松下昇~〈 〉闘争資料

2014-12-17

「松下昇」は価値がある

と言いたい。

特筆性の基準について述べたいことは、2点ある。

一点目。

1960年代の、谷川雁、埴谷雄高、吉本隆明といった〈神々〉から、70年代に生き延びた菅谷規矩雄、北川透、佐々木幹郎、瀬尾育生といった詩人たちに至る〈布置〉において、「松下昇」という名前は知られている。

しかしこれは、松下にとってはむしろ、前史と呼ばれるものにすぎない。しかしその後(「旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄」後)、松下は流通可能な言説空間から距離を取り、自己身体性を掛けた〈現場〉のラディカリズムをたった一人であるいは数人の同志と、展開していった。当然も論壇・詩壇やジャーナリズムは松下を取り上げることができなくなった。全共闘について語った最近の収穫として、スガ秀実の『1968年 (ちくま新書)』や小熊英二の『1968』がある。そこにも松下昇の名前はない(と思う)のはその流れの延長である。


ともあれここで私は、「松下昇」は現在の読者に対しても、価値があることを立証したいと思う。

まず、詩人たちが松下をどう捉えたかを下記に引用する。

「1960年代の後半、三年余りをかけて『試行』に書きつがれたアフォリズム集『六甲』『包囲』は、いまわたしの前に二冊のうすいパンフレットとなって横たわっているが、六〇年六月の意味をくわえこみ自己の「闘争敗北後」の風景の自転力にまかせて、偶然のような必然性を帯びてさまざまな生活時間=空間へ倒れ伏していく人間の、影のような寡黙さと粘りつくようにおのれの意味を問うしぐさから始まった思考の歩みが、ついに「完了のまま未完了」という一見循環構造にもみえる螺旋階段をのぼりつめた言葉でもって終わっている光景は、永遠の未完了が完了を包囲してしまう思考の息づかいをみせ、さながら巨大な砂時計を思わせるほどに壮観である。

(p113-114「戦闘への黙示録--〈松下昇〉序論」『熱と理由』佐々木幹郎 国文社 昭和52年)」

「埴谷雄高の「警句」と訳すのに適当だと思われるアフォリズム集『不合理ゆえに吾信ず』が、谷川雁の言うように「昭和十年代の深夜版」であるとすれば、さしずめ松下昇の『六甲』『包囲』は一九六〇年代の深夜版ということができる。/ 両者の「発想」の違いを、書かれた時代的背景を別にして考えれば、埴谷が「永久革命者の悲哀」を提出するのに比して、松下が、「悲哀のない永久革命者」の像を政治論文としてではなく提出できるところにある。(p123 同)」

「『六甲』は断片群[フラグメンテ]である。けれどもそれは異様な断片群ではないだろうか。なぜならば断片群は、「書くこと」をそれ自体として存立させ持続させることのない表現のかたちであるから、その内部にほんらい構成の意識をはらみえない。むしろ逆に、生活時間によってその外部から構成されるようにして成立している。しかしこの松下氏の断片群においては、断片相互が強度の構成の意識のもとにおかれ、いくつかの独自の論理性にささえられながら、こうして構成される時間を、さいごまで生活時間にたいして拮抗させようとする、つよい意志のようなものを感じさせるのだ。「裡面の河」瀬尾育生『現代詩手帳』一九七九・一〇号」


二点目として、1979年ごろにドイツのハンブルグ大学の教授であったKlaus Briegleb(クラウス・ブリークレープ)はその著『 Literatur und Fahndung 』(文学と探求)における評価を紹介したい。

(他の作業の後に行うので、後半は少しまってください。)

だいぶ削って

上記をだいぶ削って、ノート:松下昇の「松下昇の特筆性」に掲載。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%98%87

「文学と探求」より

ノート:松下昇の「松下昇の特筆性(2)」

次の通り書き込み。(現在まで応答なし)

クラウス・ブリークレープ『文学と探求』の一部を紹介する。


「抑圧されたものたちの表現はあまり知られていない。それらの抗議の声は、ある条件においては耳にとどくけれども多くは沈黙したままである。私たちの任務はここでも又、〈敵対者〉や〈古典〉に対して行うように、沈黙の核をとり出すことである。私はこの方法を単に真剣にやっているだけではない。私は沈黙の核をとり出す際に、人間のあらゆる感覚を開放する過程でやっていく、というのは、私は人間の本来的な晴れやかさを信じており、もっとも良く笑うものが最後に勝利すると考えているからである。どのような抑圧の下にあっても私たちは笑っている間は、笑うことができる限りは勝利している。」(訳、自主講座実行委員会)京都大学新聞第1826号

これはブリークレープ自身の文章ではなく、「反抗する教師に対する処分の論理」というアサヒ・ジャーナルの座談会の彼による翻訳(をまた日本語訳したもの)。 敵対者の沈黙の核を取り出すという松下の方法が、国境を越えて評価された例と考えることができる。 --Kakko matu(会話) 2014年12月20日 (土) 01:37 (UTC)

「前史的表現」とは?

1971年1月「あんかるわ別冊〈深夜版〉2—松下昇表現集(北川透編集)」が発行された。北川透は後記に、「彼(松下)が最近の、この表現集刊行に関しての手紙で〈私がいつか私の前史的表現について、執筆、刊行、転載……のずれをふくめて表現するだろう〉と書いてきていることを伝えることはわたしの義務である。」と書いている。


これだけ読めば、不必要にもったいぶった文章だという印象を受けるだろう。しかし松下は2年近く前、「少なくとも、この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。」と宣言し、表現(闘争)を継続することにより、前年10月16日、神戸大学から懲戒免職処分を受けている。間に合わないほど直近におこった事件とは言え、後書きにおいては何らかのか形で触れるべきである。しかし、北川は「刊行するに際して必要最小限のことのみを記」すとして、処分やそれへの反発には触れていない。書かれてるのは「現在の〈六甲空間〉における〈表現運動〉の展開を必然にしている力」とか、「おそらくはその〈表現運動〉にも決して行きつかないであふれかえっている余剰のようなもの」といったフレーズである。言葉による表現と刊行作業などに立脚しながら松下に接近した、彼の位相をうかがこともできる。


さて、「前史的」とは、「いかにも松下らしいおおげさなレトリック」の一部、という気もする。


表現は、自己身体と情況の接するかなり限られた面でしか成立しない。


「六甲」は〈情況の喪失〉を出発点にしている。

首都の広場や運河や路地に切迫した時間を付着させたままこの風景へ投げこまれた〈私〉たちは、自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じている。しかしながら、〈私〉たちにとって、帰るべき首都はない。首都とは、特殊な状況をはらむ時間に対する〈私〉たちの関係の総体にほかならないのであるから。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p1

日本は、敗戦による政治変革にも関わらず憲法改正を掲げた自由民主党が支配を続けるという矛盾において戦後史を生きてきた。その矛盾を転倒、切開できるかもしれない最大の闘いが60年安保闘争だった。自由民主党の支配というのは、イデオロギー的には「戦前的国家主義、家族主義」を核心とするものであり、表面に大きく掲げる平和と民主主義と矛盾する奇妙なものであった。そのこともあってか青年松下には「倒錯した現実」というアプリオリな実感があった。それを表現しうるチャンスとして首都における60年安保闘争があった。しかしそれは(当然にも)敗北し、六甲という空間に投げ込まれた松下は「自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じ」ざるをえなかった。


60年代末、全共闘運動が起こり、「一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性」という問題意識が参加者には芽生えた。

現実を「倒錯した現実」と名指すのは、流通しているすべての言説を拒絶することであり、危険なカルト的思想となる可能性が高い。


松下の解決策は、現実を「倒錯した現実」と名指しながら、自己を反体制、反世界の側に立脚させるのではなく、現実と重なりながら本質的に異なったパラレルワールドを発見したことにある。


現実は3次元、時間を含めて4次元と信じられているが、それは嘘だ。少なくとも、5次元、6次元とみなすことができる、おそらく松下にはそうした身体的実感があった(とここでは書いておきたい)。現実が5次元or6次元であれば、4次元において出口がない、つまり絶対的敗北と認めざるをない場合も、いくらでも逃げ場があることになる。にもかかわらず敗北であるのは、おそらく今日明日の情況がたたまた悪いか、私たちがそうした〈仮装〉を選んでいるからにすぎない。


現実は現実である、とするものが現実である。したがって上のような言説は戯れの言葉とみなされる。しかし、人が、言葉、不在の神への祈りのうちに生きるものであるとすれば、戯れの言葉とみなされてしまうものの内側で、生きることもできる。



その後(「旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄」後)、松下は流通可能な言説空間から距離を取り、自己身体性を掛けた〈現場〉のラディカリズムをたった一人であるいは数人の同志と、展開していった。当然も論壇・詩壇やジャーナリズムは松下を取り上げることができなくなった。

〈放棄〉以後の松下を「流通可能な言説空間の外側に生きた」と、規定してしまうと、ウィキペディアに掲載しようとするという目的自体に反することになる。


ウィキペディアは流通可能な言説空間自体であるだけなく、その核心にあるべき「権威ある言説空間」を目指しているものであるからだ。この〈権威〉というものは欧米起源のものだ。日本は上記のような状況によって自国内で権威を形成することができなくなっている。


〈放棄〉以後の松下も、完全に流通可能な言説空間の外側に生きたわけではない。確かに大学からは放逐され、主流文化からは離れたわけだが、日本ではそもそも彼の専門であった、ハイネやブレヒトなど影響力をほとんどもっていない。彼は死ぬまで普通のハイネやブレヒト学者と同程度の影響力は持ち続けた。

もし、ある話題について今までに誰も行っていない研究を行ったなら、その成果は査読つき雑誌やその他の印刷媒体、評価の高いオンラインサイトなどの他の場で発表してください。そうやってあなたの成果が世に受け入れられた知識となれば、ウィキペディアはその成果について掲載することになるでしょう。そのような信頼できる情報源を引き合いに出すことが、投稿内容が検証可能であって編集者の単なる意見ではないことを示すために必要です。

ウィキペディアは上のように言うが、「世間の評価の高い雑誌、そうした評価とは無縁だ」と一概に拒否すべきではない。


「前史的」とはひとつのレトリックに過ぎず、〈放棄〉以後の松下も、完全に流通可能な言説空間の外側に生きたわけではない。詩人たちや学者、ジャーナリストの一部も相変わらず彼に注目し続けた。


松下の自己史の区分においては、彼自身が与えた「前史」とそれ以後という区分は意味がある。しかし「前史」以外も、ウィキペディアに掲載する価値があることは間違いない。これをウィキペディアに納得してもらうために多少の努力が必要であるとしても。