松下昇~〈 〉闘争資料

2015-01-08

PDファイルの特定のページへのリンク

A. PDF ファイルの特定のページへのリンクの設定

HTML のリンク先を PDF ファイルの特定のページに設定するには、リンクの URL の末尾に以下の文字列を追加します。

#page=<ページ番号>

例えば、myfile.pdf ファイルの 4 ページ目にリンクを設定するには、以下のようにリンク先のアドレスを指定します。

例) http://www.myserver.com/myfile.pdf#page=4

 注意 : この方法で設定した PDF ファイルの特定のページへのリンクは、ブラウザウィンドウ内で PDF ファイルを表示する場合にのみ動作します。リンクを AcrobatAdobe Reader の新規ウィンドウで開いた場合は、PDF ファイルの最初のページが表示されます。

http://helpx.adobe.com/jp/acrobat/kb/226119.html

戦闘概念の衰弱 概念集3-5ページ

http://kusabi.webcrow.jp/gainen/g03.pdf#page=7

差し戻し 概念集3-9ページ

http://kusabi.webcrow.jp/gainen/g03.pdf#page=11


上手く行くかしら? できるみたいだ! やった。

2015-01-03

六甲縦書の試み

(が、上手く行きそうなのに、上手く行かない。困った。)

  目次 序章

     第2章

     第3章

     第4章

     第5章

     六甲全文・横書き


解決:

だめだった理由は、

h2v.js と h2v.css という二つのファイルを利用させてもらって、

縦書を実現していたのに、それを忘れていた。

(最新版をダウンロードし)その二つのファイルをフォルダに放り込んでやることにより、縦書になった!

http://tategaki.info/h2v/

2章がうまく

飛ばないが、これはそのうち対応する。

次に、序詞の字の大きさを小さくすることを考えたい。

2014-12-31

ウィキペディア「松下昇」

だいぶ削られている!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%98%87#.EF.BC.97.E3.83.BB.E9.96.A2.E9.80.A3.E9.A0.85.E7.9B.AE.E3.80.9C.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF.EF.BC.88.E7.B7.A8.E9.9B.86.E4.BA.88.E5.AE.9A.EF.BC.89

削除内訳

(最新 | 前) 2014年12月31日 (水) 04:25‎ 島光 (会話 | 投稿記録)‎ m . . (7,904バイト) (-18)‎ . . (→‎来歴) (取り消し)


(最新 | 前) 2014年12月28日 (日) 10:58‎ KurodaSho (会話 | 投稿記録)‎ . . (7,922バイト) (-6,483)‎ . . (wikify, rm 「情況への発言」 WP:NOR, rm 「表現及び生前の刊行パンフ」 WP:IINFO, rm 個人サイト WP:ELNO, + stub, Category:日本の思想家 に差し替え, + Category:1996年没) (取り消し)

WP:NOR

Wikipedia:独自研究は載せない

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E8%87%AA%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84

WP:IINFO

ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B#.E3.82.A6.E3.82.A3.E3.82.AD.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2.E3.81.AF.E6.83.85.E5.A0.B1.E3.82.92.E7.84.A1.E5.B7.AE.E5.88.A5.E3.81.AB.E5.8F.8E.E9.9B.86.E3.81.99.E3.82.8B.E5.A0.B4.E3.81.A7.E3.81.AF.E3.81.82.E3.82.8A.E3.81.BE.E3.81.9B.E3.82.93

WP:ELNO

掲載すべきでない外部リンク

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%A4%96%E9%83%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%81%B8%E3%81%B3%E6%96%B9#AVOID

「検証不可能な記述によって読者に誤解を与えるようなサイト。これはWikipedia:検証可能性のガイドラインを外部リンク先の内容にも準用することを意味します。」

に該当するのか?

削られた主要な部分

情況への発言

・・・いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。(バリケード的表現 一九六九年八月〈 〉にて)<ref>http://666999.info/matu/data/jokyo.html あんかるわ別号<深夜版 2>松下昇表現集 p5]</ref>・・・

謎めいたしかしふとしたはずみにまた浮かび上がってくるフレーズで、松下は当時の学生たちに大きな影響を与えた。上の断片は自分の内部にある「ふれたくないテーマ」を取り上げている。考えるとき人は、問題意識を先立ててそれに照らされたものしか見ない。大学闘争末期であれば、大学の卒業資格を得るために「正常化」された大学の単位制に復帰するかどうか、が問われた。いわゆる自己否定論|自己否定?の問題である。「いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマ」という言葉は、そうした問題(自己の存在基盤という問題)として理解されるかもしれない。そう考えても良いが、文字どおりは、もっと茫漠としたものだ。異性との関係、親との葛藤、目の前にある闘争に熱中していていいのかという不安、など問題として対象化しきれていない様々なテーマがある。

自分が何にふれたくない、隠したいと思っているのかを自覚できるだろうか?、少なくともそれについて上手く考えることはできないはずだ。しかし松下は、まずそう問うことから始めようとする。政治的スローガン(その正しさを松下は疑っていないのだが、疑っていたとしても同じことなのだ)があってそこから自己と世界を考えるのではなく、世界が姿を変えるのを知っている〈自己の不安〉に定位するのだ。



「六甲」掲載しました

http://666999.info/matsu/rokko1.html

六甲のテキスト

HTML化に取り組んでいる。


テキストは空白行で、断章に分かれている。


断章の始まりは1字字下げ。

1)ところが、序章「人かげのない展望台をすぎると、」の

ところは丁度ページの切れ目のためか、空白行がない。

ここから断章と考えてよいか? 

内容的には判断できない。あんかるわ版を尊重し、

区切らないと考えてみる。


2)2章の二つ目、「本文の中に影を落す前に、」

の前も空白行がない。

ここから断章と考えてよいか? 

3章の最初の断章と同じなので、区切らないと考えてみる。


3)第四章は「* 第四章にむかってにじみでる」といった

記号から始まる。これは「※」 でも「*」でもなく

「米」を幾何学模様にしたような形。

でないので「*」で代用する。

4)第四章まんなかへん、[↓↑]上向き矢印と下向き矢印を組み合わせた記号を使っている。表示できないので

とりあえず、下記のようにしている。

「α1→←α2 β1→←β2 γ1→←γ2 と対比でき、」

2014-12-17

「松下昇」は価値がある

と言いたい。

特筆性の基準について述べたいことは、2点ある。

一点目。

1960年代の、谷川雁、埴谷雄高、吉本隆明といった〈神々〉から、70年代に生き延びた菅谷規矩雄、北川透、佐々木幹郎、瀬尾育生といった詩人たちに至る〈布置〉において、「松下昇」という名前は知られている。

しかしこれは、松下にとってはむしろ、前史と呼ばれるものにすぎない。しかしその後(「旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄」後)、松下は流通可能な言説空間から距離を取り、自己身体性を掛けた〈現場〉のラディカリズムをたった一人であるいは数人の同志と、展開していった。当然も論壇・詩壇やジャーナリズムは松下を取り上げることができなくなった。全共闘について語った最近の収穫として、スガ秀実の『1968年 (ちくま新書)』や小熊英二の『1968』がある。そこにも松下昇の名前はない(と思う)のはその流れの延長である。


ともあれここで私は、「松下昇」は現在の読者に対しても、価値があることを立証したいと思う。

まず、詩人たちが松下をどう捉えたかを下記に引用する。

「1960年代の後半、三年余りをかけて『試行』に書きつがれたアフォリズム集『六甲』『包囲』は、いまわたしの前に二冊のうすいパンフレットとなって横たわっているが、六〇年六月の意味をくわえこみ自己の「闘争敗北後」の風景の自転力にまかせて、偶然のような必然性を帯びてさまざまな生活時間=空間へ倒れ伏していく人間の、影のような寡黙さと粘りつくようにおのれの意味を問うしぐさから始まった思考の歩みが、ついに「完了のまま未完了」という一見循環構造にもみえる螺旋階段をのぼりつめた言葉でもって終わっている光景は、永遠の未完了が完了を包囲してしまう思考の息づかいをみせ、さながら巨大な砂時計を思わせるほどに壮観である。

(p113-114「戦闘への黙示録--〈松下昇〉序論」『熱と理由』佐々木幹郎 国文社 昭和52年)」

「埴谷雄高の「警句」と訳すのに適当だと思われるアフォリズム集『不合理ゆえに吾信ず』が、谷川雁の言うように「昭和十年代の深夜版」であるとすれば、さしずめ松下昇の『六甲』『包囲』は一九六〇年代の深夜版ということができる。/ 両者の「発想」の違いを、書かれた時代的背景を別にして考えれば、埴谷が「永久革命者の悲哀」を提出するのに比して、松下が、「悲哀のない永久革命者」の像を政治論文としてではなく提出できるところにある。(p123 同)」

「『六甲』は断片群[フラグメンテ]である。けれどもそれは異様な断片群ではないだろうか。なぜならば断片群は、「書くこと」をそれ自体として存立させ持続させることのない表現のかたちであるから、その内部にほんらい構成の意識をはらみえない。むしろ逆に、生活時間によってその外部から構成されるようにして成立している。しかしこの松下氏の断片群においては、断片相互が強度の構成の意識のもとにおかれ、いくつかの独自の論理性にささえられながら、こうして構成される時間を、さいごまで生活時間にたいして拮抗させようとする、つよい意志のようなものを感じさせるのだ。「裡面の河」瀬尾育生『現代詩手帳』一九七九・一〇号」


二点目として、1979年ごろにドイツのハンブルグ大学の教授であったKlaus Briegleb(クラウス・ブリークレープ)はその著『 Literatur und Fahndung 』(文学と探求)における評価を紹介したい。

(他の作業の後に行うので、後半は少しまってください。)

だいぶ削って

上記をだいぶ削って、ノート:松下昇の「松下昇の特筆性」に掲載。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%98%87

「文学と探求」より

ノート:松下昇の「松下昇の特筆性(2)」

次の通り書き込み。(現在まで応答なし)

クラウス・ブリークレープ『文学と探求』の一部を紹介する。


「抑圧されたものたちの表現はあまり知られていない。それらの抗議の声は、ある条件においては耳にとどくけれども多くは沈黙したままである。私たちの任務はここでも又、〈敵対者〉や〈古典〉に対して行うように、沈黙の核をとり出すことである。私はこの方法を単に真剣にやっているだけではない。私は沈黙の核をとり出す際に、人間のあらゆる感覚を開放する過程でやっていく、というのは、私は人間の本来的な晴れやかさを信じており、もっとも良く笑うものが最後に勝利すると考えているからである。どのような抑圧の下にあっても私たちは笑っている間は、笑うことができる限りは勝利している。」(訳、自主講座実行委員会)京都大学新聞第1826号

これはブリークレープ自身の文章ではなく、「反抗する教師に対する処分の論理」というアサヒ・ジャーナルの座談会の彼による翻訳(をまた日本語訳したもの)。 敵対者の沈黙の核を取り出すという松下の方法が、国境を越えて評価された例と考えることができる。 --Kakko matu(会話) 2014年12月20日 (土) 01:37 (UTC)

「前史的表現」とは?

1971年1月「あんかるわ別冊〈深夜版〉2—松下昇表現集(北川透編集)」が発行された。北川透は後記に、「彼(松下)が最近の、この表現集刊行に関しての手紙で〈私がいつか私の前史的表現について、執筆、刊行、転載……のずれをふくめて表現するだろう〉と書いてきていることを伝えることはわたしの義務である。」と書いている。


これだけ読めば、不必要にもったいぶった文章だという印象を受けるだろう。しかし松下は2年近く前、「少なくとも、この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。」と宣言し、表現(闘争)を継続することにより、前年10月16日、神戸大学から懲戒免職処分を受けている。間に合わないほど直近におこった事件とは言え、後書きにおいては何らかのか形で触れるべきである。しかし、北川は「刊行するに際して必要最小限のことのみを記」すとして、処分やそれへの反発には触れていない。書かれてるのは「現在の〈六甲空間〉における〈表現運動〉の展開を必然にしている力」とか、「おそらくはその〈表現運動〉にも決して行きつかないであふれかえっている余剰のようなもの」といったフレーズである。言葉による表現と刊行作業などに立脚しながら松下に接近した、彼の位相をうかがこともできる。


さて、「前史的」とは、「いかにも松下らしいおおげさなレトリック」の一部、という気もする。


表現は、自己身体と情況の接するかなり限られた面でしか成立しない。


「六甲」は〈情況の喪失〉を出発点にしている。

首都の広場や運河や路地に切迫した時間を付着させたままこの風景へ投げこまれた〈私〉たちは、自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じている。しかしながら、〈私〉たちにとって、帰るべき首都はない。首都とは、特殊な状況をはらむ時間に対する〈私〉たちの関係の総体にほかならないのであるから。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p1

日本は、敗戦による政治変革にも関わらず憲法改正を掲げた自由民主党が支配を続けるという矛盾において戦後史を生きてきた。その矛盾を転倒、切開できるかもしれない最大の闘いが60年安保闘争だった。自由民主党の支配というのは、イデオロギー的には「戦前的国家主義、家族主義」を核心とするものであり、表面に大きく掲げる平和と民主主義と矛盾する奇妙なものであった。そのこともあってか青年松下には「倒錯した現実」というアプリオリな実感があった。それを表現しうるチャンスとして首都における60年安保闘争があった。しかしそれは(当然にも)敗北し、六甲という空間に投げ込まれた松下は「自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じ」ざるをえなかった。


60年代末、全共闘運動が起こり、「一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性」という問題意識が参加者には芽生えた。

現実を「倒錯した現実」と名指すのは、流通しているすべての言説を拒絶することであり、危険なカルト的思想となる可能性が高い。


松下の解決策は、現実を「倒錯した現実」と名指しながら、自己を反体制、反世界の側に立脚させるのではなく、現実と重なりながら本質的に異なったパラレルワールドを発見したことにある。


現実は3次元、時間を含めて4次元と信じられているが、それは嘘だ。少なくとも、5次元、6次元とみなすことができる、おそらく松下にはそうした身体的実感があった(とここでは書いておきたい)。現実が5次元or6次元であれば、4次元において出口がない、つまり絶対的敗北と認めざるをない場合も、いくらでも逃げ場があることになる。にもかかわらず敗北であるのは、おそらく今日明日の情況がたたまた悪いか、私たちがそうした〈仮装〉を選んでいるからにすぎない。


現実は現実である、とするものが現実である。したがって上のような言説は戯れの言葉とみなされる。しかし、人が、言葉、不在の神への祈りのうちに生きるものであるとすれば、戯れの言葉とみなされてしまうものの内側で、生きることもできる。



その後(「旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄」後)、松下は流通可能な言説空間から距離を取り、自己身体性を掛けた〈現場〉のラディカリズムをたった一人であるいは数人の同志と、展開していった。当然も論壇・詩壇やジャーナリズムは松下を取り上げることができなくなった。

〈放棄〉以後の松下を「流通可能な言説空間の外側に生きた」と、規定してしまうと、ウィキペディアに掲載しようとするという目的自体に反することになる。


ウィキペディアは流通可能な言説空間自体であるだけなく、その核心にあるべき「権威ある言説空間」を目指しているものであるからだ。この〈権威〉というものは欧米起源のものだ。日本は上記のような状況によって自国内で権威を形成することができなくなっている。


〈放棄〉以後の松下も、完全に流通可能な言説空間の外側に生きたわけではない。確かに大学からは放逐され、主流文化からは離れたわけだが、日本ではそもそも彼の専門であった、ハイネやブレヒトなど影響力をほとんどもっていない。彼は死ぬまで普通のハイネやブレヒト学者と同程度の影響力は持ち続けた。

もし、ある話題について今までに誰も行っていない研究を行ったなら、その成果は査読つき雑誌やその他の印刷媒体、評価の高いオンラインサイトなどの他の場で発表してください。そうやってあなたの成果が世に受け入れられた知識となれば、ウィキペディアはその成果について掲載することになるでしょう。そのような信頼できる情報源を引き合いに出すことが、投稿内容が検証可能であって編集者の単なる意見ではないことを示すために必要です。

ウィキペディアは上のように言うが、「世間の評価の高い雑誌、そうした評価とは無縁だ」と一概に拒否すべきではない。


「前史的」とはひとつのレトリックに過ぎず、〈放棄〉以後の松下も、完全に流通可能な言説空間の外側に生きたわけではない。詩人たちや学者、ジャーナリストの一部も相変わらず彼に注目し続けた。


松下の自己史の区分においては、彼自身が与えた「前史」とそれ以後という区分は意味がある。しかし「前史」以外も、ウィキペディアに掲載する価値があることは間違いない。これをウィキペディアに納得してもらうために多少の努力が必要であるとしても。

2014-12-14

特筆性の基準など

ウィィペディア「松下昇」に下記の指摘がついた。

今後、考えていきたい。

Nuvola apps important orange.svg

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。


出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2014年12月)


特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2014年12月)


マークアップをスタイルマニュアルに沿った形に修正する必要があります。(2014年12月)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%98%87

特筆性の基準

ウィキペディアに記事を作成する場合、取り扱う対象には、百科事典の記事として言及するにふさわしい価値が必要です。ウィキペディアでは、この価値を特筆性(notability)と表現します。これは一般的な「名声」「重要性」「人気」といった言葉と似ていますが、一致したものではありません。 特筆性とは、立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態であることを意味します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E8%A8%98%E4%BA%8B%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%AE%E7%9B%AE%E5%AE%89

ウィキペディアの記事は、第三者により出版された信頼できる情報源、事実確認や正確さに定評のある情報源に基づくべきです。それはつまり、私たちが記事に書くべきなのは信頼できる著者による意見のみであり、一次情報源を独自に調査したウィキペディアン自身の意見は書くべきでないということです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%BA%90

木田拓雄氏の文章

を発見した。

http://bshouwtime.blog.fc2.com/blog-entry-64.html

「エヘ・レ・ナム」 ATHAIR AR NEAMH  松下 昇を<かすめる>追想集

1996年5月6日、六甲で逝去した<造反教官>であり、未曾有の表現者であった松下昇を、2ヵ月後に追想し、一集としてまとめられた東畑 明=徳永省三による表現集。

http://tetugakuhenokaidan.jimdo.com/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%98%87/