松下昇~〈 〉闘争資料

2014-12-17

「前史的表現」とは?

1971年1月「あんかるわ別冊〈深夜版〉2—松下昇表現集(北川透編集)」が発行された。北川透は後記に、「彼(松下)が最近の、この表現集刊行に関しての手紙で〈私がいつか私の前史的表現について、執筆、刊行、転載……のずれをふくめて表現するだろう〉と書いてきていることを伝えることはわたしの義務である。」と書いている。


これだけ読めば、不必要にもったいぶった文章だという印象を受けるだろう。しかし松下は2年近く前、「少なくとも、この実現の第一歩が、大衆的に確認されるまで、〈私〉は旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する。」と宣言し、表現(闘争)を継続することにより、前年10月16日、神戸大学から懲戒免職処分を受けている。間に合わないほど直近におこった事件とは言え、後書きにおいては何らかのか形で触れるべきである。しかし、北川は「刊行するに際して必要最小限のことのみを記」すとして、処分やそれへの反発には触れていない。書かれてるのは「現在の〈六甲空間〉における〈表現運動〉の展開を必然にしている力」とか、「おそらくはその〈表現運動〉にも決して行きつかないであふれかえっている余剰のようなもの」といったフレーズである。言葉による表現と刊行作業などに立脚しながら松下に接近した、彼の位相をうかがこともできる。


さて、「前史的」とは、「いかにも松下らしいおおげさなレトリック」の一部、という気もする。


表現は、自己身体と情況の接するかなり限られた面でしか成立しない。


「六甲」は〈情況の喪失〉を出発点にしている。

首都の広場や運河や路地に切迫した時間を付着させたままこの風景へ投げこまれた〈私〉たちは、自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じている。しかしながら、〈私〉たちにとって、帰るべき首都はない。首都とは、特殊な状況をはらむ時間に対する〈私〉たちの関係の総体にほかならないのであるから。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p1

日本は、敗戦による政治変革にも関わらず憲法改正を掲げた自由民主党が支配を続けるという矛盾において戦後史を生きてきた。その矛盾を転倒、切開できるかもしれない最大の闘いが60年安保闘争だった。自由民主党の支配というのは、イデオロギー的には「戦前的国家主義、家族主義」を核心とするものであり、表面に大きく掲げる平和と民主主義と矛盾する奇妙なものであった。そのこともあってか青年松下には「倒錯した現実」というアプリオリな実感があった。それを表現しうるチャンスとして首都における60年安保闘争があった。しかしそれは(当然にも)敗北し、六甲という空間に投げ込まれた松下は「自己を、ある次元の運動領域から拒絶された不具者のように感じ」ざるをえなかった。


60年代末、全共闘運動が起こり、「一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性」という問題意識が参加者には芽生えた。

現実を「倒錯した現実」と名指すのは、流通しているすべての言説を拒絶することであり、危険なカルト的思想となる可能性が高い。


松下の解決策は、現実を「倒錯した現実」と名指しながら、自己を反体制、反世界の側に立脚させるのではなく、現実と重なりながら本質的に異なったパラレルワールドを発見したことにある。


現実は3次元、時間を含めて4次元と信じられているが、それは嘘だ。少なくとも、5次元、6次元とみなすことができる、おそらく松下にはそうした身体的実感があった(とここでは書いておきたい)。現実が5次元or6次元であれば、4次元において出口がない、つまり絶対的敗北と認めざるをない場合も、いくらでも逃げ場があることになる。にもかかわらず敗北であるのは、おそらく今日明日の情況がたたまた悪いか、私たちがそうした〈仮装〉を選んでいるからにすぎない。


現実は現実である、とするものが現実である。したがって上のような言説は戯れの言葉とみなされる。しかし、人が、言葉、不在の神への祈りのうちに生きるものであるとすれば、戯れの言葉とみなされてしまうものの内側で、生きることもできる。



その後(「旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄」後)、松下は流通可能な言説空間から距離を取り、自己身体性を掛けた〈現場〉のラディカリズムをたった一人であるいは数人の同志と、展開していった。当然も論壇・詩壇やジャーナリズムは松下を取り上げることができなくなった。

〈放棄〉以後の松下を「流通可能な言説空間の外側に生きた」と、規定してしまうと、ウィキペディアに掲載しようとするという目的自体に反することになる。


ウィキペディアは流通可能な言説空間自体であるだけなく、その核心にあるべき「権威ある言説空間」を目指しているものであるからだ。この〈権威〉というものは欧米起源のものだ。日本は上記のような状況によって自国内で権威を形成することができなくなっている。


〈放棄〉以後の松下も、完全に流通可能な言説空間の外側に生きたわけではない。確かに大学からは放逐され、主流文化からは離れたわけだが、日本ではそもそも彼の専門であった、ハイネやブレヒトなど影響力をほとんどもっていない。彼は死ぬまで普通のハイネやブレヒト学者と同程度の影響力は持ち続けた。

もし、ある話題について今までに誰も行っていない研究を行ったなら、その成果は査読つき雑誌やその他の印刷媒体、評価の高いオンラインサイトなどの他の場で発表してください。そうやってあなたの成果が世に受け入れられた知識となれば、ウィキペディアはその成果について掲載することになるでしょう。そのような信頼できる情報源を引き合いに出すことが、投稿内容が検証可能であって編集者の単なる意見ではないことを示すために必要です。

ウィキペディアは上のように言うが、「世間の評価の高い雑誌、そうした評価とは無縁だ」と一概に拒否すべきではない。


「前史的」とはひとつのレトリックに過ぎず、〈放棄〉以後の松下も、完全に流通可能な言説空間の外側に生きたわけではない。詩人たちや学者、ジャーナリストの一部も相変わらず彼に注目し続けた。


松下の自己史の区分においては、彼自身が与えた「前史」とそれ以後という区分は意味がある。しかし「前史」以外も、ウィキペディアに掲載する価値があることは間違いない。これをウィキペディアに納得してもらうために多少の努力が必要であるとしても。