eili252の日記

2009-12-27

今後の〈 〉焼きプランについて

1・継続性の模索

① 独自の紙メデイア〜の発行→新パンフの刊行。

② 「(仮称)仮装被告団〜刊行委員会」ブログの積極的応用。

③ ウィキペディア等ネット事典活用、書込原稿作成編集。

④ 図書館あるいは個別研究機関〜個人への松下パンフ〈寄贈〉プランの可能性探求。

⑤ 既刊パンフの増刷〜配布ルートの新たな創出、自立誌販売店の応用〜広告掲載等。

⑥ 関係性及び連絡ルートの現状確認〜刊行委員会議開催の追求。

2・〜資料集〜刊行

① 既刊パンフ総体からの大胆な抽出及び構成ないし装丁変換の試み。

② 未公表資料(例・書簡〜レジュメ)の発掘、発掘テーマの集約とパンフ化。

③ 先行作業との交差〜公開方法の創出。

(例・山浦「松下昇追悼資料集(抄)9分冊」〜。高尾「松下昇クロニクル」「小説」〜。

 金本「書簡集」〜・坂本「自由塾通信」〜・野原「仮称仮装被告団〜刊行委員会ブログ」〜。

 その他各種巷説ないし批評・交差主体各位の作品・書簡の応用)

④ ③の創出プロセスを①及び②の刊行過程に応用する。

⑤ 直接間接の刊行会議の継続的展開に④を媒介する。

⑥ パンフやネット書込自体を自己目的化しない。

3・作業原則

① 遺族位相を包括しうる刊行過程の模索。

② 可能なかぎり簡潔〜明快な形式の追求。

③ 資料の抽出に当っては直感を信じ完全を目指さない。

④ テーマ群の切り口の有効性に固執せず、任意の入り口のひとつをめざす。

⑤ テーマの巨大さに萎縮する感受性を〈69年性〉に向けて解放する。

⑥ 松下の表現過程公開に対応〜並行する各主体独自の<作品>化作業。

2009・12・27

                         仮装被告団〜刊行委員会気付 〈     〉

noharranoharra2010/01/03 15:02eili252さん
山国での新しいお正月、寒さにめげず楽しんでおられることと思います。 今日やっと応答を書きました。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/20100103/p2

2009-01-31

 久しぶりの更新です。

 刊行委員会名義の郵便口座ができましたので報告します。

  記号17400 番号63647831 カンコウイインカイ

 *全銀システム振込サービス開始後、他金融機関からの振込受取口座として利用の際の指定

  店名七四八(ナナヨンハチ) 店番748 普通預金 口座番号6364783

 団体名義の口座をつくるさい窓口に出向いた妻が、「代表者を明記した団体の規約が必要らしい」と帰って来ました。そこで作成してみたのが以下の「規約」です。


                    刊行委員会 規約

第1条 (目的)

 この会は、<大学>闘争とも呼ばれる情況性で生起し、現~未来的に潜在しているテーマ群の資料収集及び刊行を目的とする。

第2条 (名称)

 この会は、各構成員の団体名もしくは個人名を気付として内外にその主体性を明確化しつつ、統一的に「刊行委員会」と総称する。

第3条 (会員)

 この会は、仮装被告団もしくは自主ゼミ実行委員会を名乗ったことのある者、もしくは名のろうとする者によって構成される。構成員は相互に対等性を有し各々刊行委員会を代表するが、その趣旨を対外的に活用する過渡的な<代表>を定める。

第4条 (会議)

 この会の構成員は、それぞれ自発的に任意の会議を提起することができる。その際、会議の主要テーマに関わる全ての<非>存在者を包括しうる方向性を模索し、かつ留意しなければならない。

第5条 (会計)

 この会へのカンパ及び刊行物等の売上金は、第1条の目的に使用される。但し、緊急切迫の申し出があった場合、申し出を受けた会員の責任において、また、総体への報告を前提として他の用途に転用することができる。

第6条 (資産)

 この会の基本資産は、松下昇気付刊行委員会が当刊行委員会に委託している表現群の<著作権>を含む。そのパンフ化やネット上の転載もしくは出版等による応用は、刊行委員会の運動として開かれて行く水準に応じて各々の自由意志に委託される。

     (付則)

    *この規約は1996年5月6日に発効している。

    *規約は上記日付をはさんだ連続性の仮装でもある。

    *趣旨は会員の活動状況と連動して深化の過程にある。

             <代表>者  郵便番号802-0025北九州市小倉北区寿山町6-35-206

                              仮装被告団~刊行委員会気付 永里繁行

2008-04-11

<中性>の~

暮れから年度末にかけて職業的繁忙期にのめりこんでいた。それから10日も経ったのに思念が言葉を捕まえられない。日記の更新はおろか、サイトを開いてみることからも遠ざかっていた。久しぶりに開いて驚いた。画面が鮮やかな赤に変わっている。「何を閉じこもって深刻ぶっているんだ!」と頭をどやされる思いがした。

と言うわけで、大げさに言えば宇宙・社会・身体の相関性が引き起こす周期的もしくは偶発的<気象>変化を感情や概念の支配機構の現前と受け止め、少しでも抵抗してみようという気になってきた。

この間、薄ぼんやりと意識を占めていたのは、昨年、何十年ぶりかで手に取った「心的現象論序説」である。母の生前の<異常>を「老化した脳の萎縮による機能低下」といった一見分りやすい解釈とは別の鏡に写してみたかったからであろうか?<心>と<身体>の対応関係から心的領域を抽出することはできないとし、<身体>と外界の現実との双方から疎外された錯合領域に分け入る論理にもう一度触れなおしてみようと思った。基礎体力の無い自分では結局よく理解できずじまいではあるのだが…。

この本では<感情>や<概念>における<中性>という心的水準の重要性が幾度か述べられており、<異常>ないし<病的>ということは、<中性>水準の構造が<病的>あるいは<異常>かどうかの問題として展開されている。かってもそうだったように、私の関心はそういった部分的なところに乗り上げ誤解を上塗りするほかない。

(正確な引用ではないが)吉本氏は「心的な時間性が空間化される強度の中性ということ」とか、「はじめの<感情>を心的な了解の時間性におきかえ、これをふたたび空間化して<感情>の対象にしてえられるような新たな<感情>」といったふうに<中性>という概念を説明しており、環界の空間的受容~時間的了解の心的な構成がさらに遠隔化される構造自体に内発する相関<力>のようなメカニズムを想定しているのではないかと思われた。<感情>を例に取ると<無関心>や<習慣化>といった現象に空間化度の<中性>的な水準が対応させられている。

何処からやって来るのか不確かで理不尽な<力>によって自分の感情や概念が絶えず微妙な変容にさらされ、安定を保持しようとする心の慣性も決して確かでないことを常にさらけ出されるけれども、個体としての統一性を破壊せずに現に生きている心の様式~構造の基本的な現象水準が<中性>という言葉によって指示されているのだと思う。

心の<中性>を社会性に転倒すれば<大衆の原像>が結ばれる、と言うより、概念としての<大衆の原像>を個体の心の像に反転させることで、心的領域の<中性>という価値源泉モデルが概念化される。もちろん著者にとっては一切の還元的発想を許さない厳密な解析結果としてなのだろうが、自分は勝手にそう思い、心的領域の「裏目のない」概念構築を通して人間理解に関わる既存の知的構築物の<権力>性を解体する作業でもあるのだなあ、と思って読んだ。しかし、厳密な論理性もある意味諸刃の剣であると思いつつ。既存を超える論理的構築が社会化の過程で<権力>的機能に逆転して現象する様を<大学>闘争と呼ばれる歴史性は開示しているから…。

一方で、「自己身体を含む環界との交流を通した乳幼児期からの個別な心的自然過程は、<中性>という仮装に包括されながら統一性を保持するが、同時にこの仮装を強いる高次の<自然>との関係に<現場>を形成しているのであり、その位相では<過程>的に個々の<私>の心とも言いうるに過ぎない」と感じていた。この感じ方はお主の<感情>~がある種<宗教>に近接しているから、と言われそうである。

夢見の状態から現実へうまく移行できなかったり、対象を記憶と結合できなかったり、視覚の弱い部分をとっぴな像で埋めて会話したりといった認知症状態は、母の心的統一性が<中性>位相で崩壊しつつある兆候を私に知らしめた。しかし、心の動き方に限定して見れば、視覚の切断や部分性の強調、エネルギー回路の局部化がもたらす逆流や拡散といった状態の自分との違いは大きなものではない。<異常>性自体を疑念なしで演じ(させられ)ているか、演じ(させられ)ていることへの疑念が自己像の歪んだ鏡になっているかの差に思える。この差は天地の差とも言えるが、行為や思考に対する「<私>の」という自覚の強度とは無関係のところで心の構造が成立し崩壊していくことを思わせるのである。

何かを口にしたり書き付けたりした途端に、それまで触れていると思っていた事象の総体性は極端な歪みをきたして元に戻らない。生命現象のさざ波に漂う<中性>的な時空の交差点で、<何かに取り残されているような意識>の感触はいつも同じだ。<異常>と見える言動の後は母も何かに置いてけぼりをくったようなハニカンだ表情を浮かべた。私とそっくりの…。

不可視の心の<現場>に<私>たちの心と言われているものはいつも追いつけないのである。

2008.4.10 eili252s

2007-11-30

<松下昇>は解読可能か?

私にとって<松下>の表現過程は頭脳的に解読可能な対象ではない。むしろ、その言質を整然と留めた資料を精査すれば自分の理解が深まるという発想は危ういと感じている。何故なら、記録(文字面)によって得られるイメージは、自己抽象の水準に規定された了解域に入り込み、<松下>の言質をかく在らしめている内在的~外在的構造への回路に対しては逆に閉じてしまう傾向にあるからである。

 生前の彼と任意の<場>において対面しながら、私(たち)は己の現存性に付託し(され)た像の構造を解体しなければ、もう一歩<松下>の提起の本質に接近しえないという体験を何度も繰り返した。

 この理解不可能性が、<松下>の方から来るというより、己の表現過程に内在する矛盾の振れ幅から来るものであることを了解することで提起の本質に応えようとした。

 <松下>が無謬だったからではない。「現実過程を呑み込んでいく幻想過程における各個の<当事者性>がどこでどう屈折するか、どのように飛躍が可能か」という<69年>性を孕んだ問いの深度を、<松下>が他の誰よりも包括して存在したからである。

 だからといって、常人がなしうる以上の難しい提起だったわけではない。もし彼の要請が今自分にとって困難~不可能なものであるならば、その困難さ~不可能性の拠ってくる構造を表現域に浮上させる闘争こそが必要なのであり、その苦痛を超えて行く<喜び>を共有して存在しようと呼びかけたのである。

    …<全てのテーマを自主ゼミ~ないし仮装被告団~へ>…

 頭脳的にはどの水準の誰にでも理解できる、きわめて単純な事実性の底に広がっている権力と存在の深淵に対する感受性の励起が提起にはこめられていた。

 そして、言葉は<時>と<場>においてしかよみがえらない。

 このように言うと、宗教的で任意の者に自由に開かれていないとか、松下昇を教祖に召上げるとかの批判が浴びせられるが、どのような思想もありふれた孤独な個体に宿り、他の個体との関係を介して<身体>化して生きつづけていくのであるかぎり、その思想の内在的~外在的構造が語る<言葉~沈黙>への感受性を研ぎ澄ますことは不可欠であり、聞きうる<時>と<場>の一瞬毎の創出は避けられない。

2007.11.30  eili252



                    或る死

 3月10日、職場から病院に駆けつけた時には、母は人工的な呼吸や脈拍によってかろうじて生の側につなぎ留められているだけであった。若い医師は「何らかの病因による急激な異変ではなく、数ヶ月の時間を経て徐々に進行して行った老衰としか言いようの無い状態であることを全ての医学的数値が示しています」と言った。翌日、85年3ヶ月20日間の全てが終わった。

 彼女の「認知症」はどのような生の変容だったのだろう。

 無口で温和だった父と対称的に直情的な保守主義を貫いて息子の幻想性に干渉し続けた原イメージは私の中で最期まで消えなかったのだが…。

 6年前のつれあいの<死>を受容していく過程は自らの<死>の受容過程でもあったにちがいない。「<死>は肉体が終わる前に行きわたっていたよ」とでも言いたげな逝き方であった。

 いつの間にか未明に入り込み浮遊する意識に対して、外側からは対「認知症」といった視線で関わることしかできなかったけれども、生命時間の曲線を静かな妄想の内に思想化しながら私達の曲線に繋いで過ぎて行った。このように別れることができたことはお互いに稀な幸運であったと今は思う。

2007.11.29 eili252

2007-09-07

 ~夏~

~2007年8月~、猛暑の夏をそっとめくるように「書簡集・(1)」と命名された手書きのパンフが〈岡山〉から出現した。刊行主体は~金本浩一氏~。

過去の書簡に向き合う作業を可視化の方向に繰り込みながら、表現運動波動を〈現在〉的に再対象化する試みであり、〈松下気付~以後〉を提起する実践的呼びかけでもあるだろう。

作成過程で高尾和宜氏による「松下クロニクル」が活用されていることも、共同表現論が〈仮想〉から〈仮装〉へ志向変容して行くための作業条件を先駆的に指示するものと言える。

 松下昇から宛てられた私信の抽出~複写は、そのこと自体で既に各主体の生涯的テーマクローズアップさせてしまうのであるが、~複写に対応して動き始める固有の〈註〉は結実する言葉ベクトルの向こう側を狂おしいほどに欲望しているかのようだ。

 日常に貼り付けられて枯渇の危機に萎れている〈私〉の〈無〉意識が揺動し始める。頑固な疲労に沈みこんでいる間にも何事かが確実に始まり、この動きに合流し応用しうる〈存在様式の変換〉が、誰よりも先ず〈私〉に求められているにちがいない。

 ~刊行委員会は、〈松下昇〉に関する自他の批評群を介して、名づけがたい〈69〉年性総体の〈刊行〉を試みたけれども、既存の水準を凌駕するものであっても個々の表現自体に固定的な意味~価値を想定して強調的に流布させる方法をけっして望まなかった。各々の足下におけるテーマを交差~共闘させうる関係性の動的な〈刊行〉過程こそを切望し、その永続的運動の媒介として応用したのである。1冊千円の値段を付けて模索舎に置いたことも単にパンフ自体の効率的流通目的だったのではない。刊行及び刊行主体に対する任意の関心の側面から表現情況を測定する実験でもあった。

 それは好き嫌いや決断の問題ではなく、世界史性とも言いうる〈なにものか〉が〈表現〉の扱いを含む文明総体の捉えなおしを〈1969〉年以降根底的に開始しているからにほかならない。


 異なる動向についても若干述べておこう。

 今のところ〈白夜通信〉ホームページ上に新たな本の広告は見当たらないが、模索舎の「新着入荷アイテム」欄には、『存在言語2~「存在すること」は占拠をめざす』という本の紹介が出ている。「著=村尾建吉・発行=〈白夜通信〉発行所・定価¥3,000」、69年前後のエピソードや年表、松下の発言~等を収録しているようだが詳細は未確認。

 第1巻目は関東圏の~刊行委が模索舎で入手したものから一冊まわしていただき目を通した。松下既出表現の〈独断〉的収録は言わずもがな、既刊パンフの包括性に事実上依拠した刊行であるにも関わらず、この先行的な刊行作業との切断面と連続性が事情を知らない目からは見えない。先行作業(パンフ)の〈存在〉を時間の淀みに放り込むことでかろうじて本の浮力を得ているように見える。松下の初歩的な〈訂正〉部分を反映していない箇所がある。これらの印象からは第2巻が第1巻の矛盾止揚しつつ登場しているとは想像しがたい。

 とは言え、対等に〈なにものか〉からの偏差を強いられ、事実性を固定したまま彎曲していく力学と常に背中合わせであることを自覚しつつ、いずれ(運動に関わった責任において、本の出現過程からも不可避的に)〈著者〉自身が提起するであろう~〈拡大〉読者会~で直接展開したい。                 

                                 2007.9.7  eili252