松下昇~〈 〉闘争資料

2007-11-24

< >と解脱(げだつ)

11/24

村尾氏から送られてきたこの間の往復書簡を画像ファイルからOCRしたものを

読みかえそうとしている。

おそらく、わたしが考えるというときすでにパソコンという大きな機械やインターネットという高度精密なネットワークに<繋がって(pluged)>という状態を前提にしている、それに繋がっていること自体ではなく繋がっていることに無自覚であることをまず問題にしなければならない。そして非ネットであってもやはり同様の<繋がり>において書いていることを確認しておくべきだ。そしてそのような通常の<繋がり=空気>2種類に対し、非日常的な<繋がり=空気>も2種類存在することを確認しよう。その1は権力的なそれだ。

A)成績表を提出せず(1)、教室の入口付近に座りこんで実験の授業を中止するのやむなきに至らしめ(2)、通路に座りこんで教授会開催を困難ならしめ(3)、壁にしばしばマジック・インキで落書きをし(4)*1

B)(まとめとして)職務を放棄し、決定ないし命令に違背し、機能を妨げ、国有財産を損傷した。これらの行為は、国家公務員法~条の規定に違反する。*2

わたしたちの出発点が上記のようなものだったことを想起するときわたしたちは笑ってしまう。Aという行為のバカバカしさとBという規定の荘重さの落差に。しかしその落差こそが「権力」であろう。不自然な行為を自然であるとし異議申し立てがあってもBという規定の荘重さに照らしてそれを強行しなければならない絶対的当為こそが。 それに、激しく異議申し立てすること。「激しく」しかそれは行い得ない。「自然さ」に対抗できるのは「のりを越える」ことだけだから。そしてそれは一人ではできない。「一人でも戦いうる」がわたしたちの原則であったが、それはあくまで自分の行為が情況における正義に沿っているというリアリティにおいてである。つまり不可視の共闘者なしの異議申し立てはありえない。

ここでまとめると、次のようになる。

α−1 パソコンの前で書き始めること

α−2 紙とペンで書き始めること

β   権力として(仕事として)書き始めること

γ   反権力として 書き始めること

N氏は、「松下昇気付刊行委員会が不可視化した後の<10>年」という表現をしている。刊行委員会の連続性(それが松下の死によって切断されないこと)はわたしにとってアプリオリとなっていた。それは実はT氏などによっても共有されていないという情況に私は向き合っていなかった。

したがってそのアプリオリの外側から村尾本と言う形を取ったものが現れたとき、わたしは言葉を失った。じつはT年表やK書簡集も同じなのに。

−−−松下の表現過程自体がパンフ化や出版に関わる旧来の全発想を批判しており、その批判の本質を踏まえた展開主体~関係性が<永久>に未成立~不可能である−−−N氏

 問題が<批判>であるのなら、すでに出現している村尾本その他に対し野原がそして村尾その他が野原に対し、批判を提出すればよい。松下はメタレベルの僭称以上のものであっただろうが、そのレベルにまず到達せずに書き始めることはあってよい。

であるとすれば、野原は、刊行委員会であるよりまずネット活動者(ブロガー)としての野原燐であることを肯定すべきではないか。その上でネット活動としての<>闘争〜松下テキストの紹介を押し進めその限界をリアルに確認する。それがわたしの第一歩であるべきだろう。

−−−M氏はどのような回路を通って、松下の<遺言>の真意と現在の<無言>を聞き取ったのであろう。−−− < >とは何か? β権力として(仕事として)過ごすことの自然さが、あなたと私の肉体の一部を損壊しているという直観は、仏陀のものでもあっただろう。

−−−名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものを完全に理解しないならば、彼らは死の支配束縛に陥る。しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現する主体が「有る」と考えないならば、その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾(かきん)となるもの(煩悩)は、もはやその人には存在しない。

p176石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』isbn:4062583356 より孫引き −−−

上記に示されたいわゆる「解脱」を< >を理解する最初のステップにしてよいと思います。・・・

*1:悪事のリストはもっともっと長いが最低限に切り詰めた。

*2http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/Let%20it%20be