2008-02-28
■ PHPとmysql、って意味があるのか?
えーと、今日は実は朝から一日ずーっとパソコンで遊んでいました。
PHPとmysql というもの*1に入門しようとしているのです。
PHPで例えば何ができるかというと次のようなページを作成することができます。読者は普通、HPを閲覧することしかできませんが、PHPを使うと読者が参加できるページを作ることが出来るのです。
http://noharra.poo.gs/test/php/sam6.php
次のようなゲームを作ることもできます。(もちろんこれはわたしが作ったものではなくある方が公開していたものをコピーさせてもらったものです。)
ゲーム:鮫亀(same gameからきている有名なゲーム)
http://noharra.poo.gs/test/same10/same10.php
で、データベースの方は、とりあえず、概念集目次をサンプルとして作ってみました。
http://noharra.poo.gs/matu/dasu61.html に
データベース名:noharra テーブル名:gainen を入れると、目次がでます。
これだけなら1枚の紙のようにあるページにただ書いておけば良いだけのことで苦労する必要はありません。
概念集をデータベース化する意味がどこにあるのかという本質的意味も問われますが、とりあえず何か動かしたりできる形で試みてみたいと思っているのです。
でそのために、ハッスル・サーバーというレンタルサーバーを借りたのです。
概念集を読むことと、こうした作業を絡み合わせて進めていければなと考えています。
(訂正版 目次)3/1
http://noharra.poo.gs/matu/mokuji.php おひる12時にやっとできた。
■ パソコンなどの技術と、松下の方法との関係
無理矢理とも言えましょうが、次のように考えた。
松下の方法は、別の存在様式が可能だということ。
例えば、短い文章など誰でも書ける。しかしそれも紙とペンがあればだ。紙とペンがなくともパソコンとキーボードでもよい。しかし単にパソコン(ワープロ)を所与のものとするのではなく、パソコンの構造の一部を自分で再構築せざるを得なくなったときはじめて、単純なことを実現するためにどれほど複雑な仕組みが必要か(おぼろげに)理解できる。(正確にはわたしが今やっているのは、パソコンの仕組みとの格闘ではない。インターネットで借りたサーバー上でテキストを表示する方法を試行錯誤しているのだ。)
パソコンでは、〈書いて〉〈表示する〉のに 驚くべき手間がかかる。
その「驚くべき手間」を体験してみることにより、わたしが当たり前だと思っている日常の習慣がいかに驚くべき蓄積、文化の上に成立しているかを対象化しうるようになる。
パソコンの勉強をすることはこのように、存在様式の変革を目指した松下の方法を模索することと密接につながっている。(3/1記)
2008-01-14
■ 成長し包括する図書館として
脈絡を記さないが、ある人宛のメールの一部を転写しておく。1/14
原点の確認をしている。
11/27付けのメールに返信が遅れたことをお詫びします。Kさんの書かれていることの具体的な意味がはっきりとは分からなかったのでお聞きしなければいけなかったのですが。村尾本問題を一区切りさせてからと思いながら、一区切りができず返信ができないままでいました。
さて、村尾本問題についてはわたしの「はてなグループーー(仮称)仮装被告団~刊行委員会」の記事
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13?mode=tree などおよび
http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/20071011 以下
でたらたら書いていますので、できれば見てください。(村尾さんとの全やりとりがまだUPできていないのが残念ですが)
村尾氏は著作権について「それは我々の誰にもなく、(略)松下さんの創出した情況にしかないのではないですか。」と述べている。
そして、野原が「松下さんの表現過程や、やろうとしてきたことを自分たちか引き継いている、そうしなければならないとと思っている」と指摘し「村尾はそんなことは不可能だと考えます。だいいちネットを通じたお知らせ〜販売自体も、書店販売と同様に表現過程的にはありえないことでしょう。あなたがたも村尾も松下さんの表現過程から切断された場所に一様に蹲っているのであり、村尾はそのことに自覚的であろうと思っています。」と言う。
Kさんに購入していただいたパンフレット群は、松下によって「 これら全ての既刊ないし企画中のパンフは何かへ向かって深化ないし飛翔し、既成のイメージないし形式からはみ出していく過程にある。この動きに参加し、応用する人々の一人でも多いことを願う。そして、たとえわたしが身体的条件などでこれらの作業を展開することが困難になった場合にも、それらの人々が仮装的かつ本質的な刊行委メンバーとして作業を持続していくことを切望する。」という規定を与えられています。
「仮装的かつ本質的な刊行委メンバーとして」という規定を村尾氏の主観が拒否しようがしまいが、その規定は生きつづけていると思います。
ただまあ<刊行委員会によるパンフレット群>というのは、ボルヘスの図書館とはだいぶ違うがでもそうしたものも参照項にしうるそうしたイメージ、としてわたしにとって存在しているような気もしている。インターネットとそのリンクシステムを利用したハイパーテキストとその公開性に何を夢見ることが可能か、と。
「思想も完成も、再生されてくるものです。」というのは興味深いです。だいたい教祖に対しその弟子たちは、教祖の思想を歪曲通俗化したと口を極めて罵られる(後世の研究者から)というイメージから逃れられずにいるのですが、私は。
とりとめない手紙になり失礼しました。
2008.1.14
野原燐
追伸:
(略)
■
彼から教えてもらったことは、村尾本はすでに3まで出ているということ。
それと、示唆されたわけではないが思いついたのは、村尾本の中身を全部ネットに掲載させ、ミラーサイトを造るというプラン。
これは実行していきたい。
(この日の記事は1/27に掲載)
2008-01-05
■ 対話を打ち切るためには
ある意味でブログの目的は対話である。また村尾によれば出版の目的も対話である。
にもかかわらず、対話はたった数度でつねに「抗告理由にあたらない」に類した言葉とともに打ち切られる。それは相手が打ち切るというより、私がすでに対話に倦怠を感じているのだ。
・・・まあそれだけのことなら最初からブログなど始めるべきではなかったのだ。このアポリアをどう越えるかという問に何らかのヒントを与えてくれるだろうという期待でもって、概念集・3から「申し立ての極限」をUPしてみた。
却下等の不当性は、「抗告理由に当たらない。」、「最高裁の決定に対して抗告することはできない。」といった議論の外側からの理由で結論が下されることだ。裁判所は議論に内在する論理によって結論を正当化するべきであろう。
2007-12-31
■ 声
ふと思い立って「声」をこのサイトのトップで検索してみた。
しかし、被拘禁者は、それを見ることができるような場所へ連行されることはまずないし、かりに偶然、そのような位置をかすめるとしても、数瞬でも注視した途端に看守の叱責の声が迫ってくるはずである。(松下)
偉大な人が死んだ後も同じだ。弟子たちは十年間沈黙する。師の思想を語らなければならないが語ることができない。おまえの発言はわたしの思想からの逸脱だと叱責する師の声が、薄れていくのを十年間待ち続ける必要があったのだ。
「お手紙に関して、まず今回の『存在と言語』第1巻発行の契機〜経過について説明します。」彼の手紙は低い声で始まり最後までこのトーンは一貫している。
最初の断片は、「看守の声」である。アルチュセールが、ひとが主体化〜従属化するのは警官に呼びかけられたその瞬間だ、と指摘したその〈声〉である。
次の断片では、私は松下昇を指して〈師の声〉と言っている。これは「看守の声」と同じであり、わたし自身の看守化であろう。
最後の断片では、「低い声」を発しているのは村尾氏である。論理的優位にも関わらず私と村尾氏との関わりが敗北の目盛を指しているとすれば、その原因はわたしの声の欠如であるかもしれない。
声の欠如は仮装のそして祈りの欠如である。
2007-12-30
時間がない。
いや時間はいくらでもあるのに、< >に費す時間がないのだ。なぜなら< >に振り向くためにはわたしはわたしを弯曲させねならず、それが少しだけ支払うに重いものであるというだけだ。
さて、論理的重心を確認し、情況的弯曲を測定することはいつでもできる。
著作権
「著作権などという資本主義的な考えは村尾にも、クラブにも当然ありません。(略)あえていえば、それは我々の誰にもなく、(略)松下さんの創出した情況にしかないのではないですか。」(村尾)
村尾さんの創出した情況がその〈公開性〉において、著作権を保持する。と村尾は言うべきであった。
そうでないとすれば、村尾の根拠はどこにあるのか?
野原たちの創出した情況がその〈公開性〉において、著作権を保持する。とわたしは言う。
テーマの自己展開の強度
むしろ、自己の軌跡の対象化〜その努力という視点に立ったとき、野原燐がそもそも松下の後継者のような顔をして存在しうるのか?と問いを立てるなら、不合格〜不可能とされることになろう。
・・・
とりあえず「掲載しようとするビラや文章が追求している問題をどう共有していくかが問われつづけている」、という問題設定をわたしたちが共有しているとして考え続けましょう。
野原は松下の後継者なのか、というのは偽の問である。
村尾/野原は松下から切断されている。にもかかわらず松下をコピーする。
自己が自己以上の者である(あろうとしている)という自己の拡大性を自己肯定することが村尾の根拠、他者の表現をコピーしようとする権利の根拠なのでしょうか。
ある共同性は自主ゼミ実行員会を名乗り自己確認することにより、他者の表現をコピーする権利を取得する。野原の立場はありていにいうとこうしたものか?であれば村尾が同じことをすこし違う文体で自己確認しているとしてそれを否定する根拠はどこにあるのか?
村尾は「同じことをすこし違う文体で自己確認している」訳ですらない。自己の根拠を率直に開示していこうとする構えに村尾は欠けている。