六甲  序章


松下 昇     

     不思議なことだ!              
     灰色の雲が岩塊の分身のように空を飛んでいく。
     それはあの荒々しい岩塊の臆病な模写なのだ。 
     (ハイネ「アッタ・トロル」から)

 平衡感覚を失わせるほど色彩のゆたかな屋根の波の上で揺れる海へ背をむけて、山頂へ続くはずの坂道を登っていくと、時間的記憶からは先週までくらしていたとしか思えない首都は、まだ至るところに〈私〉たちの息づかいをとどめた十年間の疲れとして思い出される。

 傾斜したアスファルトの坂道は、〈私〉たち以外の重量は受けていないので、スラム街を越えて漂着してくる港からの汽笛に微笑したり、蝶や十字架が投げる影を、身をよじらせて捕えたりするのをやめようとしない。光を浴びる風景は、無意識のうちに、広い空地や露出した岩肌を残しており、みつめられすぎ、使用されつくした疲労感をまだもっていない。というよりは、いつまでも、まどろんでいる欲求に支えられているのかもしれない。

 勾配が次第に急になり、自分たちの影へ倒れかかるようにして登っていくと、勾配がいくらかゆるくなるあたりで、眼の前に現われてくる若葉の尖端が、風の手でかるくなぜられて、はるか遠くの空中を行きかうロープウェイのゴンドラをかすめ、溶けそうな薄緑の山肌を谷間のくぼみにむかって落ち、たかと思うと〈私〉たちの背後へ去る。幼い乳房のようにふくらんだいくつかの丘陵には、ここからは決して見えない別の次元へと曲線の切れ目が続いていて、その流れは私たちが知らない間に生成し崩壊していくもののまどろみに思われる。丘陵の上を汽船がすべる……? いやそうではない。坂道は、いつか海の方へ弯曲し、外国航路の白い船体が、〈私〉たちの眼と丘陵の頂点をつなぐ線の上であいさつしているのだ。更に坂道は反転し、一ばん高い山頂から花粉の香りを含んだ風が流れると、〈私〉たちの足もとの斜面で葉を白くひるがえすつる草の群が、これから見る夢をリレーしている。まぶしくふくれあがる海はいよいよ明るい青さをまし道ばたにあるこの望遠鏡に十円玉を入れると、巨大な河とも見える湾の対岸の工場地帯の煙突まで見分けられるはずだ。

 首都では、いくら歩いても、せまい周囲しか見えなかったのに、この海と山にはさまれた細長い都市では、水平に歩いているつもりでも、実際には垂直方向へも移動しており、切り開かれた意外な空間へよろめいていく。この意外さは、平衡感覚を失いかけている〈私〉たちの無意識部分への衝撃を与えているはずだ。〈私〉たちは、時間の切迫を忘れて、空間のまどろみへ溶けこみそうになるのであるが、その瞬間から、〈私〉たちの内的な矛盾は、日本のどこにおけるよりもゆたかに花開かざるをえないのである。首都の広場や運河や路地に切迫した時間を付着させたままこの風景へ投げこまれた〈私〉たちは、自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じている。しかしながら、〈私〉たちにとって、帰るべき首都はない。首都とは、特殊な状況をはらむ時間に対する〈私〉たちの関係の総体にほかならないのであるから。どこにいようと時間を失った〈私〉たちは、沈黙してまどろんでいるうちにずり落ちてしまい、見知らぬ空間へはなればなれになった〈私〉たちをみつめ合う。それゆえにこそ、これを書いているのは単数の〈私〉たちである。

 〈私〉たちは、頂点から稜線を経て〈私〉たちを無関心に底辺の一角へつき戻すピラミッドを憎んでいた。このピラミッドを、首都や権力や組織や情念や、その他のどんなものにとりかえてもかまわない。しかし同時に、〈私〉たちは、さまざまのピラミッドの稜線の上をすべっているのであるから、それらを手ごたえあるものとして触れようとする瞬間から、さまざまのピラミッドの数に応じた多くの分身へ引き裂かれずにはいない。頂点での統一から稜線上での分裂というパロディーは、孤立した何ものかの呻きを噴出した六・一五虐殺の時間が生れでる何ものかを圧殺する六・一八葬送行進の空間へ転移したことを〈私〉たちが、はっきりとらえられなかった責任によって幕を上げた。

 〈私〉たちは、ひらめいて飛び立つ何ものかへの身がまえと、何ものかへの抜けでようとする焦りの間に弯曲したまま、敗北の舞台となった首都から、〈私〉たちを無関心に受け入れるこの美しい風景の中へ追放されてきたのだ。従って〈私〉たちは、首都からもこの風景からも切断されている。内的風景へ同化することも許されない。もしも、〈私〉たちが時間の中へ新しい関係をつくりだそうとするならば、〈私〉たちをさまざまなピラミッドの稜線上で分裂させた何ものかのカ学を、いま〈私〉たちが労働しているこの場所から可能な限り追跡し、ピラミッドを破壊すること、その方法を〈私〉たちがこれから出会う全ての敵対関係にむけて応用することしか残されていない。

 それを予感している限り、闘争の敗北後、さまざまの場所で、やむをえず闘争方針を考えている者も、遊んでいる者も、眠っている者も、立体的風景のためか、屈辱に耐えるためか、仕事のためか分らずに頂上をめざして歩きつつある〈私〉たちと同じ坂道を登っているのである。

 〈私〉たちのまわりで、いや私たちの中からも聞こえてくる声の交差は、次第に、たてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点と〈私〉たちのつま先が一つのピラミッドを形成するのに気付いたときから、〈私〉たちは、ただこのピラミッドの稜線を運動させうるという誘惑のためだけにも、この坂道を登り続けている。部屋の書類を処分し、身分証も定期券も持たずに闘争現場へひっそりと歩いていったあの日のように背をかがめて。

 ところで〈私〉たちは、この風景にみちているどのような響きからも、なかば意識化された意味をとりだすことができる。たとえば唯一の前衛に入る直前に必読文献の行間から聞えてきた潮騒のような不安。その政党本部で乱闘のあった翌日、対策会議を開いていたそば屋の二階へ響いてきた雑踏。闘争敗北後の大会で、真昼の眠りの前の子守り歌のように歌われたインターナショナル。しかし、それらの意味はとりだして表現過程にもちこむ前に溶けてしまいそうだ。なぜなら〈私〉たちは、それらの意味の結合が一瞬のものであり、たちまち別の結合へも変移しうるし、またその変移には解決を未来へひきのばすときの悦楽さえ含まれているのを知っているから。

 この恥かしさは、倒すべき相手より先に、また組織すべき相手より先に〈私〉たちが屈服してしまったあの季節に〈私〉たちをおとずれたのだ。波のように打ちよせる響きの方ヘ〈私〉たちがかけより、離れ去るとき、響きが変移して、〈私〉たちが、これから出合うであろう飢えや苦痛や忍耐のきしむ音に聞えてくるようだ。口を開き終らないうちに、叫びは〈私〉たちの知らない空間へ流れだしている。しかし、この未来からの記憶群は、過去の闘争を頂点とするピラミッドの内部にも、広々と存在していたはずである。たとえば、国会広場に突入した〈私〉たちは、死者のでたことを聞いて怒りの叫びを上げながらも、無意識のうちに横の破損された建物に入りこみ、水道の蛇口から水を飲み、ばぼ同量の小便を壁にかけ、ポケットの溶けかかったキャラメルをしゃぶり、タバコに火をつけて平和を味わっていたのである。そして、欲望の空間に舞う妖精たちに追放をかけ、倒錯した現代史を転覆して火を放っていた。〈私〉たちと状況のこのような関係から〈私〉たちは歩きださなければならない。それが、死者への哀惜が失速しつつあるとか、模索を現実化する責任からすり抜けているとか、戦後史過程と体験過程が偶然に一致した意味を対象化していないとかいう、〈私〉たちから〈私〉たちにむけられる批判をこえる道である。
 人かげのない展望台をすぎると、〈私〉たちがえらんだ坂道の舖装は切断される。展望台の望遠鏡と対岸の煙突という二種の円筒をつないでいるのは十円銅貨という円筒であったが、〈私〉たちは足元に咲くタンポポによって、国会広場の芝生や機関区の砂利や誓視庁の屋上へつながれている。〈私〉たちは、罠をつくるのに似た抒情を開きながら、歩く動作を、タンポポの茎を折り、ねばつくミルク状の液体を吸う動作に変移させよう。

 タンポポの黄が、暗くざわめく虚空の中でとらえられたとき、黄の彩りは運動して三日月の形に鋭く閉じようととする。それと共に、黄をとりまく渦がまきおこり、環のように重なり続けることによって、思いがけない方向への視界を可能にしている。そのむこうにある何ものかと、そのこちらにある何ものかに祝福あれ。


  


 六甲 第二章 


       汝は汝の恥辱をかたれ      
       私は私の恥辱をかたろう      
          (ブレヒト 「ドイツ」から) 

 〈私〉たちは、序章から踏み出したまま宙吊りにされており、飢えているが、この飢えは、遭難のような不慮の飢えにも、食糧難のような社会的飢えにも、ハンストのような政治的飢えにも似ていない。それは一つの表現を複数の主体で分割したためにもたらされた。だが、この飢えを耐えて生きることを、何ものかが〈私〉たちに強いるのである。
 本文の中に影を落す前に、永遠にはじまらない、あるいは永遠に終わらない幻想にとじこめられる危機を感じて、〈私〉たちは、飢えのために斑点のできた内蔵をかかえたまま、自力で歩きだそうとしている。海から山へ吹き上げる風が〈私〉たちを引き裂いていくので、〈私〉たちは、それぞれ別の歩き方を主張しはじめているのに気づくのであるが、そのとき山の弯曲は激しく揺れて、複数の極大値をみせる。そういえば、六甲とは一つの山のことではなく、おのおの最高の視界を自負している頂点をもつ山系の総称であるのかもしれない。〈私〉たちのそれぞれが、飢えの感覚を山頂の感覚に重ね合わせるときの響きを、一つずつかいていこう。しかし、それらの響きが、自分の主張を固執する度合に応じて、そのすきまに、さまざまな色調をもつ意識のつぶやきが介在してくるのを避けられない。

 〈私〉たちが、首都の時間から、この空間へ追放されてきたのと対応して、限りないパロディーが、この魅惑的な都市の政治地帯で展開されている。数年前の〈私〉たちの闘争を根底から支持する組織が皆無に近かったこの都市では、いまもスターリニストの党が、権威を貫徹する正統派と、有効性を追求する修正派に分解したままである。静かなデモや署名や講演をするばかりで、〈私〉たちを、貧しい風景からやってきた分裂病者めと罵る連中に、おまえたちは、この風景をみる眼が衝撃のために歪むほどたたかったことがあるのか、といってやれ。

 〈私〉たちは、かれらを根底からくつがえす反対派として登場し、そのとき現われるであろうすべてのヴィジョンを表現していこう。都市の大きさと政治水準の落差が、このように著しい風景で、かえって〈私〉たちの体制の桎梏と反体制の桎梏を二重に突破する論理とパトスを組織化する最上の実験ができるかもしれないから。あの山頂は、〈私〉たちがつくりだすたたかいのピラミッドの頂点を象徴しているのだ。

 (ここが日本の労働運動の発祥地だというのは本当か。ピラミッドがケーキになり、広場は花時計に占拠されているだけだ。油虫のような荷役船が、大型船へすり寄っていく。海抜0メートル地帯で、ベトナム行きのジャングルシューズをつくっている君たち、鼓の形をした観光塔をうち鳴らせ。船をとめろ。減速ブレーキからはみだす不快を、コンクリートの防波堤にたたきつけろ。心象の風景さえ見えないで、便利な私鉄で往還する君たち、倒錯した現代史に手で触れてくれ。社会主義圏や革命組織が生きているなら、君たちは死んでいる。ジグザグ・デモで、空虚な街路を飾れ。冬から冬までゼネストだ。屈辱の中へ。下部から連続的に、理論の限界において、一瞬ごとに触れる現実方程式のすべての項を花開かせながら。)

 〈私〉たちが、この風景の中へ反対派として歩み出すとして、いま眼前にある山系が美しいと言えるだけでなく、ひしめき合う現実過程の曲線とも、弯曲する〈私〉たちの意識とも交換できるのは不思議なことだ。一切の風景は、〈私〉たちが目をさませば、泡のように消え去り、斜面の運動を錯覚する心臓の鼓動だけが残っているとしても、それは当然だという気がする。風景への干渉のしかたが、このように分裂してしまうのはなぜだろう。時間=空間の外部的な差異をもつ闘争へ踏みこむとき、内部的な時間=空間がねじれたピラミッドをつくるのではないか。一方の条件を無視すればピラミッドは、案外たやすくとらえられるにちがいない。しかしそれでは、本当に、たたかいにでかけることにはならない。人々の表情は、闘争の前でも後でも、首都でも港でも変わらないようだし、組織Aから組織Bが分裂するときにも、組織Bが組織Cを批判するときにもオートメーションから流れでるような文体は同じだ。が、このことは逆に、表情や文体が表現のピラミッドから、すさまじい勢いで転落していることを示していないか。また、このことをちがった空間でちがった時間に気付く〈私〉たちも、ちがったという分だけの責任のピラミッドをずり落ちているだろう。このような内部ピラミッドの追求が結果的に現実闘争のピラミッドをつくっていくより前に完了していなければならない。

 (あなたも知っているように最も高い頂点が、一ばん底の点になることもあるのだから、ある稜線を上昇していても、それは下降であるのかもしれない。だから、かれは、ピラミッドを探しにいかずに、自分の心の底の動きをピラミッドにつくってしまえばいいのよ。そのとき人目にふれる点を支える三つの点は、どんな風になるのかしら……そう、あなたの意見では、恥ずかしさプラス極左→屈辱プラス侮べつ→別の空間への逃亡、という変移をくりかえすわけね。あたしの直観では、副詞句による自己欺瞞→非必然的な対立止揚→別の時間への逃亡、という循環になります。いずれにせよ、でき上がったピラミッドが、悲惨にもこっけいであることはたしかでしょう。)
  
 内的ピラミッドと外的ピラミッドのどちらを先に追求するかというのは、二段階戦術だ。両者を否応なしに包み込んだまま拡散していく六・一五被告団の一切のヴィジョンをみきわめつくして、かれらを拡散させる力の確認へむかおう。
 一切の反被告団的発想を粉砕せよ。これは〈私〉たちの最低限のあるいは、頂点をなすスローガンだ。ところで、被告団として権力と生活過程にはさまれて存在することは、〈私〉たちが、あの原体験を包みこんで現実過程に入りこんでいくのと同位であることを知った以上、〈私〉たちは、かれらが無意識的に拡散していくかたちを意識に総体化することができるのだ。かれらの拡散するときのピラミッドは、〈私〉たちがもっともとりだしやすい、同時に決して逃すことの許されないかたちを示しているのだから。〈私〉たちが、拡散を意識的にとらえるという場合、下降しつつある個々の稜線上の個体のいずれをもえらばずに、分裂の根源へ歩いていくことを未来の重さが命令しているのだ。
 
 (これは、歪んだ鏡の中の二人称をのぞきこむ一人称を描いた歪んだ絵です。むこうむきに鏡をのぞきこむ一人称の顔は見えないが、その一人称は、鏡の中の二人称を媒介して絵をみる一人称をみているのですが、こうしているうちにも、鏡は波のように崩れ、絵は風のように死んでいく。こわれた無数の破片に、無数のだれかが対応しているとして鏡や絵を用いないで全てのものを書き、全てのものになってしまうのは第何人称ですか。)

 歩行を止めよ。ここで立往生している感覚を、目的や連続性にとらわれず、一切のイメージへ自由に伸ばしてみよう。〈私〉たちの山頂への歩行は、散歩のような解放感をもたず、限られた時間と、凝縮した志向と、既成の登山コースにしばられているのではないか。乗物を用いず苦労して登り続けても、山頂は資本に選挙されているはずだし、足元のこの滝から舞い上がるメールヒェン風の白い泡も、奥地に開発された団地の下水から発生している。
 立往生の感覚……これを、いろんなときに味わっているはずだ。呪いのように道を横切る黒い蛇をみるとき。明日の食費もなく、手足をまるめて眠りに落ちるとき。突然の言いがかり的論争に対応せず沈黙をかむとき。
 要するに、あるピラミッドの稜線上で((「稜地上」となっているのだが誤植ではないか))、別のピラミッドに転移する瞬間の断絶感を追求すべきだろう。ピラミッドの複数化を確認することによって、より巨大な、運動するピラミッドを予感し、とらえるのだ。

 (かれらは、絶壁をはしごで登ることも、ブランコで越えることもしないで、眼の前にぽっかりと広がる砂の平地へ、デモ隊のように突入していくが、そこには誰もおらず、立札によれば、山をけずりとった跡に大学をつくり、けずりとられた土砂で海を埋立て工場地帯をつくるらしい。かれらの靴の裏には、二重の利用をされる砂の驚きが付着しており、数万年前の海岸と現代の海岸を、無人のベルト・コンベアーが連結している。突然爆発音がとどろき、平地をとりまく崖の中腹から、かれらの頭上へ煙のように拡がった土砂が降ってきたかと思うと、崖全体が、かれらの方へのめりこんでくる。海の鋭角の切片に眼の片端を通過させながら、かれらは、もしかしたら自分たちこそ、この発破をかけた技師あるいは労務者なのだ、とずい分前から知っていたかのように考える。)

 〈私〉たちが歩きだしたときから、〈私〉たちの頭上を飛びかうものがあったのではないか。はじめ〈私〉たちは、それを時間をくわえて〈私〉たちを探している小鳥たちかと考えたり、時折梢から〈私〉たちの上に投げかけられるこもれ日だろうと思ったりしていた。だが、それは、意識とまどろみのズレがゆたかに開かれるこの風景の空間性を逆用して、さまざまなピラミッドの力学を追求しようとする〈私〉たちの試みを、〈私〉たち自身が空しいと予感した瞬間と対応している。このとき〈私〉たちが、知らぬ間に、タンポポの妖精との心中を決意していたとしても、それは必至だったのである。無意識的にえらびとる欲望のかたちこそ、〈私〉たちが状況に対しておかれている困難が、補完的に反映しているのだから。その反映へ身を投げ込むことによって、〈私〉たち以外の〈私〉たちが追求するピラミッドの虚像が、マイナスのピラミッドが、ほのかに姿をみせてくれるような気がする。

 (湿潤な部分へのめりこんでいくときの速度と、記憶の層に叙情の泥が沈澱していくときの速度の間を押しひろげながら、一瞬、不能の予感、策莫として悲しみに襲われる。どうも今までのとは構造がちがうな、と考えながらも、慣性に従って尖端を挿入していくと、内部の粘膜に栗粒状の斑点が数十個みえるのだ。ハッとして引き抜いてみると、尖端にも、その斑点が増殖している。しかも、遠くからの羽ばたきに似たざわめきに後をふりむくと、巨大なタンポポの綿毛が数かぎりなく、こちらをめがけて山頂から舞いおりてくる。)

 〈私〉たちは、最後のヴィジョンから発想してみるべきだ。一人のパルチザンとして出発した〈私〉たちは、不可視の軍団としてそれぞれ別の山頂にたどりつく、と仮定してもよい。〈私〉たちが、迷ったロバを探しにでかけて王国を発見した旧約の青年に似ているかどうかいまは保証できない。〈私〉たちは、自分だけでなく他の者も別の山頂に到達しているのを恐らく確認できないまま、あえぎながらひざまずいているだろう。そのとき、〈私〉たちは、ピラミッドという奇妙な概念をつかっていたことの罪によって罰せられるだろう。むしろ、〈私〉たちは、それを要求しなければならない。そのとき、六甲を支えている海が裂け、複数の山頂が重なり合い、すべての〈私〉たちは、海へなだれ落ちていくのだ。その後に、六甲のままの六甲が、ひっそりと横たわっていることはいうまでもない。

 〈私〉たちからの六つの響きが、六つの主張のように六甲へ影を落としたとき、遠くからしのび笑いが、ちがう、だんだん深くなる懈哭が近よってきて、この空間を緊張した叙情でみたす。そして、その虚数の焦点へ六つの響きが集中していくような気がすると……それらの響きや響きにならないでうごめいている気流が、もつれあい、からみあったまま私ののどから内臓へ殺到してくるではないか。それら全ての何ものかを時間の中へ放てば生きられるかもしれない、という希望が激しい飢えを一瞬忘れさせる根拠である。




  目次 
序章      第2章      第3章      第4章      第5章      六甲全文・横書き

  参照 松下 昇
     概念集等目次