それは1971年段階ですでに村尾氏…によって明らかにされていたのだ。
したがって、<不断の幻想力、表現力の創出>をいまここに現出させることは、さほど困難なことではないはずだ。
というか、「さほど困難なことではない」だけを好むという野原の資質、生きるとはそんなことでありうるはずがないではないか。とりあえずその二つを押さえて先へ進もう。
■ 言葉を無理矢理衝き出してしまう反動
〈 〉が時間と空間の鋭い裂け目からどっと押し寄せてきたら、〈 〉をそれ自体として運動させてみよ。
〈 〉を持続させていく力が、唯一、わたしたちの宿命の重力を解き放ち、わたしたちを未知から降ってくる夢、へと誘い出すだろう。
あらゆるものへの理解(伝達)とか、たとえば読書の営為などに対して、〈 〉を媒質としてそれらを拒絶してやれ。
〈 〉は、ひょっとすると、言葉を無理矢理衝き出してしまう表現総体の洗礼として一瞬、見舞っているのではないか。
わたしが、わたしの視界を越えて迫ってくる闘争を、わたしの小さな主体をぶつけて展開し切るためには、どうしてもわたし自身の固有の難所を媒質として不可避的に切開していく必要があるだろう。
(白夜通信第7号1971.8.30 あんかるわ29号 p30-31 上も)
ある意味で、問われているのは引用の無償性だ。
わたしのブログはほとんど引用だけでつまり、引用の無償性を根拠にして成立している。
村尾の「引用」に私が反対しうる根拠は何か?