eili252の日記

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2007-09-07

 ~夏~

~2007年8月~、猛暑の夏をそっとめくるように「書簡集・(1)」と命名された手書きのパンフが〈岡山〉から出現した。刊行主体は~金本浩一氏~。

過去の書簡に向き合う作業を可視化の方向に繰り込みながら、表現運動波動を〈現在〉的に再対象化する試みであり、〈松下気付~以後〉を提起する実践的呼びかけでもあるだろう。

作成過程で高尾和宜氏による「松下クロニクル」が活用されていることも、共同表現論が〈仮想〉から〈仮装〉へ志向変容して行くための作業条件を先駆的に指示するものと言える。

 松下昇から宛てられた私信の抽出~複写は、そのこと自体で既に各主体の生涯的テーマクローズアップさせてしまうのであるが、~複写に対応して動き始める固有の〈註〉は結実する言葉ベクトルの向こう側を狂おしいほどに欲望しているかのようだ。

 日常に貼り付けられて枯渇の危機に萎れている〈私〉の〈無〉意識が揺動し始める。頑固な疲労に沈みこんでいる間にも何事かが確実に始まり、この動きに合流し応用しうる〈存在様式の変換〉が、誰よりも先ず〈私〉に求められているにちがいない。

 ~刊行委員会は、〈松下昇〉に関する自他の批評群を介して、名づけがたい〈69〉年性総体の〈刊行〉を試みたけれども、既存の水準を凌駕するものであっても個々の表現自体に固定的な意味~価値を想定して強調的に流布させる方法をけっして望まなかった。各々の足下におけるテーマを交差~共闘させうる関係性の動的な〈刊行〉過程こそを切望し、その永続的運動の媒介として応用したのである。1冊千円の値段を付けて模索舎に置いたことも単にパンフ自体の効率的流通目的だったのではない。刊行及び刊行主体に対する任意の関心の側面から表現情況を測定する実験でもあった。

 それは好き嫌いや決断の問題ではなく、世界史性とも言いうる〈なにものか〉が〈表現〉の扱いを含む文明総体の捉えなおしを〈1969〉年以降根底的に開始しているからにほかならない。


 異なる動向についても若干述べておこう。

 今のところ〈白夜通信〉ホームページ上に新たな本の広告は見当たらないが、模索舎の「新着入荷アイテム」欄には、『存在言語2~「存在すること」は占拠をめざす』という本の紹介が出ている。「著=村尾建吉・発行=〈白夜通信〉発行所・定価¥3,000」、69年前後のエピソードや年表、松下の発言~等を収録しているようだが詳細は未確認。

 第1巻目は関東圏の~刊行委が模索舎で入手したものから一冊まわしていただき目を通した。松下既出表現の〈独断〉的収録は言わずもがな、既刊パンフの包括性に事実上依拠した刊行であるにも関わらず、この先行的な刊行作業との切断面と連続性が事情を知らない目からは見えない。先行作業(パンフ)の〈存在〉を時間の淀みに放り込むことでかろうじて本の浮力を得ているように見える。松下の初歩的な〈訂正〉部分を反映していない箇所がある。これらの印象からは第2巻が第1巻の矛盾止揚しつつ登場しているとは想像しがたい。

 とは言え、対等に〈なにものか〉からの偏差を強いられ、事実性を固定したまま彎曲していく力学と常に背中合わせであることを自覚しつつ、いずれ(運動に関わった責任において、本の出現過程からも不可避的に)〈著者〉自身が提起するであろう~〈拡大〉読者会~で直接展開したい。                 

                                 2007.9.7  eili252

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