松下昇~〈 〉闘争資料

2007-11-22

さて、

村尾−−松下にきちんと向き合わずに

他のことをして日々を過ごしていた。

(それも、仕事や遊びならともかく、和辻哲郎デリダなど思想領域だ。)

さて、今日は、やっと夏に村尾氏から送ってきた

往復書簡写しを、tiffファイル化したものをORCしてみた。

これから訂正する。

さて、前から取り出していた、あんかるわ29号の白夜通信

(これは同じあんかるわの松下昇特集と並び、松下と直接出会わなかった1974年までのわたしが松下的な物に接近するただ二つの通路であったといってもよいもの)

を開いてちらちら目を通してみる。

〈 〉あるいは〈 〉闘争については断片的にしか語れない。・・・


わたしたちの発言や行動*1はその巨大な闘争を測量していくものとしてあるにすぎない・・・


現実過程としての〈 〉闘争で畏怖的なのは、〈 〉空間に包囲された現実過程への、仮想被告たちによる執拗なまでに徹底的な働きあけ*2である。


・・・機動隊、神大当局、裁判官等の権力側の人間も繰り込み、担い手を拡大していくことと対応して現実過程への切り込みが永続的に行われ、この切り込みを永続的に行わせる不断の幻想力、表現力の創出を強いられることに関してで・・・


この文章は、ここに盛られた幻想力、表現力をバネとして現実過程への切り込みとしての<準備ノート>の射程を獲得しようとするものである。・・・この根拠を変革しつづけていくために、、現実過程へ切り込むために・・・*3

(白夜通信第4号1971.6.19 あんかるわ29号 p23)

 わたしたちは村尾さんたちの企画に反対しようと(あるいは「息の根を止めようと」)して力が及んでいない。しかし本当にそうか。もちろんこの表現はまずい。他者を巻き込むどのような磁場サイクロン)を作りだしそのヘゲモニーを握るのか、そこにわたしたちの<不断の幻想力、表現力の創出の強いられ>方がある。それは1971年段階ですでに村尾氏…によって明らかにされていたのだ。

したがって、<不断の幻想力、表現力の創出>をいまここに現出させることは、さほど困難なことではないはずだ。

というか、「さほど困難なことではない」だけを好むという野原の資質、生きるとはそんなことでありうるはずがないではないか。とりあえずその二つを押さえて先へ進もう。

言葉を無理矢理衝き出してしまう反動

〈 〉が時間と空間の鋭い裂け目からどっと押し寄せてきたら、〈 〉をそれ自体として運動させてみよ。

〈 〉を持続させていく力が、唯一、わたしたちの宿命の重力を解き放ち、わたしたちを未知から降ってくる夢、へと誘い出すだろう。

あらゆるものへの理解(伝達)とか、たとえば読書の営為などに対して、〈 〉を媒質としてそれらを拒絶してやれ。

〈 〉は、ひょっとすると、言葉を無理矢理衝き出してしまう表現総体の洗礼として一瞬、見舞っているのではないか。

わたしが、わたしの視界を越えて迫ってくる闘争を、わたしの小さな主体をぶつけて展開し切るためには、どうしてもわたし自身の固有の難所を媒質として不可避的に切開していく必要があるだろう。

(白夜通信第7号1971.8.30 あんかるわ29号 p30-31 上も)

 

ある意味で、問われているのは引用の無償性だ。

わたしのブログはほとんど引用だけでつまり、引用の無償性を根拠にして成立している。

村尾の「引用」に私が反対しうる根拠は何か?

*1:わたし、発言、行動に〈 〉付きだがここでは抜いてみた

*2:ママ

*3:文章一部変えた