松下昇~〈 〉闘争資料

2007-11-13

11/13

昨日、別の友人から電話があった。

海文堂で、村尾本の2巻を見たとのこと。すでに本屋に並んでいるのだな。ううむ。

< 海文堂書店 >

〒650−0022

兵庫県神戸市中央区元町通3丁目5番10号

2007-10-20

S氏宛手紙 (案)

はじめまして。

数年前から梅田のかっぱ横町のあたりによく行くようになり、そこの梁山泊にも寄らせてもらうことが多くなりました。ペンネーム野原燐(本名)といいます。

インターネット松下昇のテキストの紹介、販売を試みたりもしています。

関連urlを書いておきます。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/

http://from1969.g.hatena.ne.jp/

さて今回お手紙を差し上げるのは、梅田梁山泊村尾建吉氏の『存在と言語・1』を見たからです。これは村尾氏からの直接の委託販売ですね。

この本について、わたしは許せないと考えています。もちろん村尾氏は私にとって他人であり彼の思想が私のそれと相容れなくとも、彼の出版活動を私が妨害する権利など私が持つはずもありません。

しかし下記の理由で、この本の出版〜販売行為自体を許せないとわたしは考えるものです。

この本の販売行為への加担を取り止めることを要請します。

この本の中身の八割ほどは、松下昇氏の文章です。したがって異議申し立てに耐えるためには、彼が松下著作権を獲得してるかことが必要です。そうでなければ、著作権概念の革命的拡大解釈を村尾が主張し(とりあえずの異議申し立て者である)野原などを納得させることができればそれでもよいと思います。

この問題に付いてすでに別紙32頁にも渡るやりとりを村尾氏と交わしています。

その核心(の一つ)は次のやりとりにあるでしょう。

野原) 批判されたからといって「言葉を交わす気には毛頭なれ」ないなどとすぐに口走ってしまうようでは、なんともはや、本当には出会っていない「一九六八年」どころではありません。村尾氏はいったい言論〜思想が存在する根拠をどう捉えているのかが問われるでしょう。

村尾) 八木氏や永里氏は単なる「批判」を行っているのではない。刊行作業の息の根を止める宙吊り要請を行っているのである。いくら村尾たちの逸脱ぶりが許せないとしても、そのことを自覚してほしい。


そもそも村尾氏は何のためにこの本を出したのか?答えは下記である。

村尾) まだ本当には出会っていない「一九六八年」にむかってこちらから手を差し伸べていきたいし、まだ気づいていない多くの問題に出会うたびに、本書で報告し、問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかけるので、まだ見ぬ永遠の恋人である読者は、自らの人生を展開する必然性の度合いで、自らと本書にむかって姿を現してほしい。

「問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかける」ことがまさにこの本の目的であった。わたしの異議申し立てはまさにこの呼び掛けに真正面から応じたものである。だからして、

「1.公開。 2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。 3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。

上記の<自主ゼミ実行委員会>の原則を持った討論の場が、現実の場に設定されるべきである。

その場で、上の野原の五つの問いかけを含む批判疑問を討議することができる。公開の討論を経るまではこの本の配布は宙吊りにすべきである。公開に極限的に開かれていることを抜きに〈松下〉の表現は成立できないのだから。」という野原の結論を村尾氏は受け入れるしかない。であるのに村尾氏は現在それを拒否している。これは村尾氏自身が自己の出版目的を裏切っていることになる。それだけでなく、松下思想への裏切りを松下昇というラベルで売り付けていることになり、許すことができない。

(以上)

発信者:野原燐

住所

Eメール ***

2007-10-19

法=国家を支える表現の根拠を解体せよ?

村尾建吉氏の文章。

 わたしたちの日常性に底流している通俗性に基盤を置いている〈起訴状〉のような死せる文章がわたしたちを放逐していく状況、このような状況を〈起訴状況〉と名付けてもいいわけだが、この〈起訴状況〉に包囲されてわたしたちは被告仮装することによって〈起訴状〉を引きずり出し、法=国家を支える表現の根拠を解体していかねばならない。

白夜通信3号 1971.5.5  あんかるわ29号 P5に転載

大変わかりやすい骨格を持った文章だ。結論は(わたしあるいはあなたは)法=国家を支える表現の根拠を解体していかねばならない、である。

対するに松下は「〜〜しなければならない」とは語らない。

むしろはっきりそう言っている。

それゆえ、残りの数十行に私が断片的に、一気に埋める言葉は、純粋に私だけのものである。

 この世界で最も幻想性にあふれた領域で、固有のスローガン、戦術を媒介として問われているのは、おそらく、つぶやきからゲバルトをへて国家、さらには宇宙に至る全ての表現の根拠の変革である。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

松下の言うことは規模が大きく夢幻的なセリフのようにも受け取れてしまう。

 { }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e9%97%98%e4%ba%89?kid=2

 こちらではより正確に語っている。しかし、

 「対象化に要する時間性が人間の生涯より長い」とは、普通考えると要は「対象化できない」ということだな、だったらそんなことは私には荷が重い、、止めておこう、といったようなものだろう。しかし松下はそれを平気で語ってしまう。そして、出会いの時間のなかで、他者にそれを誘い、命じることもあった。

今日はとりあえず、村尾松下の差異についてのメモとして。

追記:

対象化という言葉にも注意が必要だ。ある不定型なものを分析し文節化していく作業には違いない。しかし大学院生や学者がやるように、自己=主体を少しも変容させずに行うそれではない。むしろ自己=主体の変容に重点がある。しかし何から何に変わるのかなどということが名指されることはない。 特定の情況〜関係を離れて言葉にできるはずもないことでもあるから。

2007-10-11

書き始める

概念集2の「技術」から読んでみよう。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/技術?kid=25#p1

パソコン〜インターネットというものが、linux運動において下記の原則(1)を大規模に展開し得ているということは、21世紀文明における数少ない肯定点として強調されるべきだ。

(1)情報を含む技術の原理や構造や操作について、任意の人に等距離に解放されていない場合は、原則として否定的にとらえる。

(2)社会総体に必要であると認めうる披術を用いる場合には、全ての人が対等に交代で仕事につく。仕事のやり方や内容に異議が出た時には、中止して討論する。

技術といったとき得手不得手の問題が出てくる。効率を重んじ得意な者だけが行うということになりがちだがその場合、その不均衡によって権力差が生じることを自覚し、それを解体する(開いていく)回路を作っていくべきだ。

社会総体に必要であると認めうる仕事は、公務員が占有するのではなくまた従事者を差別することなく、なるべく交代で行う。

このとき効率面では大きなマイナスになる。しかしひとは24時間働くことはできないのに、その方が良いかのような原則で社会が動いていくのはおかしい。皆が怠惰や錯乱を含むいろいろな〈速度〜強度〉の〈仕事〉をするようにしていくべきだろう。

(3)現段階で最高の技術とみなされているものの成立過程を、他にありうる異なる原理~体系の技術の成立過程から相対化する場を恒常的に作る。

いったんできあがったシステムは、より良いものがありうるにもかかわらず革命的衝撃がなければ、変更し得ない。変更可能性を制度的に保証していくべきだ。わたしたちが信じている原理(アプリオリ)自体も唯一の物ではない。相対化するために〈最もサバルタンな者〉〈全き他者〉を常に意識すべきだ。

2005-12-25

12/24付けで「開始」した。

コメントスパムがうざいので、削除した。